さわやか易(別館)

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

何故、中国は共産主義国家になったのか。(1)

2017-07-17 15:40:46 | 20世紀からの世界史
カイロ会談

アメリカの中国進出は列強より遅れているが、中国との関係は重要視していた。日中戦争が始まって以来、アメリカは国民党の蒋介石を支持し武器や、物資の援助を続けてきた。蒋介石の妻・宋美齢はアメリカを訪問して、中国の現状を連邦議会で講演をしている。ルーズベルト大統領は1943年の「カイロ会談」ではチャーチルと蒋介石夫妻との間で、戦後の国際体制を英、米、ソ、中の「4人の警察官」構想を語るほど中国には期待を寄せていた。

中国を戦後のアジアの中心にすえ、国連の常任理事国にし、アメリカにとっても安定的な経済交流を盛んにしたい考えであった。それ程、中国に期待をかけ、末永く手を結ぶつもりでいたのである。ところが、そうはならなかった。あろうことか中国は共産化し反米を唱えることになった。何故、そうなってしまったのだろうか。


蒋介石(1887~1975)

アメリカの援助より20年も前、孫文の時代に、ソ連のスターリンは中国共産党をつくらせ、中国、朝鮮、日本を共産化する計画を進めていた。国民党を率いる孫文は何としても中国を統一するため共産党を受け入れた。しかし孫文の後継者・蒋介石はソ連に留学したものの、どうしても共産主義は肌に合わなかった。「国共合作」が成立していたが、孫文の死後1927年、上海クーデターにより蒋介石は国民党から共産党員を一掃し、「国共内戦」となった。

蒋介石は日本に学び日本陸軍の体験もあり日本びいきだった。1928年、北京に残っていた最後の軍閥・張作霖を追放し、南京を首都として国内を統一した。その後、日本軍が満州国を建国するという大問題が起ったが、蒋介石は共産党の掃討を優先した。ところが、1936年、共産党軍壊滅寸前に「西安事件」が起こる。共産党に寝返った張学良らにより蒋介石は監禁され屈辱の方向転換を迫られ、共産党と共に日本軍と戦うことになる。そして翌年1937年より日中戦争が始まった。


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宋美齢(1897~2003)
 
蒋介石の妻・宋美齢(宋財閥の次女)は人脈を生かし、アメリカ大統領・ルーズベルト夫妻と親交を築いた。ルーズベルトも日本の全滅を望んでおり、全面的援助を約束する。しかし蒋介石も日本軍も早く和睦したかった。ドイツの大使・トラウトマンが仲介するものの中々まとまらない。原因は共産党の謀略である。スターリンは「戦争が泥沼化すれば必ずアメリカが出てくる。」と読んでいた。

蒋介石は西安事件以来かつての精彩を欠いていた。信念を曲げた「国共合作」を悔いていた。「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」と例えている。日中戦争は一方的に日本軍に負け続けていた。アメリカからの援助は届いたものの、宋美齢の財閥一族が私物化し、国民党軍に行き渡らない。蒋介石の優柔不断は国民党の内部混乱となり、日本寄りの政権を目指す汪兆銘らは離脱して行く。


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スティルウェル(1883~1946)

スターリンのもくろみは的中し、1941年には日米戦争が始まる。アメリカからの物資援助「援蒋ルート」は日本軍により遮断され、国民党は戦うことも出来ない。しかし1943年の「カイロ会談」で蒋介石はルーズベルトに戦局や現状を語ることさえ出来なかった。ルーズベルトも国共合作の内情も理解せず、蒋介石に期待するのみだったが、参謀長のスティルウェルは国民党政府の不敗堕落を知り見切りをつけていた。

ルーズベルトは直前に急死したが1945年8月、日本は降伏し英米仏ソと並んで中華民国は戦勝国の一員として国連の常任理事国となる。蒋介石は世界の指導者として扱われた。アメリカは弱体化著しい国民党軍に大量の援助を行い軍制を整えた上で対立する共産党の受け入れ交渉を促す。1945年10月10日「双十協定」を結び、蒋介石と共産党代表の毛沢東は対立を止め協力を約束した。

~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は火
***   *** 文化、文明、中女
******** 
***   *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、少女
********

「火沢暌」の卦。暌(けい)は反目する。いがみあう。意見の食い違いにより家庭の不和、団体内の対立は起きる。相反することから、競争があり、切磋琢磨がある。反することと統一することは裏と表の関係にある。反目する原因は多くの場合、誤解することから生じる。お互いに相手の立場に立って、考えることが重要である。小さな努力を尽くすことが肝要でもある。

蒋介石は孫文の唱えた「三民主義」に感服して志を立てた。「三民主義」とは民族、民権、民生である。孫文の命を受け、1年間モスクワに留学し、政治と軍事を学んだ。研修中、意見を求められ「三民主義」を発表した。ところが、誰も賛同するものはなく座が白けた。蒋介石は阻害され違和感を感じた。以来共産主義にはついていけないと嫌悪感を抱いたという。「西安事件」は生涯で最も後悔した出来事であったことだろう。

帝国主義時代からアメリカもロシアも中国進出には積極的であった。ただロシア革命後のソ連の進出は巧妙な計画に基ずく、謀略が感じられる。これには流石のアメリカも脱帽したことだろう。アメリカのやり方は物と金を投じるだけで、相手の国民性、実情、国内問題などを考慮していない。「敵を知り己を知れば百戦して危うからず。」孫子の兵法は完全にソ連において行われ相手国はその術数に飲み込まれていた。
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