歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

相模国武士土肥実平の没年―歴史雑感〔38〕―

2018年02月10日 20時00分36秒 | 日本史(古代・中世)

相模国西部に勢力を張る桓武平氏中村氏族の一員、同国足柄郡土肥郷(神奈川県湯河原町)を本貫の地とする土肥二郎実平は、源頼朝の蜂起当初から参加して、石橋山合戦敗走による頼朝安房国渡海を成就させ、源義経軍の眼代(軍奉行)として福原合戦(一谷合戦)に参戦し、次いで中国方面の惣追捕使として対平家戦の最前線に立ち、以上治承・寿永の内乱で活躍し、そして奥州藤原氏攻略の奥州合戦にも参加する等、鎌倉幕府成立の功臣であることは周知のことです。しかし、『吾妻鏡』には実平の死去記事は存在しておらず、没年が定かではありません。そこで、改めて実平関係の『吾妻鏡』記事を見てみましょう。

『吾妻鏡』建久3年(1192年)2月5日条に、92歳になる故源義朝乳母摩摩局が鎌倉に来て頼朝と対面し、「早河内の知行地、課役免除すべきのよし、惣領に仰せられるべきの旨望み申す」と、早川庄内の地の課役免除を願い出ます。この願いに対して、「三町新給を相い加えられの上、申請の旨に任せ、さっそく盛時を召し、土肥弥太郎に下知すべきの趣、仰せられる」と、旧地に加えて新地3町を与えて、課役免除を「惣領」、すなわち土肥弥太郎遠平に命じます。遠平は実平の嫡男であり、父実平とともに頼朝蜂起に当初から参加しています。当然ながら実平の後継者として「惣領」であることは全く問題ありません。とすると、この時点では土肥氏惣領は実平から嫡男遠平に継承されていたことになります。実平が総領の座を譲り引退したのでないとすると、これ以前に実平は死去していたことになります。

そこで、『吾妻鏡』における実平の最終所見を確認してみましょう。それは、建久2年(1191)7月18日条に、「内御厨〈十間〉立柱上棟。土肥二郎、岡崎四郎等これを沙汰す」、とあるものです。大蔵幕府の馬屋上棟式の沙汰を姉妹婿の岡崎四郎義実とともに行ったのです。実平は前年の頼朝建久第1次上洛にも参加しており(建久元年11月7日条等)、建久元・2年段階では健在です。とするなら、建久3年2月5日に嫡子遠平が土肥氏惣領として登場することは、同2年7月18日からこの間に実平が死去したことを示唆するものといえましょう。すなわち、『吾妻鏡』からの分析では実平は建久2年7月18日から同3年2月5日の間に死去したと推定することができるのです。

さて、『系図纂要』第八册頁208に、実平の脇注に「建久二年十一ノ廿五死」とあります。『系図纂要』は江戸時代末期の国学者飯田忠彦の編にかかるものです。この意味からいうと史料的価値に劣るものです。しかし、『吾妻鏡』で推定される実平の死去時期はこれと矛盾せず、『系図纂要』の示す実平死去日時には信憑性があるといえましょう。すなわち、実平の死去は建久2年(1191)年11月25日といえます。

(2018.02.10)

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