美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

ドストエフスキーの一歩一歩(大舘則貞)

2017年03月05日 | 瓶詰の古本

   私はドストエフスキイの世界を病的だとか魔的だとかいふ人には組しない。ドストエフスキイは勿論肉体的には健康ではなかつたし、憑かれたやうな天才ではあつた。だが、ドストエフスキイは『カラマーゾフの兄弟』に到達した人であるから、彼の世界を病的だとも魔的だとも云へないのである。強ひてさう云ひたかつたら、「『貧しき人々』の作者は後のカラマーゾフの兄弟の作者でもあるが其の頃の彼は若かつた」とか、「『悪霊』の作家は後の『カラマーゾフの兄弟』の作者でもあるが、其頃の彼は病的で非常に魔的であつた」といふふうな云ひ方をすべきだと思ふ。
   作家には作品が残る。
   而も、その作品には天才が宿つてゐる。その作者が去つて行つても、その作品は謳はれる値打がある。と云へ、その作家は、自分の脱いた旧套の品定めによつて自分を決められていゝ筈はない。ドストエフスキイは私が寡聞の故かも知れないが、トルストイのやうに、自分の到達したと思つた精神状態の拠点から自分の前創作を否定したとは聞いてゐない。これはおそらくドストエフスキイの到達ぶりが一歩一歩を踏みしめて来た結果によるもので、取消す必要がなかつたからだらうと私には思へる。ドストエフスキイの進み方には実行愛、事実性の足跡がハツキリしてゐる。だから彼の到達は彼自身を非常に驚かせたものではない。驚いたことは驚いたとしても、それは大へんありがたい沁々した感情を伴ふものだつたにちがひない。さういふ感情の彼が十分覚えてもゐないうへに、「あれだけでも書けたのはありがたいことだつた。あゝいふものゝおかげで自分は此処へ来られたのだ」と思へない筈のないそれ以前の諸作品を、無闇に否定する筈はないのである。

 (「ドストエフスキイ小論」 大舘則貞)

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