『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

◆「赤い服の幼女」/『シンドラーのリスト』:No.7

2015年02月17日 00時07分16秒 | ◆映画を読み解く

 

  「赤い服の意味

  24「赤い服の幼女」登場

   初めて「幼女」が登場するのは、「クラクフ・ゲットー」内の「道路」です。「建物」から出て来たと考えるのが穏当でしょうが、まるで “ふっと湧いて来た” ような印象を与えます。 “ひとりぼっち” であり、母親や父親、それに兄弟や姉妹はどうしたのでしょうか。気になりますね。

   乗馬姿の「オスカー・シンドラー」と愛人の「イングリート」も、丘の上から「幼女」に気付きます。シンドラーは、「幼女」の出現を驚きと不安の表情で見つめています。そこで、次のことを “心に留めて” おきましょう。

   「幼女」が “ 登場 ” して “ 建物の中へ入る瞬間 ” まで、すなわち、“シンドラーの眼が「幼女」の姿を捉えている間、「観客」はシンドラーの眼(=視点として ” 事の成り行きを見つめることになります。

      

   ロングショット(※遠景撮影のために、カメラを離して引くこと)の「幼女」の周りには、銃器で武装した親衛隊の兵士や、彼らに追い立てられるユダヤ人がいます。距離が離れているため、銃弾の響きや悲鳴は小さく穏やかに聞こえているようです。それでも、“眼に映る光景” が “残忍な殺戮” であることに変わりはありません。建物から道路へ荷物が投げ出され、何人かが射殺される傍(そば)を「幼女」は歩いて行きます。

   眼を覆いたくなる信じがたいシーンに、困惑と懐疑と懊悩の表情を浮かべるシンドラー。あまりの残忍さに耐えかねたイングリートが、この場から立ち去るようシンドラーを促しています。“ひとりぽつん” と歩いている「幼女」の “ いたいけなさ ” がいっそう眼をひくシーンです。「幼女」は何をどのように受け止め、また感じ取っているのでしょうか。 

   やがて「幼女」は人の列から離れて「建物」の中に入り、階段を上って部屋の「ベッド」の下に潜り込みます。このとき、“こちら向きに足からベッドの下に潜り込もうとする瞬間、幼女の服はまだ「赤い色」” をしていますが、“ 「幼女」の全身がベッドの中に収まった瞬間、「赤い服」は消え、「モノクロの服」”に変わっています。よく注意して観てください。

 

   そこで、前回の質問が出て来ます。「映画」は――、

   《 なぜ赤い服の幼女を登場させたのでしょうか。この 幼女登場のシーン を通して何を伝えようとしたのでしょうか。

 

  シンドラーの心を意味する赤い服

   まず「第1の答え」は、我々「観客」に、単なる「観客」という立場に留まらず、一歩進んで、“シンドラーの視点と意識をもって” 史実の瞬間を観て欲しいということでしょう。

   そのための「赤い服」ということですが、 “シンドラーの視界から消えた後も「赤い服」であるのは、この「赤い服」が シンドラーの心内面の意識” を象徴的に示してもいるからでしょう。そう考えると、これ以降のシンドラーの “内面の意識)” も理解しやすくなります。

   ことに、後に「死体」となって運ばれて来る「幼女」を見つめるシンドラーの眼に、この「幼女」すなわち「赤い服」が甦るのです。このときの「赤い服」が、単に “現実に赤く見えている色” だけを意味するものではないことが解ります。ここに、深い “哲学性と芸術性” が息づいています。

       ☆

  “沈黙” と “斜め” アングルの効果

   「第2の答え」は、「映像表現」に関することです。この幼女登場シーン」=「シンドラーの視点のシーンの特徴は、次の()と()の2つがあるようです。 

(a) 「斜めアングル(カメラ)」に徹し、“眼を覆いたくなる場面” に直面している “シンドラーの心内面の意識)” を表現しています。心の底から湧きあがって来る “心の葛藤や不安や怒り” を静かに伝えようとしているのです。

  最初に「幼女」に眼を向けた際の、大胆な「斜め」アングルが見事です。「通り」や「建物」の配置。「三角屋根」を映し、屋上の角を三角形に見せたり、シンドラーの顔の表情を携帯カメラで追い、手ぶれによる不安定な「斜めアングル」にして、さりげなく “怒りや嫌悪感” を強調しているようです。実に巧みです。

(b) この「シーン」では、カメラは何度も「馬上のシンドラー」を映しているにもかかわらず、シンドラーは “ ひとことも言葉を発することなく沈黙 ” を保ち続けている

   以上(a)(b)によって、「シンドラー」はもとより、我々「観客」に対しても、“ 眼の前で起きていることの異常さ ” を強く印象付けようとしています。シンドラーが “沈黙” を保ち続けているだけに、「シンドラーの視点としての観客」に対し、“ あなたは、今この瞬間眼にしている現実をどのようにうけとめるのか ” と迫っているような気がします。

       ☆

   以上が、「赤い服の幼女」を」登場させた理由と筆者は思うのですが。「映像表現」としても巧みであり、高い美意識に支えられています。

   この「赤い服の幼女」は、いわば「シンドラーのリスト」に “リストアップされることのなかった人間” の一人でもあったということでしょう。そう言うニュアンスを感じさせる場面が最後に訪れます。ともあれ、このシーンは、シンドラーにとっての大きな “心の分岐点” といえるかもしれません。

 この “ゲットー解体” により、シンドラーの「DEF」工場の労働者は、「プワシュフ強制労働収容」に送られます。それによって生産がストップした工場に、シンドラーが立っています。

   

25.  狂気の狙撃主

   「プワシュフ強制労働収容所」の「アーモンゲート少尉」が、自邸のバルコニーから女性の囚人を狙撃しています。まるで “狩り” をするかのように。  

     

26.  シンドラーとゲート少尉との初対面

  シンドラーはゲートと取引し、「プワシュフ強制労働収容所」に送られた「DEF」の労働者を取り戻し、生産を再開します。

 

27. ラビ(聖職者)の職人

  「 プワシュフ強制労働収容所」内を、ゲート少尉が巡回しています。ゲートは、「蝶つがい」を作っている「ラビ」(聖職者、教師・説教者)の「ヤコブ・レヴァルトフ」に、製作を命じて時間を計ります。彼は1分間で1個を製作する職人となっていましたが、この日の製作個数が少ないとし、ゲートによって戸外で射殺されようとしています。しかし、何度やっても、また銃を替えても発射しません。それで怒ったゲートは銃で殴りつけます。

 このシーンも、「赤い服の幼女」のシーンほどではないにしても、“哲学性と芸術性”を含み持っています。自らの拳銃で射殺しようとするゲートも一緒にいる二人の部下も、“射殺することなど何とも思わない表情と動作” をしています。それに対し、これから “射殺されようとしているレヴァルトフ ”……。

   ここにも、“虫けらのように扱われているユダヤ人” と “そのように扱っているナチス・ドイツの人間” が存在しています。その4人の向こう側を、通りかけた労働者が気付き、慌てて走り去るシーンが出て来ます。1回目は8人、2回目は6人の労働者でしょうか。何でもないシーンですが、一瞬のうちに “ホロコースト” の “片鱗” を物語っています。

   結局、命拾いしたレヴァルトフは、その後に「鶏泥棒事件」で命拾いをした「アダム・レヴィ少年」とともに、運よくシンドラーの「DEF」工場入りを果たすことができました。そのためシンドラーは、自らの「ライター」と「シガレット・ケース」をシュターンに預けます。そのいずれも、担当官の「ゴールドベルグ」(彼もユダヤ人)への “賄賂” となったようです。 (続く

 



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