さわやか易(別館)

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

ヴィルヘルム2世の世界政策

2016-09-18 13:13:38 | 20世紀からの世界史
ヴィルヘルム2世(1859~1941)

ロシアの南下政策が東アジアに移ってきたため、日本、清国、朝鮮の間では日清戦争、義和団事件、日露戦争と激動の時代が始まっていた。その頃のヨーロッパは植民地競争の先陣を切るイギリス、フランスを後発組のドイツが猛烈に追いかける展開だった。列強同士が覇権を掛けて、駆け引きとつばぜり合いが始まっていた。

ドイツ帝国建国以来、長く君臨していたヴィルヘルム1世が、続いてフリードリヒ3世が1888年に相次いで崩御し、29歳のヴィルヘルム2世が皇帝に即位した。ドイツの名宰相・ビスマルクが巧みな外交力でバランスを保ってきたヨーロッパだったが、そのビスマルクも2年後に引退することになる。そこからヨーロッパのバランスは崩れ始め、激動の時代が始まったと言える。

水先案内人の下船

帝政ドイツは議会に比べ皇帝の権限は絶大であり世界で最も権力のある王座と言われる。若くして皇帝になったヴィルヘルム2世は覇気満々の帝国主義者であり、ドイツを世界に君臨する大帝国にすることが自分の運命だと信じた。政治経験がなく理想と覇気だけのヴィルヘルム2世は百戦錬磨のビスマルクの真価が解らなかった。

ビスマルクが普仏戦争の巻き返しを警戒し、フランスの植民地拡大を黙って見ているのも「大獲得時代」に遅れをとったとして歯がゆく思った。周りの国に気を使ってばかりいる外交政策も気に入らなかった。やろうとすることに一々注文をつけるビスマルクが邪魔になった。ついにビスマルクが社会主義者を鎮圧してきたことに異を唱え対立すると辞任に追いやった。

モロッコのタンジール

1905年、日露戦争が行われていた頃、ヴィルヘルム2世は突然フランスの植民地となっているモロッコのタンジールを訪問した。フランスに反感を持つスルタンにモロッコの独立を支援すると約束した。びっくりしたフランスは翌年各国首脳を集めた「アルヘシラス会議」を開きフランスの立場を鮮明にした。この第1次モロッコ事件の後にも1911年に第2次モロッコ事件を起している。出遅れた植民地獲得競争への巻き返しを図ろうとしたが失敗した。失敗しただけではなく、これにより英仏の結束を堅くし、アメリカ、イタリアも英仏を指示するなどドイツの孤立を深めることになった。

ヴィルヘルム2世は外交でも大失敗をしている。1908年にイギリスを訪問していたヴィルヘルム2世はワートリー陸軍大佐と対談したが、その時の発言が「デイリー・テレグラフ」の新聞に載った。「ドイツの国民は親英派は少数だ。」「ボーア戦争では仏露も反英だったが、自分だけが味方したんだ。」「戦艦建造は対英ではなく対日のためだ。」そんな軽口発言が顰蹙を買い、イギリスでもドイツでも皇帝の退位を要求する世論が起った。黄禍論を平気で唱えるヴィルヘルム2世はビスマルク時代から親独派だった日本人を一気に反独派に転向させる。

バクダード鉄道

日露戦争後のヨーロッパはイギリスを中心にフランス、ロシアの三国協商とドイツを中心にするオーストリア、イタリアの三国同盟の二つの陣営にまとまる構図が出来ていた。モロッコ事件などで評判を落としたドイツからイタリアが離脱し始めるとドイツは孤立を深める。四面楚歌のドイツは必然的に活路を東に求めるようになった。そこにはオーストリア・ハンガリー帝国が属するバルカン半島があり、オスマン帝国がある。

ヴィルヘルム2世の世界政策は弱体化しつつあるオスマン帝国と手を結びバルカンおよび西アジアに向かう。ベルリン、ビザンティン、バクダード(3B)を鉄道で結び、中欧を踏み台に世界に雄飛しようとした。しかしこの計画には落とし穴が待っていた。先ず、イギリスの3C(ケープタウン、カイロ、カルカッタ)政策と衝突する。次に、ロシアの南下政策による汎スラブ主義とドイツ、オーストリアを中心にする汎ゲルマン主義が衝突する。バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれる問題地だった。

ヨーロッパの火薬庫
火薬庫・バルカン半島

1908年、オスマン帝国では日露戦争に影響を受けた青年たちが、「青年トルコ革命」を起すと、この混乱に乗じてオーストリアはベルリン会議で統治を認められていたボスニア・ヘルツェゴビナを併合する。ここはスラブ人が多く住んでおり、スラブ主義のセルビア人は不満だった。セルビアはブルガリア、ギリシャ、モンテネグロとともにオスマン帝国と戦争を引き起こした。(第1次バルカン戦争)

この戦争で得た領土をセルビアとブルガリアが争う(第2次バルカン戦争)と敗れたブルガリアはドイツ、オーストリアに接近し、手を結ぶ。汎スラブ主義のロシアとオーストリアとの対立が激化、バルカン半島に資本投下するドイツ、フランスも利害関係が浮き彫りになった。

Emperor Francis Joseph.jpg
フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)

ヴィルヘルム2世にとっての何よりの味方はオーストリアの老帝フランツ・ヨーゼフ1世だった。オーストリアは名門・ハプスブルグ家として長らく全ドイツを代表する神聖ローマ帝国の本拠であった。40年前に大ドイツ主義と小ドイツ主義に別れてドイツ統一を争った相手である。皮肉にもビスマルク時代にドイツより除外されたそのオーストリアが今は唯一の頼みの綱となっていた。一方、オーストリアにとっても危険なバルカン半島を抱え、ロシアの南下政策にも備えるため統一後強国となったドイツを後ろ盾にするより道はなかった。

帝国主義の列強各国はお互いの対立を経済、民族、宗教、領土問題が複雑に交差するバルカン半島での対立に置き換え、神経を尖らせていた。バルカンでの暴発は一触即発の状態のまま誰も制御出来なかった。

 

~~さわやか易の見方~~

***   *** 上卦は雷
***   *** 活動、発進
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
********

「雷天大壮」の卦。大壮とは陽気が盛んであること。剛強にして盛大なる陽気に満ち満ちている。若さとエネルギーにあふれ、覇気満々であることは頼もしい限りではある。しかし力を頼んで突き進むのは良いが、行き過ぎには注意する必要がある。とかく過ちは絶頂の時に起こる。思慮に欠けることはないか、見識のある人の意見を聞くことが大切である。

ドイツの前皇帝・ヴィルヘルム1世はビスマルクに対して「余の代わりはいても、お前に代わるものはいない。」と言って、度々の辞職願いも退けて30年間も信頼し、政治を任せた。ところがヴィルヘルム2世はそんなビスマルクを失脚させ、信頼する部下にも顰蹙を買い、国家のかじ取りをするものが居なくなる。これでは複雑な国際情勢に対処出来る筈がない。万能の君主は存在せず、独裁には限界があるということだ。

イギリス、フランス、アメリカ、先進国では議会が政治の中心である。ドイツのヴィルヘルム2世もオーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世も帝政時代の最後の皇帝となる。ロシアのニコライ2世もまた最後の皇帝だった。皇帝の時代は終わった。外交は外交のプロ、経済は経済のプロが最善を尽くし、全体の政治は政治のプロが最善を尽くす。人格もあり、能力もあるスペシャリストたちがフルに力を発揮して国家運営に当たってもらいたい。


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