図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
脚本 『明和義人ものがたり』
2007-07-08 / 脚本
ただ今 監修をお願いしているところ。どう直されるのか、べんきょうべんきょう。絵は全部で31枚。ごく必要な画面だけとりだすと20枚。脚本は同じで15分くらいです。
31枚ものを「完全版」、20枚ものを「普及版」ということにして、それぞれ作ることにします。ワークショップでは、普及版に参加者で色をぬります。
関連ページ
製作経緯
実演時間
ワークショップ
展示
項目別に
脚本・線画 石倉恵子(新潟かみしばいクラブ代表)プロフィールはこちら
1 『明和義人ものがたり』
2 はなしは、今から200年以上も昔、江戸時代にさかのぼる。そのころ、新潟は長岡藩の一部で、今のネクストのビルのあたりにその出先の奉行所があったという。
3 その新潟町、東堀に涌井藤四郎という呉服屋がいたと。とっくに妻に先立たれ、子ども二人と暮らしていた。弱いものにやさしかったのが 商いのじゃまをしたのか、なかなか暮らしはきびしかったと。
4 明和4年、白山さまの春祭りのことだ。
「藤四郎、どこ見てるんだ。ほれ、芸者衆のおひろめだぞ」
「あ、ああ。なに、あっちにわしの店のお得意様が見えてな。ああ、あの着物は以前わしが見立てたものだな。なんとよく似合うことだ。」
すると、うしろから呼ぶ声がする。
<抜きながら>
「涌井様、雪でございます。」
5 「その節は帯の代金を後にさせていただいて、申し訳ございませんでした。なんとか工面することが出来ましたので、今、ここでお渡ししてよいでしょうか」
「いや、すまないね、あとでも良かったのに」 そのとき
<さっと抜く>
6 「その女 どけっ、ものども、道をあけろ。言い渡すことがある」
奉行所役人の石垣忠兵衛がやってきた。
「これ、町民ども、藩の財政逼迫(ひっぱく)につき、町のものには合わせて1500両、
期限までにおさめるようにせよ」
7 「いや、お役人様、それは困る。なんとか勘弁してもらえぬか。」
「ならぬ、奉行所にさからうと申すか」
「うちはおっかあが病気で寝てるだ。薬代だってばかにならんのだ。近ごろ景気が悪くて
ろくに米も買えないのに、どうしてそんな金を納めることができようか」
「ええい、うるさい。問答無用だ」
8 それからも災害や米の買占めで、暮らしは苦しくなるばかり。そんな中 人々は やっとのことで1500両の半分、750両を納めることができた。だが翌年の夏、残り半分の期限が近づいてくる。
9 「なんとかせねばなるまい」「涌井様が集まるようにと」「お上に知られたらたいへんなことだというのにな」人々は本浄寺に集まったと。 <抜きながら>
「わしらは年寄りだからよくわかるのじゃ。」須藤佐次兵衛が言いつのる。佐次兵衛は藤四郎のよき相談相手で商売上手だが、今度ばかりは怒りが収まらない
10「いいか、このようなひどいことは今までなかったのじゃ。
第一、役人どもは税をのがれているではないか、なぜわれらばかりこのような目にあうのか。」
「そうだそうだ、米の値段も高くなるばかりだ。陰で買い占めているといううわさだ。
問屋を問い詰めて白状させろ」 「藤四郎、おぬし そう思わんか」
11「いや 佐次兵衛、争いごとはいかん。結局 一番弱いものが傷つくだけだ。
どうだ、残り半分、景気が良くなるまで猶予を願いでては」
「しかし、そんなことで お上が われらの願いを聞くものかどうか。」
「なに、町が良くなるように皆で考えた案があるではないか。今、嘆願書を書くぞ。ここはわしにまかせてくれ」 すると、
12 がたん、戸が開いた。「そこのもの、動いてはならん」
石垣忠兵衛ら役人たちが乗り込んできた。
「お上にたてつくために集まるとはもってのほか。涌井藤四郎がそそのかしたと聞いておる。
涌井はどこだ・・・ よおし、ひったてい」
13 「まて、待ってくれ」
誰かが役人に告げ口してあったのだなあ。このころは封建制で、庶民が反対意見を集めて申し出ることなど禁じられていて、それを破るのは犯罪だとされていたんだ。藤四郎は
牢に入れられたと。
14 さあ町の衆はおさまらんなあ。
「大変だ。藤四郎様が役人に捕まったぞ。」「藤四郎を奪い取れ、役人をたたきつぶせ」
「もう、がまんできねえ」
15 カンカンカンカン「聞こえるか、合図の鐘だぞう」
明和5年9月26日の夜、古町の下(しも)、本明寺(ほんみょうじ)の鐘が激しくなった。
カンカンカンカン。あちこちで早鐘が鳴る。人々は日和山に続々と集まっていった。
「打ち壊すぞ!」
16 「いくぞ」人々は、山を下り、御祭堀(ごさいぼり)、広小路(ひろこうじ)、坂内小路(ばんないこうじ)へなだれこんだ。
「つげぐちしたやつの屋敷はどこだ」「藤四郎を救いだせ」ダダダダダ
17 黒ふくめんの男が叫んだ
「個人的な恨みで乱暴をしてはならぬ。殿様の紋のついたものは傷つけてはならぬ。ただ民のための一揆だということを忘れるな」
「おおう」「役人どもはどこだ、金儲けで太った奴らはどこだ」「ここから出ていけ」「役人どもをたたきつぶせ」
18 「ええい」「それえ」「藤四郎を奪い取れ」ガーン、バキーン。
人々はそれらの屋敷をこわしていったと。
19 「大変だ、鉄砲隊がくるぞ。それ、屋根に上がれ。」
20 「ええい、これでもくらえ」
屋根の上から石やら薪(たきぎ)やら、鉄砲隊めがけてあめあられ
21「これはいかん、藤四郎を解き放て」。藤四郎は釈放された。しかしそれでも人々の怒りは止まず、二日間にわたり、20軒あまりの屋敷が打ち壊しにあったそうだ。それらの金持ちや役人たちはたまらず逃げ出したと。 数日後、
22 「ほんとに打ち壊しにはびっくりしたねえ。今日は おとっつあんは
勝念寺(しょうねんじ)で また寄り合いだからな、早く飯のしたく、しなきゃならんのだよ」
「うん、引き換え券で お米もちゃんと買えたしね。」
「ほれ、おとうふ落とすんじゃないよ。前よりずっと安くしてもらえたんだから」
23 「こう言って うちのかかあは大喜びでさあ」
「これからは藤四郎様にみんな決めてもらおう」
「いや、皆がわかるように決めなくてはならんし、自分の暮らしの按配は自分で決めるのが一番だな」
「で、お金の按配だが、借りやすいように質屋に金利を下げてもらえんかのう」
「今回のことで怪我をしたものは、安く治してもらえるといいがなあ」
「そうだ、役人がいないから、自分たちで町の見回りをしたほうがいいなあ」
と、まあ、こんな様子が2ヶ月続いたそうだ。はるか昔、江戸時代にこんなことがあったとは とても珍しく、確率で言えば
24 市長がバナナの皮ですべって転ぶようなもんで、まあ、めったにないことだ。
25 長岡奉行はいつまでもこんなことを許しておくはずはない。なにせ、江戸時代の話だ。兵隊を舟で送り込んだという。ところが町民に荷下ろしを断られ、結局、藤四郎を町の総代として認める事になったそうだ。
26 さて、長岡奉行の今泉岡右衛門(いまいずみおかえもん)は
「よし、この米を千俵、新潟に届けることにする。それから、新潟の石垣忠兵衛を呼べ。このたびの不始末を追及せねばなるまい。藤四郎と、佐次兵衛にもここで事情を聞こう。」
千俵の米に、新潟の人々はたいそう喜んで長岡奉行を讃える歌まで作ったそうだ。
だが、その米は一体誰が作ったのか、お金を納めたのは誰だったのか、人々はどう思ったのだろう。
結局、藤四郎と佐次兵衛は首謀者として、長岡で牢に入れられたと。その2年後、二人は新潟の牢屋に戻された。
27 明和7年8月25日
「ひきまわしだ」「涌井様と須藤様だ」「なんと、むごいことを」二人は本町を下り古町をまわり、処刑されたということだ。
須藤佐次兵衛のなきがらは縁あってねんごろにとむらわれたが、藤四郎の首は、当時、関屋にあった獄門台にさらしものにされたと聞く。
28 そんな ある雨の夜、女が1人
29 てぬぐいに藤四郎をつつみ 抱きかかえて、
30 松林に埋め、その後ずっと二十六夜まいりをつづけたそうだ。
31 やがて、その塚が出来、それは場所を転々としたものの、ようやく昭和16年に西堀の真城院(しんじょういん)に置かれ、今もなお地蔵様と 仲良く並んで町を見守っているということだ。 おわり
参考文献
『新潟明和騒動―研究と探訪の手引き』斉藤紀生/著(東銀座出版社)
『新潟の町・新かわらばん』笹川勇吉/著 (考古堂書店)
『新潟の堀と橋(新潟歴史双書5)』 新潟市/編 (新潟市)
『新潟歴史物語(新潟歴史双書3)』 新潟市/編 (新潟市)
『舟江情景 二十六夜塚編』笹川勇吉/編 (舟江情景社)
『おはなし歴史風土記』歴史教育者協議会/編 江口準次/挿絵(岩崎書店)
『ビジュアルNIPPON江戸時代』山本博文/監修(小学館)
『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝/著 (河出書房新社)
『鬼平犯科帳36』さいとうたかを/著 池波正太郎/原作 久保田千太郎/脚色(リイド社)
他
31枚ものを「完全版」、20枚ものを「普及版」ということにして、それぞれ作ることにします。ワークショップでは、普及版に参加者で色をぬります。
関連ページ
製作経緯
実演時間
ワークショップ
展示
項目別に
脚本・線画 石倉恵子(新潟かみしばいクラブ代表)プロフィールはこちら
1 『明和義人ものがたり』
2 はなしは、今から200年以上も昔、江戸時代にさかのぼる。そのころ、新潟は長岡藩の一部で、今のネクストのビルのあたりにその出先の奉行所があったという。
3 その新潟町、東堀に涌井藤四郎という呉服屋がいたと。とっくに妻に先立たれ、子ども二人と暮らしていた。弱いものにやさしかったのが 商いのじゃまをしたのか、なかなか暮らしはきびしかったと。
4 明和4年、白山さまの春祭りのことだ。
「藤四郎、どこ見てるんだ。ほれ、芸者衆のおひろめだぞ」
「あ、ああ。なに、あっちにわしの店のお得意様が見えてな。ああ、あの着物は以前わしが見立てたものだな。なんとよく似合うことだ。」
すると、うしろから呼ぶ声がする。
<抜きながら>
「涌井様、雪でございます。」
5 「その節は帯の代金を後にさせていただいて、申し訳ございませんでした。なんとか工面することが出来ましたので、今、ここでお渡ししてよいでしょうか」
「いや、すまないね、あとでも良かったのに」 そのとき
<さっと抜く>
6 「その女 どけっ、ものども、道をあけろ。言い渡すことがある」
奉行所役人の石垣忠兵衛がやってきた。
「これ、町民ども、藩の財政逼迫(ひっぱく)につき、町のものには合わせて1500両、
期限までにおさめるようにせよ」
7 「いや、お役人様、それは困る。なんとか勘弁してもらえぬか。」
「ならぬ、奉行所にさからうと申すか」
「うちはおっかあが病気で寝てるだ。薬代だってばかにならんのだ。近ごろ景気が悪くて
ろくに米も買えないのに、どうしてそんな金を納めることができようか」
「ええい、うるさい。問答無用だ」
8 それからも災害や米の買占めで、暮らしは苦しくなるばかり。そんな中 人々は やっとのことで1500両の半分、750両を納めることができた。だが翌年の夏、残り半分の期限が近づいてくる。
9 「なんとかせねばなるまい」「涌井様が集まるようにと」「お上に知られたらたいへんなことだというのにな」人々は本浄寺に集まったと。 <抜きながら>
「わしらは年寄りだからよくわかるのじゃ。」須藤佐次兵衛が言いつのる。佐次兵衛は藤四郎のよき相談相手で商売上手だが、今度ばかりは怒りが収まらない
10「いいか、このようなひどいことは今までなかったのじゃ。
第一、役人どもは税をのがれているではないか、なぜわれらばかりこのような目にあうのか。」
「そうだそうだ、米の値段も高くなるばかりだ。陰で買い占めているといううわさだ。
問屋を問い詰めて白状させろ」 「藤四郎、おぬし そう思わんか」
11「いや 佐次兵衛、争いごとはいかん。結局 一番弱いものが傷つくだけだ。
どうだ、残り半分、景気が良くなるまで猶予を願いでては」
「しかし、そんなことで お上が われらの願いを聞くものかどうか。」
「なに、町が良くなるように皆で考えた案があるではないか。今、嘆願書を書くぞ。ここはわしにまかせてくれ」 すると、
12 がたん、戸が開いた。「そこのもの、動いてはならん」
石垣忠兵衛ら役人たちが乗り込んできた。
「お上にたてつくために集まるとはもってのほか。涌井藤四郎がそそのかしたと聞いておる。
涌井はどこだ・・・ よおし、ひったてい」
13 「まて、待ってくれ」
誰かが役人に告げ口してあったのだなあ。このころは封建制で、庶民が反対意見を集めて申し出ることなど禁じられていて、それを破るのは犯罪だとされていたんだ。藤四郎は
牢に入れられたと。
14 さあ町の衆はおさまらんなあ。
「大変だ。藤四郎様が役人に捕まったぞ。」「藤四郎を奪い取れ、役人をたたきつぶせ」
「もう、がまんできねえ」
15 カンカンカンカン「聞こえるか、合図の鐘だぞう」
明和5年9月26日の夜、古町の下(しも)、本明寺(ほんみょうじ)の鐘が激しくなった。
カンカンカンカン。あちこちで早鐘が鳴る。人々は日和山に続々と集まっていった。
「打ち壊すぞ!」
16 「いくぞ」人々は、山を下り、御祭堀(ごさいぼり)、広小路(ひろこうじ)、坂内小路(ばんないこうじ)へなだれこんだ。
「つげぐちしたやつの屋敷はどこだ」「藤四郎を救いだせ」ダダダダダ
17 黒ふくめんの男が叫んだ
「個人的な恨みで乱暴をしてはならぬ。殿様の紋のついたものは傷つけてはならぬ。ただ民のための一揆だということを忘れるな」
「おおう」「役人どもはどこだ、金儲けで太った奴らはどこだ」「ここから出ていけ」「役人どもをたたきつぶせ」
18 「ええい」「それえ」「藤四郎を奪い取れ」ガーン、バキーン。
人々はそれらの屋敷をこわしていったと。
19 「大変だ、鉄砲隊がくるぞ。それ、屋根に上がれ。」
20 「ええい、これでもくらえ」
屋根の上から石やら薪(たきぎ)やら、鉄砲隊めがけてあめあられ
21「これはいかん、藤四郎を解き放て」。藤四郎は釈放された。しかしそれでも人々の怒りは止まず、二日間にわたり、20軒あまりの屋敷が打ち壊しにあったそうだ。それらの金持ちや役人たちはたまらず逃げ出したと。 数日後、
22 「ほんとに打ち壊しにはびっくりしたねえ。今日は おとっつあんは
勝念寺(しょうねんじ)で また寄り合いだからな、早く飯のしたく、しなきゃならんのだよ」
「うん、引き換え券で お米もちゃんと買えたしね。」
「ほれ、おとうふ落とすんじゃないよ。前よりずっと安くしてもらえたんだから」
23 「こう言って うちのかかあは大喜びでさあ」
「これからは藤四郎様にみんな決めてもらおう」
「いや、皆がわかるように決めなくてはならんし、自分の暮らしの按配は自分で決めるのが一番だな」
「で、お金の按配だが、借りやすいように質屋に金利を下げてもらえんかのう」
「今回のことで怪我をしたものは、安く治してもらえるといいがなあ」
「そうだ、役人がいないから、自分たちで町の見回りをしたほうがいいなあ」
と、まあ、こんな様子が2ヶ月続いたそうだ。はるか昔、江戸時代にこんなことがあったとは とても珍しく、確率で言えば
24 市長がバナナの皮ですべって転ぶようなもんで、まあ、めったにないことだ。
25 長岡奉行はいつまでもこんなことを許しておくはずはない。なにせ、江戸時代の話だ。兵隊を舟で送り込んだという。ところが町民に荷下ろしを断られ、結局、藤四郎を町の総代として認める事になったそうだ。
26 さて、長岡奉行の今泉岡右衛門(いまいずみおかえもん)は
「よし、この米を千俵、新潟に届けることにする。それから、新潟の石垣忠兵衛を呼べ。このたびの不始末を追及せねばなるまい。藤四郎と、佐次兵衛にもここで事情を聞こう。」
千俵の米に、新潟の人々はたいそう喜んで長岡奉行を讃える歌まで作ったそうだ。
だが、その米は一体誰が作ったのか、お金を納めたのは誰だったのか、人々はどう思ったのだろう。
結局、藤四郎と佐次兵衛は首謀者として、長岡で牢に入れられたと。その2年後、二人は新潟の牢屋に戻された。
27 明和7年8月25日
「ひきまわしだ」「涌井様と須藤様だ」「なんと、むごいことを」二人は本町を下り古町をまわり、処刑されたということだ。
須藤佐次兵衛のなきがらは縁あってねんごろにとむらわれたが、藤四郎の首は、当時、関屋にあった獄門台にさらしものにされたと聞く。
28 そんな ある雨の夜、女が1人
29 てぬぐいに藤四郎をつつみ 抱きかかえて、
30 松林に埋め、その後ずっと二十六夜まいりをつづけたそうだ。
31 やがて、その塚が出来、それは場所を転々としたものの、ようやく昭和16年に西堀の真城院(しんじょういん)に置かれ、今もなお地蔵様と 仲良く並んで町を見守っているということだ。 おわり
参考文献
『新潟明和騒動―研究と探訪の手引き』斉藤紀生/著(東銀座出版社)
『新潟の町・新かわらばん』笹川勇吉/著 (考古堂書店)
『新潟の堀と橋(新潟歴史双書5)』 新潟市/編 (新潟市)
『新潟歴史物語(新潟歴史双書3)』 新潟市/編 (新潟市)
『舟江情景 二十六夜塚編』笹川勇吉/編 (舟江情景社)
『おはなし歴史風土記』歴史教育者協議会/編 江口準次/挿絵(岩崎書店)
『ビジュアルNIPPON江戸時代』山本博文/監修(小学館)
『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝/著 (河出書房新社)
『鬼平犯科帳36』さいとうたかを/著 池波正太郎/原作 久保田千太郎/脚色(リイド社)
他
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