美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百一)

2017年08月09日 | 偽書物の話

   正直言えば、私は水鶏氏が翼卵している書物論を含味する遥か手前で留まっている。一語一語の言葉をいつまで追いかけても、氏が告げた書物の声を精彩なイメージに現像するのは不可能である。間に合わせの貧相なイメージを弄ぶ徒労に時間を費やすよりも、黒い本と向き合い、私にどんな声が届くのか、早くその声を見聞きしたい願望に歯止めが利かなくなっていた。なるほどそのきっかけになってはいるだろうが、既に書物論の新しい道筋は黒い本を遠く離れてしまっているので、私の手に本を戻すに何の差し障りもないのである。
   「客体として見出される自我は、平滑面に反射する鏡像ではありません。厄介なパラドックスの議論はすっかり捨象して、極々直感的にポンチ絵で思い描くと、この客体化の連鎖は、自覚の集合世界を逆入れ子式に進みます。同一集合の中にある諸々の事象は、発見された自我も引っくるめて、当該の集合本体を一個の要素元とする、より高次の集合へと包摂され、更に包摂運動は無限に連続して行く。この段階で、ひとまず有意識や無意識に達し得る、そのものとしての自立する経験相が混沌の中で一貫性を獲得します。」
   水鶏氏はいったん腰を浮かすと、もう一度背を深く椅子に据え直した。書物論のおさらいは暫く続く気配だが、私の心は見境なく黒い本へと傾いて行く。

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