美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(六十九)

2016年12月28日 | 偽書物の話

   文字がてんでに集って書物という底知れないものが生まれると私は考えています。そのことを解き難い謎であると畏怖している人間であり、我々の起居する現世界と等価の確実性をもって書物に記された別世界の実在をそのまま受け入れている人間です。新たな別世界が意表をついて現存したとき、驚きうろたえて、心神が錯乱しただの、悪夢に誑かされただのと月並みな理屈をこじつけて、なかったことにしてしまうと思いますか。まさにその逆で、書物の声をしかと目にし耳にして、別世界の時間の流れにひたすら浸っていました。無心の赤ん坊のようにその世界を受容していたのです。」
   水鶏氏が推考するには、文字は、現世界に対置し得る別世界を顕現させる目的の下に、書物という物理的な形相を得て現世界の一廓を領することになった。書物の語る声、趾、徴は実存し得る別世界を予告し、現に形造りもするという考えで透徹している。水鶏氏に驚きうろたえる理由がないのは、容易に頷けることである。それに引き替え、本に対して不純な愛着心を蔵しているのはまだしも、畏怖の念を懐いたためしのない私は、師の境地に中々到達できずにうろちょろしている不肖の弟子に近い。
   私の保有していた本が、よりによって水鶏氏に初めて声を発し深切に語りかけた。書物に眷恋する水鶏氏は、所有主ではないのに巧まずしてそれを感受したのである。古本屋の帳場で相対した時、本の漂わせている妖しい息吹を感知していたのは私である。その私が、水鶏氏の感受した書物の声をあれこれ想像してみても、声を捉える機縁が天から失われているのでは、幻妖も厳粛もあったものではない。身の程知らずに水鶏氏の話に愚問を投げかける私は、茶番の一歩手前にいるのである。

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