あるタカムラーの墓碑銘

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第一章 一九九〇年――男たち (4)  (連載第10回途中~第13回途中)

2016-05-28 21:37:46 | レディ・ジョーカー(サン毎版)読書日記
第一章 一九九〇年――男たち (4)  (「サンデー毎日」 '95.8.20・27~'95.9.17)


☆下から上がってくる靴音があり、すれ違いざまに「失礼」というひと声が降ってきた。半田は目だけ上げて、階段を駆け上っていく男の足元の真っ白なスニーカーを見る。
捜査本部に出てきている本庁の若い警部補だった。名は、合田といったか。何ということもないスーツとダスターコートの恰好はともかく、いかにも軽くて履き心地のよさそうな白いスニーカー一足が、半田の目の中でちかちかした。急にグッチもバリーも色あせ、半田はちょっと戸惑う。いったい、スニーカーを履いてスーツを着るというのはたんなる無神経か、よっぽど自分に自信があるのか。どっちにしても好かんなと思ったとたん、背筋にぶるっと来た。
 (「サンデー毎日」'95.8.20・27 p77)

☆半田は、やっと引き抜いたガラス片を投げ捨てて靴を履き、日本の脚で立ちなおした。と同時に顔が上がったら、今しがた上がっていったスニーカー男が、二階の踊り場に立ってこちらを見下ろしていた。しばし真空に落ち込んだような相手の無色の目は、半田の判断を拒絶して、ほんの一秒ほど頭上にあった。そして、すっと逸れていったかと思うと、男は姿を消した。 (「サンデー毎日」'95.8.20・27 p77)

☆一瞬の出来事で、頭は結局事態に追いつかず、半田はそのまま残りの階段へ踏み出した。そうした日常のリズムが寸断された一瞬の溝に、半田はいつもある夢想をたぐり寄せるのだ。そうでもしなければ、溝は瞬時に深い地割れを作り、自分を破壊しかねない憤激の奔流になる。それを未然に防ぐために、いつの間にか身につけた自己防御の夢想の中身は、ある日自分が捜査幹部捜査幹部の寝首をかいて一本取る、というものだ。
捜査会議でおもむろに挙手する。官僚面をした本庁の天狗どもを前に、決定的物証を突きつけて「ホシは○○です」と言う。とたんに場は騒然となり。泡を食った幹部連中がひそひそやり出す。その瞬間の、目の眩むような快感は、きっと恍惚のあまり小便を漏らすほどのものだろう。
想像するだに隠微でぞっとするが、そのおぞましい快感を夢見て、警視庁四万人の警察官は憤死寸前の鬱屈を生きているのだと半田は思い、最後のオチをつけて自分を納得させるのだ。
 (「サンデー毎日」'95.9.3 p64)

☆それでも、毎朝毎夕、捜査会議で何か目ぼしい話が出てこないかと、思わず耳をすませ続けたのは刑事の性だ。 (「サンデー毎日」'95.9.3 p66)

☆地どりから逸脱したのがばれたのだな、と半田はあらためてぼんやり考えてみた。いずればれるのは分かっている脱線を決心したとき、自分が後先のことをどう考えていたのか、もう記憶になかった。多分、何も考えていなかったのかもしれない。
また、この時点でばれたということは、端的に誰かにサされたということだったが、そのこと自体にも実感はなかった。出し抜こうとした自分の足を、まんまとすくった奴がいるということ。この自分がやられたということ。まだ芽も出ないうちにほじくり出され、叩き潰されたということ。この自分が敗北したということ。そんなことはすべて、そうと認めたとたんに自分が粉砕されるような、彼方の出来事だった。
 (「サンデー毎日」'95.9.3 p67)

☆釜石の製鉄所の社宅で生まれ育った半田は、東京の大学を出たとき、明るい光の入る場所なら勤め先はどこでもいいと思った。民間の会社をいくつか受けたが、技術系だったので勤務先は工場になることが分かり、それならまだ警察のほうがましかと考えて警官になった。なってみて分かったのは、白々しく明るいのは桜田門の本庁だけで、ほかはたいがい、キノコが生えるかと思うほど薄暗く、湿っているということだ。 (「サンデー毎日」'95.9.3 p67)

☆釈明の余地がないのではなく、釈明という行為が警察では許されないだけだ。上から黒だと言われたら、下は「はい」と言い、白だと言われても「はい」と言うのが警察だ、と半田は腹の中で考えた。目の前の二人とて、本庁の一課長の前では同じことだった。
そうして、形ばかりの「はい」を一つ吐くたびに、自分の尊厳が一つ破壊される。それにもすでに慣れかけてはいるが、近ごろは自分の知らないもうひとつの人格が、自分の中に出来上がりつつあるのを半田は感じていた。
半田は頭を垂れたまま、叱責を浴びているもう一人の自分を傍観することで、当座の激情を抑え込むことに成功した。
 (「サンデー毎日」'95.9.3 p68)

☆すべては、あの何十日もの無為のせいだ。半田はとりあえずそう結論を出したが、その無為が、この先何十年もの無為につながらないという保証はない。ほじくり返された芽への当座の悔恨より、半田は自分の足元に広がっている沼の感触、立っているだけで足が沈んでいくような無力感にとらわれ、これはいつもよりひどいな、と思った。いつもならやって来るはずのあの夢想さえ、もはやどこかで死んでしまったかのようだった。 (「サンデー毎日」'95.9.3 p69)

☆その間、ふと眼下の踊り場から下へ降りていく一人の男の頭が見え、その足元の白いスニーカーが見えたのは、きっと何かの運命だったに違いない。
突如、自分でも抑えられない勢いで何かが噴き出したかと思うと、半田は階段を駆け降り、二階の踊り場からさらにさらに数段下って、片手を伸ばした。
「おい、あんた。さっき、俺を見ただろう。あれは何だ。何で俺を見た……!」
警部補は、歳はせいぜい三十くらいだろう、爬虫類のひんやりした冷たさを湛えた切れ長の目を、半田の顔面に据えた。それから、やっと相手の発した声が聞こえたとでもいうのか、半田の手を払い、「音がした」と一言いった。
自分の靴に刺さったガラス片一つ。それを投げ捨てた小さな音一つ。いったいこの世界の落差は何なのだと半田は困惑し、だめ押しの一撃を食らったような目まいを覚えた。
「それがどうした! 何で俺を見た!」と半田は呻く。
「見た覚えはないが」
それだけ応えて警部補は踵を返した。続いて降りてきた本庁の刑事らに、半田は押し退けられた。「他人の畑を荒らして、まだ文句あるのか」「クビがつながっているだけありがたいと思え」といった罵声を飛ばして、男らは階段を降りていった。
それを見送った数秒の間に、半田は自分の足元の沼がさらにずしりと沈んだのを感じた。自分の足だけが地球にのめり込んでいる、と思った。
 (「サンデー毎日」'95.9.3 p69)

☆半田には、警察で鍛えられ、焼きを入れられたもう一人の人格がいる。そいつが耳のそばで〈このままではすますものか〉と罵声を上げ続けていた。 (「サンデー毎日」'95.9.10 p74)

☆秦野という人物を見た半田の第一印象は、一言で言えば標本箱の中の蝶だった。姿形は優美だが、もはや静物で、触ると壊れる。実際、脂気のない深窓の令息がそのまま中年になったような無頓着さと、知能指数だけで出来ているような無機質さと、かなりこみ入った思考回路を窺わせる陰気さなどが合わさった外貌はしんと静寂で、さらに、息子を亡くしたせいだけでもなさそうな、空疎さも感じられた。眼球の動きに、ちょっと普通でない落ちつきのなさもあった。 (「サンデー毎日」'95.9.10 p75)

☆この歯科医は、もともとどこかに自己破壊の願望や精神的傾向があったに違いない。小さなきっかけをとらえて、まんまと自分の世界へ逃避したのではないか。すでに一線を越えてしまって、今はむしろせいせいしているぐらいではないのか。半田は所在なくそんなことを考えた。 (「サンデー毎日」'95.9.10 p75)

☆刑事は、個人の裁量が当たり前なのだとしたら、まんまとサされる奴がアホウなのだ。 (「サンデー毎日」'95.9.10 p78)

☆半田は燦然と輝く高層ビル群を仰ぎ見る。どこも、所詮は一円でも多い売上を上げるために靴の底を減らしている社員の総体だとはいえ、自分に身近なものは何ひとつないような気がし、また一つなにがしかの疎外感を持って、半田は目を逸らす。
歩くうちに、〈このままではすませるものか〉とまたあの声が呻いた。背中に張りついているもう一人の自分は、威嚇や牽制ばかり覚えて中身の伴わない、欲望と執念のかたまりだった。実際、このままでは吠えまくるしかない能のない負け犬になるのか、ならないのかの瀬戸際だったが、挽回の道があるぐらいなら、ここまで追い詰められることもなかったと半田は思う。冷静に自分の能力を眺めれば、挽回ではなくせいぜい代償を探すのが精一杯で、明日からまたとにかく働くしかないのが現実だった。
 (「サンデー毎日」'95.9.10 p78)

☆その昔、いったい俺は何を望んでいたのだろう、と半田は思う。明るい光の差す事務机に座ること。そこそこ安定した給料を得て、まっとうな人生を送ることだけだったのではないか。情けないほど平凡な希望一つを胸に警察に入った男が、今はどうだ……。
飲み残した缶を車道へ投げ捨てると、それはたちまちトラックのタイヤに音もなく踏みつぶされた。ああ、あれが俺なのだなと思ったとたん、〈このまではすますものか〉ともう一人の自分が呻いた。
 (「サンデー毎日」'95.9.17 p105~p106)


【雑感】

木・金は眠気に負けてしまい、記事作成ができませんでした。すみません。

この辺りの半田さんは取り上げるところが多くて、悩んだ末にマークしたところは全部引用しました。そのため、恐ろしく時間がかかってしまいました。

半田さんの悲哀や悲憤が、どうにもこうにも身にしみましてねえ・・・。下っ端で働く人間の割り切れない想いや、やりきれなさが、ひしひしと伝わってくるので。

自分の割り当ての地どりから離れて捜査するというのは、母がしょっちゅう観ている刑事ドラマでは結構あるような気がするんだが・・・。

〈質屋だ〉とひらめいた半田さんは、なかなか優秀な刑事さんではありませんか? ただ、相手が合田さんたち七係だったというのが不運。お気の毒な半田さん。
(後の城山社長誘拐事件で「警察関係者がいる」とすぐに合田さんに見破られたのは、半田さんの読みと詰めが甘かったから)

半田さんの足に突き刺さったガラス片は「≒合田雄一郎」の比喩ではないかと、今ならば思える。
それならば、第五章のクライマックスで半田さんが合田さんにした行為は、もうしゃあないな、と。「やられたらやり返す」ではないけれど、「お前が刺したんだから俺も刺す」みたいな半田さんの心境も一理あるのでは、と。

ここで取り上げた半田さんが警察に入ったきっかけも、後に出てくる布川さんの自衛隊に入ったきっかけと、似たり寄ったりですね。「なんとなく」というやつだ。
対する合田さんも、司法試験に2回落ちて、生活するために警察へ・・・と、端から見ればこれも「なんとなく」の部類になるのかな?

第一章と第二章の合田さんは、ドラマや映画でいうところの「友情出演」「特別出演」ですね。全て、半田さん視点から語られる合田さんなので。

上記に挙げた、半田さんがつっかかって合田さんが受け流す場面。つっかかった半田さんも悪いが、合田さんもあんな物言いしたら、「こいつケンカ売ってんのか」と半田さんはより怒りを増幅されるほかないだろう。知らぬが仏、合田さん。

しかもダメ押しに、七係の面々が半田さんに罵詈雑言を浴びせたのが、サン毎版だけにある描写。単行本・文庫は、つっかかる半田さんを周りの人間が止めに入ってたよね?

そうそう、上記で取り上げませんでしたが、罵詈雑言といえば

「お宅は昼寝が出来るだろう」

ですね。単行本・文庫で巡査部長の表記がありますが、サン毎版でも巡査部長の表記があるだけで、発言者は不明です。残念。

肥後さんか、又さんか、雪さんか、お蘭か。はたまた私たちの知らない、この当時に七係に所属していた人なのか。(数年毎に入れ替わりがあるから)
名を挙げた面々も、これくらいの発言は普通に呼吸するように吐きそうだから。
巡査部長でなくても、警部補のペコさんも合田さんも、こんな発言は普通にやってそうですけど。