美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

病気と戦争継続中(夏目漱石)

2017年07月23日 | 瓶詰の古本

   私が斯うして書齋に坐つてゐると、来る人の多くが「もう御病気はすつかり御癒りですか」と尋ねてくれる。私は何度も同じ質問を受ながら、何度も返答に躊躇した。さうして其極何時でも同じ言葉を繰返す様になつた。それは「えゝまあ何うか斯うか生きてゐます」といふ変な挨拶に異ならなかつた。
   何うか斯うか生きてゐる。――私は此一句を久しい間使用した。然し使用するごとに、何だか不穏当な心持がするので、自分でも実は已められるならばと思つて考へて見たが、私の健康状態を云ひ現すべき適当な言葉は、他に何うしても見付からなかつた。
   ある日T君が来たから、此話をして、癒つたとも云へず、癒らないとも云へず、何と答へて好いか分らないと語つたら、T君はすぐ私に斯んな返事をした。
   「そりや癒つたとは云れませんね。さう時々再発する様ぢや。まあ故の病気の継続なんでせう」
   此継続といふ言葉を聞いた時、私は好い事を教へられたやうな気がした。それから以後は、「何うか斯うか生きてゐます」といふ挨拶を已めて、「病気はまだ継続中です」と改めた。さうして其継続の意味を説明する場合には、必ず欧州の大乱を引合に出した。
   「私は丁度独逸が聯合軍と戦争をしてゐるやうに、病気と戦争をしてゐるのです。今斯うやつて貴方と対坐して居られるのは、天下が太平になつたからではないので、塹壕の中に這入つて、病気と睨めつくらをしてゐるからです。私の身体は乱世です。何時どんな変が起らないとも限りません」
   或人は私の説明を聞いて、面白さうにはゝと笑つた。或人は黙つてゐた。また或人は気の毒らしい顔をした。
   客の帰つたあとで私はまた考へた。――継続中のものは恐らく私の病気ばかりではないだらう。私の説明を聞いて、笑談だと思つて笑ふ人、解らないで黙つてゐる人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、――凡て是等の人の心の奥には、私の知らない、又自分達さへ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでゐるのではなからうか。もし彼等の胸に響くやうな大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果して何う思ふだらう。彼等の記憶は其時最早彼等に向つて何物をも語らないだらう。過去の自覚はとくに消えてしまつてゐるだらう。今と昔と又其昔の間に何等の因果を認める事の出来ない彼等は、さういふ結果に陷つた時、何と自分を解釈して見る気だらう。所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思ひ思ひに抱きながら、一人残らず、死といふ遠い所へ、談笑しつゝ歩いて行くのではなからうか。唯どんなものを抱いてゐるのか、他も知らず自分も知らないので、仕合せなんだらう。

 (「硝子戸の中」 夏目漱石)

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