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豪族

2017年06月17日 | 日記

奈良県 明日香村

時は古代・飛鳥時代の西暦645年、旧暦6月12日。古代史最大のクーデターが勃発します。乙巳の変(いっしのへん)です。
殺されたのは、当時最高権力を掌握していた蘇我氏の本宗家・蘇我入鹿(そがのいるか)。父の蘇我蝦夷(そがのえみし)とともに専横をふるい、諸豪族の怒りを買い、ついに義憤に駆られた皇太子中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)により暗殺された、とされます。あれ?でもこの事件って以前は「大化の改新」と言われていませんでしたか?大化の改新とは、それ以降中大兄皇子と中臣鎌足を中心にして発布された国家制度改革のことで、現在では入鹿の暗殺自体は「乙巳の変」と教えられています。
それにしても、入鹿は殺されねばならないどんな悪いことをしたのでしょう?




謎多き豪族、蘇我氏とは?

世の中には、歴史マニアが多い反面、学校で学ぶ歴史、特に日本史が苦手、という人が多いようです。それには理由がいくつかありますが、大きな原因の一つに、奈良時代より前の古代史が、非常にわかりにくく謎が多いために、しょっぱなでわけがわからなくなってしまうことがあるようです。それはもちろん時を経た古代の出来事に関する資料や遺物が後世よりもずっと少ないこともありますが、当時の東アジアの国際情勢の中でのそれぞれの国の成り立ちなどに関して、日本や韓国、中国などの国家イデオロギーや歴史教育の違いが複雑に絡み合って、科学的な考察を進める阻害要因となってしまっていること、そして、当時の歴史的資料の最高文献である「日本書紀」自体が、大化の改新以降の政権権力者の意向により編纂されたものであるためです。

七世紀の東アジアは、中原の王朝・隋を滅ぼした唐が、その先進的な律令制度に基づく国家制度により大帝国に成長し、朝鮮半島やその先の日本列島をうかがう勢いを見せていました。朝鮮半島では長く続いた高句麗・新羅・百済の覇権争いが、唐の影響でそのバランスを崩し、日本と連合を組んでいた百済が劣勢に陥っている状況でした。日本には、たびたび敗走した百済人や、日本に共闘を求める新羅からの渡来人がわたってきて、豪族たちの力関係にも影響を与える存在となっていました。
こうした中、長く続いた百済との友好と支援を強化しようという勢力と、勢いを増す新羅や、その後ろ盾の唐との関係を重視する方向に舵を切ろうとする勢力との間で豪族同士の対立が昂じて行きます。新羅・唐との連携を強めようとしたのが崇仏派(仏教の受容推進派)としてもしられた蘇我氏で、対立するのがかつて蘇我氏に敗れて地方に追いやられていた中臣氏でした。
蘇我氏は、宣化天皇の代の六世紀前半には蘇我稲目が大臣となり、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり畿内大和政権を掌握していた、といわれています。大陸からの技能渡来集団である倭漢氏や和邇氏を従えて、土木事業や軍事を掌握して実権を握ったことから、蘇我氏自体が大陸、もしくは朝鮮半島からの渡来人であるという説も長く流布していました。そして日本書紀では蘇我氏はほんとにめちゃくちゃ。蘇我馬子の崇峻天皇暗殺(592年)などの記述から、推古天皇に葛城県(現在の奈良盆地の南西部)の割譲の要求、蝦夷・入鹿父子が山背大兄王とその一家全員を自害に追い込むなど、これでもかの悪行が語られています。こうしたことから、蘇我氏自体への偏見や反感からの無視が戦後の古代史研究でも一貫して続き、この古代史の事件をニュートラルに検証する芽を奪ってきました。
これらの出来事が記されているのは、入鹿を殺した中臣鎌足の息子、藤原不比等により編纂された日本書紀でのもの。事実そのものと考えるべきではありませんが、ともあれ権力を掌握した蘇我氏をよく思わない勢力の鬱憤はたまりに溜まり、「乙巳の変」のクーデター計画へとつながってゆきました。





「乙巳の変」とは?そのバイオレンスのいきさつ

皇極天皇4(645)年6月12日。三韓(新羅、百済、高句麗)から来日した使者が来日し、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の宮中大極殿で進貢の儀式が執り行われることとなりました。「藤氏家伝」では、この儀は入鹿をおびき寄せるための罠だった、とされますが事実のほどはわかりません。
ともあれ、あらかじめ蘇我氏傍流で本宗家に不満を抱いていた蘇我石川麻呂、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らを仲間に引き入れていた中臣鎌足は暗殺の計画を練り上げて待ち構え、儀式の最中に皆で襲い掛かりました、切りつけられた入鹿は皇極天皇の御座へにじりより、「私に何の罪があるのですか。あのものたちにお裁きを」と訴えました。天皇は大いに驚いて中大兄皇子を問いただすと、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と返答します。すると皇極天皇は、そそくさと殿中へ退いてしまいました。見捨てられた入鹿はとどめをさされ、死体は庭に投げ出された、と伝わります。
あけて6月13日、父である後見人蘇我蝦夷は自らの邸宅に火を放ち自害します。こうして蘇我本宗家はあっけなく滅亡します。この政変をこの年の干支にちなんで乙巳の変といいます。

その後、蘇我入鹿一族を排した大和朝廷は、翌年の646(大化2年)年、改新の詔(みことのり)を発布します。それまで豪族の私有地と領民であったものを全て朝廷の公有地・公民として召し上げ(公地公民制)、それを戸籍と計帳に基づいて貸し与え(班田収授の法)、こうしてそこから税や労役を国民に課す((租・庸・調)制度の確立などを目指しました。これを大化の改新といいます。
その後、奈良、平安時代を続いて、藤原氏を中心とした長い政治体制が続いていくこととなります。



かわいい名前の入鹿。ほんとに悪者だったの?その正体とは?

日本書紀や、藤原氏の家伝「藤氏家伝」に伝わる蘇我氏四代の悪行の数々は、蘇我氏から政治の実権を奪った中臣氏(後の藤原氏)による罪のなすりつけである可能性が高いとも言われています。
奈良県橿原市小綱町(しょうこちょう)には「入鹿神社」があり、明治期、逆賊である蘇我入鹿を奉ることをとがめられ、祭神からはずすように命じられた地元住民たちは、それでも蘇我入鹿を祭ることをやめなかったといわれ、実は蘇我入鹿が人々に慕われていたことをうかがわせます。若いころは小野妹子に従い隋に渡った名僧・旻(みん)に師事し、その旻をして「吾が堂に入る者、宗我太郎(そがのおおいらつこ)に如(し)くはなし」(藤氏家伝)、宗我太郎(入鹿のこと)に匹敵するものはないと言わしめた大秀才だったといわれています。
さて、「元興寺伽藍縁起帳」の中で、元興寺建立を計画する大々王(入鹿の祖父とされる蘇我馬子の別称)は、寺の建立を長男の蘇我善徳(そがのぜんとこ)と計画した、という記述がありますが、この善徳を聡耳皇子、またの名を馬屋門皇子と記しています。聡耳皇子、馬屋門皇子。この文字から思い浮かぶ人物がいるのではないでしょうか。十人の言葉を同時に聞き分け、厩(馬屋)に母がぶつかったときに生まれたという伝説を持つ、古代日本のスーパースター、聖徳太子です。善徳の「徳」と聖徳太子の「徳」とが一致することは言うまでもありません。
聖徳太子という名は日本書紀では一度も使われず、「厩戸豐聰耳皇子」と記されていますが、一貫して崇仏派(=隋・唐との交易重視派)であった蘇我氏とその錦の御旗として知られる聖徳太子はそもそもゆかりが深く、母親の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の母は蘇我稲目の娘・小姉君とされ、蘇我稲目は馬子の父。つまり、馬子の姪の息子が聖徳太子ということになります。蘇我氏についてはさまざまな改竄や隠蔽が行われた痕跡があり、馬子の息子・善徳が姪の息子につけかえられることもあったとしても不思議ではありません。
そして、「先代舊事本紀」(せんだいくじほんき)においては、580年「物部鎌姫大刀自、蘇我馬子の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公」とあり、蘇我馬子の息子が入鹿である、となっています。豊浦大臣とは善徳のことであり、ということは、善徳は入鹿であり、入鹿は聖徳太子であった、ということになります。先述した「入鹿神社」には、「蘇我入鹿公」の木像座像が存在し、それは白髪白髭の初老の男性像です。殺された当時35歳前後だった、とされる伝承とは一致しません。蝦夷の兄で70歳ほどであったとすると、合致します。
この仮説は、現在では多くの人の巷間にのぼり、マンガのなかでも描かれていたりしますから、ご存知の方もきっと多いことでしょう。
問題は「聖徳太子が誰であったか」ではなく、「聖徳太子として伝えられる人物」が行ったとされることをなした者が誰であったか、というややこしい話で、そのように考えれば、中大兄皇子と中臣鎌足が殺した人物=蘇我蝦夷の息子とされる蘇我入鹿は実は蘇我蝦夷の兄である蘇我善徳であり、後に日本書紀で厩戸豐聰耳皇子として人格分離され、こっそり亡くなったことにされた、ということになるのです。なぜこのようなことをしなければならなかったかといえば、言うまでもなく、蘇我氏四代がいかに悪辣非道で天皇家にあだなす一族であったか、を史書として記すために、善行については厩戸豐聰耳皇子なる別人格を設定せざるを得なかったためでしょう。






暗殺の場面。後ろから切りつけられて「私はなぜこんなことをされなければならないのですか」と天皇に問う入鹿に、天皇は見捨てて奥に引き払ってしまい、そして中大兄皇子と中臣鎌足はとどめをさします。何とも悲惨で胸の詰まる場面で、いかに入鹿を悪辣に描いても、真実は殺した側こそが悪だったのではないか、ということがぬぐいきれずににじみ出てきているように思えるのは筆者だけでしょうか。
こうして権力を奪った天智天皇-中臣/藤原政権はその後どうなったでしょうか。外政では、百済との連合、新羅・唐との敵対に舵を切った大和政権は、663年、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅の軍隊と激突します。二日間にわたって行われた日本・百済連合対唐・新羅連合は、日本・百済の大敗に終わります。敗走した日本は、唐の侵攻を恐れて北九州に軍事拠点を作り、防衛をしようとしました。唐・新羅の矛先は幸いにも(?)高句麗へと向かい、攻め込まれることはありませんでしたが、結局その後、日本は唐との朝貢外交を余儀なくされ、蘇我氏の外交方針が正しかったことを証明することになりました。
内政においては、天智天皇の跡継ぎ争いで息子の大友皇子と弟の大海人皇子(後の天武天皇)の対立が勃発、古代最大の内乱「壬申の乱」を引き起こす事態になってしまいます。歴史にifはないとはいえ、実質聖徳太子を生み出した蘇我氏の政治が、上代以降にも引き継がれていたのなら、もしかしたらまつたく違う日本の歴史になっていたのかもしれません。


ちょうど今、テレビでは奈良の談山神社のCMが流れ、異様なフォルムの十三重の塔が美しい青葉に囲まれてそそり立つ映像が見られますね。談山神社こそ、入鹿を惨殺した中臣鎌足が祀られた神社です。十三重の塔のもつ禍々しい美しさは、まさに中臣鎌足、そして息子の藤原不比等につながる、天皇家に絡まる藤の花=藤原家が築いた権力の物語を象徴しているように見えませんか?





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