【チャプター1:戦後日本を支えて来た民間航空機】
今回はノスタルジックな雰囲気で戦後の民間航空機についてのお話をお届けします。
1.<マーチン2−0−2>
1951年8月、戦後初の日本人の手による民間航空の新たな幕があけました。私が産まれる18年も前の話です。その航空会社は日本航空株式会社。しかし実際に日本航空は営業面だけを日本側が担当し、実際の定期路線運航はノースウェスト航空が操縦士付きで担当していた。日本航空では5機のマーチン2-0-2を運航し、それぞれの機体に「きん星」、「もく星」、「すい星」、「ど星」、「か星」の愛称を付けて運行していました。そのうち「ど星号」は、1番機として1951年10月25日に東京〜大阪間の定期航空路線に就航。しかし1952年4月9日には「もく星」号が伊豆大島の三原山御神火茶屋付近に墜落する死亡事故を起こした(もく星号墜落事故)。そのためか、1953年に日本航空に伴う自主運航開始とともにノースウェスト航空に返却され日本の空から姿を消してしまいました。因みにこの時代の航空運賃は東京から大阪まで片道6,000。東京から福岡まで片道11,520だったそうで、大卒の初任給が4,000程の時代。とても一般庶民には・・・w(画像は他社のマーチン2-0-2)


2.<DC−4>
1951年10月11日にノースウエスト航空との委託運航契約を結び、5機のマーチン2-0-2型機と供に、1機のDC-4型機をチャーターし使用することになった。このDC-4型機は「てんおう星」号と名づけられ、1951年11月2日より東京−札幌(千歳空港)線に就航しました。当時すでに生産は終了していたものの、信頼性が高いこともあり、1952年10月25日からの自主運行開始後も買い増しを進め、最終的に6機を購入し国内線の主力機として黎明期の日本航空を支えてきました。また、当時アメリカの統治下にあった沖縄への国際線機材としても運行されていた他、東京−サンフランシスコ間にトランスオーシャン航空からチャーターされた機材が貨物専用機として導入されておりました。しかし、ライバルの全日空などが国内線に与圧装置や気象レーダーを完備し、より高速運行が可能なコンベアCV440メトロポリタンなどの新鋭機材を相次いで導入したことから、1963年4月1日に全機が退役し海外に売却されてしまいました。


3.<DC−6A/B>
日本航空がDC-6Bを国際線用機材として1952年9月12日に導入を決定し、同年11月26日に2機発注しました。しかし、ダグラス社から引渡しは2年後との回答により、日本航空は45%のプレミアム価格を承知で製造中だったスリック航空とフライングタイガー航空向けのDC-6A(貨物型)を旅客型に再改装して3機購入。1953年10月2日より運航を開始(東京−札幌)した。その後、ダグラス社に発注した2機に加え、ウエスタン航空から3機、サターン航空から1機と最終的に計9機を導入。(このうちサターン航空からの購入機は営業運航には使用しない訓練機。)また1957年3月17日から翌年2月24日までパンアメリカン航空から1機チャーターし、東南アジア線(東京-香港-バンコク-シンガポール)に投入。同機は、1954年2月2日に日本航空の初の国際線である太平洋横断線(東京-ホノルル-サンフランシスコ)に就航。その後も前述の東南アジア線や当時は不定期運航であったブラジル線に就航するなど、黎明期の日本航空国際線の主力機として活躍しました。また、1964年10月に開催された東京オリンピックの聖火運搬機として、ギリシアのアテネから日本国内まで聖火を空輸した飛行機でもあるそうです。


4.<DC−7C>
日本航空が、DC-6Bの後継機として正式発注していたジェット機・DC-8型機導入までの長距離国際線の主力機として1956年4月12日に導入を決定し、1957年12月23日に初号機の「City of San Francisco」(JA6301)を受領。翌1958年2月12日より太平洋横断路線である東京−サンフランシスコ線に就航しました。東京からホノルルへの無着陸飛行が可能なDC-7C型機の導入により、東京−サンフランシスコ線の飛行時間は、実飛行時間は冬期で約19時間、夏期で約21時間となり、DC-6Bと比べ約4時間半の飛行時間短縮が実現したそうです。翌1959年には、東京−ロサンゼルス線およびシアトル線でも使用され、DC-6B型機に代わる主力機として活躍しました。同機は座席に龍村特製の織物を使用するなど日本製の文化財級素材を用い、また後部ラウンジは茶室風にアレンジされ障子を入れるなど日本風のデザインが奢られた。これは一部の外国人搭乗者には珍しがられたが、結果的に見て特別仕様の日本航空所有機は売却先が見つからず、貨物機改修用に買い叩かれてしまうことになった。また、1961年1月6日には、DC-8型機就航にともなうプロペラ機転用計画にもとづき、DC-7C型機を貨物機に改造した日本初の貨物専用機であるDC-7カーゴ(通称:DC-7F)型機を東京−サンフランシスコ線に就航。最終的に日本航空はDC-7C型機を4機(延べ5機。1機を1962年にスカンジナビア航空保有機と交換)導入したものの、DC-8の導入が進んだことや、長距離専用機材として設計されたことから小回りが効かないためもあり、DC-6Bよりも4年早い1965年10月31日に全機が退役してしまいました。


5.<コンベア・CV440>
全日空がコンベア440を新造機2機導入し、1959年から1965年まで運用した。主に幹線に投入して日本航空のDC-4のライバルとして活躍したそうです。コンベア440(Convair 440もしくはCV-440)は、アメリカ合衆国のコンベア社が開発したレシプロ双発旅客機。コンベア340のストレッチ型であり、胴体をさらに0.83m延長した機体。また他にもエンジンの強化や気象レーダの搭載など多岐にわたって改良されている。愛称をメトロポリタンと称されていたそうです。のちのYS-11が作成された時、計器パネル等このCV440が元だったそうです。(画像は他社のコンベアCV440)


6.<ヴィッカース・バイカウント744/828>
1960年、コンベアCV440メトロポリタンを導入して機材の近代化を進めた全日空は、
次にこれまでのレシプロエンジンではなくターボプロップエンジンを搭載したヴィッカース・バイカウントと、フォッカーF27フレンドシップをほぼ時期を同じくして国内線に投入されました。当時の国内線は、日本航空がDC-4を、ローカル各社がCV240やDC-3、ヘロン、ダブなどで運航しておりました。そんな中で、ターボプロップ機の国内線デビューは衝撃的な出来事だったそうです。全日空は自社発注の828型が到着する前に、DC-4を飛ばしていた日本航空に差をつけるためにメーカーから744型を2機リースして東京−札幌線に投入。そして1961年になると発注していた828型が引き渡され、744型と入れ替わる形で9機が就航しました。828型の巡航速度はDC-4の1.5倍である570km/hを誇り、全日空のバイカウントが日本航空のDC-4を空中で追い抜くことも・・・。客室乗務員が「皆様、下に見えますのは当機より先に出発した日本航空のDC-4でございます」とアナウンスしたのは、今でも語り継がれるバイカウントのエピソードだそうです。しかも、ただ速いだけではなく静かで振動が少ないというのもターボプロップの売り物。バイカウントと、弟分であるフレンドシップはそのメリットを遺憾なく発揮して、全日空が国内線ナンバーワンエアラインとなる土台を作り上げて行った。もちろんこの実績が国産のターボプロップ輸送機YS-11プロジェクトに大きな役割を果たしたのは言うまでもない。しかし、バイカウントの輝かしい時代は、そう長く続かなかった。B727やB737をはじめとした短距離ジェット機が国内幹線に就航すると、余ったバイカウントはローカル線に回されることになった。ローカル線では小型で双発のフレンドシップの方がはるかに運航効率がよく、4発エンジンで整備に手間がかかり、燃費も劣るバイカウントは次第に全日空の中ではお荷物になっていった。そして両機種の後継として国産のYS-11が導入されたときに、真っ先にリプレースされたのはバイカウントだった。運航期間は1960年から70年と実質10年の活躍にとどまってしまったが、日本の国内線に新しい風を吹き込んだ、このイギリス製ターボプロップは素晴らしい活躍をしてくれた機体でした。(画像は他社のバイカウント)


7.<デ・ハビランドDH−114ヘロン>
発足間もない日本航空がローカル線に使うつもりでヘロン3機を購入したが、受領したときには特殊会社の日本航空となり、ローカル線の運行が出来なくなった為、未使用のまま(乗員訓練に短期間使用したが)日本ヘリコプター輸送(現在の全日本空輸)に売却し、「白鷺」の愛称で運用していた。東亜航空は多くのヘロンを運用していたが、搭載エンジンの部品入手が困難になり、エンジンをアメリカのコンチネンタルIO-470に換装し、「タウロン(TAWロン)」と命名し運用していた。「TAWロン」とはTAW(東亜航空)+ヘロン」の合成語。 ヘロンとタウロンの区別の仕方は、ヘロンのエンジン吸気口がプロペラの下側に付いていたのに対して、タウロンの吸気口は横側についていることである。なおノースギア(前輪)は引き込み式に改造されていないため、ゾウの鼻のような独特の姿はそのままであった。 最後は奄美群島の離島間路線で細々と活躍を続けていたが、東亜国内航空時代初期の1973年3月をもって引退、日本の空から完全に姿を消してしまった。

8.<DC−3型機>
全日本空輸の前身である「日本ヘリコプター輸送」が1955(昭和30)年11月、東京−名古屋−大阪線、東京−三沢−札幌線に就航させ、1957年に「日本ヘリコプター輸送」が「極東航空」と合併して「全日本空輸」が発足した時には9機を保有しており、創業期の主力機として活躍しました。DC-3型機は、それまで最大であったデハビランド・ヘロン114型機(定員14名)の2倍以上の座席数(定員31名)を有し、この新鋭機の導入により昭和30年度の輸送力は飛躍的に伸張し、対前年度比で旅客168%、貨物245%、郵便210%を記録。
また、DC-3型機の導入に合わせて、乗客へのサービス向上、運航乗務員と客室間の情報交換、保安などの必要性が増したことから、創立以来初めての客室乗務員が採用されました。1955年、機材の大型化を計るべく31人乗り「ダグラスDC-3型機」が導入。初登場から20年が経過した尾輪式の旧式機ではあったが、頑丈な機体と性能には定評があり路線拡大の原動力になった。1957年、「日本ヘリコプター輸送」と「極東航空」が合併して「全日本空輸」が発足。最大時には13機を数えたDC-3は、全日本空輸発足時の主力機種となって行った。スチュワーデスが乗務するようになったのも、このDC-3からである。第1期生6人の採用には1000人以上が応募し、大きな話題となったそうです。全日空の運航規定ではDC-3の飛行高度は11000フィート(約3300m)以下に制限されており、富士山を背景に撮影されたDC-3は山頂より低い高度を飛んでいる。これはDC-3のキャビンが非与圧式だったためで、気流の悪い低空を飛ぶ時などは苦労も多かったそうです。旧式機DC-3に代わる新型機として「コンベア440メトロポリタン」が1959(昭和34)年に導入された。この与圧式の新型機は、1959(昭和34)年の伊勢湾台風によって大きな被害が出た中京地区へ救援物資を搭載して緊急輸送を実施、陸路が寸断され陸の孤島と化した被災地への物資輸送に活躍したエピソードをもっている。DC-3は現在の旅客機のような操縦では無く、本当にパイロットの腕で飛ばしていた飛行機としても有名です。DC-3が日本の空で活躍したのは1955年〜1964年まででした。


9.<フォッカーF-27フレンドシップ機>
日本には全日空がF-27-224型を25機導入し1961年7月から大阪〜高知間に投入した。F-27は与圧キャビンを持ち2名の操縦者と1名の客室乗員、40名の乗客を乗せて、巡航速度490kmで約6時間(2410km)運行できた。 その後1973年3月の引退まで日本の各地を飛び回り、当時としては珍しくこれといった事故もなくラッキーリタイヤを果たした。 高翼タイプなのでその脚が長く、その脚の出し入れには独特の空気圧を使う方式で故障も多くメンテナンスも面倒だったと言われるが現在の様にロット交換ではなく部品毎に交換する方式だったので経費は安かったと聞く。与圧された客室や操縦席には快適な空調設備が施されていたが操縦そのものにはオートパイロットやウェザーレーダーの設備はなかった。次々とジェット旅客機が導入されている時期だが、まだジェット旅客機が着陸できる空港は少なく地方の空港での旅客機といえば本機とYS-11(共に離陸滑走距離1100m前後)しかなかった。F27が日本で活躍したのは1961年〜1973年までですが、現在は中部国際空港を拠点としてフォッカー50(F27の後続機)が活躍しております。


10.<YS−11型機>
機種名であるYS-11の「YS」は輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。こうした命名の経緯もあって、当初、関係者のあいだでは「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか、「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。YS-11は民間航空会社以外にも航空自衛隊、海上自衛隊、海上保安庁、航空局でも使用されていた。ただ日本国内の民間航空会社においては、日本の航空法が設置を義務付ける空中衝突防止装置(TCAS)が搭載されていないため、機体寿命より早く引退した。TCASを搭載するためには一機あたり約1億円が必要で、機体年齢を考えるとYS-11を改修するよりは新型機を購入したほうが結果的には安いという判断からだと思われる。特例期間として2003年(平成15年)9月30日まではTCASの装備なしでも飛行可能であったが、当時運行していた2社の内、エアーニッポン機材は同年8月31日をもって全機退役させることになり(最終フライトはJA8772で女満別から新千歳)、日本エアコミューターはTCASの簡易版である空中衝突警報装置(TCAD)の装備により、法律上は2006年(平成18年)12月31日まで運行可能の特例が認められた。上記によって2004年(平成16年)には、日本国内において就航させていた航空会社は日本エアコミューターのみとなり、2006年(平成18年)9月30日に法律上の期間を満了することなく日本国内の民間定期路線より引退した。日本の航空機は空中衝突防止装置の設置が義務付けられたが、自衛隊機は対象外であり、かつ民間機より飛行時間が短い為、民間YS-11が引退した後も運用されている。


戦後日本を支えて来た民間航空機いかがでしたでしょうか?
画像を見て、昔この飛行機乗ったな〜とか見たことあるかも?などと仰っている方もいらっしゃるのではないでしょうか?また、へ〜こんな飛行機が日本の空を飛んでいたんだ〜って仰る方もいらっしゃる事でしょう。フライトシミュレーターではこのような昔の飛行機までも現在に蘇らせる事が出来る所がすばらしいですね〜。いつかジェット機についても特集してみたいと思います^^
次回はお楽しみと言う事で・・・。
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よこまとまっていると思いますが,時系列で並べるとやはりDC3が最初にくるように思いますが,..
ジェットのつぎは,回転翼のヘリコプタとか,防衛省向けの国産機というのもいかがでしょうか?