さわやか易(別館)

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

中国国民党と中国共産党(1)

2017-01-28 18:21:32 | 20世紀からの世界史
天安門前での「五四運動」

ヴェルサイユ条約が締結された1919年はアジア、北アフリカの諸国にとっては民族自決の年でもあった。パリ講和会議では世界の民族主義に対する冷たい姿勢が明らかにされ、裏切られた周辺国の民衆はいっせいに各地で大抗議運動を起こした。3月1日、朝鮮のソウルに於いて、日本からの独立を求めて学生、商人、労働者、農民など数十万人が参加する「三・一運動」が起った。3月9日にはエジプトに於いて、大規模な反英運動が起った。

4月6日にはインドでガンディーの呼びかけで数百万の人々が抗議活動に参加した。そして5月4日、中国で日本からの「二十一カ条要求」の撤回を求めて北京の大学生を中心に大抗議運動が始まった。この「五・四運動」はたちまち全国に広がり二か月にわたり、200の都市で学生、労働者、農民がストライキに参加してヴェルサイユ条約への調印拒否を要求した。


陳独秀(1879~1942)

「五・四運動」が盛んに叫ばれる頃、上海に「中国共産党」が成立される。中国共産党創設の中心になったのは陳独秀である。陳独秀は袁世凱が独裁体制をとると日本に亡命したが、帰国して「新青年」を創刊する。中国を滅亡させないためには古い制度を排して「民主」「科学」など西洋文明を全面的に取り入れるべきだと主張した。若き日の毛沢東が熱心に愛読し、「思想界の明星」と絶賛したのが「新青年」である。
 
毛沢東、魯迅、孫文、蒋介石ら近代中国史上の重要人物で陳独秀に関わりのない人物はいない。幅広い知識人に共感を与えた陳独秀は北京大学の文化学長に就任した。パリ講和会議でのアメリカの民族自決への指導に期待していたが裏切られる。「五・四運動」ではデモの先頭にたち逮捕、3か月の獄中体験もした。釈放後、マルクス主義に傾倒、訪中していたコミンテルンのヴォイチンスキーらと結党準備の上「中国共産党」を結成、初代総書記に選出された。


Sunzhongshan 2.JPG
孫文(1866~1925)

袁世凱に地位を追われ、一時日本に亡命したりしていた孫文は「五・四運動」は再び中国の新たな出発点になると確信し、上海にて新たに「中国国民党」を発足させた。袁世凱死後は軍閥が北京を支配していたが、今度こそ軍閥を倒し中国を統一したいと期していた。時を同じくして発足した「中国共産党」との連携はソ連の外交官ヨッシュからの呼びかけだったが、孫文はロシア革命を成功させたソ連の手法を取り入れたいと考えた「孫文・ヨッシュ共同宣言」を発表、孫文はソ連との連帯を鮮明にした。

孫文は自分の後継者となるだろう蒋介石に「お前はロシアで学んで来い。」と視察に送り出す。モスクワで蒋介石はトロッキーから赤軍の組織原理、軍事と思想教育の分離を学んだ。しかし国民党を代表して孫文の「三民主義」を発表すると全く評価されなかった。衝撃を受けた蒋介石は不信感と警戒感を強くして帰国すると、1923年からソ連の工作員・ボロディンが孫文の政治顧問となり国民党の最高顧問になっていた。1924年には共産党員が国民党に入党する形で「第一次国共合作」が成立する。


蒋介石(1887~1975)

蒋介石は「国共合作」には反対だったが要請されソ連の支援で創設された黄埔(こうほ)軍官学校の校長に就いた。共産党の周恩来が政治部副主任となる。学校では組織や訓練面ではソ連式が採用されたが、日本での軍隊を体験した蒋介石は軍隊生活の規律は日本式を採用した。尊敬する清末の曽国藩が説いた儒学的処世訓や孫文の三民主義も教えた。教え子らとの師弟関係は後々大きな政治的資源になった。

軍官学校では三民主義とマルクス主義が同時に教えられており、蒋介石は共産党やソ連軍事顧問団の台頭に危機感を募らせていた。1925年に「革命未だならず。」の言葉を残し、北伐を蒋介石に託して孫文が死亡する。国民党は「国共合作」を支持する汪兆銘と共産党排斥を目論む蒋介石が対立する。1926年、共産党にとり最大の障害物である蒋介石をソ連に拉致しようとする事件が起こると、蒋介石は断固共産党とソ連軍事顧問団関係者を逮捕する。この中山艦事件により汪兆銘は失脚しパリに行く。


1920年代の上海
 
国民党の実権を握った蒋介石は北伐を敢行しようと国民革命軍を率いて上海に向かう。一方、中国共産党はあくまで労働者革命により共産党政権を目指していた。上海では共産党の周恩来を中心に労働者が武装蜂起、臨時政府を樹立していた。上海の浙江財閥からの要請もあり、蒋介石は国民革命軍を市内に突入させ共産党軍を一掃する。この上海クーデターにより国共合作は瓦解し、ソ連の顧問・ボロディンは追放された。同志の支持を受けて国民政府を南京に設立、汪兆銘のグループも南京政府に参加した。

1927年12月、蒋介石は上海にて浙江財団の宋美齢(孫文の妻・宗慶齢の妹)と結婚し孫文の後継者であることを内外に演出した。北伐を再開した蒋介石は最後の軍閥である張作霖を満州に追いやり、1928年6月、北京に入城し孫文の遺志・中国統一を果たす。張作霖は満州にて列車事故により死亡した。蒋介石は孫文の遺体に敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)を祭る。

~~さわやか易の見方~~
 
***   *** 上卦は水
******** 困難、悩み
***   ***
******** 下卦は火
***   *** 文化、文明
********
 
「水火既済」の卦。既済(きせい)とはすべてが成就する。完成すること。もっとも理想的な形ではあるが、完成は同時に崩壊の始まりでもある。完成してしまえば、創造のエネルギーは喪失する。卦象は上に水、下に火であるので、煮炊きする形とも言えるが、水が火を消そうする形とも解される。常に変化して止まないのが世の中であり、完成のままでは収まらないのである。

「五・四運動」の時代に中国では一斉に若者が立ち上がったことが目に見える。半世紀遅れたが日本の明治維新を思わせる。残念なことはその運動が第一次世界大戦での「対華二十一ヵ条要求」が火をつけた反日運動だったことである。100年後の現在まで続く怨念になったことである。孫文が叫んだ「大アジア主義」にもっと謙虚に耳を傾けて欲しかったと思わざるを得ない。それ程、帝国主時代の流れはその余裕が持てなかったのだろうか。
 
中国国民党はソ連の力を借りて革命軍を組織した。そのソ連を追放した蒋介石だった。ソ連は「国共合作」のために莫大な資金と人材を投入している。追放されたまま黙っている訳はない。相手は泣く子も黙る陰謀と冷血のスターリンである。どんな手段を取ってくるか空恐ろしい。次回はその陰謀に迫ってみたい。それにしても孫文はソ連の恐ろしさには気が付かなかったのだろうか。統一の悲願のためには藁にでもすがりたかったのだろうか。
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