軽井沢文化遺産保存

軽井沢文化遺産の保全活用と次世代継承

出水三井(京都本邸)、軽井沢の三郎助別荘のルーツ

2013年06月26日 | 歴史文化遺産
  三井三郎助(高景)が生まれた京都の三井家は、御所に近い出水にあるところから「出水三井」といわれた。御所や二条城の近くには、北家、南家をはじめ、三井各家が集まっていた。
  「出水三井」と朱筆された漆塗りの通信用の文箱(大・小)が残されており、京都時代の様子を偲ぶことができる。
   三郎助は、父・高喜(七代当主)の隠居により、明治20年、家督相続、八代当主となるが、同年、東京に移住し、小石川に居が定められ、以後、「小石川三井家」といわれるようになる。小石川本邸は、戦災で焼失、現在、跡地は文京区立第三中学校となっており、門柱のみが残されている。
   京都本邸の敷地の広さについては、「財閥解体」により昭和20年11月、九代当主・高修(三郎助の子息)は、大蔵省に「資産報告書」を提出、その写しが残されている。それによると、敷地は1389坪、建物は木造瓦葺7棟333坪と記されている。京都本邸は戦災では焼失を免れた。
  戦後、三郎助の孫・三井高進(十代当主)は、昭和38年、三井信託銀行京都支店に京都本邸の不動産調査を依頼し、その「請求書」(手数料54.600円)が残されている。前年、九代当主で父の三井高修が死去したので、相続がらみの調査依頼であると思われる。
  請求書には、出水三井家の住所として「上京区堀川通下長者町下ル三丁目7番及同区油小路通出水上ル大黒屋町34の2外筆、、、」と記されている。なお、この不動産調査の2年後、昭和40年、高進は、惜しくも44歳の若さで逝去している。
  現在、出水三井家の京都本邸の跡地には、「ルビノ京都堀川」という公立学校共済組合宿泊所の施設が建てられており、三井家のものと思われる灯篭などがひっそりと残置されている。ちなみに、この「京都堀川会館」は、建築家・村野藤吾の設計である(1972)。




















出水三井の文箱(通信用)、過日の展示で用いたものである




三井家の家紋・四つ目紋が入った裃 各種、過日の展示で用いたものである

















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