河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1350- やっぱり空気が変わった!ミスターS、読響、DS1、AB3、2012.3.7

2012-03-09 00:09:11 | インポート

2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2011-2012シーズン
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2012年3月7日(水)7:00pm
サントリーホール
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ショスタコーヴィッチ 交響曲第1番
ブルックナー 交響曲第3番
(1889年稿に拠るノヴァーク最終版をもとにして、ミスターSが自身の独自アイデアを盛り込む・版)
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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ 指揮
読売日本交響楽団
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まるで何十年も厳格トレーナーのもとにでもいたかのように透明で引き締まった響きが冒頭から出現。いつものこととはいえミスターS88才、驚異の耳による練習だけではなく、やっぱりメンバーの気持ちに直接作用する何かがあるのだろうか、個々の力の頂点の結集をまいど魅せつけられる、素晴らしい演奏でした。
このショスタコーヴィッチの1番は音の響きで最後の15番と親近性を感じさせる。もともとサラサラした響きが多く2番から14番までとは別世界。透明で凝縮された演奏は圧倒的でした。また言葉を弄してもよいなら、第16番の世界のように聴こえてきた。何たる不思議!
ミスターSは1番派なのかなと思った時もありました。クルト・ザンテルリンクはそれこそ執拗に15番を追い続け振りぬきましたね。かたやミスターSは1番の方向なのかなと、両巨匠の方向感の違いが面白いと思った時もありました。でも、ミスターSはショスタコーヴィッチに関しては14番までは存在しなくて、かつ、第15番を越えた次の解釈を示したような気がします。この日の1番は響きの充実度透明感で圧倒的であり、ミスターSが振ると形式が丸裸にされてしまうので恐ろしいのですけれど、あえてその奇妙で無骨とさえいえる形式まで一つの魅力にしてしまいました。
ザンテルリンクはいきつく先、到達点としての15番であり、執拗な演奏回数を誇るマーラーの10番も同じスタンスだと思います。かたやミスターSの1番というのは、終わりから始まる、といった感じで19歳の交響曲とは思えぬ手応えありの演奏解釈であったと思います。1番のピアノが15番のパーカッションの延長のように聴こえてくる。
ピアニシモによる静謐なパーカッションの饗宴で15番が締めくくられる、そのあと確かに今一度、1番のCDを手に取りたくなりました。オケの実力的にはザールブリュッケンなど凌ぐ読響の腕ですから、イメージとしてはこの日のような1番のCDを手に取って聴きたいと思います。でもこれほど見事な演奏のCDを見つけ出すのは簡単ではないと思います。
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後半のブルックナーは、この指揮者のスタイルとして基本的にインテンポを貫きます。第1楽章の主題群が一通り済んだ後の展開部におけるブラス主題など突進状態ですからもう一段アクセルを踏みなおした感のあるド迫力。彼からすると最近の若者指揮者のやたらとディテールにこだわりをもった微にいり細にいりの流行はなんだろうなと思っているのではないかと推測しますね。ブルックナーの美しい構造物をぶち壊しにするような惰演は誰が流行らせたのか、チェリは胃が持たれたが構造物としての美形がギリギリのところで保たれていたような気がしましたのでそのあとの時代ですかね。CDの録音とかがツルツルによくなったので細かいところまでゆっくり聴くことができるような配慮でしかないような演奏が多いよ、Sがそう思っているのかどうかは神のみぞ知る。とにかくSが振るブルックナーは圧倒的な構造物になるわけです。7番などあまりに完璧な造形物演奏で第4楽章の弱さが露骨に出てしまうという痛し痒しの演奏になったりもします。(7番

でもだからといって誇張はない。誇張はバランスを一時的に生むが最終的には人工的であるがゆえに壊れてしまう。まさに昨今の日本人指揮者をはじめとするブルックナーをまともに振れない連中が雁首そろえてお手本にするべき演奏がここにあるわけです。聴衆も支持してます。なのになぜディテール演奏が流行るのか、もはや素人にはなにもわかりません。
濃い第2楽章。この味わい深い清涼感は前半のショスタコーヴィッチを思い起こさせるに十分なものがある。清らかに流れる音楽は美しい。これ以上素朴になる素材はないのではないかと思えるようなフレーズをものの見事に操っていきます。
ホルンは他オケの人だと思いますが、このブルックナーでは全楽章各所で出だしが決まらず不安定。ノンビブは魅力的ではあるのですけれど、周りを引っ張っていくような雰囲気がなく、残念。
シンプルイズベスト朱肉印的構造の第3楽章、骨組みを支える微妙な陰影はもはや言葉が見当たらない。彫の深さ、スピード感、全てが圧倒的。
終楽章はだいぶ改変しているように聴こえた。ミスターSの編曲でさらに強固な構造物となる。3主題間の明白な区切りよりも、提示部から展開部へ、そして再現部、さらにここからコーダです、という感じで非常に明確な輪郭。決してシームレスなスタイルではなくて、やはり大型船ではなくそびえたつスカイスクレイパーの強固な地盤のような感じ。そしてこれ以上ない妥当なテンポ感覚。末梢神経的な演奏を繰り返す若者指揮者たちには見習ってほしいものだが、その前にまともに3番など振れないだろう。
抑制のきいたコーダの解放感は、それまでのプロセスに応じた見事な解決であり決してバランスを見失うことのないミスターS一流の表現と称したい。
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ミスターSは譜面台を何に使うのだろうか。いつ倒れてもいいように支えにしているだけだろう。冴えた頭の中にはオタマと進行する芸術の構造物の構築方法とその表現方法がしっかりとおさまっているのだろう。
おわり

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