河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

060- スクリャービン 交響曲第3番 ムーティ フィラデルフィア、NYT評

2006-09-18 18:06:38 | コンサート

1984年2月22日(水) 8:00p.m. エイヴリー・フィッシャー・ホール

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、アイザック・スターン

スクリャービン/交響曲第3番 神聖な詩

リッカルド・ムーティ指揮 フィラデルフィアO.

切れ目のない音楽を一気に聴かせてくれた緊張度の高い演奏であった。最後の打撃音に挟まれた二つの休符でホールが揺れ動いた。圧倒的な密度。ムーティの情念が50分間地響きをたてて唸る。
スクリャービンの第3番は偉大な変奏曲であり、構造はシンプル。だが、オケの色彩、絶え間なく変化する音色の素晴らしさ、ウィンドとブラスがもたらすハーモニーの美しさが圧倒的に素晴らしい。輪をかけてフィラデルフィア・サウンドが聴衆を魅了してやまない。
百万ドルの楽器などと揶揄され、日本ではブラスがうるさくて明るすぎるティピカルなアメリカ・サウンドなどと、どこからか借りてきたような評をするのが昔からの慣わしであった。ヨーロッパ偏向の音楽評からは今でもまったく脱却していなくて、アメリカ音楽はおろか、演奏会の現状なども20-30年前となんら変わるところがない知識しか持っていない。というよりも関心がないと思える。大部分の評論家は。
年季のはいった評論家が「今日の来日公演は、ヨーロッパ音楽を理解してないチャラチャラした違和感のあるものだった。」といえばそれで終わりである。アカデミックな評論家というのはもっと生きた演奏史を理解するべき。高邁になればなるほど自分で周りはおろか自分のことが見えない。一番見えないのは自分。アメリカ音楽史は宝の山である。
それで、河童の持論は「フィラデルフィア・サウンドは中心に集中する。」である。フィラデルフィアの音は、オケが上がっているステージのどこか真ん中あたりに中心点がありそこに音が吸い込まれていく。なにか中心点を持っている。ニューヨーク・フィルのような拡散傾向の音とはずいぶんと異なる。基本的にアンサンブルの仕方が異なるようだ。
フィラデルフィアは内側に響きが向かっていくようなベクトルであり心情的にも内面的。音色は少し埃っぽい感じがするが、これは指揮者により水分の与え方が異なるのかもしれない。ムーティは艶重視ではなくオケの表現力を出し切る方向だ。従って、ムーティが振るオケはいつでもフル装備の一流以上の腕が前提だ。
中心点を持っていてそこに向かっていく音と、マス・サウンドとして本来持つ放射力。それらがバランスされた最高のオーケストラ。
派手なムーティの棒であるが、その棒の先から音が湧き出てくるような一体感。
一曲目のベトコンでは最初不調気味のアイザック・スターンであったが、ムーティの端正な音楽づくりともども調子を取り戻し、静かに熱を帯びてきた。ムーティのオペラ経験から発するサポートのうまさは明らかであり、後半の派手な動きとは別の自己抑制力を感じる。

それで例によってニューヨーク・タイムズの評はどうだったのか。翌々日の評。



The New York Times Fri ,Feb 24 1984
Scriabin by Muti and Philadelphians
By EDWARD ROTHSTEIN

スクリャービンは交響曲第3番について、「芸術というものは、新たな福音書を作るために不可分な統一体の哲学と宗教を結合させなければならない。」と言っている。
水曜夜、エイヴリー・フィッシャー・ホールにおいてリッカルド・ムーティは、その交響曲的な福音書、つまり神秘主義的ロシア作曲家が命名した“神聖な詩”のまれな説法としてフィラデルフィア・オーケストラを指揮した。
スクリャービンはひとつの舞台で一度に、自分の神学を見せようとした。“闘争”で始まり、“官能の喜び”を通し、“神聖な遊戯”の出現。これらはニーチェの超越論における三つの楽章のタイトルである。
この作品はうめき唸り、単調であり、機械の連続音であり、夢見ており、クライマックスにクラマックスの山を築くように脈打ち、砂糖のような甘いメロディーとホルンの響きで味付けされている。
そのような福音書の説法をしているとき、それは信仰者自身でいることに役立つ。この点において、改宗しない聴衆はムーティについてある疑いを持った。ムーティはたしかに奏者から素晴らしい音を引き出した。フィラデルフィアはオーマンディーのもと育んだ音色の温かさをいまだ保持している。ムーティもドラマティックで精力的であった。しかし、それはほとんど信じるに足らないものであった。

一つの問題は、ムーティが過度に夢中にはならない、自己中心にならない、行き過ぎた表現はとらない、ということである。しかし、この交響曲は福音書的な“プロダクション・ナンバー(河童注:全員出演のフィナーレ)”である。それは、バトン・トワラー・ガールと水中バレエの音楽哲学的同等さを持つべきであった。

演奏は、スクリャービンの神聖な神秘主義からはずれた少なくとも一つのスケッチを残したことになった。ムーティは宇宙の歴史と神秘についての多くの福音の隆盛をみた宗教について、後期ロマン主義の音楽のことについて以上に考えているということはない。
そしてムーティは、ベートーヴェンのようなより扱いやすい自己中心的な作曲家を喚起させた。それはプログラム前半、アイザック・スターンがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏をしたときである。
スターンはその音楽的宇宙をヴィルトゥオーゾの信仰者として扱った。すべてのフレーズを高度な議論のなかに折り込んでしまうのではなく、信念や芸術性、それらのメッセージが明確であるという確実さということを表現していた。
おわり

*****
この評論家の話の持って行き方は、後半があり前半があったようなストーリー的に無理なところがあるが、それにもまして、冒頭のスクリャービンの御言葉が頭にこびりついて離れない為、先入観をもって聴いてしまったことにより、この曲=宗教、といった聴き方になってしまったことが評の違和感となってあらわれてしまっている。

 


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