さわやか易(別館)

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

冷戦時代のソ連と中国

2017-12-09 18:24:25 | 20世紀からの世界史
フルシチョフ(1894~1971)

冷戦時代をアメリカと対峙した一方の雄・ソ連について述べてみたい。1920年代から第二次世界大戦を通じて約30年にわたりソ連を支配し続けたスターリンは1953年に死んだ。大粛清で知られる恐怖政治からソ連国民はようやく解放された。後継者になったのは貧民から身を起した陽気で野人的なフルシチョフだった。フルシチョフはスターリン批判を行い、西側陣営とも友好を図り対立から雪解けを目指した。

1959年、ソ連の指導者として初めてアメリカを公式訪問し、アイゼンハワー大統領と有効的関係を築く。その後、モスクワで開かれた博覧会に招かれたニクソン副大統領はアメリカ製の電化製品およびキッチンを前にしてアメリカの豊かさを語り、暗にソ連の国民生活の窮乏と対比させた。するとフルシチョフはソ連の宇宙開発と軍事分野での成功をまくし立てた。「キッチン討論」として資本主義と共産主義の長所短所を浮き彫りにさせた。


イメージ 2
ガガーリン(1934~1968)
 
1957年、ソ連は人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ、1961年にはガガーリン大佐を乗せた有人宇宙飛行「ボストーク1号」にも成功し宇宙開発分野でアメリカを大きくリードした。盛り上がった国民にフルシチョフは生活の上でもアメリカに追いつき追い越そうと壮大な「七か年計画」をぶち上げた。機構改革や大規模な原野開拓、食肉増産計画が実施された。フルシチョフの政策は国民の多数に支持され、ソ連社会は活力を増した。

しかし支配体制の根幹は変わらなかった。その上、スターリン批判を契機に中国との関係が悪化、「中ソ論争」が始まる。アメリカに冷たくされたキューバが陣営に入り、ミサイル搬入を巡ってキューバ危機が起った。国内では農業政策が惨めな失敗となり、1964年フルシチョフは突然失脚させられた。フルシチョフに代わって登場した官僚肌のブレジネフは批判的な知識人を締め付ける「法治主義」を行う。チェコ事件を始め衛星国に噴出した民主化を武力で抑え込み、ひたすら現状維持をはかるばかりになった。


毛沢東(1893~1976)

社会主義のもう一つの大国・中国では朝鮮戦争で多大の犠牲を払わされたが帝国建設に汗を流していた。レーニンがロシアを「文明がない」と言ったが毛沢東は6億の民の現状を「一窮二白」(一に貧しく、二に知識がない)と言った。毛沢東は中国化されたマルクス主義「毛沢東思想」により、農民の集団化に取り組む。工業、商業、文化、教育、軍事を統合した地方行政を五千戸数単位で「人民公社」を設立した。毛沢東は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年より「大躍進政策」をぶち上げた。

近代的大製鉄工場の代りに人民公社ごとに小規模な「土法溶鉱炉」を造らせ競って製鉄をさせた。人民のエネルギーを最大限に引き出す方針だったが、民衆の情熱と献身を求める「急進主義」は過大な要求になった。急進路線に反対するものは「反革命」のレッテルを張り抹殺した。しかし「土法溶鉱炉」は使い物にならない屑鉄の山を築くばかりだった。工場での昼夜兼行は労働者や機械の消耗を激しくし、密植農法は耕地を荒廃させた。3年連続の自然災害による凶作もあり、5000万人以上の餓死者を出したと言われる。

文化大革命プロパガンダの絵
 
大躍進政策の大失敗により毛沢東は最大のピンチに立たされる。しかも中ソ対立により約束の原爆製造のノウハウ提供も取り消され、中ソの関係は破局する。毛沢東は大躍進政策の責任を取り国家主席をNO2の劉少奇に譲る。飢餓が全土に拡大した1962年には劉少奇、鄧小平ラインに実権は移り毛沢東の権力は低下した。しかし毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。1964年、「毛沢東語録」を出版、大学や文化機関を中心に国家機関に対する造反運動を起した。
 
毛沢東は過激派青年・紅衛兵たちの暴力行為を積極的に支持した。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大し「造反有理(造反には理由がある)」のスローガンのもと、大量の殺戮が行われた。「文化大革命」は毛沢東に忠誠を尽せば、革命のために全ては許された。その範囲は劉少奇ら中央指導部、教師ら知識人、金持ち、中国国民党と関わりのあった者、彼らの家族までもが徹底的に迫害された。また、文化浄化のもとに仏教、儒教は否定され、関係者は殺戮、仏像や施設は破壊された。文化大革命は文化大破壊であり、犠牲者は数千万人とも言われている。
 
~~さわやか易の見方~~
 
***   *** 上卦は沢
******** 割れる、はじける
********
******** 下卦は天
******** 陽、剛、大
********
 
「沢天夬」の卦。夬(かい)は決壊、決裂の決に相当する。陽が充満し、最後に破けてしまうこと。最後の決断を下す意味でもある。独裁者の末路にも当てはまる。
 
2017年10月に行われた中国共産党大会で習近平は新時代の中国を世界最大の強国にしようと宣言した。社会主義の偉大な勝利を勝ち取ろうと演説した。まるで60年前の毛沢東の「大躍進政策」とそっくりではないか。フルシチョフが唱えた「アメリカに追い越し追い抜け」の宣言にも似てはいないだろうか。いづれもその後はどうなったか。歴史は繰り返す。一党独裁体制にはある限界があるのではないだろうか。
 
1960年代を見ると、ソ連も中国も大きな目標に向かったが失敗して国力を落としている。そして、一極支配体制を目指したアメリカもベトナム戦争の泥沼に陥ってしまい国力を衰退させた。大国どうしの疲弊、消耗戦の間に経済大国になったのが日本だと言われる。そして現在、日本はかつての勢いを失って低迷したまま大国の間に身を潜め、自主防衛力もないまま北朝鮮の動きを見守っている。これでは駄目だろう。がんばれ、日本。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今月の言葉(29年12月)

2017-12-04 12:23:02 | 安岡学研究会
安岡正篤先生(1898~1983)
 
酒に対す(白楽天)

蝸牛角上何事をか争う
石火光中この身を寄す
富に随い貧に随い且つ歓楽せよ
口を開いて笑わざるは是れ痴人

かたつむりの角の上で何を争っているのだ
火打石が放つ光のように短くはかない人生だ
金持ちは金持ちなりに貧乏人は貧乏人なりに楽しもうじゃないか
大きな口を開いて笑わないような奴は馬鹿者だ

 
いつも「さわやか易」をご覧頂き、有り難うございます。
さて、私は毎月第一土曜日に開かれる「安岡学研究会」に参加しております。既に30年になりました。この会は安岡正篤先生の著書を素読、研習し、その教学の本質を学ぶことを目的にしております。前半は安岡先生の語録集素読の後に、市川浩先生による「日本書紀」の講義があります。後半に易経の勉強をしておりますが、28年11月より「易で考える世界近代史」というテーマで私が講師を務めております。

 
このテキストは私のブログ「名画に学ぶ世界史」をもとにテキスト用に修正を加えたものです。誰にでも解り易く、歴史と易をお話ししたいと思っています。

 
イメージ 2
カトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)
 
今月の世界史は「フランス文化とメディチ家」というテーマで、16世紀にメディチ家から嫁ぎフランス王妃になったカトリーヌ・ド・メディシスの話をしました。ファッションから食生活までを一変させ、今日のフランス文化のルーツになったこと。カトリックに対する新教ユグノーの宗教対立についてもお話ししました。
 
易では「巽為風」についてお話しました。易の八卦の一つ巽(風)について考えました。巽は従順、へりくだるという性質でとても大事な要素ではあるが、あまり極端になっては逆効果にもなるということも学びました。
 

ただいま新規の会員を募集しております。東京近郊にお住いで興味のある方がおられましたら、一緒に勉強しませんか。

会場は江戸幕府の学問所・昌平黌の佇まいが残る湯島聖堂・斯文会館です。都会の中にしんと落ち着いた緑の空間が魅力です。

イメージ 2
教室の側には孔子廟があります。

 
アクセスマップ:史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会

安岡学研究会
開催日:毎月第1土曜日12:30より16:30
会費:月3000円。但し15時からの「歴史と易」だけの方は2000円です。
ご希望の方は世話人の田辺さんにご連絡ください。携帯電話:080-3010-7200です。
「様子が解らないので、一度見学させて頂けますか?」と言うと、優しい田辺さんは「どうぞ」と言ってくれます。初回分がタダになります。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

J・F・ケネディの時代(4)

2017-11-24 22:19:49 | 20世紀からの世界史
1957年ソ連スプートニク1号記念切手

東西冷戦の時代は米ソの軍拡競争の時代でもあり、宇宙開発競争の時代でもあった。第二次世界大戦より圧倒的に強大な空軍を持っていたのはアメリカであり、ソ連はアメリカの偵察機には手を焼いていた。そこでアメリカを出し抜くために開発を急いだのが人工衛星である。1957年10月、ソ連はアメリカに先駆けて人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功した。

人工衛星は軍事ばかりではなく、宇宙開発、科学技術の実力を問われることでもあり、現代文明の先端を走るアメリカが後塵を拝すことは許されない。ケネディが大統領に就任した1961年4月、ソ連はガガーリン大佐を乗せた「ボストーク1号」で有人飛行での地球一周を成し遂げる。宇宙開発競争で大きく差をつけられたケネディは、「10年以内にアメリカは月に人間を送り無事に帰還させる。」と宣言した。


 
ジョン・グレン宇宙飛行士(右)と

この壮大な計画は「アポロ計画」と名付けられ巨額の予算400億ドルが見積もられた。世論調査では反対が多かったが、ケネディは「宇宙開発は雇用を生み、地域の発展に繋がり、国民の自尊心と士気を高め、国内経済を活性化させる。」と演説した。続けて「何故、月へ10年で行くのか?それは易しいからではなく、困難だからだ。この目標がアメリカ国民から活力と技術を引き出すからだ。」と語った。計画はロッキード社などの大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、国家プロジェクトとして議会を通過した。
 
ケネディは「マーキュリー計画」で地球を周回させることに成功したところで暗殺されたが計画は継続された。1965年から「ジェミニ計画」で二人乗り、ドッキング、ランデブー、船外活動を成功させる。1968年からの「アポロ計画」で宇宙船アポロ号で地球の引力圏を離れることに成功する。ニクソン政権に引き継がれた1969年7月、アームストロング船長と二人の飛行士は「アポロ11号」で月面着陸に成功し、無事に地球に生還した。宇宙開発競争でのアメリカ優位を決定する快挙となった。

キング牧師(1929~1968)

1950年代から急速に高まった運動が黒人の選挙権や公的権利を認める「公民権運動」である。ケネディは積極的に差別をなくすための政策をとった。司法省では連邦検事を10人から70人に、連邦判事も0から5人に、政府の補助金を受ける学校、病院、図書館での人種差別は禁止にした。企業や労働組合に対しても黒人を積極的に雇うよう働きかけた。しかし1962年、南部のアラバマ州のウォレス知事は黒人学生メレディスの大学入学を拒否、ケネディが軍隊を差し向ける「メレディス事件」が起きた。
 
ケネディはテレビで大統領執務室から直接国民に訴えかけた。「リンカーンが奴隷を解放して以来100年が過ぎた。しかし彼らの孫たちは未だ自由を手にしていない。自由を愛すアメリカ国民は国旗のもとに誰でも自由であるべきだ。」と語った。1963年8月、人種差別撤廃を求める黒人たちによる20万人のワシントン大行進が行われる。先頭に立ったキング牧師は演説した。「私は夢見ている。ある日、ジョージアの赤土の丘の上で、以前の奴隷の息子達と以前の奴隷所有者の息子達が、兄弟愛というテーブルにともにつくことを。~~」「I have a dream」を何度も繰り返して人種平等社会の実現を訴えた。ケネディはキング牧師をホワイトハウスに招待し、「私も夢見ている」と語った。
 
 
ダラスに到着直後のケネディ大統領夫妻
 
ケネディの2年10ヶ月は内憂外患との戦いだった。外交政策の中で、最も悩まされたのは対ベトナム政策である。ソ連と中国の東南アジア共産化「ドミノ理論」の脅威を食い止めることは自由主義国の最大の課題だったがその解決は困難だった。また、欧州、日本の追い上げもあり、国際収支が悪化し始めた経済。国際競争力を確保するため産業界とは「政府の力」で対立し批判を浴びた。ケネディは国民には人気があったが、「ウオール街を敵にまわした」と言われる程、経済界との折り合いは悪かった。
 
1963年11月22日、ケネディは翌年の大統領選挙キャンペーンのためテキサス州ダラスを訪れた。市内をオープンカーでパレード中、何者かに狙撃され暗殺された。白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な大統領暗殺。犯人とされたオズワルドが2日後にジャック・ルビーに殺害される意外な展開。その後に暗殺の動機も背後関係も分からず多くの謎を残したままの捜査終了。半世紀が過ぎた現在でもCIAによる陰謀説もあり、論議は尽きない。
 
 
 
ケネディ大統領の棺

ケネディの国葬は暗殺事件の3日後の11月25日に行われて全国民が喪に服した。この国葬には92か国から首脳・政府高官等220人が参列した。フランスからドゴール大統領、イギリスからエジンバラ公とヒューム首相、西独からエアハルト首相、日本から池田勇人首相、韓国から朴正熙大統領]、ソ連から、ミコヤン第一副首相、そしてウ・タント国連事務総長など。国内ではトルーマン元大統領、アイゼンハワー元大統領、ニクソン前副大統領、ロックフェラーニューヨーク州知事、キング牧師、ジョン・グレン中佐などであった。

ホワイトハウスからの葬列は遺族を先頭に、その後を米国政府首脳、各国首脳が2キロの行程を歩き、セント・マシューズ教会に到着した。教会で告別のミサが終わった後、ケネディの3歳の長男ジョンが砲車に載せられた父の棺に敬礼すると列席者の涙をさそった。棺は埋葬のためにアーリントン国立墓地に向かった。墓地で埋葬式が行われ、アーリントンの丘に陸軍軍曹による葬送ラッパが響き始めると悲しみは地平線の彼方にも広がる。そしてジャクリーン、ロバート、エドワードの順に松明で永遠の炎に点火され、棺を覆っていた国旗がジャクリーンに手渡された。アメリカ国民の憧れだったJ・F・ケネディの葬儀は静かに幕を閉じた。

~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は火
***   *** 文化、文明、知性
********
******** 下卦も火
***   ***
********

「離為火」の卦。離は易では火。火は太陽を表す。文化、文明、知性、明知であり、明るく情熱的に燃えて輝くことである。人生も社会も明るく輝くことは景気の良いことではあるが、満月もやがては欠ける定めもある。能力を発揮すべき時でもあるが、情熱にまかせて突き進んでいけば必ず躓くだろう。易には「牝牛を蓄(やしな)えば吉」とある。牝牛のような従順さを持つことである。

ケネディは民衆の時代を到来させたと言えるのではないだろうか。どこか王政から共和制の到来を招いたナポレオン旋風を彷彿とさせる。マフィアとの関係や女性スキャンダルなど裏の一面も有りながらも夢や希望も感じさせ、半世紀経った現在も懐かしさを感じさせる。J・F・ケネディの時代はアメリカンドリームがあった。アメリカがアメリカらしく輝いた時代だった。

ケネディを抹殺した闇の力とは何か。「国難の正体」を著した元ウクライナ大使の馬淵睦夫氏によると、ウォール街を支配する巨大財閥による闇勢力だという。この著書によればケネディはFRBの同意なしに政府による紙幣を発行した。これがFRBを支配する闇勢力の逆鱗に触れたのだという。その証拠はケネディ暗殺後、その紙幣は回収されたという。政界も芸能界も表の俳優は裏で操作する闇の力には勝てない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

J・F・ケネディの時代(3)

2017-11-16 15:36:15 | 20世紀からの世界史
大統領就任式(1961年1月)

大統領就任式でケネディは演説した。「我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい。」

ケネディの演説は格調高いものだったが大統領就任は波乱の幕開けでもあった。1960年代は米ソ対立が最も厳しい冷戦時代であり、ヨーロッパでは分割されたドイツを起点に東西陣営が睨み合い、中東ではイスラエルとアラブの対立が一触即発の危機にあった。共産化への革命の嵐は「ドミノ理論」と言われ、アジアではベトナム戦争が始まり、アフリカ、南米各地では独立を叫ぶ革命が相次いでいた。


キューバに向かうダグラスA-4D2

アメリカの直ぐ南キューバではカストロが前年に革命を起こし、旧バティスタ政権の亡命キューバ軍がアメリカを頼りに巻き返しを計画していた。前大統領アイゼンハワーの承認を得ていたCIAダラス長官は就任早々のケネディに作戦を説明、カストロ体制打倒の許可を求める。仰天したケネディだったが、アメリカ軍の直接介入はしない条件で許可する。1961年4月、作戦は実行されたが爆撃機によるキューバ基地空襲、上陸作戦ともに大失敗に終わった。

失敗の原因は新大統領とCIAとの意思疎通が不十分だったこと、カストロ政権に作戦を知られていたこと等があるが、この「ピッグス湾事件」の大失敗によりケネディは世界から非難される。当初カストロはアメリカと協力関係を保ちたかったが、アイゼンハワーからも無視をされ、ケネディからは戦争を仕掛けられた。止む無くアメリカを見限り、キューバ政権はソ連の傘下に入る。ソ連にとってキューバは重要な戦略的な基地になるので渡りに舟である。


フルシチョフとのウィーン会議
 
米ソの間では際限のない東西対立、軍備拡大、核実験禁止、ベルリン問題と問題は山積みだった。1961年6月にケネディはソ連首相フルシチョフ(1894~1971)とウィーンで会議の場を持った。フルシチョフはエリートのケネディとは違い貧困層出身の叩き上げだが、そのしたたかさと観察眼は鋭く隙はない。10万人が粛清された「スターリンの1938年大粛清」で200人の中央委員会役員の中で生き残った3人の1人である。67歳の東の雄と44歳の西の雄は通訳のみの首脳会談で対決した。

ケネディは強気一辺倒のフルシチョフには少したじろいた。中でも東ベルリンから西ベルリンへの人口流失問題に手を焼いていたフルシチョフは先手を打ってきた。「東ドイツの中に西ベルリンがあるのは不自然じゃないか。問題解決のため西側はベルリンから撤退してもらいたい。」と要求してきた。ケネディは「西側の権利は断じて放棄することはない。」と応酬する。この会談は双方何の成果もなく平行線に終わったが、ケネディは難題に直面し一歩も退かない交渉で真の大統領になったと言われる。


検問所で睨み合米ソ両軍(1961年10月27日)

帰国したケネディは西ベルリンを守るため国防費の増額と陸海空三軍の大幅増加を発表した。ケネディの強硬姿勢に対し、フルシチョフは1961年8月、「ベルリンの壁」建設という手段で対抗した。最初は鉄条網、次にコンクリートで西ベルリンの周囲156㎞を囲んでしまう。突然作られた壁により分断された市民の悲劇は言うまでもなく、壁を乗り越えようとして射殺される市民もいた。ケネディはアメリカ陸軍精鋭部隊1600人を東ドイツを通過させ西ベルリンに入れ徹底的に防御する決意を示した。ベルリンの緊張の最中、ソ連は突如核実験を再開する。

検問所でにらみ合う両軍の戦車が一触即発の危機になる。対立の中でケネディとフルシチョフは水面下で連絡をとり、両軍の戦車を撤退することに合意、危機は回避された。2年後に西ベルリンを訪問したケネディは30万人を前に市民広場で演説する。「2000年前、最も誇り高い言葉は『私はローマ市民だ。』であった。今日、最も誇り高い言葉は『私はベルリン市民だ。』である。」 西ベルリン市民は歓呼で答える。ケネディ暗殺後にこの広場は「J・F・ケネディ広場」と改名された。(ベルリンの壁は1989年11月まで続く。)


キューバ海上封鎖宣言に署名

ベルリンの壁建設の翌年1962年10月、キューバを偵察していたアメリカ空軍は建設中のソ連の核ミサイルサイロを撮影した。ケネディは緊急に国家安全保障会議を招集する。副大統領、国務長官、国防長官、国連大使、司法長官(ロバート・ケネディ)ら首脳たち14人が集められた。10月16日から13日間に及ぶ核戦争寸前までの張りつめた「キューバ危機」が始まる。様々な議論の中で空爆か海上封鎖に意見は集約される。しかし国連大使スティーブンは「平和的解決手段がすべて無駄に終わるまで空爆をしてはなりません。」と強く反対した。海上封鎖を実行、空爆は進展を待つことになる。

キューバでのミサイル建設が急ピッチで進む中、フルシチョフから10月26日「アメリカがキューバを侵攻しないと約束すれば撤去に応じる。」と、翌日「その交換条件としてトルコにあるアメリカのミサイルを撤去すること」と言ってきた。その日、アメリカの偵察機がキューバの地対空ミサイルにより撃墜されると、ほぼ全員が空爆破壊で一致した。ケネディは1日待てと命じ、フルシチョフに「ミサイル撤去が確認された段階でトルコからも撤退する」と回答する。翌朝モスクワ放送のラジオニュースでフルシチョフはミサイル撤去を発表した。

~~さわやか易の見方~~

***   *** 上卦は水
******** 困難、悩み
***   ***
***   *** 下卦も水
********
***   ***

「坎為水」の卦。坎(かん)は険難に陥ることを意味し、坎が二つ重なることから一難去ってまた一難という状態である。次から次へと困難な目にあうことが一生に一度か二度はある。何ものにも恐れぬ信念と至誠をもって立ち向かうしか方法はない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。困難の先には平安が待っている。

核ミサイルが運ばれていたかは不明だったが、実際に秘密裏に搬入されていたことが解った。後にキューバのカストロはフルシチョフに核ミサイルの使用を呼びかけていたと語ったという。中国の毛沢東はフルシチョフの弱腰を非難したという。キューバ危機は核ミサイルの上でソ連、アメリカ、キューバがダンスをしたようなもので、誰かが一歩間違っていたら核戦争に突入していたことになる。

ケネディの大統領在任は2年10ヶ月であるが、核戦争の危機についてこれ程重大な局面はなかっただろう。ケネディ暗殺の翌年にはフルシチョフも突然失脚させられ政界から去った。米ソの対立、中でもこの二人の対決は一つの頂点でもあり分岐点でもあった。両国と世界はこれ以上の核拡散がどんな意味があるのかを真剣に考えるきっかけになっただろう。今も尚、その結論は出てはいない。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

J・F・ケネディの時代(2)

2017-11-08 21:43:36 | 20世紀からの世界史
魚雷艇乗船中のJ・F・ケネディ

兄ジョセフ・ジュニアは成績抜群でスポーツ選手としても活躍していたが、ジョンは生まれながらに背骨部分に障害があり、怪我をしやすく時折激しい苦痛に襲われる少年だった。しかし負けん気だけは人一倍強く、困難から逃げずに不可能なことに挑み続けた。精神力と根気強さが養われたのは病気との戦いで養われたともいえる。父の尽力でハーバード大学に入学した頃からは水泳、ヨット、ゴルフに興じるほど健康を取り戻した。1940年、優秀な成績でジョンは大学を卒業する。

陸軍と海軍の士官候補として受験したが、健康を理由に合格できなかったが、英国大使の父の口利きにより海軍に入る。日米戦争中、ソロモン諸島でジョンが艦長だったパトロール魚雷艇は1943年8月、日本海軍の駆逐艦に衝突され船体は真っ二つに、乗組員は海に投げ出された。ジョンは仲間と泳いで無人島にたどり着き九死に一生を得る。父は海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手を回し、「ニューヨーカー紙」に掲載、さらに「リーダーズ・ダイイジェスト」にも掲載したのでジョンの名は全米に知られた。


J・F・ケネディとジャックリーンの結婚式

1944年8月、父の期待を背負った海軍パイロットだった兄ジョセフは戦死する。父の野望はジョンに移り政界入りを目指し1946年下院議員選挙に打って出る。母方祖父の前ボストン市長フィッツランドの協力、家族ぐるみの支援により29歳の若さで下院議員になった。6年間の下院議員時代は多くの外国を訪問し見分を広める。インドのネルー首相からは「東西対立の中で西側諸国の無策が発展途上国を共産化させる。」と指摘を受ける。

1952年、マサチューセッツ州から上院議員選挙に出馬、父からの潤沢な選挙資金もあり当選、上院議員となった。ジョンは1953年9月、フランス系アメリカ人の名門ブーヴィエ家の娘24歳のジャックリーンと結婚した。ジャックリーンは裕福な家庭に育ちワシントン大学を卒業、新聞記者になっていた。その美貌は政治家の妻に相応しいと父ジョセフも賛成する。結婚式にはローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられ、披露宴には1300人が出席する超豪華版だった。


退院するジョンとジャックリーン
 
幸福に見えた結婚生活だったが、ジョンは結婚直後から2年間にわたり何度も脊椎の手術を受けることになり、上院本会議も長期欠席を余儀なくされた。アジソン病と診断され副腎の機能不全、不治の病と考えられたが、コーチゾン剤の開発で議員生活が可能になった。しかし剤の副作用は「陶酔状態に似た著しい気分の高揚、、精力、集中力、筋力の増進」とされ、過剰なまでの自信、日焼けしたような肌色、際限のない性的衝動も現れるとされる。

ジョンは手術から回復するまでの間、歴史に残る勇気ある行動をとった上院議員たち8名の伝記と自分の政治信念を書くことを思い立った。それがピューリツァー賞を受賞した「勇気ある人々」でありベストセラーとなった。ジャックリーンにとって忍耐の日々は続いた。最初の子は流産、次の子は死産だった。しかし健康を回復するとジョンの女癖は続き、死産の知らせを聞いても家に戻りもしなかった。離婚を考えたジャックリーンは義妹(ロバートの妻)エセルに打ち明ける。それを聞いた父ジョセフは「もし子供が出来たら一人100万ドルの信託財産をやる。」と言って翻意させたという。


資金パーティーでのF・シナトラとエレノア・ルーズベルト

ジョンの名が全米に知られるようになったのは1956年の民主党全国大会においてだった。アイゼンハワー大統領との2期目選挙を争う民主党候補アドレー・スティーブンソンの指名推薦演説が見事で選挙には負けたが民主党員にジョンの名が広まった。1960年の民主党予備選挙に立候補する。元大統領トルーマンからはジョンの若さが指摘されたが、ジョンは「14年間の政治経歴が経験不足というなら、歴代の大統領の大部分は経験不足である。43歳が責任ある地位に就けないのなら建国の父たちは存在しなかった。」と反論した。

民主党大統領候補に指名されたジョンは「ニューフロンティア精神」を掲げて共和党のニクソンと雌雄を決することになる。選挙の裏表を熟知した父ジョセフの作戦、親族ぐるみの応援、俳優ピーター・ローフォード(妹パトリシアの夫)の助言を受けたテレビ討論、公民権運動で逮捕されたキング牧師への気遣い、フランク・シナトラ、サミー・デイヴィスJrなど芸能人たちの協力も功を奏した。下馬評は副大統領だったニクソンが有利だったが、選挙終盤にはどちらとも言えない大接戦になる

サム・ジアンカーナ

父ジョセフは禁酒法時代にマフィア組織と関係を持っており、マフィアと関係の深い労働組合、非合法組織を買収するなど大規模な選挙不正が行われた。ジョンも愛人関係だった女優ジュディス・キャンベルを経由してマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナに選挙協力を要請した。選挙終盤、ニクソン陣営はその情報を告発しようとしたが、アイゼンハワーから「告発すれば泥仕合となり、国家の名誉を汚すことになる。」と説得されたという。

1960年11月8日、史上例を見ない激戦の結果、ジョン3,422万6,731票に対しニクソン3,410万8,157票で、その差11万8,574票であった。全米に12万の投票所があるが、1つの投票所で1票の差でしかなかったことになる。選挙で選ばれた史上最も若いJ・F・ケネディ大統領が誕生した。

~~さわやか易の見方~~

***   *** 上卦は沢
********
********
***   *** 下卦は地
***   ***
***   ***

「沢地萃」の卦。萃(すい)は集まる、集めるである。人や物が集まること。砂漠の上にオアシスがある象である。君主のもとに家臣や国民が集まってくる。君主は霊廟を拝し感謝を捧げ、盛大な祭礼を行う。敬虔な態度を堅く守れば国力は盛んになるだろう。しかし人が集まれば不慮の変事もある。君主は軍備を整え、思いがけない変事に警戒しなければならない。

ケネディ大統領誕生の裏には合法非合法、あらゆる手段が行使されたことが想像できる。それ程アメリカ合衆国の大統領の座を射止めることは困難を極めることなのだろう。オバマ大統領もトランプ大統領もこうした試練を乗り越えて大統領になったのだろう。それにしてもアメリカ社会を動かす闇の世界が存在することも無視できない。むしろ表の世界よりも権力があるのではないだろうか。

ジャックリーンはわずか31歳でファーストレディーになっている。そのファッションは世界の女性の憧れの的になった。しかしホワイトハウスの生活はわずか2年10ヶ月だった。その5年後にギリシャの大富豪オナシスと再婚し世界を驚かせた。J・F・ケネディにも引けを取らないジャックリーンの強烈な人生。強大な国アメリカが育てたいかにもアメリカ人らしい一組の男女である。
 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加