民主代表選/「陸山会事件は特捜部の暴走でした」と、国民に説明する責任が検察にあるのでは

2010-08-26 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

〈来栖の独白〉
 各社報道によれば26日朝、小沢一郎氏は民主党代表選に出馬を表明した。
 小沢一郎氏のことになると、直ぐに「政治とカネ」という言葉が出る。これは特捜の作り話をメディアが大騒ぎし、事件にしたにすぎない。この検察ストーリーによって、小沢氏は幹事長の職を追われ鳩山政権は崩壊させられた。菅直人氏が首相になったが、これは官僚依存政権と堕した。
 国民を「真実」から遠ざけ、この国の政治を歪めてしまった責は、官僚(検察)と巨大メディアにある。
 検察・メディアを斯くも打倒小沢に駆り立てたのは、小沢氏の政策の数々であった。その筆頭が「脱官僚依存」であり、「メディアの開放」であった。官僚・巨大メディアは小沢潰しに、躍起となった。
 近く、石川議員の公判が始まるだろう。小沢氏も強制起訴されるかもしれない。ここで問われるものは、検察の事件でっち上げである。
 「陸山会事件は特捜部の暴走でした」と、国民に説明する責任が検察にあるのではないか。メディアは、裁判の真実を報道する使命があるのではないか。国民は検察やメディアに踊らされず、小沢氏の政策(脱官僚依存=国民による政治)に耳を傾けるべきではないだろうか。そうするところから、政治と官僚の真実のありようが見えて来、この国は健全な姿を取り戻すことができると思う。
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“検察の正義”に委ねていいのか? 検察を支配する「悪魔」 
魚住 今の日本は大きな問題を抱えています。それは検察庁という行政機関が巨大な力を持ちすぎて、誰もそれを統御できないということです。その上、検察は組織が腐敗し、かつ捜査能力が極端に低下しています。検察の暴走、腐敗、能力低下の3つが同時進行しているのです。それを如実に示したのが小沢幹事長をめぐる一連の捜査でした。
 2009年3月、西松建設関連の政治団体から2100万円の偽装献金を受け取った疑いで、小沢氏の秘書(大久保隆規氏)が政治資金規正法違反の疑いで逮捕されました。これは従来の常識では考えられない出来事でした。過去の摘発例を見ると1億円を超える裏献金を受け取った政治家が立件されたケースはありますが、政治資金収支報告書に記載されているオモテの金で、額が2100万円に過ぎないのに立件するというのは異常なことです。
 しかも衆議院選挙を目前にした時期に、検察は従来の立件のハードルをガクンと下げて、野党第1党の党首側近を逮捕しました。当然ながら、「この捜査は不当な政治介入だ」と世論の強い批判を浴びました。一部では、「当時の麻生政権の要請を受けて行われた国策捜査だ」という意見もありましたが、私はそうは思いません。検察はその時々の政権の意のままに動くような組織ではありません。特捜部の検事たちはいつの時代もそうですが、多少無理をしてでも政治家がらみの事件をやって手柄をあげ、マスコミの脚光を浴びて出世の足がかりにしたいのです。
 問題は「特捜部の暴走を検察の上層部がなぜ止めなかったか」ということです。私は上層部の判断の背景には「小沢政権ができることに対する忌避感があったのではないか」と疑っています。
 小沢氏はもともと検察と仲が良くありません。しかも彼は脱官僚、つまり検察を中軸とする中央官僚機構の解体・再編を目指すと公言している政治家です。「そんな人が首相になったら困る」という上層部の思惑が微妙に作用したのではないか。そうとでも考えなければ理解できない異常な捜査でした。
 2009年末から表面化した陸山会の土地購入をめぐる事件は、西松建設の事件で世論の批判を浴びた検察がその失地回復のために行った捜査でした。つまり、検察のやったことを正当化し、「小沢は金に汚い悪質な政治家だ」ということを証明するために行われたものです。
 この第2ラウンドの捜査でも検察は敗北しました。大物政治家を2度も被疑者として調べながら、起訴できないというのは、検察にとって戦後最大級の失態です。捜査が失敗した理由は明白です。「小沢氏の当時秘書だった石川知裕衆議院議員に5000万円の闇献金を渡した」という水谷建設(水谷功元会長)側の怪しげな証言を信じ込んだからです。
 ところが、検察が信じた水谷建設側の供述はうそ話だった。石川議員が否認を貫き通せたのは、まったく身に覚えがない事実だったからです。あらかじめ決めたターゲットを摘発する、つまり「小沢を狙い撃ちする」という捜査の常道に反することをしたから検察は失敗したのです。今回の事件だけでなく、10年あまり前から検察は同じような不純な捜査を繰り返すようになっており、検察の劣化・暴走が目立つようになりました。
検察の劣化・暴走が目立つようになったワケ
 なぜ検察はそうなってしまったのか?
 重要なポイントだけを挙げると、1つは検察の裏金問題です。検察は少なくとも1999年まで、年間5億円前後の裏金を組織的に作り、幹部の交際費、遊興費にあててきました。検察はその事実を全面否認したばかりか、2002年にはその裏金作りを内部告発していた三井環という中堅幹部を口封じのために逮捕しました。これは恐ろしい権力犯罪ですが、日本の主要なメディアはきちんと批判しませんでした。検察が最も大事な情報源であるため、その検察の機嫌を損ねて情報がもらえなくなるのを恐れたからです。
 これを別の角度から見ると、検察は主要なメディアに対する影響力を保ち、自らの恥部を覆い隠すためにも常に大事件をやり続けなければならない。そういう自転車操業的な体質を身に付けてしまったと言えます。この裏金問題は、検察組織のモラルハザードを深刻化させました。上層部が「自己保身のために何をやってもいいのだ」というお手本を示したのですから当然でしょう。
 2つ目の理由は、今も触れた主要な新聞・テレビメディアと検察の癒着関係です。検察の暴走をチェックすべきメディアがその役割をほとんど果たしていません。
 3つ目の理由は、裁判所と検察の癒着です。日本では起訴された案件の99%近くが有罪になります。起訴事実を否認して無実を主張すると、1年も2年も身柄を拘束されます。検察の言い分を裁判官がほとんど認めるので、裁判所は検察の暴走をチェックする役割を果たしていません。
 つまり、検察をメディアと裁判所が強力にサポートする体制ができあがっているのです。だから検察の力は巨大なのです。法律の上でも検察の幹部人事は国会の承認が必要ではありません。選挙による民意のコントロールも利きません。
――報道にたずさわる人間と検察とがクローズドな形でコミュニケーションをとっていることについてどう考えますか?
魚住 記者クラブについて申し上げます。記者クラブ自体が特殊なのですが、検察庁を担当している司法記者クラブというのはさらに特殊な記者クラブです。どこが特殊かというと、検察庁という行政機関の方が記者クラブより圧倒的に力を持っていて、検察庁の気に入らないことをしたら出入り禁止になるという規則があります。それから、テレビカメラが入れません。司法記者クラブの力が検察庁より圧倒的に弱いがために、そういう特殊な慣行がいまだに続けられている。
 なぜ圧倒的に弱いかというと、検察庁がものすごく貴重な情報を持っているからです。「自分の会社だけでもその情報をもらいたい」という気持ちがあって、1つにまとまれないんですね。これは逆に言うと「検察庁の分割統治が成功している」ということです。
郷原 本当の問題は今、司法記者クラブに所属している記者の問題ではないと思うんですね。むしろ、司法記者クラブ出身のもっと上の遊軍と言われる人たちにあると思います。そういう人たちは検察幹部や法務省幹部と個人的なつながりを持っていて、むしろそういったところが(司法記者クラブ所属の記者より)貴重な情報をつかんできます。
 その人脈は彼らにとって財産です。「自分が貴重なつながりを持っている相手が常に正義であって、正しい」という前提が維持されると、その情報源が生きてくるわけですね。ですから、もしその前提が崩れてしまうと、長年にわたって築き上げてきた記者としての財産が失われてしまいます。そのため、検察と司法記者クラブ系メディアの一心同体的な関係ができあがる、というところに最大の問題があると思っています。
――先ほど魚住さんは10年前くらいから検察の劣化・暴走が目立つようになったとお話しされましたが、その具体的な例を教えてください。
魚住 いちいち挙げていったらキリがないのですが、例えば1997年前後に行われた不良債権の処理に絡む捜査ですね。最終的に最高裁で無罪になった、日本長期信用銀行の特別背任事件が特徴的です。要するに長銀の経営破たんの責任者を処罰することが時効でできなかったので、経営破たんの後始末に入った人を逮捕して、スケープゴートとして国民の前に差し出したというような事件でした。
郷原 2009年9月に出した『検察の正義』という本の中で詳しく書いていますが、私は2000年前後以降、特捜検察がやった事件でまともな事件は1つもないと思います。やればやるほど、どんどんやることのレベルが落ちている。それが実情だと思います。
 普通なら、企業であればいいものを作らなければどんどん売れなくなる、どんどん組織が衰退していくんですね。ところが検察の場合は、その商品が消費者に評価されるのではなくて、ほとんどマスメディアを通じてしか評価されません。そのため、悪質性や重大性という面ではレベルの低いものしか摘発できないわけですが、それをマスメディアが評価してしまう。評価されると、「この程度でもいい」という話になって、やることがもっと落ちていく。それが能力低下を招いていった1つの負のスパイラルなのかなと考えています。
――日本には検察の捜査に対して、民主的な手段で介入できるようなシステムはありますか?
郷原 日本の法律では検察庁法14条で法務大臣の指揮権として、そのことに関する規定があります。これは検察の権限行使に対する唯一の民主的コントロールを定めた規定です。
 ですから、今、考えるべきことは「法務大臣の指揮権をいかに適切に行使するシステムを作るか」ということです。検察の権限行使を政治的に利用するような方向で、法務大臣の指揮権を不当に使うというようなことは確かに問題です。しかし、「検察の権限行使が本当に正しいのかどうか」ということを専門的な見地、第3者的な見地からチェックできるようなシステムを作ることが今、日本にとって非常に重要なのではないかと思います。
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検察(審査会)の権限が政治的に不当な影響を及ぼすことについての危機感
 まず今、必要なことは日本人全体がこの検察の正義というマインドコントロールから脱することです。人が集まってできている組織なので、そこでは必ず間違いが起きる可能性があります。そして、とりわけ検察の場合は、一度判断したことを後で訂正することが難しいわけです。大きな影響を生じさせてしまうと、「それが間違いだった」ということを後で言いにくい。その分、一度犯した間違いがもっと大きな間違いになってしまう可能性があります。そういう検察の間違いが社会にとって致命的な間違いにならないように、検察にも一定の説明責任、そしてその判断の根拠に関する資料の開示責任というものを常にきちんと負わせていく必要があります。
 ところが先ほど言いましたように、日本の刑事司法というのは、殺人や強盗のような価値判断不要な伝統的な犯罪を前提に作られています。検察官にはほとんどと言っていいほど、説明責任も、そして資料については透明性も求められていないわけです。
 そういう検察に対しては、マスメディアと政治とが権力バランスをうまく保っていくことが不可欠だと私は思います。ところが先ほど魚住さんが言われたように、日本のマスメディアは基本的に検察と一心同体の関係であり、検察に対する批判的な報道や検察のアクションを疑うということをまったくしません。「それはなぜか」というと、検察が“いい”事件をやることが基本的にマスメディアにとって利益になることだからです。利益共同体のような存在です。
 そして、日本では歴史的に、「政治は検察の正義に対して介入してはならない」とされてきました。「検察が判断する通りに事件をやることが正義であり、それに政治的に介入すること自体が悪だ」という風にされてきました。ですから、政治は検察に対するチェック機能をほとんど果たしてきませんでした。
 自民党中心の政権がずっと続いていた時代には、そのこと自体はあまり問題ありませんでした。なぜかというと、検察も政治的に大きな影響を及ぼさないように自制的に権限行使をしてきたからです。しかし現在の日本は、国民の主体的な選択によって政権が選択され、それがまだ不安定な状況です。こういう状況において検察は、「検察の権限が政治的に不当な影響を及ぼすことについての危機感というものを、もっと強く持つ必要があるのではないか」と思います。
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