聖霊は人々に感覚を与える。神の言葉を読んだ後、人々の心は揺るがず、安らかであり、一方で神の言葉を得ない人は虚しさを感じる。これは御言葉の力である。人々はそれらを読まねばならない。読後には豊かになり、それなしにはいられなくなる。それはアヘンを摂取するようなものである。それは人々に力を与え、それなしではどうしようもなくなり、力を失う。これは今日の人々の傾向である。御言葉を読むことは人々に力を与える。それらを読まなければ、物憂げになるが、読後は直ちに病床から立ち上がる。これが地上の神(御言葉)の支配の意味である。一部の人は立ち去りたがるか、神の仕事にうんざりしている。それでも彼らが御言葉から離れることはできない。人々がどれほど弱いものであっても、神の言葉に頼って生きなくてはならず、どんなに反抗的であっても、あえて神の言葉から離れようとはしない。御言葉が真にその力を示すときは、神が支配し、権力を行使するときであり、このように神は働かれる。結局のところこれが、神が仕事を行われる手段であり、誰もそれを離れることはできない。御言葉は無数の家に広がり、すべてのものに知られるようになり、このようにしてのみ、神の仕事は全宇宙に広まる。つまり、神の仕事を全宇宙に広げるには、御言葉が広められなければならない。神の栄光の日に、御言葉はその力と権威を示すだろう。大昔から今日まで語られてきたすべての御言葉が成就し、現実となるだろう。このようにして、栄光は地上で神のものとなる。つまり、神の言葉が地上で全てを支配するようになる。悪者はすべて神の口から語られる御言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる御言葉によって祝福され、すべては神の口から語られる御言葉によって確立され成就される。また、いかなるしるしや不思議も神は示されない。すべてが御言葉によって成就され、御言葉は事実を生み出すだろう。老若男女問わず、地上にいるすべての人は御言葉を称え、御言葉の下にすべての人々は服従する。御言葉は肉に現れ、地上の人々の目に、鮮明にかつ真実味を持って映るだろう。これが、言葉が肉になるということである。神は主に、「言葉が肉になる」という事実を成し遂げるために地上に来られた。つまり神は、御言葉が肉から発されるよう来られたのである(神が直接天から語られた旧約のモーセの時代とは異なる)。その後、千年御国時代にはそれぞれの言葉が成就し、人々の目に見える事実になり、少しの誤りもなく、おのおのの目で見ることになるだろう。これが、神の受肉の最高の意味である。つまり御霊の働きは、肉体を通し、言葉を通して達成される。これは「言葉が肉になる」および「言葉の肉における出現」の真の意味である。神だけが聖霊の意志を語ることができ、肉における神のみが聖霊に代わって語ることができる。神の言葉は受肉した神の中に明らかにされ、他のすべての人はそれらによって導かれる。誰もそこから外れることはなく、みなこの範囲内にいる。これらの御言葉からのみ、人々は知ることができる。このようにして得ない者たちは、天から発せられた御言葉を得られると夢みている。これが、受肉した神に示された権威であり、全ての人を信服させるのである。最も優れた専門家や牧師でさえ、これらの言葉を話すことはできない。彼らはこれらに従わねばならず、誰も新しく始めることはできない。神は言葉によって全宇宙を征服される。肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた御言葉によって、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそ、言葉は肉となるということであり、これこそ、肉における言葉の出現である。人々には、神がさほど多くの仕事をなしておられないように見えるかもしれないが、神が言葉を発されるだけで、人々は完全に納得し、圧倒される。事実がなければ、人々は喚き散らし、御言葉があれば、彼らは沈黙する。神はこの事を必ず成し遂げられるだろう。地上への御言葉の到来を達成することは、神の長年に亘る計画だからである。実際、私が説明する必要はない。地上に千年御国が到来したということは、地上に御言葉が到来したということである。天国から新しいエルサレムが降るのは神の言葉の到来であり、神の言葉が人の中で生き、人間の全ての行動や内なる考えの全てに伴うことである。これはまた、神が成し遂げられる事実であり、千年御国の素晴らしい光景である。これは神によって定められた計画である。御言葉は千年の間地上に現れ、それらは神のすべての御業を明らかにし、地上での神のすべての仕事を完了させ、それにより人類のこの段階は終わりを迎える。
注:
a. 原文は「彼が言われること」を省略している。