図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
児童図書館員養成講座の報告を読む
まず、膨大な報告を作ってくださった担当者の熱意や努力、私たちに情報として届ける算段をされたことに、ありがとうと言いたいと思います。これがなけりゃ何事もはじまらない。
で、思ったことは言ってもいいんだよね。文で書くと、読み手のとり方により良くも悪くもとられるので、ちょっと心配です。まあ、ブログは日記サイトでもありますので勘弁してください。
① 3年前も驚いたんだけど、参加者が少ないのですね。これだけの講師陣なら、大ホールに百人もいてあたりまえなような気もする。前は児童館の職員なんかも参加していたようだったけど、繰り返し受講するのは数館ですね。押し寄せる時代の波のせいでしょうか、それとも一度受ければいいものなのか、専門的過ぎるのか。
② 「児童図書館員」とは「子ども図書館員」を含んでのことでしょうか。漢字とひらがなで大違い、これを理解していない人が多いと、中央図書館基本計画のことで講演会があったとき、筑波大学(図書館情報大学?)の先生がおっしゃっていた。
17年は私にとって漢字からひらがなへの大転換の年だったのでそのショックがまだ尾を引いている。「大人が子どものためを思って差し出す文化」「子どもがもともと持っている文化」を分けて対等に考え、それを混ぜあわせていくといいんだ、と自分では思っている。
例えが刺激的で申し訳ないのですが (#^.^#)「アメリカがイスラム世界の人々のことを思って差し出す文化」と「イスラム世界の人がもともと持っている文化」がうまく合わないので、アメリカは武器を使ったのだ、イスラムの人は何とか自分を守ろうとテロに走ったのだと、自分的には思っています。
だから、私たちボランティアは「子ども文化」を無視して突き進むと「武器」になってしまいます。「大人の文化」で「子ども文化」をなぎ倒そうとしているような。聞き手選書型をぶつぶつ言い続けたのは、ここに理由があります。
「図書館員は教育的存在」の「教育」とは、教え導くことでしょうか。生涯学習の場ではお互いが学びあうので、本を選ぶ大人は、子どもからも学ぶ「教育される」存在でもあるべきです。個人的な差異はありますが、子どもはある種の文化を持っています。『あなはほるものおっこちるとこ』のように。だから膝を折り子どもの目線で、となるのですね。
作家の中には、ごく平気に子どもの文化に時空移動できる人がたくさんいると思う。長新太、西巻茅子、田島征三・・絵描きに多いかな。「子どもの本ね」とつぶやいて、ひゅぅと移動マシンに飛び乗る西巻茅子の姿が目に浮かびます。
「子ども」と聞いたり見たりして、「教えてやろう、導いてやろう」と思う大人が多いのは予想以上です。
③ 「美術館にあるような絵」は、つまり高級な画風(?_?) ということでしょうか。幼稚な絵は図書館でなく、本屋さんやほかのメディアから受ければいいという考えですね。紙芝居があまり歓迎されなかった理由は主にここでしょう。
何度でも言いますが、「子ども文化」だから置いて欲しいのです。「子ども時代をしっかり楽しんで欲しい」のならなおのこと。子どもに時空移動して絵本を創れる絵本作家も多いので「子ども文化の絵本」も置いてほしい。
画風について少し自分の経験を説明します。
一年前、知人が、ある幼稚な挿絵の児童書を見せてくれました。その時、私はぎょっとしました。なぜなら、その絵は「自分が子どもだったときとても好きで、真似て書くことを繰り返し、自分でも描けるようになってとてもうれしかったお人形さんの絵」だったからです。水森亜土のイラストのような、パイナップルを連想させるような、顔の縦より横幅が広いような絵でした。見事でもなく立派でもない。でも、「うちの子がどうしても借りてくれっていうから」親は借りてくる。よく図書館にこの本が残っていたな、と感心しました。
子どもの発達段階で、その絵は通るべき必要な絵なのではないかと思うのです。その情報を受けて育っていく。紙芝居でも、長谷川知子の絵(目の中に星があるような)の紙芝居をみて「かわいい。これ読んで」とつぶやいた女の子を、私は幼かった自分を見るように、大切に思います。
近代化の中で一時期それらの絵本は「良くないもの」として隅に追いやられてきました。教育熱心な家庭もそれらを排除したのではないでしょうか。新潟市の図書館にも今までずっとなかった。
その時期に幼い時代を過ごした子どもは、ハシゴのない段差をのぼらなくてはならなかったのではないかと思います。登れなかった人はそのまま体だけ大人になった。
「数十年後に効果が現れる」って聞かされたけど、だから、悪い意味での効果があらわれてきて、世の中こうなったのではないでしょうか、と、このブログでも何度も書いています。
だから、子どもの様子から、私たちは教育されたい。それは異文化理解とか、異文化を尊重するとかいう類いだと思います。
④ 国際子ども図書館は情報の一つであって、公立図書館の理想の姿とは別物ではないかと思います。それは知人の一人。東京子ども図書館もコレクション大好きな知人の一人。浦安図書館、市川図書館、受講生の関わる図書館も知人の一人。
情報をとって、そして自分の地域の様子を見て自立して考えて決めていけばいいことだと思います。東京子ども図書館を見学して、団体バスでさっさと帰っていくという子どもたちは、ただある種の情報をとりに来たのだと思います。
宇宙船(団体バス)に乗った人にいろんな惑星や物が近づき、また遠ざかるイメージです。『ごろごろにゃーん』の絵本を思い出してください。去年小学生向けに読んでウケた『わたしのうみべ』(長新太・佼成出版社)もこの系統ではないでしょうか。
近づく惑星や物にもそれなりに思い入れがありますし、いろんなタイプがあります。例えれば、絵本のぐりとぐらも惑星、他の本も空中に浮かぶ何か。情報は変わらないし、人は変わるので、ごろごろにゃーんの宇宙船から降りるネコは何かしら影響をうけてるのはあたりまえ。
50や100は情報としてあちこちダブって登場するのは誰でもわかる。有名な図書館も、資料も、講師の先生も、ロングセラー絵本も、みんな通り過ぎる惑星ではないかと思います。通り過ぎるものが、良いもの・立派なものしかなかったら、宇宙船に乗ってる人は、世の中ってそういうもんかと思っちゃうよ。
子どもは図書館以外の情報も受けて生活している。エリートの子どもの乗った宇宙船の周りには、立派なものしか通り過ぎていってないんじゃないかとちょっと心配ですが、私立の図書館は勝手にどうぞ。でも公共の図書館では幅広く集めて欲しい。良い本・立派な本に人間が選ばれるなんて、勘弁して欲しい。
だから、本が大事か人が大事か聞かれて「人が大事」と私は思います。その本が良いかどうか誰が決めるかと聞かれて「受ける人が決める」と私は思います。ボランティアは ♥受ける人が決めやすい状況を作るボランティア♥ であって、誰かの好みのコレクションに誘導するボランティアではないと思います。
「人が大事」と言ってしまうとやりたい放題のひとがはき違えるので、「受ける人が大事」と付け加えたい。
⑤ 情緒的に、子どもは穢れの無いものとか、神聖なもの、尊いものとか言いすぎる気がする。未成熟だから成熟をめざして「読んであげる」とか、保護するものとして働きかけるとか。
とても失礼だと思いませんか。どの子も、子どもとしてすでに成熟しています。個人として、大人の常識に当てはまらないことがあるのは、大人と同じ。
お母さんが時々夜叉のようになるのは、自分の中の見たくない嫌なところを子どもに見てオロオロし、否定しようとし、たいていそれに失敗し、うちの子も一人の人間なんだと決着するからです。けど、とりあえず大きくしなくちゃならないので汚いものもみんななんとかする。
先生方はそういう汚いことを、なかったことにしたいとか、修行をつんで高いものを指し示せばみんなついてくるとか、どうもそういう風潮がある。
結局そのゆがみがどこかに現れます。(また戦争の例えですみません)国を立派にするために人が使われ、血が流れるという汚い現実をよく見なかったため、そのひずみが庶民にあらわれ、末端の下級兵士が上役に暴力をふるわれたり、リンチがあったりした。末端のボランティアにどんな問題が起こってきたか、ぶつぶつ去年から言っていたでしょう。
⑥「本+アルファの付加価値をつけることに驚いている」と、3年前の講座で講師の発言があったことを思い出します。本来個人や親子で読む絵本に、知らない人が集まって一緒に聞くという付加価値をつけたのは、昔の図書館のアイデアではなかったでしょうか。
私が言いたいのは、集団読み聞かせをやめろ、というのではなく、個別でも集団でも、利用者が選べるようになったほうがいい、ということです。夫婦別姓論議のようですね。
現実にはお客様が少ないのだから、椅子に座って聞き手より高い位置で話しかけるより、円陣になって同じ高さで本を差し出せばいい。多ければその円陣を増やせばいい。円陣に2,3人いれば集団読み聞かせになります。
⑦「潜在化している子どもの欲求に応えよ」みたいな話もありました。しかし、その前に「顕在化している欲求に応える」べきではないでしょうか。子どもの権利条約12条に自己決定権というのがあるそうです。これを乳幼児にあてはめる。自分で意思をあらわすこと(イヤイヤ、泣く、好き嫌いを言う)という表現を受け止めてそれに応えることです。ここから大人と子どもの関係性がでてきますね。「聞き手選書型」っていいかもしれない、コンセプトに合ってる。プログラムを作るときも「おはなし会の流れ」に気をつける以前に、「顕在化している聞き手との関係性」に気をつけなくちゃならない。
「潜在化している欲求を推測して応える」と先回りしてレールを敷くみたいになっちゃうよ。余計なお世話だという気がします。子どもは意思表示する必要もなくなり、自立できないね。キツイお嫁さんに「あんまり甘やかさないでください」といわれるかも。
「子どもは未熟だから派手な物に目が行ったり自分の意思をうまく伝えられない。だから言っていることを深く推測せよ」みたいな論調だったと思う。それって、明らかに子どもを低く見ていないか。
⑧ 今年のボランティアの児童サービスの講座で、その先生が来られたこと。「つまりは、まだそういう勢力が図書館に多いということだ」と思ったほうがいいのですね。ものごと、いい面と悪い面の両面があることを考えながらいきたいと思います。
以前、白根図書館長だった方の講演で「自由を求めて戦った、出口の無い泥沼のようだった。そして勝った」というようなことを聞きました。その時は何のことかわからずぼんやり聞いていたけど、つまりはこういうことだったのかな。私のカン違いかな。
『竹内講演集1,2』(久山社)読みました。去年から探していたのだけど探し方がまずかったのか後回しにしてしまいました。情報の一つとして参考にしました。
で、思ったことは言ってもいいんだよね。文で書くと、読み手のとり方により良くも悪くもとられるので、ちょっと心配です。まあ、ブログは日記サイトでもありますので勘弁してください。
① 3年前も驚いたんだけど、参加者が少ないのですね。これだけの講師陣なら、大ホールに百人もいてあたりまえなような気もする。前は児童館の職員なんかも参加していたようだったけど、繰り返し受講するのは数館ですね。押し寄せる時代の波のせいでしょうか、それとも一度受ければいいものなのか、専門的過ぎるのか。
② 「児童図書館員」とは「子ども図書館員」を含んでのことでしょうか。漢字とひらがなで大違い、これを理解していない人が多いと、中央図書館基本計画のことで講演会があったとき、筑波大学(図書館情報大学?)の先生がおっしゃっていた。
17年は私にとって漢字からひらがなへの大転換の年だったのでそのショックがまだ尾を引いている。「大人が子どものためを思って差し出す文化」「子どもがもともと持っている文化」を分けて対等に考え、それを混ぜあわせていくといいんだ、と自分では思っている。
例えが刺激的で申し訳ないのですが (#^.^#)「アメリカがイスラム世界の人々のことを思って差し出す文化」と「イスラム世界の人がもともと持っている文化」がうまく合わないので、アメリカは武器を使ったのだ、イスラムの人は何とか自分を守ろうとテロに走ったのだと、自分的には思っています。
だから、私たちボランティアは「子ども文化」を無視して突き進むと「武器」になってしまいます。「大人の文化」で「子ども文化」をなぎ倒そうとしているような。聞き手選書型をぶつぶつ言い続けたのは、ここに理由があります。
「図書館員は教育的存在」の「教育」とは、教え導くことでしょうか。生涯学習の場ではお互いが学びあうので、本を選ぶ大人は、子どもからも学ぶ「教育される」存在でもあるべきです。個人的な差異はありますが、子どもはある種の文化を持っています。『あなはほるものおっこちるとこ』のように。だから膝を折り子どもの目線で、となるのですね。
作家の中には、ごく平気に子どもの文化に時空移動できる人がたくさんいると思う。長新太、西巻茅子、田島征三・・絵描きに多いかな。「子どもの本ね」とつぶやいて、ひゅぅと移動マシンに飛び乗る西巻茅子の姿が目に浮かびます。
「子ども」と聞いたり見たりして、「教えてやろう、導いてやろう」と思う大人が多いのは予想以上です。
③ 「美術館にあるような絵」は、つまり高級な画風(?_?) ということでしょうか。幼稚な絵は図書館でなく、本屋さんやほかのメディアから受ければいいという考えですね。紙芝居があまり歓迎されなかった理由は主にここでしょう。
何度でも言いますが、「子ども文化」だから置いて欲しいのです。「子ども時代をしっかり楽しんで欲しい」のならなおのこと。子どもに時空移動して絵本を創れる絵本作家も多いので「子ども文化の絵本」も置いてほしい。
画風について少し自分の経験を説明します。
一年前、知人が、ある幼稚な挿絵の児童書を見せてくれました。その時、私はぎょっとしました。なぜなら、その絵は「自分が子どもだったときとても好きで、真似て書くことを繰り返し、自分でも描けるようになってとてもうれしかったお人形さんの絵」だったからです。水森亜土のイラストのような、パイナップルを連想させるような、顔の縦より横幅が広いような絵でした。見事でもなく立派でもない。でも、「うちの子がどうしても借りてくれっていうから」親は借りてくる。よく図書館にこの本が残っていたな、と感心しました。
子どもの発達段階で、その絵は通るべき必要な絵なのではないかと思うのです。その情報を受けて育っていく。紙芝居でも、長谷川知子の絵(目の中に星があるような)の紙芝居をみて「かわいい。これ読んで」とつぶやいた女の子を、私は幼かった自分を見るように、大切に思います。
近代化の中で一時期それらの絵本は「良くないもの」として隅に追いやられてきました。教育熱心な家庭もそれらを排除したのではないでしょうか。新潟市の図書館にも今までずっとなかった。
その時期に幼い時代を過ごした子どもは、ハシゴのない段差をのぼらなくてはならなかったのではないかと思います。登れなかった人はそのまま体だけ大人になった。
「数十年後に効果が現れる」って聞かされたけど、だから、悪い意味での効果があらわれてきて、世の中こうなったのではないでしょうか、と、このブログでも何度も書いています。
だから、子どもの様子から、私たちは教育されたい。それは異文化理解とか、異文化を尊重するとかいう類いだと思います。
④ 国際子ども図書館は情報の一つであって、公立図書館の理想の姿とは別物ではないかと思います。それは知人の一人。東京子ども図書館もコレクション大好きな知人の一人。浦安図書館、市川図書館、受講生の関わる図書館も知人の一人。
情報をとって、そして自分の地域の様子を見て自立して考えて決めていけばいいことだと思います。東京子ども図書館を見学して、団体バスでさっさと帰っていくという子どもたちは、ただある種の情報をとりに来たのだと思います。
宇宙船(団体バス)に乗った人にいろんな惑星や物が近づき、また遠ざかるイメージです。『ごろごろにゃーん』の絵本を思い出してください。去年小学生向けに読んでウケた『わたしのうみべ』(長新太・佼成出版社)もこの系統ではないでしょうか。
近づく惑星や物にもそれなりに思い入れがありますし、いろんなタイプがあります。例えれば、絵本のぐりとぐらも惑星、他の本も空中に浮かぶ何か。情報は変わらないし、人は変わるので、ごろごろにゃーんの宇宙船から降りるネコは何かしら影響をうけてるのはあたりまえ。
50や100は情報としてあちこちダブって登場するのは誰でもわかる。有名な図書館も、資料も、講師の先生も、ロングセラー絵本も、みんな通り過ぎる惑星ではないかと思います。通り過ぎるものが、良いもの・立派なものしかなかったら、宇宙船に乗ってる人は、世の中ってそういうもんかと思っちゃうよ。
子どもは図書館以外の情報も受けて生活している。エリートの子どもの乗った宇宙船の周りには、立派なものしか通り過ぎていってないんじゃないかとちょっと心配ですが、私立の図書館は勝手にどうぞ。でも公共の図書館では幅広く集めて欲しい。良い本・立派な本に人間が選ばれるなんて、勘弁して欲しい。
だから、本が大事か人が大事か聞かれて「人が大事」と私は思います。その本が良いかどうか誰が決めるかと聞かれて「受ける人が決める」と私は思います。ボランティアは ♥受ける人が決めやすい状況を作るボランティア♥ であって、誰かの好みのコレクションに誘導するボランティアではないと思います。
「人が大事」と言ってしまうとやりたい放題のひとがはき違えるので、「受ける人が大事」と付け加えたい。
⑤ 情緒的に、子どもは穢れの無いものとか、神聖なもの、尊いものとか言いすぎる気がする。未成熟だから成熟をめざして「読んであげる」とか、保護するものとして働きかけるとか。
とても失礼だと思いませんか。どの子も、子どもとしてすでに成熟しています。個人として、大人の常識に当てはまらないことがあるのは、大人と同じ。
お母さんが時々夜叉のようになるのは、自分の中の見たくない嫌なところを子どもに見てオロオロし、否定しようとし、たいていそれに失敗し、うちの子も一人の人間なんだと決着するからです。けど、とりあえず大きくしなくちゃならないので汚いものもみんななんとかする。
先生方はそういう汚いことを、なかったことにしたいとか、修行をつんで高いものを指し示せばみんなついてくるとか、どうもそういう風潮がある。
結局そのゆがみがどこかに現れます。(また戦争の例えですみません)国を立派にするために人が使われ、血が流れるという汚い現実をよく見なかったため、そのひずみが庶民にあらわれ、末端の下級兵士が上役に暴力をふるわれたり、リンチがあったりした。末端のボランティアにどんな問題が起こってきたか、ぶつぶつ去年から言っていたでしょう。
⑥「本+アルファの付加価値をつけることに驚いている」と、3年前の講座で講師の発言があったことを思い出します。本来個人や親子で読む絵本に、知らない人が集まって一緒に聞くという付加価値をつけたのは、昔の図書館のアイデアではなかったでしょうか。
私が言いたいのは、集団読み聞かせをやめろ、というのではなく、個別でも集団でも、利用者が選べるようになったほうがいい、ということです。夫婦別姓論議のようですね。
現実にはお客様が少ないのだから、椅子に座って聞き手より高い位置で話しかけるより、円陣になって同じ高さで本を差し出せばいい。多ければその円陣を増やせばいい。円陣に2,3人いれば集団読み聞かせになります。
⑦「潜在化している子どもの欲求に応えよ」みたいな話もありました。しかし、その前に「顕在化している欲求に応える」べきではないでしょうか。子どもの権利条約12条に自己決定権というのがあるそうです。これを乳幼児にあてはめる。自分で意思をあらわすこと(イヤイヤ、泣く、好き嫌いを言う)という表現を受け止めてそれに応えることです。ここから大人と子どもの関係性がでてきますね。「聞き手選書型」っていいかもしれない、コンセプトに合ってる。プログラムを作るときも「おはなし会の流れ」に気をつける以前に、「顕在化している聞き手との関係性」に気をつけなくちゃならない。
「潜在化している欲求を推測して応える」と先回りしてレールを敷くみたいになっちゃうよ。余計なお世話だという気がします。子どもは意思表示する必要もなくなり、自立できないね。キツイお嫁さんに「あんまり甘やかさないでください」といわれるかも。
「子どもは未熟だから派手な物に目が行ったり自分の意思をうまく伝えられない。だから言っていることを深く推測せよ」みたいな論調だったと思う。それって、明らかに子どもを低く見ていないか。
⑧ 今年のボランティアの児童サービスの講座で、その先生が来られたこと。「つまりは、まだそういう勢力が図書館に多いということだ」と思ったほうがいいのですね。ものごと、いい面と悪い面の両面があることを考えながらいきたいと思います。
以前、白根図書館長だった方の講演で「自由を求めて戦った、出口の無い泥沼のようだった。そして勝った」というようなことを聞きました。その時は何のことかわからずぼんやり聞いていたけど、つまりはこういうことだったのかな。私のカン違いかな。
『竹内講演集1,2』(久山社)読みました。去年から探していたのだけど探し方がまずかったのか後回しにしてしまいました。情報の一つとして参考にしました。
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