行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「むら社会」と「無縁社会」の日中比較(その3)

2017-08-20 20:24:43 | 日記
きだみのる『にっぽん』は、日本の風土に根差した民主のあり方に逆光線を当てる示唆を与えてくれた。それを可能にしたのは、この著作の根源的な意義でもある、現場に身を置き、そこで営まれてきた生活を把握し、地に足のついた発想をするという一点である。徹底した現場主義だ。

都市のサラリーマンに比べ、むら社会はそれぞれが田を持って独立し、自由であり、掟によって自主的に全体の利益に従うことはあっても、上から頭ごなしに命令されるという慣習は存在しない。都会からは閉鎖的に見え、オルグの対象とされたとしても、押し付けられる空疎な理論をはねつける伝統の力がある。失われゆくむら社会を理想化し、単純な回顧に陥っては、筆者の意思を曲解することになる。

むら社会と都会が関係を保ちつつ、時空を超えて行き来できたとしたら、国民の性質にかなった民主の道を模索する道はより豊かになったのではないか。少なくともそう反省をすべきなのではないか。中世以降、有縁の逃げ道として無縁があったように、有縁と無縁が有機的なつながりを失わなければ、現在の、糸が切れた凧のような無縁社会にはならなかったのではないか。

私は最も心を打たれたのは、きだみのるの次の視点だ。彼の目は予断や好き嫌いを排し、まっすぐに村人へ向かう。

「の者を観察していると、彼等はの各々に善悪の二本立ての考課表を作っているように見える。これは長年日々につき合い、人間を全人的に観察しているので出来るのだ。こうして腹の立つときには考課表のいいところを思い出し、好きになっても悪い表は忘れない。そこまでゆくには時間がかかることもある。かっとしたときには相手の悪いとこを思い出してなお腹を立て、仲良くなるとよい点を思い出して用心も忘れるが、やがて反対を思い出して修正される。こんな観察のし方をしたら人間とは道徳的には善から悪までのすべて、政治的には右から左までのすべて、器質的には温良から暴力までのすべて、その他反動から進歩的までのすべて、何からかにからその反対の極まで持っていて、なるほど『人間は無限で定義づけ難い』ことが改めて解る」

「わたしだけがいい子で、他人は悪い子」などということがあるはずはない、という人間観、人生観が控えている。有縁社会は、いかにして人と向き合えばよいかということをあくまでも追い求めるのだ。これに反し、無縁社会における人間は現場を離れて抽象化され、いかにして人為を避けるかを学んだ先に横たわっている。

土地から切り離され、人間が機械の部品に分断された無縁社会を結びつける接着剤として、空虚な愛国心が利用された。中国では伝統文化や毛沢東思想が持ち出され、日本では天皇を頂点とする国家神道、それを具現化するための教育勅語が生まれた。

現場を歩き続けた柳田国男が戦後、教育勅語に代表される教育の欠陥を批判して、

「公徳心、公衆道徳というものが書いてありません。愛国ということはあるけれども、愛村、愛県、愛地方というものがないし、一般人に対する態度というようなものを決めるものが出ておりません」(『村の信仰』)

と書いている。「一般人に対する態度」とは、きだみのるの言葉を借りれば「二本立ての考課表」である。

敗戦によって愛国を否定したところへ、その代わりに愛すべき故郷があるのかと言えば、すでに都市化によって失われている。もはや無縁は極限にまで推し進められるしかない。無縁は核家族や高齢化によって生まれたのではなく、愛国に代わる縁の結びを探し得なかったことによって導かれたのだ。むら社会の実態をしっかり見なかったことによって生じたのだ。

個人の知識の蓄積や経験はますます軽んじられ、長老の知恵が重宝だった時代は終わった。インターネット社会、人工知能によって、その傾向はますます強まるに違いない。過去の記憶はコンピュータに刻まれるが、人間の頭脳からは遠ざかっていくことを意味する。無縁社会で失われるのは個人の存在ばかりではない。むしろ、共同体が担うべき経験や記憶、伝統が流出することの方が、禍根が大きい。

個人を尊重することに価値を見出すことも結構だが、その視点だけではむら社会の歴史的な意義は見失われる。人間を暮らしの中に置いて全人的に観察し、生活者の目線を取り戻すところから始めるしかないように思う。

(完)

「むら社会」と「無縁社会」の日中比較(その2)

2017-08-20 12:56:31 | 日記
「国敗れてもその余殃を受けず、国独立してもその余慶なく、(むら)は国の盛衰、和乱を通じて生き永らえて来、左右の内閣の下でも生きのびている。ソ連でも中国でも幾度か飢饉が起こっているが,これはを権力で直接につぶそうとした企てと無関係でないように見える」

日本ばかりではく世界のむら社会に対し、こんなドキッとする言葉を見つけたのは、社会学者・きだみのる(本名・山田吉彦、1894-1975)の著書『にっぽん』(1967、岩波新書)の中だ。フランス留学後、東京多摩(恩方村)の農村に住んだ経験をもとに書いたもので、ちょうど半世紀前になる。きだみのるはファーブル『昆虫記』の訳者でもある。

きだみのるの言う(むら)は、自然に集まった十数軒からなる地域集団で、独自の掟があり、みなから認められた世話役がいて、それぞれが田畑に頼って暮らしている。彼の言葉を借りれば、

「旅行やピクニックのとき読者が海岸や畑の間,山陰や丘の中段などにいくらも散在している民家の集まりのことで、もっと注意深い眼ならその傍に産土社を神木の陰に見つけるのが普通だ」

といった場だ。彼は廃寺に移り住み、根源的、原初的な集団の中で特異な経験を重ねる。子どもが熱を出して、近所に卵を分けてもらいに行ったら、「卵はザルごと持って行きな。銭はいらねえよ」と、涙がこぼれるぐらいの人情を感じる。ところが、自分が食べると言うと、最高の闇値を要求してくる。強欲と言われようが、とことん自分の稼ぎを優先する、もう一つの不文律がある。

戦後、「むら社会」は地主制を支える封建思想の象徴としてマイナスイメージを帯びた。無縁社会に住む、いわゆる進歩的な文化人からは、オルグを通じて連帯し、救済しなければならない対象とみなされた。だが、むら社会の中にいた筆者は、村人たちが都市から来る人たちを遠巻きに眺め、「何処の馬の骨とも解らねえそんな余所者のいうことをいちいち聞いちぁあいられねえだよ」と話すのを聞く。用があるなら、村の親方や世話役を通して話をするのが掟なのだ。

現場を知らず、一方的な正義や理想を振りかざしても、言葉には命が宿らない。村人には生活こそ第一で、野心を抱かず、「住民たちは生まれ、育ち、働き、しがない暮らしを立て生殖し、子孫を残し、安楽に死ぬことしか求めていない」。共有する山の資源は均等に、公平に分配され、冠婚葬祭の義理も等しく清算される。殺傷するな、盗むな、放火するな、恥を警察に知らすな、の4つの掟がすべてであり、国の法律はこれに及ばない。この点、村の世話役は、税務署の差し押さえ、警察沙汰の際に仲裁を引き受け、婚姻の仲立ちもすることで、指導者として認知される。こうして築かれた有縁社会なのだ。

村の掟、村人の行動様式を観察し、きだみのるはむら社会に対するステレオタイプの見方を改める。メディアが設定する対談などで、奇想天外な発言をし、都会の文化人をあっと言わせる。

「言語に敬語がなく、また女性語もない。住民の並列的平等、困ったときのお互いさま、薪分けのときの鋭い公正感覚。は元々民主的に組織されたところで位階もなければ勲章もなく、あるのは資産の差で、これは勤労と倹約の積み重ねの結果である」

前近代的と思われているむら社会にこそ、有縁を通じた民主的な土壌があるとする逆転の視点に注目したい。和を重んじるルールの中では、多数決は忌避され、自発的な服従や自己制限を通じた協調が優先される。それによって被る損害もまた別の機会に清算され、どこまでも平等が追求される。一方、都会の無縁社会を覆うのは抽象的な法であり、いわゆる文化人はその上に胡坐をかいて、正義や平等を語る。

村人が戦後の物資窮乏期、違法などぶろくを飲んでいたとき、きだみのるは「同じ頃、ぼくは社会の木鐸だったり大衆の友だったりする新聞記者が特権階級であることを知った。首相官邸詰めの記者たちはこの危機において酒にも煙草にも不自由しなかったのだから」と書いた。半世紀がたった。かれの言葉はそのまま今日にも通用するのではないか。

生活者の視点を欠き、借り物の制度や法を持ち込んだところに民主主義は根付かないのではないか、と自問を迫られる。むら社会を完全に否定したことによって、土地に根差した民主主義は流出し、その結果生まれたのは、民主社会の主人公であるべき生活者を分断させる無縁社会だった。日本と中国に共通した課題であるように思える。

(続)

「むら社会」と「無縁社会」の日中比較

2017-08-20 09:17:43 | 日記
かつて、中国の大多数を占めていた農民の、排他的な「むら社会」の自治力を見た者は、国民党が来ようが、共産党が来ようが、しょせん外套を着替えるようなもので、膠のように皮膚に密着した衣は容易にはがれないと考えた。だが毛沢東はマルクス主義と抗日闘争を合体させ、この自治組織を解体して手中に収めれば、過去の皇帝を上回る偉業が果たせると考え、実行した。伝統を封建主義として切り捨て、自分の思想を打ち立てる大胆さを持った。

鄧小平が始めた改革開放の結果、農村から都市へ大量の労働者が流れ込み、すでに都市人口が農村人口を上回った。共産党を支えていた農民が土地から切り離されて分散し、下層階級に転落していく「無縁社会」が生まれている。その一方、党が既得権益集団として腐敗し、大衆から遊離した。このまま放置すれば、過去の王朝崩壊と同様、大衆の蜂起によって共産党という外套も脱ぎ捨てられる。その危機意識の中から生まれたのが習近平政権である。

習近平の父、習仲勲は毛沢東とともに農民を組織し、建国を成し遂げた革命第一世代である。習仲勲は「私は農民の子だ」と言い続け、習近平は「私は黄土の子だ」とそれを受け継いだ。いわゆる紅二代として、親の築いた財産を失うわけにはいかないという責任感、使命感は非常に強い。彼の目には、無縁化し、疲弊する農民の姿が映っている。彼の祖先は、飢饉に見舞われて故郷の河南省を離れ、陝西省に流れ着いた流民だった。

中国のインテリには農村、農民に対し、二つの相反する見方がある。一つは、近代以降の啓蒙思想の流れをくむもので、封建的な思想が抜けきらず、民主化の妨げになっているとする愚民観。もう一つは逆に、長年にわたって培ってきた伝統的な自治が崩壊し、道徳が荒廃しているとみる。農村こそ人びとが調和のとれた生活を送る理想郷だとするユートピア観の裏返しだ。前者は、民主改革が不徹底であるとの批判を含み、後者には、農村の伝統的な自治組織をずたずたにした集権体制への非難が含まれている。

だが、私がいる汕頭大学のある潮汕地区は、地理的に歴代の王朝政権から遠く、今もなお伝統的な家父長制に支えられた自治を守る「古村落」が多く残る。華僑の故郷であり、祖先崇拝を柱とした濃厚な祖宗文化がある。強い血縁地縁を持った「有縁社会」だ。排他的、男尊女卑といった弊害を持ちながらも、海をわたり、生きながらえてきたDNAはそう簡単に失われるものではない。

中国は広大であり、ひと口に農村といっても千差万別である。共産党指導部が、地方の経験を重んじるのは、こうした国の多様性を学ぶ必要があるためだ。最先端の科学技術を追求すると同時に、いかに農村を治めるべきか。その複雑さと困難さを知らなければ、この国を率いていくことはできない。朝から晩まで北京のオフィスに座り、東京の指示を受けながら原稿を書いているだけの記者には、到底、理解が及ばない世界だ。

農村での民主は投票ではなく調停である。法治も「理」による強制ではなく、「情」による説得である。だから「合情合理(情理にかなう)」という。西洋でさえ現実には存在しない教科書的な民主モデルをもってきても、まったく出口は見つからない。いい悪いを議論しても始まらない。まず実態を把握しなければ、その先には進めない。日本はむら社会を失ったがために、隣国の農村を見る目もまた失われた。

日本で「むら社会」といえば、たいていは身内意識ばかりが強く、閉鎖的で、排他的なイメージを連想させる。組織内で生まれる派閥がその最たるものだ。開かれたインターネット空間でさえ、ある集団にのみ通用する特定の言語によって、むら社会意識の投影されたバーチャルな閉鎖社会が現れる。地縁血縁ではない、利益や快楽といった個人の価値が関係を支える。だから中身は空虚で、一夜にして崩壊するもろさがある。無縁社会と隣り合わせに存在しているのが、現代のむら社会である。

歴史家の網野善彦は、日本には中世以降、縁切り寺や駆け込み寺、さらには自由経済都市が、地縁血縁のしがらみから逃れる者を受け入れ、「無縁」という名の平等空間を提供したことを指摘した。「有縁」があっての「無縁」であり、現代のように、「有縁」の関係が失われた「無縁」ではない。

この意味で、中国の「無縁」は、双方の性格を帯びた過渡的な状態にある。やむなく絶たれた縁もあれば、地縁血縁から逃れ、新たな縁を求めてさまよう人々も少なくない。農民組織に支えられて誕生した共産党は、有縁社会の地殻変動によって、その土台を揺さぶられている。習近平は、「中国の夢=中華民族の偉大な復興」というキャッチフレーズを掲げ、中華民族としての新たな「縁」によって、無縁社会の再構築を図ろうとしている。

孫文は、家を国家の基礎とする儒教思想を援用し、宗族社会=有縁の延長として中華民族が団結する「振興中華」を描いた。毛沢東は有縁社会を解体し、絶対的な指導者が人民一人一人と直接結びつく集権体制、つまり「超有縁社会」を目指した。習近平の「中国の夢」は孫文の「振興中華」に近いが、土台となる有縁社会を欠いており、かつてないチャレンジとなる。

実は、こうした中国の農村社会を観察するにあたり、有益なのが、日本で失われたむら社会の記憶だ。柳田国男、きだみのるを通じて、中国農村の深層を探ることで、日本の無縁社会を見直すきっかけになるのではないか。

(続)