美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(六十六)

2016年12月07日 | 偽書物の話

   なるほど、肝心の書物を送り付けたのは私である。ただ、書物の由来、来歴について何一つ知るところのない私は、表紙の肌触りに魅了され、そこに敷きつめられた文字の如き黒い徴を眺めるにつけ、字書にない文字を単純に面白がり、どこのどいつがこんな書物をいたずらにでっち上げたのか知りたいものと漠然と思っていたに過ぎない。あいにくと言うか、順当と言うか、そこに声を感じ取り、水鶏氏が経験した別世界を垣間見ることがなかったせいで、この書物が内包しているであろう喚起力とやらにはついぞ気が付かないで日を送って来たのである。
   その立場からすると、水鶏氏の挙げた疑念にもう一つ、そのような別世界の発現は水鶏氏に限って起きたことなのか、誰にでも起こることなのかもできれば付け加えてもらいたいものである。もっとも、自分が愚かな奴だと判明したからといって、人一般が愚かな存在であると論理的に帰結できるものではない。それと同じで、水鶏氏に起きたのだから私にも起きるのでしょうかと水鶏氏本人に尋ねるのは、相当間抜けな質問を浴びせることになりかねない。声に出す前に良く吟味する必要があるだろう。
   変梃な書物であればこそ身近にあることを喜ぶぐらいの書物愛は備わっているつもりだが、書物と感応する能力がこちらにない場合は文字で読み取る想像世界のほかにある別世界に参入することができないのというのであれば、いくら無比の書物が私の掌中にあっても宝の持ち腐れである。なにやら水鶏氏だけが宿命的に選ばれた人であるとなると、私はその事実を導くためのただの一駒に落ちぶれてしまうことになり、なんとも残念でたまらないのである。

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