あえてリスクを選ぶには信頼が必要、では原発は?
2011年7月6日(水)09:30 ニュースな英語
英語メディアが伝える「JAPAN」なニュースをご紹介するこのコラム、今週は「オフレコ。書いたらその社は終わり」などと発言した大臣について……ではなく、脱原発か否かについてです。ぶしつけな態度や荒っぽい言葉遣いを受け入れるには前提として信頼やリスペクトが必要なように、生命を脅かすリスクを受け入れるには大前提としてそこに信頼が必要だという話などです。(gooニュース 加藤祐子)
○20年かけての脱原発と
カメラや記者を前にした民主国家の政治家としての振る舞いをわきまえない人については、コメントするのもバカバカしいです。東北放送が大きく取り上げて大臣辞任にまで至ったこの騒ぎについて、たとえば英BBCは「ただでさえ不人気な菅直人政権に対する圧力は強まるだろう」と松本龍復興相の辞任を伝えています。東京特派員のローランド・バーク記者はわざわざ松本氏の「B型だから」という不見識な釈明についても解説。「血液型のせいにするなど荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、日本では血液型は性格に影響すると信じられている。B型の人はがさつな性格(abrasiveness)だと言われている。少なくとも松本氏については、その通りだったと言えるだろう」と。わあ、ありがたいなあ(私はB型です)。
BBCサイトの編集者は面白がってるのではないかと思うのですが、日本の政治家の失言集まで作成。「失言しやすい日本の政治家」という見出しで、麻生太郎、柳田稔、森喜朗、石原慎太郎の各氏が紹介されています。
こんなバカバカしい話題をくどくど書くつもりはありません。なんといったって、B型は短絡的だそうなので。なので、もっと大事な原発の話に移ります。
原発か否か、それが問題だ。この議論が今、日本以外でも繰り広げられています。7月3日付の英紙『フィナンシャル・タイムズ(FT)』は前原誠司前外相に取材し、今から20年の間に段階的に「脱原発」を実現するべきという発言を掲載しました。前原氏は6月末にも「今の民主党は少しポピュリズムに走りすぎている。私も日本が20年先に原発をなくすことは賛成だ。しかし、振り子が急激に脱原発に振れた時、皆さんの生活が一体どうなるか考えるのが本来の政治だ」と発言していたことが報道されています。
FTの取材に対して前原氏はさらに踏み込んで、電力の発電方法と使い方に革命的な転換が必要だと発言。原子炉の新設を止め、「もんじゅ」を諦めるべきだとも述べています。
これを受けてFTは、「菅首相の後任として有力視される前原氏によるこの発言は、日本が原発危機を機にエネルギー政策を大転換させるのではないかという期待感を高めるものと見られる」と書いています(それにしても前原氏は、『ワシントン・ポスト』をはじめ米英メディアの受けがいい)。
ところでこの同じFTは4月下旬に「原子力の時代終了ではなく、復活させるべき時」という社説を発表していました。「エネルギー市場にひどい不安定や電力不足を引き起こすリスクを伴わない形で、化石燃料や代替可能エネルギーでこの不足分を埋めるのは、当分は不可能だ。単純に言えば、われわれは多様なエネルギーな供給源を必要としていて、その中には原子力も含まれる」という主張でした。そして最新の技術を駆使して原発の安全性を確保していくべきだとも。
ひとつの新聞社の中に、社説があって、それとは少し異なる記者個人、デスク個人の意見がある。それは当たり前のことなので(むしろ全社的に意見統制をするようなメディアの方が不気味です)、同じFTの中でも記事ごと筆者ごとに少しずつ原発に対する姿勢が異なっているのを読み分けるのは、興味深いことです。
原発か否か、それが問題。日本の原発政策の転換点になるのかと注目されていたのが、九州電力の玄海原発です。佐賀県玄海町の岸本英雄・玄海町長は結局4日に、運転再開に同意。古川康・県知事も今のところ同意の姿勢を示しているとのこと。しかし、そもそも国のエネルギー政策の転換点となりかねない大きな判断を政府が自治体の首長に預けてしまったことを、2日付の米紙『ニューヨーク・タイムズ』は批判していました。
マーティン・ファクラー東京特派員は、「政治指導力の弱さという病のような問題を抱える国で、日本における原子力発電の未来を決定するかもしれない重要な決断は、ふだんは目立たない南の県の地元知事の役目になった」と皮肉っぽく書いています。「病のような問題を抱える」と訳したのは「plagues」という動詞。もとの名詞の「plague」は本来「ペスト」の意味で、転じて「災い」などの意味に。『ロミオとジュリエット』には「どちらの家も呪われろ」という意味で「A plague on both your houses」という有名な台詞があります。
話を戻します。電気事業法にもとづく決まりでは、停止中の原発再開にOKを出すのは中央政府の役割です。しかし福島第一原発の事故以来、政府は再開を認めず、地元の理解が必要だとして「地元自治体の首長にも再開容認の判断を示すよう求めて」いると記事は書きます。最初に判断を求められたのが佐賀県の古川知事で、そのせいで知事は「安全性への不安vs電力不足の脅威」を秤にかけなくてはならなくなり、「日本の原子力の未来についての目安のようなものになってしまった」と。「目安」と訳したのは「bellwether」という単語で、もとは羊の群れのリーダーに鈴をつけて群れの動きを把握したことから「鈴をつけられたリーダー羊」の意味で、今では何かの動きの指標をなるものならたいてい何でも「bellwether」と呼びます。たとえば20世紀以降のアメリカの大統領選では、ミズーリ州を制した候補がほとんど必ず当選するため、同州は「bellwether state」と呼ばれています。
再度、話を戻します。日本の原発政策の「bellwether」にされた古川知事は、同紙の6月末の取材に対して、重い責任をいきなり任されたようだとコメントしていました。原発を再開しないと決めれば日本は、2022年までに原発全廃と議決したドイツよりも早く脱原発国になるかもしれないと。
記事は「原発がなくなれば電気料金上昇や停電で経済はさらに打撃を受ける恐れがあると、日本の経済界と強力な原発ロビーが警告」しているし、菅首相も原発全停止による経済への影響を懸念していると説明。そんな状況の中、玄海原発の2号機と3号機は再稼働されそうです。けれども『ニューヨーク・タイムズ』のこの記事は、日本のエネルギー政策の転換点ともなりかねないこの「重たい決断を、なぜ佐賀がすることになったのか、多くの人は途方にくれている」と書きます。それは菅首相が日本の今後のエネルギー政策について明確な方向性を示そうとしないからだと、古川知事は批判していると。中央政府が責任を持つべき決断から「首相は逃げている」と、知事は「fumes(憤っている)」のだと。
さらに記事によると、玄海町の岸本町長は取材に対して、町の経済が原発に依存していることを認め、地元の人たちは安全性よりも原発停止による経済的影響の不安を気にしていると話したのだとか。さらに、ファクラー記者が取材した地元の人は、自分たちの生活が原発に密着しているのを承知しており、町長に従うしかなく、「自分たちは沈黙の町になってしまった」のだと話したのだそうです。
地元の意向を尊重するのと、重要な判断を地元に丸投げするのはまったく別のことだと思います。ましてや、知恵を出さない地元は助けないだなどと、カメラの前で言い放つのは……(それにしても、松本龍氏に「最後の言葉はオフレコ。書いたらその社は終わり」と言われた報道陣は東北放送を除いて当初、あまりこれを問題にしていませんでした。辞任会見でもこの部分について問い質す質問はなかったようです。なんというか……)
○スマートで強力なパワー
みたび、話を戻します。原発をただちに全停止するなどという主張は現実的ではないと私も思います。では当面、私たちがこのところ毎日行っている節電対策のほかに、もっと効果的な手はないか。たとえば4日付の米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』は「日本はスマート・パワーが必要だ」という記事で、電力不足は日本の経済回復を何カ月も何年も遅らせてしまいかねないのだから、「エネルギーについて賢い議論を日本で聞きたいものだ」と書いています。政府は今のところ節電の話しかしていないが、節電対策の中には「賢くないものもある」と。たとえば、電力の需要ピークは日中の午後なのに、店舗を夕方早くに店じまいするなど、消費機会を奪うだけで節電とは関係ないと。
電力の需給バランスを改善するには、一部の国ですでに導入されている「スマートメーター」を使って携帯電話や航空運賃のようにオフタイムの価格を優遇するべきなのに、日本ではまだスマートメーターを実験的にしか導入せず、電気代優遇もほとんどしていないと記事は批判。さらに、長期的には競争促進のため発送電の分離が必要だし、日本全国で送電できるよう周波数の統一が必要だとも。「自分たちの電力問題を解決する道具を、日本はすべてもっている。しかし賢く使いこなすだけの能力はどうだろう?」という痛烈な皮肉まで。
ところで、政府と経済界が一体となって原発の必要性を主張しているのは、日本に限ったことではありません。リベラルな英紙『ガーディアン』は6月30日付で、イギリスにおける政府と原発業界の癒着をスクープ。同紙が入手したメールによると、英政府のビジネス・イノベーション・職業技能省とエネルギー省の担当者たちは福島第一の事故後、EDFエナジー、アレヴァ、ウェスティングハウスといった原発関連企業や業界団体NIAと水面下で緊密に連絡をとりあい、「反原発の男たちや女たちがこれで勢いづかないようにしなくては。我々は陣地をしっかり確保しなくては。原発の安全性を本当に示さなくては」、「反原発の連中が(福島の事故を)チェルノブイリといっしょくたにしている。チェルノブイリとこれを比べる話はすべてつぶさなくては」などという内容のメールを交わしていたそうです。先週のコラムでは、アメリカの原子力規制委員会が業界と緊密すぎると批判する『ニューヨーク・タイムズ』記事をご紹介しました。既得権益というのは実に古今東西、万国共通の強力なパワーです。
ガーディアン記事は、福島第一原発の事故を受けてイギリスなど各国の世論調査で、原発への支持が下がっているし、ドイツ、イタリア、スイス、タイ、マレーシアの政府が予定されていた原子炉建設を中止しているのだが、イギリス政府は原子炉8基の新設を予定通り実施する方針を確認したとも書いています。
上でFTを例に同じ新聞でも色々な意見が載るのが読者として面白いと書きましたが、この『ガーディアン』にも同様。地球温暖化問題への取り組みで知られるリベラルなジャーナリスト、ジョージ・モンビオット氏による「原発産業は最低だ、しかしだからといって原子力をポイする理由にはならない」という寄稿記事を掲載しています(英時間の6日午前には読者と同氏のライブ討論もオンラインで実施すると)。
かいつまむとモンビオット氏は要するに、絶対的な権力は絶対的に腐敗するように、原発産業はとことん腐っている。東電は津波の危険性を過小評価し、福島第一に適切な対策を講じていなかった。世界中の原発業界はどれも、圧力と手抜きにばかり長けたロクでもない連中だ。しかし、政府と業界が癒着しているのは『ガーディアン』がすっぱ抜いた原発産業だけでなく、石炭業界も同様。原子力だろうが石炭だろうが風力だろうが太陽光だろうが、どんなエネルギーも業界は政治家をたぶらかし規制当局に圧力をかけ、市民を騙すものだ。火力発電が引き起こす大気汚染による人命損失に比べれば原発そのものによる人命損失は少ない(事故を受けての避難という代償はあるものの)。まして温暖化による人命損失に比べれば、原発による人命損失はとてつもなく少ないだろう。福島第一が事故を起こし福島第二が無事だったのは、1970年代と1980年代の技術力の差によるものだ。最新の技術を駆使して新しい原発の安全性を確保していくべきだ——と自説を展開。多くの『ガーディアン』読者が、これに憤慨しているのでは……と思いきや、コメント欄を開くと「その通りだ」とか「冷静でバランスのとれた意見だ」とか「温暖化問題を忘れるな」などと評価する意見が並んでいて、「ほう……」と思いました。そして改めて、これに引き換え日本では温暖化のことを言う環境派の影が大分薄くなってしまったなあ、とも。
原発反対と言いながら冷房をキンキンにつけないと暑くてたまらんと文句を言うような人がもしいるなら(いてほしくないですが)、それに比べれば確かにモンビオット氏のこの意見ははるかにバランスのとれたものです。上述したFT社説でも「原子力の時代が始まってから原子力エネルギーで死亡ないしは負傷した人の数は、鉱石採掘から燃料精製、発電所による放射線汚染に至るまで、石炭や石油や天然ガスを燃やしたことによる死傷者数よりもケタ違いに少ないのだ。仮に、炭素燃料がもたらす気候変動による2次的影響(これは論争の的となっている)を無視したとしても、同様だ」と原発の相対的な<安全性>を指摘していました。FT社説は、「アレバの欧州加圧水型炉(EPR)やウェスティングハウスの軽水炉AP1000など、現在の『第3世代』原子炉は、受動冷却システムなどの安全装置を備えた設計になっている。こうした装置があれば、津波の後に福島第一原発を破壊した深刻な温度上昇をほぼ確実に防げたはずだ」と、40年前の技術ではなく最新技術を駆使して原発の安全性を確保すべきだとも主張します。モンビオット氏の主張とほぼ同じで、なるほどこれが今のイギリス知識人の間の「原発擁護論」なのだとよく分かります。
しかしその一方で同じFTでは7月1日、ハリー・エアーズという名物コラムニストによる「原発を恐れる人はヒステリックだと批判して、自分は理性的だと自認する人たちの理屈にこそ、欠陥があるのではないか」という論説を掲載。
いわく、「自分は理性の声だと自認する人たちは、原子力エネルギーを恐れる人たちは感情的で、ひどい場合にはヒステリックだと不満を言う。しかしこの上から目線な態度は、人がリスクを受け入れるための条件というものを無視している。人がリスクを受け入れるには、その選択が自発的なものなのか、あるいは意思決定に参加できていると感じるか、専門家たちを信頼するかどうかなどが、条件として影響してくる。(中略)原子力のリスクについては明らかに、信頼できるかどうかが重要な要素だ。この分野でどうしたら政府や専門家を信頼するべきだなんて言えるのか。世界中のエネルギー企業や政府は、原発事故について情報をきちんと開示してこなかったという、恥ずべき記録を抱えている」とエアーズ氏は批判します。福島第一の事故後、刻一刻と変わる政府の「大丈夫です」的な発表を多くの日本人が信じなかったのも無理もないと。
信頼できないもの、自分が意思決定に参加していないものに安全を脅かされる、そんなリスクは確かにたまったものではありません。けれども上述したように、原発を抱える地元の多くは、いつ来るかもしれない事故のリスクと明日の生活を失うリスクを天秤にかけなくてはならず、しかもその選択を自分たちでしろと迫られています。原発を抱える地元というのは、その自治体だけでなく、実は日本全体です。あるいは原発を使う全ての国のことです。
今すぐの脱原発は確かに無理だと私も思います。しかし、イギリスにおける業界と政府の癒着ぶりをみるまでもなく、原発業界が安全性を最優先してくれるという信頼関係の構築が、可能性として見えてきません。モンビオット氏は原発業界はクソだが原発は必要と言う。それはレトリックとしては面白いですが、現実にどう適用できるのかが私には分かりません。完全国営で原発を? 国営だから信頼できるなどというわけでは、決してありますまいに。
今すぐの脱原発は無理でも、技術革新と生活様式や経済構造の変更によって徐々に原発の必要性を下げていくというのが、今の私には最も現実的な案のように思えます。何かにつけて脇が甘いなあと思ってきたひとりの政治家の意見に合意するなど、本当は不本意なのですが。
(今週のこちらのコラム、社内システム改修の関係で掲載が水曜日になりましたが、来週は通常通りに火曜日に掲載します)
◇本日の言葉いろいろ
・abrasive = ざらざらした、がさつな、ぶしつけな、横暴な
・bellwether = 指標、目安
・plague = ペスト、伝染病、災い
2011年7月6日(水)09:30 ニュースな英語
英語メディアが伝える「JAPAN」なニュースをご紹介するこのコラム、今週は「オフレコ。書いたらその社は終わり」などと発言した大臣について……ではなく、脱原発か否かについてです。ぶしつけな態度や荒っぽい言葉遣いを受け入れるには前提として信頼やリスペクトが必要なように、生命を脅かすリスクを受け入れるには大前提としてそこに信頼が必要だという話などです。(gooニュース 加藤祐子)
○20年かけての脱原発と
カメラや記者を前にした民主国家の政治家としての振る舞いをわきまえない人については、コメントするのもバカバカしいです。東北放送が大きく取り上げて大臣辞任にまで至ったこの騒ぎについて、たとえば英BBCは「ただでさえ不人気な菅直人政権に対する圧力は強まるだろう」と松本龍復興相の辞任を伝えています。東京特派員のローランド・バーク記者はわざわざ松本氏の「B型だから」という不見識な釈明についても解説。「血液型のせいにするなど荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、日本では血液型は性格に影響すると信じられている。B型の人はがさつな性格(abrasiveness)だと言われている。少なくとも松本氏については、その通りだったと言えるだろう」と。わあ、ありがたいなあ(私はB型です)。
BBCサイトの編集者は面白がってるのではないかと思うのですが、日本の政治家の失言集まで作成。「失言しやすい日本の政治家」という見出しで、麻生太郎、柳田稔、森喜朗、石原慎太郎の各氏が紹介されています。
こんなバカバカしい話題をくどくど書くつもりはありません。なんといったって、B型は短絡的だそうなので。なので、もっと大事な原発の話に移ります。
原発か否か、それが問題だ。この議論が今、日本以外でも繰り広げられています。7月3日付の英紙『フィナンシャル・タイムズ(FT)』は前原誠司前外相に取材し、今から20年の間に段階的に「脱原発」を実現するべきという発言を掲載しました。前原氏は6月末にも「今の民主党は少しポピュリズムに走りすぎている。私も日本が20年先に原発をなくすことは賛成だ。しかし、振り子が急激に脱原発に振れた時、皆さんの生活が一体どうなるか考えるのが本来の政治だ」と発言していたことが報道されています。
FTの取材に対して前原氏はさらに踏み込んで、電力の発電方法と使い方に革命的な転換が必要だと発言。原子炉の新設を止め、「もんじゅ」を諦めるべきだとも述べています。
これを受けてFTは、「菅首相の後任として有力視される前原氏によるこの発言は、日本が原発危機を機にエネルギー政策を大転換させるのではないかという期待感を高めるものと見られる」と書いています(それにしても前原氏は、『ワシントン・ポスト』をはじめ米英メディアの受けがいい)。
ところでこの同じFTは4月下旬に「原子力の時代終了ではなく、復活させるべき時」という社説を発表していました。「エネルギー市場にひどい不安定や電力不足を引き起こすリスクを伴わない形で、化石燃料や代替可能エネルギーでこの不足分を埋めるのは、当分は不可能だ。単純に言えば、われわれは多様なエネルギーな供給源を必要としていて、その中には原子力も含まれる」という主張でした。そして最新の技術を駆使して原発の安全性を確保していくべきだとも。
ひとつの新聞社の中に、社説があって、それとは少し異なる記者個人、デスク個人の意見がある。それは当たり前のことなので(むしろ全社的に意見統制をするようなメディアの方が不気味です)、同じFTの中でも記事ごと筆者ごとに少しずつ原発に対する姿勢が異なっているのを読み分けるのは、興味深いことです。
原発か否か、それが問題。日本の原発政策の転換点になるのかと注目されていたのが、九州電力の玄海原発です。佐賀県玄海町の岸本英雄・玄海町長は結局4日に、運転再開に同意。古川康・県知事も今のところ同意の姿勢を示しているとのこと。しかし、そもそも国のエネルギー政策の転換点となりかねない大きな判断を政府が自治体の首長に預けてしまったことを、2日付の米紙『ニューヨーク・タイムズ』は批判していました。
マーティン・ファクラー東京特派員は、「政治指導力の弱さという病のような問題を抱える国で、日本における原子力発電の未来を決定するかもしれない重要な決断は、ふだんは目立たない南の県の地元知事の役目になった」と皮肉っぽく書いています。「病のような問題を抱える」と訳したのは「plagues」という動詞。もとの名詞の「plague」は本来「ペスト」の意味で、転じて「災い」などの意味に。『ロミオとジュリエット』には「どちらの家も呪われろ」という意味で「A plague on both your houses」という有名な台詞があります。
話を戻します。電気事業法にもとづく決まりでは、停止中の原発再開にOKを出すのは中央政府の役割です。しかし福島第一原発の事故以来、政府は再開を認めず、地元の理解が必要だとして「地元自治体の首長にも再開容認の判断を示すよう求めて」いると記事は書きます。最初に判断を求められたのが佐賀県の古川知事で、そのせいで知事は「安全性への不安vs電力不足の脅威」を秤にかけなくてはならなくなり、「日本の原子力の未来についての目安のようなものになってしまった」と。「目安」と訳したのは「bellwether」という単語で、もとは羊の群れのリーダーに鈴をつけて群れの動きを把握したことから「鈴をつけられたリーダー羊」の意味で、今では何かの動きの指標をなるものならたいてい何でも「bellwether」と呼びます。たとえば20世紀以降のアメリカの大統領選では、ミズーリ州を制した候補がほとんど必ず当選するため、同州は「bellwether state」と呼ばれています。
再度、話を戻します。日本の原発政策の「bellwether」にされた古川知事は、同紙の6月末の取材に対して、重い責任をいきなり任されたようだとコメントしていました。原発を再開しないと決めれば日本は、2022年までに原発全廃と議決したドイツよりも早く脱原発国になるかもしれないと。
記事は「原発がなくなれば電気料金上昇や停電で経済はさらに打撃を受ける恐れがあると、日本の経済界と強力な原発ロビーが警告」しているし、菅首相も原発全停止による経済への影響を懸念していると説明。そんな状況の中、玄海原発の2号機と3号機は再稼働されそうです。けれども『ニューヨーク・タイムズ』のこの記事は、日本のエネルギー政策の転換点ともなりかねないこの「重たい決断を、なぜ佐賀がすることになったのか、多くの人は途方にくれている」と書きます。それは菅首相が日本の今後のエネルギー政策について明確な方向性を示そうとしないからだと、古川知事は批判していると。中央政府が責任を持つべき決断から「首相は逃げている」と、知事は「fumes(憤っている)」のだと。
さらに記事によると、玄海町の岸本町長は取材に対して、町の経済が原発に依存していることを認め、地元の人たちは安全性よりも原発停止による経済的影響の不安を気にしていると話したのだとか。さらに、ファクラー記者が取材した地元の人は、自分たちの生活が原発に密着しているのを承知しており、町長に従うしかなく、「自分たちは沈黙の町になってしまった」のだと話したのだそうです。
地元の意向を尊重するのと、重要な判断を地元に丸投げするのはまったく別のことだと思います。ましてや、知恵を出さない地元は助けないだなどと、カメラの前で言い放つのは……(それにしても、松本龍氏に「最後の言葉はオフレコ。書いたらその社は終わり」と言われた報道陣は東北放送を除いて当初、あまりこれを問題にしていませんでした。辞任会見でもこの部分について問い質す質問はなかったようです。なんというか……)
○スマートで強力なパワー
みたび、話を戻します。原発をただちに全停止するなどという主張は現実的ではないと私も思います。では当面、私たちがこのところ毎日行っている節電対策のほかに、もっと効果的な手はないか。たとえば4日付の米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』は「日本はスマート・パワーが必要だ」という記事で、電力不足は日本の経済回復を何カ月も何年も遅らせてしまいかねないのだから、「エネルギーについて賢い議論を日本で聞きたいものだ」と書いています。政府は今のところ節電の話しかしていないが、節電対策の中には「賢くないものもある」と。たとえば、電力の需要ピークは日中の午後なのに、店舗を夕方早くに店じまいするなど、消費機会を奪うだけで節電とは関係ないと。
電力の需給バランスを改善するには、一部の国ですでに導入されている「スマートメーター」を使って携帯電話や航空運賃のようにオフタイムの価格を優遇するべきなのに、日本ではまだスマートメーターを実験的にしか導入せず、電気代優遇もほとんどしていないと記事は批判。さらに、長期的には競争促進のため発送電の分離が必要だし、日本全国で送電できるよう周波数の統一が必要だとも。「自分たちの電力問題を解決する道具を、日本はすべてもっている。しかし賢く使いこなすだけの能力はどうだろう?」という痛烈な皮肉まで。
ところで、政府と経済界が一体となって原発の必要性を主張しているのは、日本に限ったことではありません。リベラルな英紙『ガーディアン』は6月30日付で、イギリスにおける政府と原発業界の癒着をスクープ。同紙が入手したメールによると、英政府のビジネス・イノベーション・職業技能省とエネルギー省の担当者たちは福島第一の事故後、EDFエナジー、アレヴァ、ウェスティングハウスといった原発関連企業や業界団体NIAと水面下で緊密に連絡をとりあい、「反原発の男たちや女たちがこれで勢いづかないようにしなくては。我々は陣地をしっかり確保しなくては。原発の安全性を本当に示さなくては」、「反原発の連中が(福島の事故を)チェルノブイリといっしょくたにしている。チェルノブイリとこれを比べる話はすべてつぶさなくては」などという内容のメールを交わしていたそうです。先週のコラムでは、アメリカの原子力規制委員会が業界と緊密すぎると批判する『ニューヨーク・タイムズ』記事をご紹介しました。既得権益というのは実に古今東西、万国共通の強力なパワーです。
ガーディアン記事は、福島第一原発の事故を受けてイギリスなど各国の世論調査で、原発への支持が下がっているし、ドイツ、イタリア、スイス、タイ、マレーシアの政府が予定されていた原子炉建設を中止しているのだが、イギリス政府は原子炉8基の新設を予定通り実施する方針を確認したとも書いています。
上でFTを例に同じ新聞でも色々な意見が載るのが読者として面白いと書きましたが、この『ガーディアン』にも同様。地球温暖化問題への取り組みで知られるリベラルなジャーナリスト、ジョージ・モンビオット氏による「原発産業は最低だ、しかしだからといって原子力をポイする理由にはならない」という寄稿記事を掲載しています(英時間の6日午前には読者と同氏のライブ討論もオンラインで実施すると)。
かいつまむとモンビオット氏は要するに、絶対的な権力は絶対的に腐敗するように、原発産業はとことん腐っている。東電は津波の危険性を過小評価し、福島第一に適切な対策を講じていなかった。世界中の原発業界はどれも、圧力と手抜きにばかり長けたロクでもない連中だ。しかし、政府と業界が癒着しているのは『ガーディアン』がすっぱ抜いた原発産業だけでなく、石炭業界も同様。原子力だろうが石炭だろうが風力だろうが太陽光だろうが、どんなエネルギーも業界は政治家をたぶらかし規制当局に圧力をかけ、市民を騙すものだ。火力発電が引き起こす大気汚染による人命損失に比べれば原発そのものによる人命損失は少ない(事故を受けての避難という代償はあるものの)。まして温暖化による人命損失に比べれば、原発による人命損失はとてつもなく少ないだろう。福島第一が事故を起こし福島第二が無事だったのは、1970年代と1980年代の技術力の差によるものだ。最新の技術を駆使して新しい原発の安全性を確保していくべきだ——と自説を展開。多くの『ガーディアン』読者が、これに憤慨しているのでは……と思いきや、コメント欄を開くと「その通りだ」とか「冷静でバランスのとれた意見だ」とか「温暖化問題を忘れるな」などと評価する意見が並んでいて、「ほう……」と思いました。そして改めて、これに引き換え日本では温暖化のことを言う環境派の影が大分薄くなってしまったなあ、とも。
原発反対と言いながら冷房をキンキンにつけないと暑くてたまらんと文句を言うような人がもしいるなら(いてほしくないですが)、それに比べれば確かにモンビオット氏のこの意見ははるかにバランスのとれたものです。上述したFT社説でも「原子力の時代が始まってから原子力エネルギーで死亡ないしは負傷した人の数は、鉱石採掘から燃料精製、発電所による放射線汚染に至るまで、石炭や石油や天然ガスを燃やしたことによる死傷者数よりもケタ違いに少ないのだ。仮に、炭素燃料がもたらす気候変動による2次的影響(これは論争の的となっている)を無視したとしても、同様だ」と原発の相対的な<安全性>を指摘していました。FT社説は、「アレバの欧州加圧水型炉(EPR)やウェスティングハウスの軽水炉AP1000など、現在の『第3世代』原子炉は、受動冷却システムなどの安全装置を備えた設計になっている。こうした装置があれば、津波の後に福島第一原発を破壊した深刻な温度上昇をほぼ確実に防げたはずだ」と、40年前の技術ではなく最新技術を駆使して原発の安全性を確保すべきだとも主張します。モンビオット氏の主張とほぼ同じで、なるほどこれが今のイギリス知識人の間の「原発擁護論」なのだとよく分かります。
しかしその一方で同じFTでは7月1日、ハリー・エアーズという名物コラムニストによる「原発を恐れる人はヒステリックだと批判して、自分は理性的だと自認する人たちの理屈にこそ、欠陥があるのではないか」という論説を掲載。
いわく、「自分は理性の声だと自認する人たちは、原子力エネルギーを恐れる人たちは感情的で、ひどい場合にはヒステリックだと不満を言う。しかしこの上から目線な態度は、人がリスクを受け入れるための条件というものを無視している。人がリスクを受け入れるには、その選択が自発的なものなのか、あるいは意思決定に参加できていると感じるか、専門家たちを信頼するかどうかなどが、条件として影響してくる。(中略)原子力のリスクについては明らかに、信頼できるかどうかが重要な要素だ。この分野でどうしたら政府や専門家を信頼するべきだなんて言えるのか。世界中のエネルギー企業や政府は、原発事故について情報をきちんと開示してこなかったという、恥ずべき記録を抱えている」とエアーズ氏は批判します。福島第一の事故後、刻一刻と変わる政府の「大丈夫です」的な発表を多くの日本人が信じなかったのも無理もないと。
信頼できないもの、自分が意思決定に参加していないものに安全を脅かされる、そんなリスクは確かにたまったものではありません。けれども上述したように、原発を抱える地元の多くは、いつ来るかもしれない事故のリスクと明日の生活を失うリスクを天秤にかけなくてはならず、しかもその選択を自分たちでしろと迫られています。原発を抱える地元というのは、その自治体だけでなく、実は日本全体です。あるいは原発を使う全ての国のことです。
今すぐの脱原発は確かに無理だと私も思います。しかし、イギリスにおける業界と政府の癒着ぶりをみるまでもなく、原発業界が安全性を最優先してくれるという信頼関係の構築が、可能性として見えてきません。モンビオット氏は原発業界はクソだが原発は必要と言う。それはレトリックとしては面白いですが、現実にどう適用できるのかが私には分かりません。完全国営で原発を? 国営だから信頼できるなどというわけでは、決してありますまいに。
今すぐの脱原発は無理でも、技術革新と生活様式や経済構造の変更によって徐々に原発の必要性を下げていくというのが、今の私には最も現実的な案のように思えます。何かにつけて脇が甘いなあと思ってきたひとりの政治家の意見に合意するなど、本当は不本意なのですが。
(今週のこちらのコラム、社内システム改修の関係で掲載が水曜日になりましたが、来週は通常通りに火曜日に掲載します)
◇本日の言葉いろいろ
・abrasive = ざらざらした、がさつな、ぶしつけな、横暴な
・bellwether = 指標、目安
・plague = ペスト、伝染病、災い











恣意は、相手の察しにより効果を発揮する。
意思は本人の内容である。
恣意は本人の内容ではない。
恣意は、恥ずかしくてまともには公言できない。
恣意は、社会に受け入れられない。ここは、甘えさせてもらうしかない。
その内容はあいまいで、相手の勝手な解釈とも考えられる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。
お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか。
だから、腹を割って話さなければならない。談合が必要である。
英米人の社会には、意思を通す権力の序列がある。これにより声明を発表する。
日本人の社会には、恣意を通す権力の序列がある。これにより天の声を使う。
東条英機は、昭和天皇の意思に従って、太平洋戦争を始めたか。
それとも、昭和天皇の意思に背いて、太平洋戦争を始めたのか。
意思がなければ、社会に対する責任がない。
日本人は、意思の存在を認めることができない。
犯意の存在も証拠不十分で不起訴となる可能性が高い。
だから、日本人の社会では、とかくこの世は無責任となる。
肥田喜左衛門の著した には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようである。
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