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「起業して伸びる人とダメになる人の違い」
今原禎治(未来証券社長)
『致知』2000年3月号
特集「変革する」より
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【記者:起業して伸びる人とダメになる人の違いを、
どう見ておられますか?】
はっきり言えるのは、仕事ができる人というのは、
「仕事ができるとはこういうことだ」という
自分自身の哲学を持っていますね。
例えば、
「一日人よりも余計に働くことが、人に勝つ方法だ」
と信じている人がいる。それも一つの哲学です。
ところが、そういう哲学を持っていない人、
理解できない人というのもいるんですね。
そんな簡単なことで勝てるか、と。
自分は頭がいいと思い込んでいて、
俺はこれで一度も負けたことがないんだ、と自信を持っている。
それも一つの考えなんでしょうが、
実際に会社を起こせば、とてもそんなものじゃ
通用しないことがすぐわかります。
競争に勝つ、仕事に勝つということは、
そんなに甘いものじゃない。
皆命懸けでやっているわけですから。
わかりやすい例を挙げますと、
まず学位を持っている人、
博士号を持っているような人が企業を始めると、
必ず失敗しますね。
もう例外がないのです。
とくに名刺に自分の取った学位を刷っているような人は、
一番始末が悪い。
そういう人よりもむしろ、
「学位が何だ、英語がうまいからって何ができるんだ」
などと開き直っている人間のほうが、
結局社会に出て会社を起こしたり、
どこかの役員になったりしてリーダーシップを発揮していますね。
私と同じ学校を出たJR東日本の松田昌士社長や
NTTの児島仁相談役などがそういうタイプです。
頭でっかちで神経質なタイプでは、ダメなんです。
【記者:ほかに失敗しがちなタイプはありますか?】
いろいろありますが、立派な父親を持つ人もそうです。
父親が偉大なほど息子はダメになるのですね。
息子の出来が悪い、なんて
好んで他人に言う人はいないからわからないのですが、
僕らは実際にそんな人をたくさん知っています。
お父さんは皆、極めて立派な経営者である場合が多いですよ。
僕も忙しくて、問題提起をするだけで
終わってしまっているんですが、
後継者とか自分の子供の教育という問題もひっくるめて、
息子を親父に負けない経営者にする方法を、
日本人はもっと考えていく必要がありますね。
そういうことを書いたり、言ったりする人が少ないから、結局
「長男もかわいい、次男もかわいい、三男坊ならもっとかわいい」
で、子供をダメにして終わってしまうんですね。
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「成功する経営者の条件」
今原禎治(未来証券社長)
『致知』2000年3月号
特集「変革する」より
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【記者:成功する経営者の条件についてはいかがですか?】
私の経験から言えば、約束を守るということです。
これはね、ある意味では経営者の原点ですよ。
そんなこと当たり前だ、と思われるかもしれませんが、
案外守れない人が多いんですね。
一口に約束といっても、非常に幅が広いわけでね。
お金の貸し借りの約束もあれば、
ゴルフのような遊びの約束もある。
しかしどんな約束であれ、それを守らないとどうなるか。
"信頼"というかけがえのない財産を失ってしまうんです。
つまらない約束ほど難しいのですよ。
つまらないからといっておろそかにするのなら、
初めから約束なんかしなければいい。
破っても平気な人は、簡単に約束をするんですよ。
しかし、100%守らなければいかん、
と思っている人は簡単に約束はしません。
そして、いったん約束をすればキチッと守る。
それは見事なものです。
ゴルフをやるとしますね。
そういう人に「ゴルフ場も時間もお任せします」
と言うとね、翌日の夕方までには必ず返事が来ます。
そんなささいなこともおろそかにしないんですね。
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■「致知随想」ベストセレクション
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「不可能を可能にする力」
救世忍者 乱丸
(女子プロレスラー、第21代TWF世界タッグ王者)
『致知』2011年11月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)という目のがんに罹り、
片目を摘出したのは私が3歳の時でした。
母は義眼となった娘の私を抱いたまま心中も考えたようですが、
当の私は別段そのことを気に病むこともありませんでした。
小学校4年の時、空手師範だった父の影響で空手を習い始めると、
他の道場へも出稽古に行くほどのめり込み
国際武道大学に進学して世界大会にも出場を果たしました。
ところが大学3年を迎えたある日、
なんとなしに観戦したプロレスに私はすっかり魅了され、
プロレスラーになりたいという思いが
抑えられなくなってしまったのです。
空手家として将来を期待していた父からは
「みっともない。頼むからやめてくれ」と
反対されたものの私の決意は変わらず、
すぐにオーディションを受けました。
厳しい実技試験を終え、手応えを感じていた私でしたが、
審査員の長与千種(ながよちぐさ)さんに声を掛けられました。
「ごめんね、傷つく言い方をするかもしれないけど、
その目はどうしたの? 空手をやっていたそうだけど、
プロレスはぶつかって初めて成るスポーツだから」
「大丈夫です。私、リングで死んでもいいと思ってますから」
「あなたはそれでいいと思うんだ。
でも対戦した相手はどうなるかな」。
優しい言い方で、言われていることは十分分かっていました。
私は返す言葉もなく、それでもやりたいと
泣き喚くことしかできませんでした。
一体どうすればプロレスラーになれるのだろう。
なんとか別のオーディションを探し出してみたものの、
やはり結果は同じ。
いくら頑張っても目が悪いだけで弾かれてしまうのか……。
悶々としていた時、偶然見つけたのが
アニマル浜口さんのプロレスラー養成ジムでした。
大学の講義を月火水にまとめて取ると、
そのまま浅草のジムへ行って泊まり込みで練習。
男子でさえ音を上げてしまう厳しいメニューを
同じようにこなすことができたのは、
プロレスラーになりたいという情熱以外の何ものでもありませんでした。
一年前とは見違えるような体つきに変化した頃、
ある出来事をきっかけに業界全体で門戸を広げることとなり、
私もあっさりオーディションに合格することができたのです。
ただ入団はしたものの、満足な仕事もできない私は怒られてばかり。
そのうち誰にも話し掛けてもらえなくなり、
マスクを外して素顔でリングに上がらされたり、
頭を坊主に剃られ、見世物のようにされるなど
惨めな思いを味わいました。
もうやめてしまおう。
あれほど憧れていたプロレスに終止符を打ち、
家業を手伝っていた私の元へ、ある日1本の電話が掛かってきました。
「あんた、まだプロレスやりたいでしょ。うちでやらない?」。
電話の主は吉本女子プロレスのスター選手だったジャガー横田さん。
将来この子が障碍者の方の希望になればという思いがあったそうで、
未練のあった私は「お願いします」と返事をし、
再デビューを果たすことができたのです。
入団後も先輩方の温かい指導のおかげでTWF世界タッグ王者になり、
各方面から試合のオファーもいただくようになりました。
原因不明の血尿が出るようになったのはそんな頃のことです。
ある日高熱に見舞われ、病院へ行くと集中治療室に入れさせられ、
緊急入院の指示を受けました。
「急速進行性糸球体腎炎(しきゅうたいじんえん)」という腎臓病で、
治療は安静が原則。運動は禁止でプロレスなどは論外です。
その上厳しい食事制限も課され、
こんな状態が一生続くのかと思うと絶望的な気持ちになりました。
そんな時お見舞いに来てくださったのが、
ジャガーさんと、ご主人で医師の木下博勝先生でした。
先生は私に病名を尋ねられ、
「なんだ。その病気だったら、時間はかかるかもしれないけど、
必ず治るよ。安心したよ」
と言われました。
あれ?
それまで主治医や看護師からは薬の副作用で
骨粗鬆症になるなどと説明を受けてきたため、
不思議な気もしましたが、それならば頑張ろうと
気持ちを入れ直しました。
そして密かにリング復帰の決意をし、
歩行訓練から始めて筋トレのメニューを少しずつ増やしていきながら、
その日を迎える準備を行いました。
2008年、約2年ぶりとなる復帰戦の舞台を用意してくださったのは、
ジャガーさんと先輩のライオネス飛鳥さんでした。
あれほど強く望んでいた復帰戦もいざリングを前にすると、
まさか本当にこの日が来るとは、と込み上げてくるものを
抑えることができませんでした。
無事試合を終えた夜、私は真っ先に
ジャガーさんと木下先生にお礼を言いに行きました。
「先生のあの時の言葉が凄く励みになったんです」
「いやぁ、実は病名を聞いた時、復帰できると思ってなかったんだよ。
可能性はゼロだと思ってたんだ」
世の中には不可能を可能にする力が存在すると私は思います。
一つには固い決意と粘り強さ。
プロレスラーになれなくて悩んでいた時も、
私は必死にもがいて行動し、絶対になるんだとしか考えていなかった。
入院生活中に復帰を決意した時もそう。
そして不可能を可能に変えるもう一つの力は、
周りにいる人がどんな言葉を与えるかではないでしょうか。
苦しい時を経ていまも憧れのリングに
立たせていただいていることの幸せを噛み締めながら、
私もいつかジャガーさんや木下先生のように、
困っている誰かに手を差し延べることのできる
存在になれたらと願っています。
※救世忍者 乱丸さんの公式ブログ
http://ameblo.jp/521ranmaru/entry-11247597403.html
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「土光敏夫さんから教わったこと」
大谷將夫(タカラ物流システム社長)
『致知』2012年4月号
特集「順逆をこえる」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201204_pickup.html
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【記者:部屋の額縁に収められている
「情熱に勝る能力なし」というのは、ご自分で書かれたものですか】
そう、これは座右の銘。
私の思い描くリーダー像でもあるんです。
45、6歳の時に土光敏夫さんの本を読んでいて
浮かんできたのがこの言葉でした。
その本には、要するに頭がいいからリーダーになる
というのは限界がありますよ、ということが書かれていました。
なぜか。
頭のよさで勝負しようとすると、
人間の性で自分より優れた人間を蹴落とそうとするんですね、
片方では優秀な人材が欲しいと言っていながら。
これは大なり小なり人間誰もが持つものなんだと思います。
では土光さんはどう言っていたかといえば、
能力ではなく、情熱を争えと。
つまり誰よりも会社を愛して、
そして常に全力投球で会社に命を懸ける、というくらいの
情熱を持つ人こそがリーダーとして最も相応しいということです。
この時ですよ、あぁそうか、
情熱に勝る能力はないなと心底思ったのは。
だから情熱がなくなったら私は社長を辞めますよ。
その代わり情熱が続く限りは頑張る。
だってそれが会社のために一番いいと思いませんか。
本当に命懸けなら会社が順調な時はもちろん、
逆境に立たされたとしても体を張って守る覚悟ができているんだから。
年が若いから地位を譲るとかそういうのは一切関係ない。
ただしもし仮に私よりも情熱溢れる人が現れたら、
その時はその人が社長になるべきだと思います。
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「孔子とドラッカーに学んだこと」
酒巻久(キヤノン電子社長)
『孔子の人間学』(致知出版社刊)より
http://www.chichi.co.jp/book/kousi_index.html
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『論語』の言葉は子供の頃から
叔父や母親から折に触れて聞かされ、早くから親しんできた。
しかし真剣に読み始めたのは社会人になってからのことである。
きっかけはドラッカーの本だった。
ビジネスの勉強のために読んだのだが、ドラッカーの本には、
『論語』から影響を受けたと思われる記述が
随処に見受けられたのである。
孔子の説いた思想は現代のビジネスにも通ずることに気づき、
次第に『論語』に傾倒するようになった。
中でも繰り返し読んだのは、
「恕(じょ)」について説かれたくだりだ。
子貢問うて曰(い)はく、
「一言にして以て終身之を行ふべき者有るか」。
子曰はく、「其れ恕か。己の欲せざる所人に施す勿(なか)れ」。
(子貢が問うて曰うには
「ただ一言で終身おこなうことのできるものがありますか」。
孔子が曰うには「それは恕という一言であろう。
恕は己の心を推して人を思いやるのである。
己の心に欲しないことは人も欲しないから、
これを人に施し及ぼさないようにせよ」)
「恕」は一般に「思いやり」と訳される言葉だが、
技術畑を歩んできた自分の立場で改めて吟味してみると、
開発の基本はまさに恕であることに気づいたのである。
アメリカの自動車メーカー、フォード社を創設した
ヘンリー・フォードは、成功の秘訣を尋ねられ、
相手の立場に立って物事を考えることだと答えたという。
まさに恕の教えに通じる至言である。
設計や商品開発も、それを使ってくださる消費者が
何をもって喜ぶかを慮れない設計者ではよいものはつくれない。
逆に相手が喜び、感動するものをつくることは、
恕の実践そのものといえる。
「情けは人のためならず」という言葉もあるが、
相手を喜ばせれば必ず自分にもよいことが返ってくる。
恕は仕事の上で、そして人間として
最も大切な心がけだと私は実感している。
子供のうちはそういうことを言葉で教わっても
あまり理解できないものである。
しかし平素からの他人様に対する母の姿勢は
まさに恕の実践といえ、いまでも深く印象に残っている。
母は困っている人がいると見過ごせない質で、
返ってこないと分かっていてもお金を貸してあげていた。
ただの施しになってしまうと相手も心苦しいので、
「子供さんが学校へ行けないでしょうから」などと、
相手の立場を慮って渡していた。
若い頃は、この厳しい競争社会で
とてもそんな真似はできないと考えていたが、
四十代くらいから少しずつ母の気持ちが
理解できるようになってきた。
自分がいまあるのは、それまで多くの人から受けてきた
無数の思いやりの心のおかげであり、
今度は自分から次の世代に恕の心を施すことで、
受けた思いやりにお返しして
いかなければならないと心に刻んでいる。
とりわけ多くの社員を率いていく経営者になってからは、
この言葉が一層重くのしかかってきた。
ドラッカーは
「経営の基本は、そこで働く人たちを不幸にしないことだ」
とも説いているが、これは『論語』を含めた
儒教の土台となる精神とも言えるだろう。
私はこれまで自社の経営においても、
支援を頼まれた会社の経営においても、
現場で一所懸命働いてくれている社員を
決して不幸にしてはならない、
彼らの生活は絶対に守ろうと心に誓い、
自己の能力をフルに発揮して経営に邁進してきた。
経営者としての評価は、それを成し得たか否かによって
定まると私は考えている。
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「鉄腕・稲尾和久投手の運命を拓いたもの」
藤尾秀昭 著『小さな経営論』より
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昔、プロ野球に西鉄ライオンズという球団があったんです。
そこに稲尾和久という大投手がいました。
稲尾さんと同期で二人のピッチャーが入ったそうです。
ところが、その二人と自分の扱い方がぜんぜん違うわけです。
彼らはピッチング練習をしているんだけれど、
自分はバッティングピッチャーしかやらせてもらえない。
おかしいなあと思って、稲尾さんはタイミングを見計らって
二人に聞くんですよ。
「僕は3万5000円の給料と契約金50万円で入ってきたんだけど、
君たちはいくらもらった?」
そうしたら二人は、契約金がそれぞれ500万と800万、
月給も10万と15万だったそうです。
球団の期待の度合いが全然違うわけです。
だから彼らはピッチャーの練習をしているのに、
自分はバッティングピッチャーばかりやらされるのか、
と稲尾さんは知るんですね。
普通ならみなさん、
「なんだ、馬鹿にするな、俺はもう辞める」というところです。
でも、稲尾さんはいわないんです。
どうすればいいか、じーっと見ていて考えるんです。
私はよくいうんですが、伸びていった人というのは
自分に与えられた環境、条件をすべて生かしきって成長していくんです。
わかりますか?
マイナスの条件もいっぱいあるんです。
そのマイナスの条件もすべて生かしきっていく人が成功するんです。
稲尾さんはまさにそうなんです。
彼は毎日バッティングピッチャーをやる。
だんだん嫌になってくる状況の中で、ハッと気づくわけです。
バッターというのはストライクばかり投げると嫌がるなって。
そりゃそうです。毎回毎回打っていたらしんどいでしょう。
3球ストライク投げて、1球外してやるとバッターが
一番嬉しそうにしている。
ボール球がきたら一球休憩できるからね。
そこに彼は目をつけるんです。
このボール球にする1球は俺だけのものだ。
この一球だけは別に相手を気づかわなくてもいい。
バッティングピッチャーだから3球はストライクを
投げなきゃいけないけれど、残りの1球はボールでいい。
だから、その1球は俺のものだ。
稲尾さんは、この1球で自分の練習をしようと決心するんです。
高め、低め、インコース、アウトコースと
ボール球を投げ分ける練習をしようと。
その結果、彼は名コントローラーといわれるピッチャーになるんです。
すごいと思いませんか。
普通の人間ならふて腐れる状況の中で、
1球のボールで練習しよう、と。
その一球だけは他の奴がピッチング練習するのと同じだと考えて、
高め、低め、アウトコース、インコースと投げ分けて
ピッチングの練習をしたんです。
1時間で480球投げたら、そのうちの120球は
自分のもんだと考えて練習を重ねて、
名コントローラーといわれるピッチャーになっていくんです。
そうやって自分の与えられた環境の中で
一心不乱に仕事をしていったから、
稲尾さんの人格が磨かれて、運命を招来していったんです。
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「本田宗一郎に聞く。
伸びるベンチャー経営者の条件」
城山三郎(作家)
『致知』1986年8月号
特集「開拓し、築く」より
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私はいま創業者で一番興味があるというか、
一番おもしろいと思っているのは、本田宗一郎さんですね。
で、その本田さんと話をしたときに、
伸びるベンチャーの経営者というのは
どういうタイプかと聞いたことがあるんです。
まず一つは、前へ前へと進む意欲があること。
二つは、人の意見を素直に聴くことができること。
三つは権限委譲が行われているかどうか。
四つが、よきパートナーを持っていること。
そういうものを持っている人は伸びるといったんですね。
私もそうだと思いますね。
それは全部本田さんがやったことですしね。
創業というと、革新性とか創造性とか、
なにか派手なものを考えがちだが、そうではなく、
大変地道なものなんだと思います。
創業というと、形のないところに形を作り出すわけだから、
最初は混とんとした状態にあるのが普通です。
それに、創業というからには一人ではできない。
数の多少はあっても、何人かの人間が集まって
何かをやるわけです。
混とんとしたながでそれをやる。
だから、リーダーにはある程度のカリスマ性がないと、
うまく引っ張っていけない。
しかし、このカリスマ性というのは、
神がかったものなどではなく、地道なものだと思うんです。
先にあげた四項目を着実にこなしていること。
これがカリスマ性になるんだと思うんです。
それと、会社はいつも創業時の状態ではないわけです。
変わっていく。
それに応じて創業者も変わっていかなければ、
会社は伸びていかない。
多くの経営者がこの変化の点で、失敗していますね。
本田さんはこの変身を見事にやってのけられた例だと思う。
本田さんも創業時はカリスマだった。
強烈なカリスマだったから、みんなついてきたんです。
だが、ある時期から、脱カリスマを試みられて、
それに成功している。
いまの本田さんはホンダにとって
カリスマでもなんでもなくなっている。
これは見事だというほかはない。
戦後の創業者では、本田さんは松下幸之助さんと並んで
双璧だと思うが、脱カリスマという点では、
松下さんは本田さんに一歩譲る感じがする。
その証拠に、松下さんは重い存在になったが、
本田さんは実に軽やかでしょう。
* *
「奇跡の会社』を書いた渡辺栄二さんの意見ですが、
創業者の条件は企画力、決断力、行動力、それに統率力だと。
なかでも前の三つが最初のうちは大事でしょう。
それで、会社がある程度軌道に乗ってくると、
だんだん前の三つから、統率力のほうにウエイトが移って、
それが大事になっていく。
極端にいえば、大企業の経営者は前の三つはなくても
統率力だけ持ってればいい。
じゃ、その統率力とは何かということになると、
これは中曽根さんの意見でもあるのだが、
一つは先見性といいますか、大局をつかむ力。
それからもう一つは懐の深さだと思います。
そういうものを持たないと創業者としては
大成しないというのが、結論です。
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「国家滅亡の共通点」
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
『致知』2012年6月号
特集「復興への道」より
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このまま進むと日本はどうなってしまうのか心配になる。
恐ろしい話になるが、過去に栄えた国家が滅亡した状況と、
日本の現状があまりにも似ているため、ぜひ紹介しておきたい。
最初は紀元前814年に建国されたカルタゴ。
日本が反面教師とすべき第一の点は
「経済至上主義」である。
貿易大国として栄えたカルタゴは文化を軽視し、
国家観や歴史観を持たず、経済発展のみに熱中していた。
ローマとの第2次ポエニ戦争に負けた時、
巨額の賠償金を50年賦で要求されたが、
カルタゴはそれを僅か10年で完済してしまい、
逆にローマの警戒心を強める結果になったほどである。
第2次ポエニ戦争でハンニバルの軍隊に負けて
敗残兵となった大カトーと呼ばれる政治家は、
視察団長として訪れたカルタゴの繁栄を
目の当たりにして以後、市民に演説をするたび、
必ず最後を「カルタゴを殲滅すべし」と
締め括ったといわれる。
そうして国民のカルタゴへの敵意を煽り、
結果、第3次ポエニ戦争で
ローマはカルタゴを殲滅することになる。
これらが今日の日本に酷似していることは自明である。
経済発展一途で経済大国になることには成功したが、
政治の劣化、倫理の消滅、文化の崩壊は増大した。
隣国の中国や韓国からは日本攻撃の発言や行動が
頻発しているが、国家として毅然として
反撃する態度を示さないどころか、
敵に塩を送る愚者までいる。
もう1つの反面教師はイタリアの海上都市として
栄えたベネチアである。
かつては軍艦を大量に保有し、
ヨーロッパ最強の国家として地中海を支配したが、
17世紀頃から陰りが出始める。
まず造船の技術革新を怠った結果、
台頭してきたオランダや北欧諸国の技術に抜かれ、
技術後進国となっていく。
また軍事費を削減した結果、軍艦の数が減り、
軍事力が後退した。
最大の問題は社会が成熟し、既得権益が固定し、
革新を起こす精神風土が衰微したことである。
その風土を反映し、ベネチアの適齢男子の
結婚比率が急速に低下し、
16世紀に5割、17世紀に4割となり、
子供のいる夫婦の比率は四割となった。
そして18世紀末に進撃してきたナポレオンに
最後通牒を突きつけられ、1度も戦闘することなく降伏し、
国家として終焉した。
現在の日本の20歳代男子の未婚比率は7割、
女子も六割で、就業意欲のない若者も増加傾向にある。
歴史のなかに国が滅びた例は数多くあるが、
現在の日本はカルタゴとベネチアの辿った末路を
真剣に振り返る必要がある。
※その他、月尾氏が指摘する戦後日本の3つの問題点や
100年先を見据えた転換戦略とは?
詳しくは『致知』6月号をご覧ください。
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「色眼鏡でものを見るな」
酒巻久(キヤノン電子社長)
『致知』2012年6月号
連載「20代をどう生きるか」より
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後に社長となられた山路敬三さんとともに
会社人生で大きな影響を受けたのが、
キヤノンの「技術の父」といわれた鈴川溥(ひろし)さんである。
当時は取締役開発本部長で、山路さんの上司でもあった。
我われの時代は、入社した時の上司で
将来が決まってしまうとも言われた。
その点、技術や設計の話などは一切せず、
人間としてどう考えるべきか、
どういう心構えでものを見るべきかといったことを、
繰り返し指導くださったお二人に出会えたことは
何よりの幸運だった。
特に入社して5年近くは、鈴川さんに
たくさんのレポートを書かされた。
まだ複写機がない時代のこと、
カーボン紙を2枚敷いて黒鉛筆で書いた報告書を持っていくと、
赤鉛筆で直しを入れられてしまう。
これでは消しゴムでは消せないため、
また一から書き直しとなる。
ある時、黒鉛筆で直しを入れてもらえるようお願いすると、
「ここが間違いということは全部間違いということだ」と、
以後も赤鉛筆での指導は続いた。
一番厳しく指導を受けたのは
「言いたいことは何か、簡潔に述べよ」ということ。
最初に趣旨を明確にし、その後なぜそう考えるのかを述べる。
このレポートを、誰に、何のために書くのかという目的が
不明瞭だと次のページを開いてももらえなかった。
しかしこの時、苦労しながらも簡潔明瞭に
文章を書く癖をつけたことが、
後に特許の申請書類を書く際、
どれほど役立ったか分からない。
技術屋は文章を苦手とする人が多く、
特許の申請では皆頭を抱えていたが、
私の場合はそうではなかった。
これまでに社内で申請した特許の数は600件を下らないが、
すべては鈴川さんの指導のおかげである。
鈴川さんはよく、
「色眼鏡でものを見るな。
ありのままに、素直にものを見なさい。
仮に赤の眼鏡を掛けていると、
そこに赤色があったとしても見逃してしまう。
技術開発も商品づくりも、
“俺が”という思いを持った時点で間違うから、
自分自身を殺した形で真正面から見なさい」
と言われた。
売れている他社の商品を調べてレポートを出す際も、
ここが悪い、あそこがダメだと欠点を指摘すると、
その時点で突き返される。
なぜ売れているのか、どこが優れているのかを
探るのがものを見る時の基本。
自分の目で見て悪く思えるものも、
もう少し次元の高いところから見れば、
実は大きな可能性があるかもしれないというのである。
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「吉田茂の最大の功績」
北康利(作家)
『致知』2012年6月号
特集「復興への道」より
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吉田茂の最大の功績は、なんといっても
早期講和を実現して日本の独立を取り戻したことであろう。
そして経済復興の道筋をつけ、
次代のリーダーを育てたことである。
サンフランシスコ講和条約に際しては、
吉田がアメリカとの部分講和を進めようとするのに対し、
ソ連や中国も加わった全面講和を主張する者たちから
強い反対にあった。
しかし米ソ冷戦が始まったばかりの当時、
ソ連と中国にアメリカと同じ方向を向かせて
講和に参加させることは至難の業であった。
先ほども述べたように吉田は、講和を早期締結し、
国民に独立心を植え付けなければと考えていた。
実際、マッカーサーがアメリカに帰る時、
人々は自分たちを占領した国の総司令官に対して
沿道から旗を振り、「ありがごうございました」
と口々に叫んで見送った。
吉田はそうした日本人の国民性を冷静に見据え、
占領を長引かせてはいけないと強く思っていたのである。
ゆえに時間のかかる全面講和ではなく、
部分講和を通じての早期独立の道を目指したわけである。
軍備にしても同様である。
再軍備を遅らせる結果を招いた軽武装、
経済優先の復興路線、いわゆる吉田ドクトリンの功罪が
しばしば論議されるが、軍隊のない国家など
あり得ないことを吉田は百も承知であった。
しかし百万人単位で餓死者が出るほどの窮状の中で、
まずは経済を優先すべきだとの彼の決断があったからこそ、
日本は早期復興を果たせたのである。
それができたのは、アメリカからの執拗な
軍備増強の要求を、新憲法の9条を盾に
懸命にかわしたからである。
新憲法はきわめて屈辱的な押しつけ憲法であった。
しかし吉田には転んでもただでは起きない粘り強さがあった。
制定に当たって日本側の要求がことごとく却下される中、
ともかくも国の拠り所である天皇制を死守した。
さらに、米ソ冷戦の始まりでアメリカが
手のひらを返したように日本に軍備増強を迫るのに対して、
不本意な憲法を逆手にとって拒否したのである。
リアリストの彼は、困難な目標に対しては
一直線に向かっていくのではなく、
いったん横に進んでも最終的に必ず成し遂げようとした。
その間も目標を見失うことなく、軸をブラさない。
ビジョンを明確に示していたため、
国民も彼が何をなそうとしているのかがよく理解できていた。
このように懸命に国を守ってきた吉田の思いを、
我われ日本国民は十分に汲み取っているだろうか。
彼がサンフランシスコ講和条約に
サインをした1951年9月8日、
あるいは条約が発効した翌年の4月28日は
日本にとって実に重要な意味を持つ。
にもかかわらず、祝日にしてそれを
顕彰しようという動きはなかった。
当然いまの国民にも、その両日についての認識が
ほとんどないことには忸怩(じくじ)たるものがある。
※その類い稀なるリーダーシップの源泉は何か?
人を惹きつけてやまない人間力の秘密とは?
詳しくは、『致知』6月号をご覧ください。
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「指揮官は絶対にうろたえてはいけない」
村井嘉浩(宮城県知事)
『致知』2012年6月号
特集「復興への道」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201206_pickup.html
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私自身は今回の震災に際して心に決めていたことがあります。
こうした非常時には、大変ストレスがたまるものですけれども、
私は県のトップとして、自分のマイナスの感情を
絶対に外に出さないようにしようと決めておりました。
辛くて涙が出そうになる場面が何度もありましたけれども、
私が高ぶった感情をそのまま外に出してしまうと、
組織が混乱してしまいます。
私が防衛大学校にいた時の校長先生が
土田國保先生という元警視総監の方でした。
土田先生は警視庁の警務部長をされていた時、
贈り物を装って自宅に送られてきた
爆発物によって奥様が亡くなり、
息子さんも大怪我をされたことがあるんです。
土田先生が朝礼で部下からその報告を受けた時の
お話をなさったことがあるのですが、
私はそのお話がとても印象に残っているのです。
土田先生は、
「君たちはいずれ、部下や家族の突然の死というものに
直面する機会があるかもしれない。
また有事の際は自分の組織が全滅することもあるかもしれない。
その時に指揮官は絶対にうろたえてはいけない」
と前置きをされて、ご自身のご家族が
事件に巻き込まれた時のことをこのように話されました。
「自分がその報告を受けた時、正直、足がガクガクと震えた。
しかしここで自分が震えているところを見せたり、
うろたえたり、涙を流したりしていると、
部下がどう対応をしていいのか分からなくなってしまう。
だから自分はその時、お尻の穴をくっと締め、
下腹にぎゅっと力を入れて、大きく深呼吸をした。
そしてすっと立ち上がって、
これからどう捜査を進めるか指示を出した。
いざという時の参考にしてほしい」
と。お話を伺いながら私もお尻の穴をくっと締めて、
下腹に力を入れ、大きく深呼吸をしたことを
いまでもよく覚えています。
今回の震災では何度かそういう厳しい場面に直面しました。
その度に先生のお話を思い起こして実践したのですが、
不思議と心が落ち着いて冷静に対処できたんです。
そのことも含めて、私が防衛大、自衛隊に在籍して
訓練してきたことが震災では随分役立ちました。
若い時の苦労は買ってでもせよと言われますけれども、
厳しい訓練を受けてきて本当によかったと思います。
もう1つリーダーという立場の重要性を
実感させられた体験があります。
自衛隊の時に私は小さな部隊にいたんですけれども、
不思議なもので、指揮官が代わると
隊員は変わらないのに部隊の雰囲気がガラリと変わるんです。
暗い部隊だったのに急に明るくなったり、
前向きになったり、なんでも議論ばかりして
前に進まない組織になったり、
指揮官の性格がそのまま部隊に反映されるのです。
私はそれを見て、リーダーのあり方は
本当に重要だと実感しました。
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12年前に起きた17歳の少年によるバスジャック事件。
そのバスに同乗していた山口由美子さんは、
加害少年によって十数か所もの刺し傷を負われました。
その山口さんはいま、子供たちが安心して過ごせる
「居場所」づくりに尽力されています。
自らに起きた災いを受け止め、よき社会づくりへ
転換しようと努める山口さんの生き方をご紹介します。
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「バスジャック事件が教えたもの」
山口由美子(不登校を考える親の会「ほっとケーキ」代表)
『致知』2009年5月号
特集「執念」より
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2000年のゴールデンウイークの5月3日、
私は塚本達子先生と一緒にバスに乗っていました。
塚本先生は佐賀市内で幼児教育の教室を主宰され、
我が家の子どもたちがお世話になった先生です。
子どもたちは小学校に入る時点で
先生の教室は卒業しましたが、
人生に関する多くを学ばせていただいた私自身が
先生から卒業できず、交流を続けていました。
この日は一緒に福岡にクラシックのコンサートを
聴きにいく予定でした。
バスが高速に入ってしばらくすると、
一番前の座席に座っていた少年が突然立ち上がり、
牛刀を振りかざしてこう言いました。
「このバスを乗っ取る。
全員荷物を置いて後ろへ下がれ」
最初、私はこの少年が本気でバスを乗っ取ろうと
しているとは思いませんでした。
声にすごみはなく、まだ中学生くらいの
あどけない少年だったからです。
「何を言っているんでしょうね」
という感じで先生を見たら、意外にも大変驚いた様子で
固まっていらっしゃいました。
多くの子どもたちと接し、度胸もあって
信仰心も篤い先生は、こんなことで
たじろぐような方ではないのに……。
乗客は少年の言うことに従い、後部座席へ移動しました。
その時、1人だけ眠っていて
事態に気づいていない方がいました。
「おまえは俺の言うことを聞いていない!」
少年は逆上し、その人の首を刺したのです。
その時初めてこの子は本気なのだと気づきました。
しばらくすると、乗客の1人が
「トイレに行きたい」
と言い出し、少年はそれに応じて、
バスは道路の路肩に止まりました。
その方は1人で降りていかれましたが、
おそらく通報されたのでしょう、
バスの前に乗用車が何台か止まり始めました。
気づいた少年はさらに逆上し、
「あいつは裏切った。これは連帯責任です」
と言いながら、一番近くに座っていた私の顔を
牛刀で切りつけました。
とっさに両手で顔を覆うと、今度は手を切られ、
次は首、次は……。何か所刺されたかは分かりません。
あちこちを切りつけられ、
私は通路へ転がり落ちてしまいました。
しかし、その時私はこう思ったのです。
ああ、彼の心は、この私の傷と同じくらいに
傷ついていたのだ。
そんな少年を殺人者にするわけにはいかない――。
なぜ、そんな思いが湧いてきたのか、
それはいまだに私にも分かりません。
しかし、その思いが私の命を守ったのだと感じています。
* *
バスはどのくらい走ったのでしょうか。
うっすらとしか意識がないまま床に座り込み、
傷の浅かった右手で体を支え、
左手は心臓より高い位置にと思って
ひじ掛けに置いていました。
そうして数時間が経過した頃です。
バスの速度が落ちたのを見計らって、
2人の乗客が窓から飛び降りました。
すると少年は「連帯責任」という意味なのでしょう、
塚本先生を2回刺しました。
倒れ落ちる先生を見ながら、私は直感的に
「突っ伏したら死んでしまう」と思いました。
「先生、起きて!」と心の中で何度も叫びましたが、
自分の体もままならず、
どうすることもできませんでした。
広島に入り、パーキングエリアでバスは止まりました。
少年と警察とのやり取りが続いていましたが、
詳しくは分かりません。
しかし、怪我をしているということで
私は他の乗客の方よりも先に窓から救出されました。
助かった――。
その瞬間はそれしか思い浮かびませんでした。
極度の緊張感から解き放たれた私は
他の乗客の皆さんのことにも、
一緒にいた塚本先生のことにも思いが至りませんでした。
痛い、つらい、怖い、
そういうすべての感情が固まって押し寄せ、
訳が分からない状態です。
搬送される救急車の中で
「もう1人の方はダメだったみたいだなあ」
と職員同士の会話を聞いた時、
「そうか。塚本先生は亡くなったんだ……」
と、情報だけが体の中を通り過ぎていきました。
塚本先生との出会いは、一番上の息子が
4歳の時にさかのぼります。
小学校の教員だった先生は、偏差値教育や受験戦争など
現代の学校教育のあり方に疑問を感じて退職。
独自に幼児教室を主宰され、
「この世に生まれて初めて出会う教師は母親である」
という考えから、子どもたちとお母さんのための教育に
専心しておられました。
先生は常々
「子どもは自ら育つ力を持って生まれてくる。
大人はそれを援助するだけでいい」
とおっしゃっていましたが、
この教えが私の子育ての指針となり、
特に娘が不登校に苦しんでいた時代には
大きな支えになりました。
娘は小学校の時に不登校となり、
その後は通えたものの、
中学に入るとまた行けなくなってしまいました。
一番苦しいのは娘だと分かってはいるものの、
周囲から子育てが悪かったからこうなったと思われたり、
この子の将来はどうなるんだろうと不安になったりと、
親として娘を受け入れられない時期もありました。
しかし、
「子どもには自ら育つ力がある。
大人はそれを援助するだけ」
という塚本先生の教えがあったからこそ、
娘が自分で立ち上がるまで待つことが
できたのではないかと思うのです。
* *
事件から1か月半、私は広島の病院に入院し、
治療とリハビリに励みました。
結局、私は少年によって10数か所刺され、
場所によっては、あと少し傷が深かったら
死んでいたかもしれないとお医者様は言いました。
私自身、もしも床に倒れていたら、
間違いなく出血多量で死んでいたと思っています。
それゆえ、事件の直後は体のあちこちが
張り裂けるように痛く、あまりのきつさに、
いっそあの時死んでいればよかったと思うほどでした。
時間がたつにつれ、少しずつ加害少年の素性は
私にも伝えられました。
少年は娘と同じ17歳、高校は不登校の末、退学……。
「ああ、彼も苦しんでいたんだ」と思いました。
バスの中で、少年が最初に逆上して言ったあの
「俺の話を聞いていない!」という言葉。
きっと彼は十七年間、ずっと心の中で
「話を聞いてほしい」と訴えていたのでしょう。
しかし、それに耳を傾けなかった周囲の大人たち。
少年は事件によって加害者になりましたが、
それまではずっと大人社会の被害者だったのだと感じたのです。
………………………………………………………………
その後、山口さんは「彼にも居場所があったら、
こんなことにはならなかったかもしれないね」という
友人の言葉を聞いて、小学校に通えない子供や、
成人して引きこもってしまった人などのために、
親子の居場所づくりを目指す会を立ち上げられます。
………………………………………………………………
死後、塚本先生は私やご遺族に
1つの言葉を残されました。
「たとえ刃で刺されても恨むな。
恨みは我が身をも焦がす」
これは事故の直後に、先生のご子息が
「母の財布に入っていたおみくじの言葉です」と言って
教えてくれたものでした。
「母は遺された者たちの心のありようまで
示唆して逝ってくれました」
とおっしゃった時、あの日の先生の驚いた様子を思い出し、
もしかしたら先生はきょうここで、
ご自分の命が尽きることを察知したのかもしれない。
そう思いました。
少年によって深い傷を負い、
いまも傷あとや後遺症が残る私が、
恨むどころか、少年のほうが被害者だと主張するのを聞いて、
「山口さんは強い」とおっしゃる方もいます。
しかし「恨みは我が身をも焦がす」という言葉を思うと、
実は私は楽な生き方を選んだのではないかと思うのです。
そして、すべての出来事には意味がある。
事件もまた、私にとっては必要な出来事だったと受け止めています。
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101歳の天寿を全うするまで
仏の道を説き続けた禅の名僧、
松原泰道氏のお話をご紹介します。
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「喫茶去(お茶でも召し上がれ)」
松原泰道(「南無の会」元会長)
『致知』2009年5月号
巻頭の言葉より
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中国は唐の時代、禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚のもとに、
一人の修行僧が教えを請いにやって来ました。趙州和尚が、
「あなたはここへ初めて来たのか?」
と問うと、僧は答えて、
「はい、初めてまいりました」
すると趙州和尚は言いました。
「喫茶去」(きっさこ/お茶でも召し上がれ)
趙州和尚は、別の訪問僧にも同じことを尋ねました。
その僧は、
「いえ、以前にも伺ったことがあります」
と答えましたが、趙州和尚は同様に勧めます。
「喫茶去」
このやり取りを見て、不思議に思った寺の住職が
趙州和尚に尋ねます。
「老師は、初めて来た人にも、以前来たことがある人にも、
同じに『喫茶去』と言われました。これはどういうわけですか」
すると趙州和尚はまたしても、
「喫茶去」
と答えたのでした。
禅の思想は極めて象徴的で、言句(文字や言葉)を
表面的に捉えると解釈を誤ります。
喫茶去というからお茶にとらわれてしまいますが、
趙州和尚は、ここへ初めて来たのか、
以前ここへ来たことがあるのかと、
未来でも過去でもない、
「いま、ここ」を問題にしているのです。
「いま、ここでお茶を召し上がれ」と。
お茶を飲むということは、日常のありふれた行為です。
しかしその日常の行為が、実は禅そのものなのです。
お茶を飲むことだけではありません。
ご飯を食べること、衣服を着ること、
そうした日常のすべてがそのまま禅なのです。
多忙な現代人は、食事もお茶も、
他のことをしながらいただいて
「ながら族」になりがちです。
しかし、何事も「ながら族」ではいけません。
お茶を飲む時はお茶を飲むことだけに徹する。
ご飯を食べる時も、衣服を着る時も、
ただそのこと一つに徹してすることによって、
人生の受け止め方も違ってくる。
喫茶去とは、そのことを説いているのです。
自分は回り道をしているとか、
自分の本当の仕事は別にあるとか、
何事も一時の腰掛けのつもりで手を抜いてやっていると、
必ず悔いが残ります。
しかし、どんな仕事であれ、
その時に全力を尽くしてやったことは、
後で必ずプラスになって返ってくるものです。
全力を尽くして取り組んでいる限り人生に無駄はない。
これは、私の長い人生から得た持論です。
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仏の道を説き続けた禅の名僧、
松原泰道氏のお話をご紹介します。
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「出征の日に従弟が教えてくれたこと」
松原泰道(「南無の会」元会長)
『致知』2009年5月号
巻頭の言葉より
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私の従弟は、縁あって私の寺で出家をし、
弟弟子になりました。
ところが、彼は私もお世話になった
岐阜の瑞龍寺で修行中に、陸軍の召集令状を受け取ったのです。
昭和19年秋、名古屋の師団から訪れた
従弟の出で立ちを一目見て、
私は彼がこれから出征することを悟りました。
果たして従弟が口にしたのは別れの挨拶でした。
「長い間お世話になりました。
これでお別れでございます。
どうか兄さん、お体を大事にしてください」
上京の途中で空襲がひどく、到着するまで
時間を費やしてしまったので、
すぐに帰隊しなければならないというのです。
それではあまりにも寂しい別れです。
たまたま彼がお茶好きだったことを思い出し、
「急いでもらい合わせの精茶の玉露を淹(い)れるから、
詰めていきなさい」
と、彼の水筒を引きよせようとしましたが、彼は
「結構です」
と言う。私は寂しくなり、
「兄弟がこれで別れるという時に、
遠慮なんかするものじゃない。
水筒を出しなさい」
と命じると、
「兄さん、自分は衛生兵です。
衛生兵の持つ水筒は、私用に飲むためではありません。
怪我や病気をした戦友のために預かっているのです。
傷病兵には冷たい水や濃い緑茶の類いは毒です。
いただけるのでしたら台所に残っている番茶を
お願いします」
と。それが今生の別れとなりました。
彼が出征したサイパンは、9月18日に玉砕したのです。
たとえ自分の持ち物でも、
自分のしあわせのためだけに使うのではなく、
人様と分かち合う。
そうしたたしなみが、かつての日本には
軍隊にまで浸透していました。
私たちも、こうした相手を思いやる気持ちを
持ちたいものです。
これは人にお茶を勧める時も同様です。
ただ形式的にするのではなく、
相手のしあわせを念じてお勧めしてこそ
意味があるのです。
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■「致知随想」ベストセレクション
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「最期のときを共に過ごして」
日比野寿栄
(ひびの・すえ=管理栄養士・健康運動指導士)
『致知』1998年10月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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「大丈夫ですか」
車椅子の上で体勢を整えようとされた上妻由紀子先生に、
私は思わず尋ねた。
すると由紀子先生は、
私に向かって諭すようにこう言われた。
「『大丈夫ですか?』という言葉は、
安易にかけるものではありませんよ」
こういうことである。
体が不自由だからといって、
いつも人の手を借りなければいけない状態に
あるのかといえば、そうではない。
「大丈夫ですか」と問い掛けるのは、
かたわらで見ている側の心の不安の表れである。
由紀子先生は
「ちゃんと私の状態を把握していますか」
と問い掛けたかったに違いない。
私が栄養士として由紀子先生の身近で仕事をするようになって、
1か月ほど経ったときのことだったが、
いまにしてみればその思いがよくわかる。
由紀子先生との出会いは2年半ほど前のことだ。
新聞で腎臓病食専門の栄養士募集の広告を見て、
応募したのがきっかけである。
由紀子先生は精神科医で、東京の町田市にある上妻病院を開設され、
副院長を務められた方だ。
「この世の中から病気をなくすことはできない。
でも、病気で苦しむ人の心をなくしていきたい」
との志を掲げて病院を始められたのだが、
間もなくリウマチを患われた。
その後、2年半前には腎不全になり、
私が由紀子先生と過ごさせていただいたのは、
62歳で亡くなるまでの約一年半である。
20数年にも及ぶ闘病生活が辛く苦しくなかったはずはない。
それなのに
「病気によって苦しいのは、本人ではありません。
代わってあげることのできない周囲の人たちのほうが
よほど苦しいのです。地獄とはそういうことです」
と言って、決して弱音を吐かなかった。
いつも周りに気をつかって、笑顔で振る舞われる先生が
不思議で、尋ねたことがある。
「先生はどうしてそんなに強いのですか」
先生の答えはこうだった。
「それは多分、人間はとても弱い存在だということを、
知っているからだと思います。
例えば、この苦しみをだれか一人の人間に預けて、
もたれかかろうとしたとします。
そうしたら、その人はきっと私の重荷に耐えかねて、
つぶされてしまうのね。
それくらい人間は弱い生き物です。
だから、人間に絶対を求めてはいけません。
絶対なるものは、目に見えない、
神とも言うべき存在に求めるしかないのです」
先生は、いつも見えない神と対話しながら、
ご自身の弱さと闘ってこられたように思う。
そのような先生の姿勢から、私はさまざまなことを教えられた。
先生は仕事に対してことのほか厳しい方だった。
私が栄養計算をしてお出しした料理にしても、
1回目で口にしていただけることはほとんどなかった。
あるとき、食べやすいようにと、焼きなすの皮をむいて
食膳にお出ししたことがある。
「これではだめよ。
なすはアツアツの状態で、
自分で皮をむいて食べるようにしなければ」
と、作り直しを指示された。
先生は薬の瓶も決して捨てることはなく、
ものを大切にされる方だ。
それなのに、なぜ作り直しを指示されたのか。
「プロとして報酬をもらっている以上、
最高のものを提供しなければいけない。
妥協してこれでいいですよ、と言ってしまったら、
その人のためにはならない」
そう思って、苦言を呈してくださったのではないかと思う。
別の折、仕事の厳しさを説明するために、
次のような話をしてくださった。
「あなたがある人から1万円を借りたとしましょう。
『明日返しますから』と約束していたのに、
うっかりして返すことを忘れてしまいました。
『ごめんなさい、明日には必ずもってきますから』
と言えば、その人はきっと許してくれることでしょう。
でも、天の裁きというのは、
自分の言った言葉を守らなかった時点で下っているのですよ。
仕事も同じです。
自分が今日はこうしよう、と思って決めたことを
きちんと果たしているかどうか。
だれかが見ているからやるのではなく、
自分と交わした約束を守っているかどうか。
それが仕事の基本的な心構えなのですよ」
このように言われるのは、先生自身が仕事に対して、
真摯な姿勢で取り組まれてきたからにほかならない。
病院を設立する前、先生がある病院に
勤務されていたころのことである。
勤務時間が終わっても、
交代の医師が来ないことが度重なった。
そんなとき、由紀子先生はいつも表情一つ変えることなく、
何時間も待機されていたそうである。
院長先生が、そのような由紀子先生の働きぶりに感心して、
給料のほか、同額以上の別封を渡されたそうだ。
由紀子先生はこうも話されていた。
「大抵の人は、人生の花を咲かせるには、
耕された土地に、種をパッと蒔けばいいと
勘違いしているようです。
人生に花を咲かせるというのは、
コンクリートの上に花を咲かせるのと同じくらい
大変なことなのです。
考えてもごらんなさい。
コンクリートの上に咲いている花がどこにありますか。
でも、そのように苦心惨澹(さんたん)して咲かせた花は、
心の中にいつまでも咲かせ続けることができるのです。
私が病に苦しみながらも、心やすらかにいられるのは、
これまでに咲かせた花がいまも萎まずに
咲いてくれているからなのです」
先生が繰り返し繰り返し語られた言葉に、
「あなたはどれだけ損得なしに、
人のために尽くすことができますか」
というのがある。
だれかのために、惜しむことなく、身を呈す。
その瞬間にこそ、人は神に近づける――
という思いが、先生の根底にあった。
そして、惜しまれつつ召された
由紀子先生の生きざまを振り返れば、
限りなく神に近づこうと努力された方だったと改めて思う。
先生とは短い縁であったが、私もそのような生き方に
一歩でも近づきたいと願っている。










