(その1)一、はじめに
(その2)二、瀬田・宇治合戦
(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的
(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦
(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦
(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦
(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置
五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦
『吾妻鏡』・『平家物語』諸本、とりわけ『延慶本平家物語』により福原合戦の前段階にあたる三草山合戦への経過を見てみましょう。
1月29日、源範頼・義経の両将は後白河院のもとに参上し、次いで出陣しました。生田森(兵庫県神戸市中央区中山手通辺)を目指す大手軍は大将軍が範頼で5万6千騎、一谷(兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町辺)を目指す搦手軍は大将軍が義経で1万騎(『吾妻鏡』では2万騎)です。これに対して、平家軍は、東に生田森、西に一谷に木戸口を構え、海から山際にかけて防御施設を構築しました。平宗盛を総帥に福原(兵庫県神戸市兵庫区)を中心に東西約10km余りに10万騎(『吾妻鏡』では数万騎)を配しました。
大手軍は、2月4日に出京し、5日には摂津の武庫川東岸の昆陽野(兵庫県伊丹市昆陽辺で、生田森まで約20㎞)に布陣しました。一方、搦手軍は同日に出立し、丹波路(山陰道)から、三草山(兵庫県加東市山口辺)の東口の小野原(京都府篠山市小野原)に、2日の日程を1日で同夜に到達しました。
もちろん、ここに示した両軍の兵数は実数ではなく誇大化されたものといってよいでしょう。しかし、全体的傾向は表していると考えます。すなわち、第1に、源氏軍総数6万6千騎対平家軍10万騎ということは、必ずしも源氏軍が優勢ではなかったことです。むしろ平家軍が優勢であったといってよいでしょう。第2に、範頼軍と義経軍の兵数比を考えると、約5対1弱となり、源氏軍の圧倒的多数が大手軍に所属することです。大手軍が主攻で、搦手軍が助攻であることは明白です。
搦手軍は山中を長距離行軍しなければなりませんから、機動力に富まなければなりませんので、当然ながらその軍装は大手軍に比してより軽装であるでしょう。それらのことから考えられる源氏軍の戦術は、大手軍をもって生田森の平家軍防禦線の突破を図り、搦手軍は長躯機動して、平家軍の西国への連絡口である一谷を遮断封鎖すると、いったものと考えることができます。あくまでも大手軍が平家軍を破砕する、正面突破策です。しかし、この戦術では敵の最大抵抗線を攻めることとなり、平家軍のほうが多数という状況を考えると、その成功は困難なことと考えることができます。そこから、「鵯越」が勝利に決定的役割を果たしたとの評価が生まれるのです。この点に関しては後であらためて考察します。
平家軍は義経軍の丹波路への機動を知り、平資盛・有盛・師盛・忠房と、都落ち後に別行動を取って、平家本軍から離脱した維盛を除く小松家兄弟の全力を投入して、7千騎を派遣し三草山西口に防衛線を張ります。これを知った義経は、3里の山中を夜間行軍して、丑刻(2時)に夜襲をかけて、5日未明に平家軍を敗走させました。主将の資盛は福原に戻らずに、海を渡って淡路国へと逃れます(語り本系の『平家物語』覚一本では、高砂から海を渡り讃岐国屋島に逃れたとなっています)。いずれにしても、資盛は三草山から加古川に沿って海岸に逃れたことになります。一方、弟師盛は福原に戻り敗退を告げます。これが一谷の前哨戦の三草山合戦です。見事な夜襲の成功です。但し、『平家物語』諸本では夜襲にあたって、この進撃のために、東国武士の進言により、民居に放火して「大だい松」と称して道を照らしたとありますが、これでは奇襲にはならず、物語の虚構と考えます。
夜襲が成功するためには、味方の連繋とともに、進撃順路の正確さが欠かせません。正確な地図のない時代ですから、このためには現地の地理に精通した者の存在が不可欠です。この点、義経以下の東国武士には土地勘はありませんから落第です。一般に源氏軍=東国武士と考えられてきましたが、実はその過半は畿内を中心とした近国の武士たちです(元木泰雄氏「頼朝軍の上洛」『中世公武権力の構造と展開』2001年吉川弘文館参照)。同氏は、『玉葉』で述べる源氏軍の大江山在陣は摂津源氏の多田行綱との合流のためと、考察しています。この点は私も賛成します。したがって、義経軍に摂津の土地勘を持った武士がいたのは当然なことで、これが夜襲の成功の前提条件になります。『吾妻鏡』や『平家物語』は夜襲が東国武士の田代信綱・土肥実平の献策と記しています。しかし、真の献策者は畿内武士と考えるのが至当ではないでしょうか。それにしても、これを実行して成功させた義経には将才があったことになります。
さらにいうならば、この義経軍の一谷への進出は丹波から摂津へかけての交通路に精通していなければ実行しえないものです。同時にこの行軍はスピードを要求されますから、行路における協力者も必要でしょう。現地でこれらを得ることは保証されているわけではないのです。したがって、本作戦は東国武士だけで実行できるものではなく、畿内武士とりわけ摂津武士の参画なくして実行できないといえます。すなわち、源氏軍の本作戦には摂津武士が参画していたと考えるのです。
(2015.09.05)