美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百五)

2017年09月06日 | 偽書物の話

   それまでの所論において私は、ひとたび発起するや客体化の連鎖を流転しつつ、集合世界に次元を超えて単一性を貫徹する自心の実感が、諸経験の実在を裏付ける不動の淵源であると断案しました。しかし今回、出会い頭に黒い本との感応を打刻された私の魂は、否応なく行路の曲折を覚悟させられたのです。
   自我の客体化を入れ子式に連鎖して集合世界の階梯を昇って行き、パラドックスを物ともせず単一性の首尾を貫く自心があるとしながら、猶且つ、それに相並んで、それと異なる別の自心があるとは、理の順路に適って無条件に首肯してよい正統の定立なのでしょうか。自心と呼ばるべきものが一つならず不確定の境涯に存在しており、集合世界を駆け上がる廻風の横合いから、時宜を選ばず異相なる自心の目を醒ます。爾来、自我の客体化を織りなし包摂を重ねて連鎖する集合世界は、紛いようない自心が複層に働く世界へと転変することになります。
   書物に起こるのも同じことです。文字の集まりが文字なりの書物として自我を対象化し、以降、集合が包摂の連鎖を進むなかで一貫する自心があり、猶また、初めに起きた包摂連鎖の過程において、何のはずみかとばっちりか、一貫性を賦与された別個の自心がいつの間にか併存していることになる。菲才な私には、どう足掻いても立ち所に咀嚼できそうにありません。あらためて書物論の鍛錬に取り掛かるには、身辺の書物を細密に閲して感応を試掘することから始めるのが良策のようです。」

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