【ISは追い詰められ、「国家」の姿を失いつつある】~地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、分裂である〈来栖の独白 2017.6.17〉

2017-06-17 | 国際

バグダディ容疑者、殺害か 窮地の「イスラム国」、崩れる"国家"の姿
  朝日新聞デジタル  |  執筆者: 朝日新聞社提供  
  投稿日: 2017年06月17日 09時21分 JST   更新: 56分前
 過激派組織「イスラム国」(IS)の最高指導者バグダディ容疑者が、ロシア軍の空爆で死亡した可能性が浮上した。2014年6月、イラク、シリア両国にまたがる「カリフ制国家」の樹立を宣言してから3年。一時は両国土の半分近くを支配下におさめたISは追い詰められ、「国家」の姿を失いつつある。
 バグダディ容疑者の最後の声明は、2016年11月3日に公開された音声だ。イラク北部の最重要拠点モスルがイラク政府軍などに包囲される中、戦闘員に「持ち場を離れるな」などと徹底抗戦を訴えた。
 だがこの時すでに、同容疑者はシリア国境の砂漠地帯に逃れていた可能性がある。今年5月末、イラク北部クルディスタン地域政府の治安部隊、ペシュメルガ省のジャバル・ヤワル長官は朝日新聞の取材に対し、約1カ月前の情報として同容疑者が「イラク、シリア国境で頻繁に居場所を移している」と述べた。
 ISは15年後半以降、イラクとシリアで立て続けに拠点都市を失った。イラクでは中部ラマディや同ファルージャを政府軍が奪還。ISが国家樹立を宣言したモスルの解放作戦も16年10月に始まった。現在、モスル全域の9割以上が解放され、残るIS支配地域は旧市街の約4平方キロメートル程度だ。だが、今なお500~600人の戦闘員がいるとみられ、住民を「人間の盾」にして抵抗している。旧市街は道幅が狭く、装甲車の走行が難しい。住民被害を避ける必要もあり、政府軍の進軍は難航している。
 モスル解放作戦の開始後、イラク国内にいたIS幹部の多くはシリア側に拠点を移したとみられる。
 だが、ISはシリアでも追い詰められている。
 米軍主導の有志連合は今月6日、ISが首都としてきた北部ラッカの奪還作戦を始めたと発表。有志連合の支援を受ける少数民族クルド人の武装組織「人民防衛隊」を中心とする部隊が同日、ラッカ市内に進攻した。
 有志連合はラッカをはじめ、東部のデリゾールやアブカマルへ空爆を強化。さらに、シリア西部を掌握しているアサド政権軍はロシアとイランの軍事支援を受けて、中部パルミラから東部へ勢力を拡大しており、ラッカにも迫っている。
(朝日新聞デジタル 2017年06月17日 08時17分)

 ◎上記事は[HUFFPOST]からの転載・引用です 
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〈来栖の独白 2017.6.17 Sat 〉
 奇妙なことを云うようだが、上掲報道に接し、私の裡で失望めいた思いがある。ISの姿に、私は旧約聖書の世界を夢想していたようだ。2千年前イエスが現れて、旧約の世界は、否定(完成)された。例えばそれまで細則に亘って守るべきとされてきた「律法」は、イエスによって、「神と隣人を愛すれば、全うされる」と、抽象的なものとなった。

ガラテヤの教会への手紙 5章13,14
 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。

 また、十戒では「神を尊崇」することが第一の戒めであり、上位はそれに付随する戒めが続く。「人」に眼が転じられるのは、下位(五戒以降)である。
 ISは、神を崇めるという第一戒によって動く。そのためには、人を殺すことも、さほどの罪ではない。
 日本では「人命第一」「一人の生命は全地球よりも重い」などと、言われる。
 が、旧約にも新約にも、そのような思想は見当たらない。イエスは、次のように明言する。

ルカ 14:25~26
 大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、 
「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。

 「平和」についても、例えば女優の吉永小百合さんが考えておられるような平和憲法のごときを、イエスは決して云っておられない。

ルカ 12:49〜53
49 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」

マタイ 10:34~39
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。。

 このような預言者イエスであれば、最期は磔刑より他にはなかったのも、道理かも。仏教は、「不殺生」が第一戒である。目が「上」を、ではなく、「横」を向いている。無秩序なようで、私には気持ち悪い。


聖書の苛烈とイスラム…〈来栖の独白〉 / 「モーセの十戒」と「十善戒(仏教)」
〈来栖の独白 2015/2/21 Sat.〉
 昨日午後は、名古屋能楽堂。3月7日の定例能「定家」の事前講座を聴きに。午前中に、『毎日のミサ』による聖書朗読と典礼聖歌の弾き歌い。
 典礼聖歌(天上を思わせるメロディと歌詞)は、私の気持を引き立たせてくれる。支えてくれる。
 聖書朗読の中で日々感じることは、<旧約聖書の苛烈>である。日本では、当たり前のように「人命第一」というが、聖書の世界は、そうではない。最重要な戒めは、「神を蔑ろにするな」である。「偶像崇拝禁止」である。この戒を犯す者に、神は容赦ない。
 カトリック教会では、先週2月18日が「灰の水曜日」で、本日2月22日、「四旬節」に入った。聖書の朗読箇所も、四旬節に相応しいものが続く。例えば、2月19日(木)の第一朗読。 申命記。

申命記30・15~20
 〈モーセは民に言った。〉見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。 
  すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。 
  しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、 
  わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。 
  わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。 
  すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう。

 「神ヤーウェの外、何ものも神とするな」というモーセの第1戒を守らない者には命の保証はない、と神は言う。ユダヤの民が聖書(旧約)を信じてきたように、後発ではあるがクルアーンを信じてきたのがイスラムの人たちだ。どちらも「苛烈」ということでは同じだ。苛烈になるのは、「不殺生」ではなく、「偶像崇拝禁止」が第一戒だからだろうか。そんなふうに思える。世界は必ずしも「不殺生」を第一戒とする民族ばかりではない。これは、考えようによっては恐ろしい。
 それでも、私は聖書に強く惹かれる。最近はとりわけ旧約に惹かれてならない。「無茶苦茶言ってるな。正気じゃぁ、信じられないよ」などと呆れながらも、絶対者、唯一の神の言われる言葉である(迷いとか逡巡のような人間的なものが一切ない)故、惹かれるのかもしれない。仏教だと、親鸞聖人さんじゃないが、悩んでしまいそうだ。因みに、カトリック教会の「主の祈り」は、以下のようである。敢えて、文語で。

天にまします我らの父よ
願わくは
 み名の尊まれんことを み国の来たらんことを
 み旨の天に行わるる如く地にも行われんことを
我らの日用の糧を今日我らに与え給え
我らが人に許す如く我らの罪を許し給え
我らを試みにひきたまわざれ
我らを惡より救い給え   

モーセの十戒
一、我は汝の神ヤーウェ、我の外何ものも神とするなかれ
二、汝自らのために偶像を作って拝み仕えるなかれ
三、汝の神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ
四、安息日をおぼえてこれを聖くせよ
五、汝の父母を敬え
六、汝殺すなかれ
七、汝姦淫するなかれ
八、汝盗むなかれ
九、汝隣人に対して偽りの証をするなかれ
十、汝隣人の家に欲を出すなかれ

十善戒(仏教)
一、不殺生(ふせっしょう) むやみに生き物を傷つけない
二、不偸盗(ふちゅうとう) ものを盗まない
三、不邪淫(ふじゃいん)  男女の道を乱さない
四、不妄語(ふもうご)   嘘をつかない
五、不綺語(ふきご)    無意味なおしゃべりをしない
六、不悪口(ふあっく)   乱暴なことばを使わない
七、不両舌(ふりょうぜつ) 筋の通らないことを言わない
八、不慳貪(ふけんどん)  欲深いことをしない
九、不瞋恚(ふしんに)   耐え忍んで怒らない
十、不邪見(ふじゃけん)  まちがった考え方をしない

――――――――――――――――――――――――
橋爪大三郎×佐藤優『あぶない一神教』小学館新書 2015年10月6日初版第1刷発行

    


死刑制度合憲判決事件
 死刑制度合憲判決事件(しけいせいどごうけんはんけつじけん)とは、日本において日本国憲法施行後に死刑制度の存在は憲法違反であるか否かが最高裁判所で争われた刑事裁判である。判決自体は死刑制度は合憲とされ上告棄却(死刑確定)になったが、この憲法解釈が現在も死刑制度存置の根拠とされている。
*事件の概略
 広島県在住の被告人(犯行時19歳、元死刑囚)は、勤務先を解雇され無職であったため同居家族の母親(当時49歳)と妹(当時16歳)に日頃から邪魔者扱いされていた。
 1946年(昭和21年)9月16日の晩、夕食に何も残してもらえなかったばかりか、床も敷いてもらえなかった。そのため空腹から眠れなかったために2人に殺意を抱き、頭をハンマーで殴打して殺害したうえに古井戸に遺体を遺棄した[1]。彼は刑法199条(殺人罪)および刑法200条(尊属殺人罪、平成7年改正で廃止)および死体遺棄罪で起訴された。
 下級審では、一審の広島地方裁判所では無期懲役であったが、広島高等裁判所で死刑判決を受けた。そのため最高裁に上告した弁護側が、その上告理由として「死刑は最も残虐な刑罰であるから、日本国憲法第36条によって禁じられている公務員による拷問や残虐刑の禁止に抵触している。そもそも『残虐な殺人』と『人道的な殺人』とが存在するというのであれば、かえって生命の尊厳を損ねる。時代に依存した相対的基準を導入して『残虐』を語るべきではない」と主張し、死刑の適用は違憲違法なものであるとした。そのため、死刑制度の憲法解釈が行われることになった。
*最高裁判決
 最高裁裁判官11人による大法廷は、1948年(昭和23年)3月12日に日本国憲法の主旨と死刑制度の存在は矛盾せず、合憲であると判決し上告を棄却して死刑判決が確定した(最(大)判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。
 判決文では「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。……憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に……もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさらに憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである。」として、「社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性」は承認されているとした。
 ついで残虐な刑罰との点については、「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。」としている。
 これには島保ほか3名の裁判官の補充意見と、井上登裁判官の意見が付せられており、島裁判官らの補充意見は、「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によつて定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第31条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。」とする。
 井上裁判官の意見は、島裁判官らの補充意見は「何と云つても死刑はいやなものに相違ない、一日も早くこんなものを必要としない時代が来ればいい」といったような思想ないし感情が基になっているのであろうと推察した上で、「この感情に於て私も決して人後に落ちるとは思はない、しかし憲法は絶対に死刑を許さぬ趣旨ではないと云う丈けで固より死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから若し死刑を必要としない、若しくは国民全体の感情が死刑を忍び得ないと云う様な時が来れば国会は進んで死刑の条文を廃止するであろうし又条文は残つて居ても事実上裁判官が死刑を選択しないであろう、今でも誰れも好んで死刑を言渡すものはないのが実状だから。」とする。
 いずれにしても、この最高裁判決が現在も死刑制度存置の根拠となっている。なお、この最高裁判決が出された後に11月12日に極東国際軍事裁判で東條英機らA級戦犯7名が死刑判決を受け、12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑となっているため、当時日本を占領統治していたGHQがまさに日本の元戦争指導者達を死刑にしようとしていた手前、死刑制度を違憲とすることは出来なかったとの指摘もある。(以下略=来栖)

 ◎上記事は[ウィキペディア]からの転載・引用です *強調(太字)は来栖  
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1 コメント

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排他的宗教 (あやか)
2017-06-20 19:01:23
このブログ、興味深く拝見しました。
ところで、誰かから聞いた話ですが、欧米のある人が、聖書のなかの厳格で過激な聖句をいくつか抜粋して小冊子を作り、何人かの人に『これは中東(西アジア)の或る宗教書ですが、これを読んだ感想を言ってください』と質問したそうです。
するとそれを読んだ人は『わあ、これは恐ろしい!』『中東の宗教書といえば、例のイスラムのコ-ランですか!やっぱりね!』『イスラム教はこわい!』と口々にいったそうです。そこで質問者は種明かしをして『実はこれは聖書ですよ』と言ったところみんな唖然としたそうです。聖書のヘブライ宗教にせよイスラム教にせよ、西アジアの宗教は過激で排他的なんでしょうね。古代の『法治国家』であった古代エジプト帝王(ファラオ)にしてもロ-マ帝国にしても、ヘブライ民族集団は、テロリストだと思ったかもしれませんね。でも、ヘブライ民族の立場から言えば、また、別の言い分はあったと思います。ある民族集団が、『文明人』であるかどうかは一方的な評価基準にすぎないでしょう。
 キリスト教については、古代のある段階で、ギリシャ・ロ-マ文化圏に順応し、中東文明から離れていったんでしょうね。まあ、こんなことも、研究したら興味深いと思います。

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