「千人殺せば往生」

2010-06-30 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之

親鸞「千人殺せば往生」 梅原 猛
 中日新聞夕刊 2010/6/28 Mon.
 鎌倉仏教の法華宗の宗祖日蓮、及び曹洞宗の宗祖道元が、仏教の第一の戒である不殺生戒を守ることについて必ずしも厳格でないことが分かった。それでは浄土真宗の宗祖親鸞はどうであろうか。
 私は70年前から『歎異抄』を何百回と読んできたが、そこでもっとも理解し難かったのは第一三条である。親鸞が唯円に「私の言うことを信じるか」と念を押したうえで「人を千人殺せば必ず往生することができる」と言うと、唯円は「私には一人でも殺す器量がありません」と答えた。すると親鸞は「人を百人、千人を殺すのも、また一人も殺さないのも前世の因縁によるものであり、その人の心がよいか悪いかではない」と言った。
 この第一三条の話は、「善人なをもて往生をとぎ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」という第三条に通じる『悪人正機説』の話であろうが、それにしても、親鸞が「人を千人殺せば往生できる。おまえは千人殺せるか」と弟子の唯円に言ったと言うのはいささかならず異常なことのように思われる。
 清沢満之が『歎異抄』を再発見して以来、『歎異抄』は「悪人正機説」のバイブルとなった。そこで悪といわれるのは、師にまして『歎異抄』を広めることに貢献した満之の高弟、暁烏敏の考えるような、性欲を抑えられず次々と女色の罪を重ねる悪ではない。それは明らかに人殺しの悪なのである。
 この説は親鸞の主著『教行信証』でもはっきり語られている。「観無量寿経」は、わが子アジャセ王に幽閉されたイダイケ夫人の往生を説く教典であるが、『教行信証』は、父を殺し母を幽閉した極悪人というべきアジャセ王の往生を語る経典といってよい。
 私は、この親鸞の異常な思想が何に起因するのか、長い間分からなかった。浄土教研究家の吉良潤氏が綿密な文献考証によって、親鸞の母は源義朝の娘であるという説を出したが、この説に私は賛同する。親鸞の母方の祖父が源義朝であるとすれば、この異常な思想がよく理解されるのである。源義朝は保元の乱において敵となった父為義を殺したし、千人もの人を殺していることは間違いない。
 甚だしい自己省察の人である親鸞は自己の血の中にそのような悪人を感じ、そのような悪人も念仏を唱えれば往生できるという思想に魅せられ、僧としての出世の道を投げ捨てて師、慈円のもとを離れ、一介の聖にすぎない法然のもとに走り、浄土念仏の教えの熱烈な讃仰者になったのではないかと私は思う。親鸞ほど、救われた喜びを高らかに語った祖師はいない。また親鸞の念仏は、法然の念仏よりはるかに感謝の念仏という性格が強い。
 このように考えると、親鸞の「悪人正機説」は、心ならずも不殺生戒を犯さざるを得なかった人間を救う教えであったといえる。(哲学者) 
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 五木寛之著『人間の運命』=人間すべて悪人という反ヒューマニズムの自覚
p171~
 真の親鸞思想の革命性は、
「善悪二分」
 の考え方を放棄したところにあった。
「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
 彼の言う「悪人正機」の前提は、
「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」 という点にある。
 人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
 すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点
 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
 どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
 『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
 しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
 なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
 金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
 それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
 先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
 じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
 金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
 現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
 しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。 
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 ペリカンの受難/口蹄疫/人間中心主義思想の根底に旧約聖書/ネット悪質書込みによる韓国女優の自殺 2010-06-17 
〈来栖の独白〉
 1991年の湾岸戦争。海岸に接していた大規模石油基地が爆破され、大量の重油が海に流れ出したことがあった。この際にも、多くの無辜の生物が油に翼を奪われ、いのちを落とした。
 地球は、宇宙は、ひとり人類だけのものではない。声なき声の多くの生物のものでもある。
 五木寛之氏は『天命』(幻冬舎文庫)のなかで次のように言う。*強調(太字)は来栖

 “たとえば、環境問題は、これまでのヨーロッパ的な、キリスト教的文明観では解決できないのではないでしょうか。
 欧米の人たちの考えかたの伝統のなかにには人間中心主義というものがあります。この宇宙のなかで、あるいは地球上で、人間が神に次ぐ第一の主人公であるという考えかたです。
 これはルネサンス以来の人間中心主義の思想の根底にあるものですが、主人公の人間の生活に奉仕するものとして他の動物があり、植物があり、鉱物があり、資源がある。水もあり、空気もあると、考えるわけです。
 そうした考えのなかから生まれる環境問題の発想というのは、やはり人間中心です。つまり、われわれはあまりにも大事な資源をむちゃくちゃに使いすぎてきた。これ以上、水や空気を汚し樹を伐り自然環境を破壊すると、最終的にいちばん大事な人間の生活まで脅かすことになってしまう。だからわれわれは、もっとそうしたものを大切にしなければいけない。----これがヨーロッパ流の環境主義の根源にあるものです。(略)
 これに対し、アジアの思想の基本には、すべてのもののなかに尊い生命があると考えます。
「山川草木悉有仏性」という仏教の言葉があります。山の川も草も木も、動物もけものも虫も、すべて仏性、つまり尊いものを持っている、生命を持っているんだ、という考えかたです。
 そうした考えかたから出ている環境意識とは、川にも命がある、海にも命がある、森にも命がある、人間にも命がある。だからともに命のあるもの同士として、片方が片方を搾取したり、片方が片方を酷使するというような関係は間違っているのではないか、もっと謙虚に向き合うべきではなかろうか、というものです。こういう考え方のほうが、新しい時代の環境問題には可能性があると私は思うのです。
 つまり「アニミズム」ということばで軽蔑されてきた、自然のなかに生命があるという考え方こそは、遅れた考え方どころか、むしろ21世紀の新しい可能性を示す考えかたなのではないでしょうか。
 狂牛病の問題で、あるフランスの哲学者が、人間のために家畜をありとあらゆる残酷なしかたで酷使してきたツケが回ってきたのだと言っていました。人間のために生産力を高めようとして肉骨粉を与え、共食いさせた。そうした人間の業というものがいま、報いを受けているのだ、と。狂牛病の問題だけではなく、すべてに関して人間中心主義というものがいま、根底から問われていると思います。”

 僅かに、卑見に相違するところがある。
>これはルネサンス以来の人間中心主義の思想の根底にあるものです
 と、おっしゃるくだりである。人間中心主義思想の根底にあるものは旧約聖書ではないか、と私は観ている。創世記は次のように言う。

 “神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
 神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
 そのようになった。 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
 神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
 そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。” 〔創世記1.20~1.31〕

 日本で、口蹄疫が大きな問題となっている。牛や豚の映像に接するたび、生き物の命を奪わないでは自らの命を養えない人間、人類の宿業を思わないではいられない。
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「こころのよくてころさぬにはあらず」(歎異抄)と『イエスの涙』 2009-10-31 
 〈来栖の独白〉
 過日、ある若いご婦人からお手紙を戴いた。家庭の問題で、苦しんでいらっしゃる。御夫君が厳しい方で、郵便物全般から買い物の詳細に至るまで検閲なさる。郵便物については差出人が異性であるというだけで立腹するし、買い物も余分なお金は持たせてもらえず、買ったものは夫君のチェックが終わるまでレシートを捨てることが出来ない、そういったことが綴られていた。一日一日がどんなにお辛いことだろう。このようなご夫君のもとでは、奥様は、何一つお出来になれない。ご自分の考え・判断で行動することができない。お子さんがまだ幼いそうだが、成長に伴って養育の問題が生じるだろう。夫婦でも価値観や人生観、理想が異なることは、当然のように有る。
 幸い、私は心広く優しい夫に恵まれ、悪名高い死刑囚と養子縁組してしまうほど気儘に生きることが出来た。死刑囚勝田清孝が入籍した藤原家の、私は一人っ子であった。これがもし、私に兄や弟でもいて、彼(ら)が実家に世帯を構えていたなら、清孝を入籍させることなどできなかったろう。その程度のことは、養子縁組時にも、気付いていた。
 しかし、上述のご婦人からの書簡により、根本から考えさせられた。親鸞は『歎異抄』のなかで次のように言う。
 「こころのよくてころさぬにはあらず」
 人の心が善いから殺さないのではない。それは「業縁」のなせるわざである、と。
 五木寛之氏は「人間というものが、状況と行動のはざまにおいて、常にぐらぐらと不安定な、おそるべき存在である」と言われる。換言するなら、人は状況次第でどのような悪行でも行える、と言われるのである。更に突き詰めて極論するなら、人間はすべて悪人である、悪を抱えている、そういう存在である、と。
 私が人を殺さなかったのも、心が善かったからではなく、たまたまそういう状況に立ち至らなかったからにすぎない。また、死刑囚を弟に迎えたのも、私が何か働きかけたり頑張ったりしたゆえではなく、たまたまそういう環境に身をおいていたからにすぎない。上述のご婦人の家庭環境であったなら、死刑囚と手紙の遣り取りすら不可能だったのだ。
 ことほどさように、自らの力によってどうこうできることは、実は皆無である。そう思い至ったとき、歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悲苦の深いものから救われる)の弥陀の本願が無上に有難く感じられたのである。判断基準は、行いの「善」「悪」ではない。悲しみ・苦しみの深さである。悲苦に悩む人をこそ、弥陀は憐れんで救ってくださる・・・。
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 白柳誠一枢機卿帰天  『歎異抄の謎』 「鬱」の時代 2010-01-03 

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悪人正機 (narchan)
2010-06-30 15:46:49
悪人正機説とは、弥陀の慈悲によって悪が善に転換すると言うことではないと思います。悪は悪なりに救われる。つまり弥陀の世界は、善悪二元論を無限に超越すると言うことではないでしょうか。神に対立する悪(罪)は有り得ないと言うことでしょう。

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