神様の見守りに感謝します

神様の民は神様の声を聞く、真心で神様を愛する人は必ず神様の玉座の前に帰す!

夫に裏切られた彼女を、神は苦痛のもやから救われた

2019-12-05 14:58:04 | 日記
神の愛によって、あなたは幸せを見つけました。神に感謝します。私のある親友は彼女の旦那さんに裏切られました。そのため、泣いている彼女の様子を見ると、私は心から彼女の旦那さんを憎んでいます。今日は、この文章を読んでみて、これらのことの根源は、サタンが引き起こした邪悪によって人間を堕落したということが分かりました。


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夫に裏切られた彼女を、神は苦痛のもやから救われた

千年御国は訪れた

2017-05-13 15:58:39 | 日記
千年御国は訪れた


この一団に神がなさろうとしている働きが何かを見ただろうか。千年御国にあってもなお、人々は御言葉に従い続けなければならず、将来も神の言葉はカナンの良き地で人々の生活を直接導くであろうと神は言われた。モーセが荒野にいたとき、神は直接彼に指示を与え、語られた。神は天から人々に食べ物と水とマナを送り与えられた。今日も神は人々を楽しませるため自ら食べ物と飲み物を送り与え、人々を罰するため自ら呪いをかけてこられた。このように、神の仕事のすべての段階は神によって自ら行われる。今日、人々は事が発生するのを待ち望み、しるしや奇跡を見ようとするが、そのような人々はすべて打ち捨てられる可能性がある。神の働きは益々現実となっているからである。神が天から降りてこられたことを知る人は誰もおらず、神が天から食べ物や栄養となるものを下さったことに人々はまだ気づいていないが、神は実際に存在するのであり、人々が思い描く千年御国の熱い場面も、神が自ら言葉を発せられる。これは事実であり、これだけが神とともに地上において支配することである。地上における神との支配は肉を意味する。肉でないものは地上にはないので、第三の天に至ろうとする人々の努力は無駄になる。いつか全宇宙が神に戻るとき、全宇宙における神の仕事の中心は神の声に従うだろう。他の場所では、ある人は電話で、ある人は飛行機に乗って、ある人は船で海を渡って、またある人はレーザーを使って、神の御言葉を受け取るだろう。誰もがあこがれ、渇望し、神に近づき、神の前に集い、そして神を礼拝する。これらすべてが神の御業なのである。覚えておきなさい。神がどこかよそで新しく始めることは決してない。神はこの事実を成し遂げられる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。その時神の御業は明らかにされ、神は栄光を受けるだろう。宇宙の至るところにいるすべての人々が、この目立つ訳でもない「人」を礼拝するだろう。これは神の栄光の日ではないだろうか。いつか、老牧師たちは生ける水の泉から、水を求めて電報を送ることだろう。彼らは年老いているが、彼らが軽蔑しているこの人に礼拝をしにやってくるだろう。彼らは口々に認め、心の中で信頼するだろう。これはしるしと不思議ではないだろうか。御国全体が喜ぶ時は、神の栄光の日であり、あなたがたのもとに来て神のよい知らせを受ける者は皆神によって祝福され、これらの国々とこれらの民は神によって祝福され、顧みられるだろう。将来の方向性は次のようになる。神の口から御言葉を得る者は、地上で歩むべき道を知っており、ビジネスマンや科学者であれ、あるいは教育者や実業家であれ、神の言葉のない人には、一歩進むことさえ難しく、彼らは真理の道を求めることを余儀なくされるだろう。「真理とともに世界中を歩む。真理なくしては、どこへも至ることができない。」とはこのことを言うのである。事実はこうである。神は道(つまり御言葉全て)で全宇宙を支配され、人を治め征服される。人は常に、神が仕事を行われる方法に大きな変化が起きることを望んでいる。率直に表現すれば、神が人を支配するのは言葉を通してであり、あなたは望むと望まざるとを問わず、神の言われること[a]をしなければならない。これは客観的な事実であり、すべてのものはこれに従わなければならず、避けることのできない、全ての者に知られた事実である。

聖霊は人々に感覚を与える。神の言葉を読んだ後、人々の心は揺るがず、安らかであり、一方で神の言葉を得ない人は虚しさを感じる。これは御言葉の力である。人々はそれらを読まねばならない。読後には豊かになり、それなしにはいられなくなる。それはアヘンを摂取するようなものである。それは人々に力を与え、それなしではどうしようもなくなり、力を失う。これは今日の人々の傾向である。御言葉を読むことは人々に力を与える。それらを読まなければ、物憂げになるが、読後は直ちに病床から立ち上がる。これが地上の神(御言葉)の支配の意味である。一部の人は立ち去りたがるか、神の仕事にうんざりしている。それでも彼らが御言葉から離れることはできない。人々がどれほど弱いものであっても、神の言葉に頼って生きなくてはならず、どんなに反抗的であっても、あえて神の言葉から離れようとはしない。御言葉が真にその力を示すときは、神が支配し、権力を行使するときであり、このように神は働かれる。結局のところこれが、神が仕事を行われる手段であり、誰もそれを離れることはできない。御言葉は無数の家に広がり、すべてのものに知られるようになり、このようにしてのみ、神の仕事は全宇宙に広まる。つまり、神の仕事を全宇宙に広げるには、御言葉が広められなければならない。神の栄光の日に、御言葉はその力と権威を示すだろう。大昔から今日まで語られてきたすべての御言葉が成就し、現実となるだろう。このようにして、栄光は地上で神のものとなる。つまり、神の言葉が地上で全てを支配するようになる。悪者はすべて神の口から語られる御言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる御言葉によって祝福され、すべては神の口から語られる御言葉によって確立され成就される。また、いかなるしるしや不思議も神は示されない。すべてが御言葉によって成就され、御言葉は事実を生み出すだろう。老若男女問わず、地上にいるすべての人は御言葉を称え、御言葉の下にすべての人々は服従する。御言葉は肉に現れ、地上の人々の目に、鮮明にかつ真実味を持って映るだろう。これが、言葉が肉になるということである。神は主に、「言葉が肉になる」という事実を成し遂げるために地上に来られた。つまり神は、御言葉が肉から発されるよう来られたのである(神が直接天から語られた旧約のモーセの時代とは異なる)。その後、千年御国時代にはそれぞれの言葉が成就し、人々の目に見える事実になり、少しの誤りもなく、おのおのの目で見ることになるだろう。これが、神の受肉の最高の意味である。つまり御霊の働きは、肉体を通し、言葉を通して達成される。これは「言葉が肉になる」および「言葉の肉における出現」の真の意味である。神だけが聖霊の意志を語ることができ、肉における神のみが聖霊に代わって語ることができる。神の言葉は受肉した神の中に明らかにされ、他のすべての人はそれらによって導かれる。誰もそこから外れることはなく、みなこの範囲内にいる。これらの御言葉からのみ、人々は知ることができる。このようにして得ない者たちは、天から発せられた御言葉を得られると夢みている。これが、受肉した神に示された権威であり、全ての人を信服させるのである。最も優れた専門家や牧師でさえ、これらの言葉を話すことはできない。彼らはこれらに従わねばならず、誰も新しく始めることはできない。神は言葉によって全宇宙を征服される。肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた御言葉によって、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそ、言葉は肉となるということであり、これこそ、肉における言葉の出現である。人々には、神がさほど多くの仕事をなしておられないように見えるかもしれないが、神が言葉を発されるだけで、人々は完全に納得し、圧倒される。事実がなければ、人々は喚き散らし、御言葉があれば、彼らは沈黙する。神はこの事を必ず成し遂げられるだろう。地上への御言葉の到来を達成することは、神の長年に亘る計画だからである。実際、私が説明する必要はない。地上に千年御国が到来したということは、地上に御言葉が到来したということである。天国から新しいエルサレムが降るのは神の言葉の到来であり、神の言葉が人の中で生き、人間の全ての行動や内なる考えの全てに伴うことである。これはまた、神が成し遂げられる事実であり、千年御国の素晴らしい光景である。これは神によって定められた計画である。御言葉は千年の間地上に現れ、それらは神のすべての御業を明らかにし、地上での神のすべての仕事を完了させ、それにより人類のこの段階は終わりを迎える。
注:
a. 原文は「彼が言われること」を省略している。


七番目の言葉

2017-04-29 12:30:41 | 日記
七番目の言葉


西面の枝はみな、わたしの声を聞きなさい。
これまで、あなたがたはわたしに忠実だっただろうか。あなたがたはわたしの優れた導きの言葉に従ってきただろうか。あなたがたは、曖昧で不確かなものではない、現実的な希望をもっているだろうか。人間の忠実さ、愛、信心は、すべてわたしから生じているものであり、わたしが与えたものでないものはない。わが民よ、あなたがたは、わたしの言葉を聴くとき、わたしの意図を理解しているだろうか。わたしの心がわかっているだろうか。かつて、あなたがたは奉仕の道をたどっていて、浮き沈みもあり、前進したときや後退したときもあった。また、倒れそうになったことも、わたしを裏切りそうになったこともある。しかし、そんな時にも常に、わたしがあなたがたを救っていたことが、わかっていただろうか。いつ、どのようなときにも、わたしが言葉を発し、助けてきたことがわかっているだろうか。何度、あなたがたはサタンの網に陥っただろう。何度、あなたがたは人間の罠に捕らわれただろう。また、何度、自我を捨て去ることができず、果てしない争いに身を投じてきただろうか。いったい何度、体はわたしの家にありながら、心はどこかよそをさまよっていただろうか。それでも、わたしはどれほど、あなたがたに救いの手を差し伸べてきたことか。何度、あなたがたの間に憐れみの粒を蒔いてきただろう。何度、あなたがたの哀れな苦しみを見て耐え難い思いをしてきたことか。いったい何度……わからないのだろうか。

しかし今日、あなたがたはわたしの守りの下、ついにあらゆる困難を乗り越え、わたしとともに幸福の中に入った。これはわたしの知恵の結晶だ。それでも、このことをよく覚えておきなさい。他の人たちは倒れたけれども、あなたがたは強くあっただろうか。誰が、一瞬も弱ることなく、ずっと強くあっただろう。人々の中で、誰がわたしからではない恵みを受けただろう。誰がわたしからではない不運を経験しただろう。わたしを愛する者はみな、祝福だけを受けているのだろうか。ヨブに不運が訪れたのは、彼がわたしを愛さず、逆らったためなのだろうか。パウロがわたしに対して忠実に仕えることができたのは、真にわたしを愛することができたからだろうか。あなたがたはわたしの証を堅持するだろうが、あなたがたの中に、純金のようで、不純物を混ぜられていない証をする人が、誰かいるだろうか。人間に真の忠誠は可能なのだろうか。あなたがたの「証」がわたしを喜ばせることは、あなたがたの「忠誠」と矛盾しない。なぜなら、わたしは誰からも多くを求めていないからだ。わたしの本来の計画から考えれば、あなたがたはみな「二級の不良品」なのだ。これは、わたしの「憐れみの粒を蒔く」と言ったことのしるしではないのか。これは、あなたがたの目には、わたしによる救いではないのか。

あなたがたはみな、思い返してみるべきだ。わたしの家に戻って以来、自分の損得を考えず、ペトロのように、わたしを知るようになった者は、いるだろうか。あなたがたは聖書の表面的なことは完璧に理解しているが、その本質を受け入れただろうか。たとえそうであっても、あなたがたは、まだ自分の「元手」にしがみつき、自己を捨て去ることを拒んでいる。わたしが言葉を発したとき、面と向かって話したとき、あなたがたの誰が閉じた「巻物」を置いて、わたしの明かした、いのちの言葉を受けようとしただろう。あなたがたはわたしの言葉を重んじず、また、それを大切に思いもしなかった。それどころか、わたしの言葉を敵に向かって機銃のように使って、自分の地位を維持しようとした。わたしの裁きをほんの少しも、わたしを知るために受け入れようとしなかった。あなたがたは誰もみな、他の誰かに武器を向けている。あなたがたはみな「無私」で、みな、どんな時でも「他人を思いやっている」。あなたがたは昨日まで、このとおりのことをしていたのではないか。そして、今日はどうか。あなたがたの「忠誠」は、ごくわずか増した。みな、少しだけ経験を得て、少しだけ成長した。そして、そのために、わたしを「恐れる」気持ちが少し増した。そして誰一人、軽々しく行動しようとしない。なぜあなたがたは、いつでも受身でいるのだろうか。なぜ、あなたがたの内には積極的な要素がまったく見られないのか。ああ、わが民よ。過去はとうに過ぎた──あなたがたは、もはや過去にしがみついていてはいけない。昨日はしっかりと立っていて、今日は心からの忠誠をわたしにささげるべきだ。そのうえで、明日はわたしについてよい証をすべきだ。また、将来わたしの祝福を相続すべきだ。これこそは、あなたがたが理解するべきことだ。
わたしはあなたがたの前にいないが、わたしの霊は必ずやあなたがたに恵みを与える。あなたがたが、わたしの祝福を大切にし、それを頼みとして、自身を知ることができることを願っている。これを自分の資本とせず、あなたがたの内に欠けているものをわたしの言葉の内で満たしなさい。そして、あなたがたの必要とする積極的な要素を得るのだ。これが、あなたがたに伝える教えである。
1992年2月28日




キリストに味方しない者は確実に神の敵だ

2017-04-24 16:25:40 | 日記
キリストに味方しない者は確実に神の敵だ



何人もイエスの真の御姿を見、イエスと共にありたいと願っている。兄弟姉妹の中で、イエスの御姿を見たい、またはイエスと共にありたいと願わない者はない、とわたしは信じている。あなたがたがイエスをまだ見ていない時、すなわち、あなたがたが受肉した神をまだ見ていない時、あなたがたは、例えば、イエスの御姿やイエスの話し方、イエスの生き方などについてよく考えることだろう。しかし、あなたがたが実際にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わるだろう。なぜそう言えるのか。知りたいか。実際、人間の考えは無視できないが、キリストの本質を変えることはもっと許しがたいものだ。あなたがたは、キリストは神仙であり、賢人だと考えているが、キリストが神性な本質を持った人間だと考えている者はいない。それゆえ、朝から晩まで神にお目にかかりたいと切望している者の多くは、実際には神の敵であり、神に味方しない者なのだ。これは人間側の誤りではないのか。今でもあなたがたが自分の信念と忠誠心がとても強いゆえにキリストの御姿を見るに値すると考えているが、わたしはあなたがたに対して、もっとも確実なものを身につけるように強く説きたい。というのも、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う者の多くは失敗したからだ。そのような者たちは皆、パリサイ人の役割を担っているのだ。あなたがたの失敗の理由とは何なのか。それは、あなたがたの観念の中に非常に大きくて立派な神がおられるからだ。しかし、実際は人間が望んでいるようなものではない。キリストは特に大きくも立派でもないだけでなく、特に小柄である。キリストは人間であるというだけではなく、それも普通の人間なのだ。キリストは天に上ることができないだけではなく、地上を自由に移動することもできないのだ。それゆえ、人々はキリストを普通の人間として扱うのだ。人々はキリストと共にいる時は好き勝手に振る舞い、キリストに気軽に言葉をかけるが、それでも「真のキリスト」の到来を待望しているのだ。あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、キリストの言葉を普通の人間の言葉とみなしている。それゆえ、あなたがたはキリストからまだ何も受け取ってはいない代わりに、自らの醜さを光にさらしているのだ。

キリストと触れ合う前に、あなたは自分の性質が完全に変わったと考えるかもしれないし、あなたは自分がキリストの忠実な信奉者だと信じるかもしれないし、あなたは自分こそ最もキリストの祝福を受けるに値すると考えるかもしれない。あなたは多くの道を通り、多くの働きをし、多くの実を結んできたのだから、あなたは最後に栄冠を手にする者のはずだと。しかし、あなたが知らない事実が一つある。それは、人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだということだ。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きておられるので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と言う。あなたは、自分が神に忠実だと言えるか。あなたは、自分が神に絶対的に従順だと言えるか。あなたは、自分が反抗的ではないと言えるか。次のように言う者がいるだろう。「神が私を取り巻く環境をお創りになるたびに、私は常に従順で、決して不平は言いません。また、私は神に対して全く観念を持っていません」。また、次のように言う者もいるだろう。「神が私に課された働きに対して、私は全力を尽くして取り組んでおり、決して怠けてなどいません」。それでは、わたしはあなたがたに以下のように問いたい。あなたがたはキリストと共に生きる時、キリストに味方することができるだろうか。あなたがたはいつまでキリストに味方できるだろうか。一日だろうか。二日だろうか。一時間だろうか。二時間だろうか。あなたがたの信心は実際、称賛すべきものではあるが、あなたがたの信心は確固たるものではない。あなたが本当にキリストと共に生きている時、あなたの独りよがりとうぬぼれがあなたの言葉と行動によってゆっくりと明らかになっていき、あなたの行き過ぎた欲望や反抗、不満が自然と露わになるのだ。そして、ついに、あなたの傲慢さはより一層激しさを増していき、あなたがまるで水と火の関係のようにキリストに味方しなくなると、あなたの本性が完全に露わになるのだ。そうなると、あなたの観念を隠しとおすことはできなくなる。あなたの不満も自然と明らかになり、あなたのいやしい人間性が完全に露わになるのだ。しかし、あなたはそれでも自らの反抗心を否定し続ける。そして、あなたは、このようなキリストは受け入れ難く、キリストは人間にあまりにも厳し過ぎて、もっと優しいキリストになれば完全に服従する、と考えるのだ。あなたがたは、自らの反抗には理由があり、キリストがある段階まであなたがたを駆り立てた時にのみキリストに反抗する、と考えるのだ。あなたがたはキリストを神とみなしてはいないことに全く気づいておらず、またキリストに従うつもりもないのだ。むしろ、あなたがたはあなたがたの考えに従ってキリストが働きを行うように断固として主張し、そのようなやり方で行われなかったいかなる働きについても、あなたは、キリストは神ではなく、人間だと考えるのだ。あなたがたの中には、このようにキリストと争ったことがある者は多くいないだろうか。あなたがたが信じるのは誰なのか。また、あなたがたはどのように追い求めているのか。
あなたがたは常にキリストの御姿を見たいと思っているが、あなたがたは自分を過大評価しないように勧める。何人もキリストの御姿を見ることができるが、キリストの御姿を見るにふさわしい者はただ一人としていない。人間の本性は悪、傲慢、反抗に満ちているため、あなたがキリストの御姿を見た時、あなたの本性があなたを破滅させ、死へと追いやる。兄弟(または姉妹)とのあなたのつながりは、あなたについて多くを示すことはないかもしれないが、キリストとつながる時には、そういう単純な話ではない。あなたの観念はいつなんどき根付き、あなたの傲慢は芽を出し、あなたの反抗はイチジクの実をつけるかもしれない。そのような人間性を持ったあなたがいかにしてキリストとつながるにふさわしいと言えるだろうか。あなたは本当に毎日、一日中、キリストを神として見ることができるだろうか。あなたは本当に神に従うことができるだろうか。あなたがたは心の中で非常に大きくて立派な神をヤーウェとして崇めるが、目に見えるキリストは人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに低劣で、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを永遠に神とみなすことはできない。あなたがたはただ好きな時にキリストを呼び、神として礼拝するのだ。それゆえ、あなたがたは神を信じる者ではなく、キリストと戦う者たちの共犯者だ、とわたしは言うのだ。他者に対して親切心を示す者でさえ報われるが、あなたがたの中でそのような働きをするキリストは、人に愛されることも報われることもなく、人間からの従順を受けることもない。これは最も悲しいことではないのか。

あなたが神を何年間も信じている間に、あなたは誰ものろったことはなく、悪行を働いたこともないかもしれないが、キリストとのつながりにおいて、あなたは真実を語ることも、誠実に振る舞うことも、キリストの言葉に従うこともできない。それならば、あなたは、この世で最もひねくれて邪悪だとわたしは言おう。あなたが縁者、友、妻(または夫)、息子、娘、両親に対して特に思いやりがあり、忠実で、決して他者を利用したりはしないが、キリストに味方し、キリストと平和な関係を持てないとしたら、たとえあなたが隣人を全力で救済し、または父、母、家族を大切にしていたとしても、それでもわたしは、あなたは邪悪でずるがしこいと言うのだ。あなたは自分が人間に味方したり、善行を行ったりすれば、キリストに味方する者だと思うのか。あなたは、自らの親切が天の恩恵を盗み取ることができると信じているのか。あなたは、善行はあなたの従順に代わるものだと考えているのか。あなたがたの中に、神の取り扱いと手入れを受け入れることができる者は一人もおらず、皆が、キリストの正常な人間性を受け入れることは難しいと考えている。しかし、あなたがたは常に神への従順を主張する。そのようなあなたがたの信仰はそれにふさわしい報いを引き起こすだろう。気まぐれな幻想にふけ、キリストの御姿を見たいなどと考えるのはやめるのだ。というのも、あなたがたは背丈があまりにも小さく、キリストの御姿を見るには値しないからだ。あなたが完全に反抗心を拭い去り、キリストと平和な関係を持てるようになった時に、神が自然とあなたの前に現われるだろう。あなたが手入れ、または裁きを経験せずに神の御姿を見にいったとしたら、あなたは確実に神の敵になり、破滅する運命にある。全ての人はサタンによって徹底的に堕落しているので、人間の本性は本質的に神に敵対する。堕落した人間が神とつながっても、良いものはひとつとして生まれてこない。人間のあらゆる行いと言葉は、その堕落ぶりを確実に露わにするだろう。人間が神とつながる時、その反抗心があらゆる面で明らかになるだろう。そうなると、人間は知らず知らずのうちにキリストに反対し、キリストを欺き、キリストを拒絶するようになる。そうすると、人間はますます危険な状態になるだろう。その状態が続けば、人間は懲罰を受けることになるだろう。
神とのつながりがそんなに危険というならば、神に近寄らないのが賢明ではないかと考える者もいるかもしれない。それならそのような人は何を得るのだろうか。そのような人は神に忠実になることができるだろうか。実際、神とのつながりはたいへん難しいが、それは、人間が堕落しているからであり、神が人間とつながることができないからではない。あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。あなたがたは神をもてなすことで富や贈り物、称賛を得ようとする。あなたがたは硬貨を一枚か二枚与えると、心が痛む。あなたがたは硬貨を十枚与えると、恩恵を欲しがり、他者と区別されたいと思う。あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。本分を尽くす者とそうでない者、導く者と従う者、神をもてなす者とそうでない者、与える者とそうでない者、伝道する者と言葉を受け取る者など、このような者たちは皆、自分を褒める。これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。



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宗教奉仕を取り締まるべきである

2017-04-13 16:25:34 | 日記
宗教奉仕を取り締まるべきである


全宇宙に於いて神が働き始められた最初から、神はあらゆる地位、職業の人たちを含めて、神に仕える多くの人たちを前もって選ばれた。神の目的はご自身の御心を達成し、地上での働きが実を結ぶよう確証することである。神に仕える人々を選ぶにあたって、これが神の目的である。神に仕える人はすべてこの神の御心を理解しなければならない。神の働きを通して、人々は神の知恵と神の全能をよく知ることができ、また地上での神の働きの原則をよく見ることができる。神は実際に働かれるため、また彼らが神の行いをもっとはっきり見ることができるように地上に来られ、人々と接触される。今日、実際の神に仕えるのはあなたがたにとって名誉なことである。あなたがたにとって、これは素晴らしい祝福である。神はまことにあなたがたを高い地位につけようとしておられる。神に仕える人を選ばれる時、神はいつもご自身の原則を持っておられる。神に仕えることは人々が想像するように、ただ熱心であるかどうかの問題ではない。あなたがたも知っているように、神の導きと聖霊の働きにより、人は今日神の御前に神に仕えることができる。それはその人が真理を追い求めているからである。これらは神に仕える人の最低条件である。

 神に仕えることは簡単なことではない。堕落した性質が変えられていない者は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の御言葉によって裁かれておらず、罰せられていないなら、あなたの性質は依然としてサタンを表している。これは、あなたの神への奉仕が自分自身の善意から出ているということの証明だ。あなたの奉仕は、あなたのサタンの性質に基づいた奉仕である。あなたは本来持っている性質と自分たちの好みによって、神に仕えているのである。またそれ以上に、あなたが好きなものは何でも神は愛され、あなたが嫌いなものは何でも神は憎まれると思い込み、そうしてあなたの働きはひたすら自分の好みによってなされていく。これで神に仕えていると言えるだろうか。結局のところ、あなたのいのちの性質はみじんも変えられていない。実際、あなたは神に仕えてきたことで更に頑固になり、あなたの堕落した性質が深く根差すことになる。あなたは神に仕える規定を持つようになる。それは正にあなたがた自身の性質から出たもので、あなたの性質に従って神に仕えた経験を基盤としている。これが人間の経験であり学び方である。それは人の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教家である。もし彼らが目を覚まし、悔い改めなければ、究極的には彼らは終わりの日に現れる偽キリストになってしまうだろう。彼らは惑わすものたちである。偽キリストや惑わす者たちとはこのような人たちから生まれるであろう。神に仕えようとする人たちが自身の性質のまま、自分たちの意思通りに行動するなら、神に見捨てられる危険が絶えず付いて回る。長年神に仕えた経験を利用して人々の心を誘惑し、人々に説教し支配し、自らを高める人々―決して悔い改めることもなく、罪を告白することもなく、自分の立場を利用し続ける人たち―そのような人たちは神の御前で倒れるだろう。彼らはパウロと同じ種類の人々で、うぬぼれていて、自分たちの地位や経歴を自慢している。神はこのような人々を完全にすることはないだろう。この種の奉仕は神の働きを妨げる。人々は古い物にしがみつきたがる。過去の考え方、過去の物にしがみつきたがる。これは奉仕の大きな障害となる。そのような物事を捨てることが出来なければ、あなたの一生は、そのような物事に抑圧されることになる。神は少しもあなたを褒めることはないだろう。あなたがどんなに身を粉にして、骨を折って一生懸命働いたとしても、神の「奉仕」で殉教死までしたとしても。それどころか、神はあなたを、悪を行う者と呼ぶだろう。

今後、神は宗教的観念が無く、古い自分を捨てる用意ができていて、従順に神に従う人たちを正式に完全にされる。神は御言葉を慕う人たちを完全にされる。そのような人たちは立ち上がり、神に仕えるべきである。神には、底知れない豊かさと計り知れない知恵がある。神の驚くべき働きや尊い御言葉はもっと多くの人たちが享受するためにある。これらの新しいことは宗教観念を持った人たちや、当然のように優越感を持つ人たちや、古い自分を捨てることができない人たちによっては受け入れられない。聖霊がこのような人たちを完全にする機会はない。従う意思もなく、神の御言葉に飢え渇いてもいないなら、彼らは新しいことを受け入れることはできないだろう。彼らは更に反抗的になり、更にずる賢くなるだけで、間違った道を歩むことになるだろう。神は今の働きの中で、ご自分を真に愛する人たちや、新しい光を受け入れることができる人たちを更に立てられる。そして、神は自分たちの地位や立場を自慢する宗教家たちを完全に排除される。神は変化を拒絶する人を一人として求めてはいない。あなたはそのような人たちの一人になりたいか。あなたは自分の望み通りの奉仕をしたいと思っているだろうか。それとも神が望まれていることをしたいと思っているだろうか。この事は必ず知っていなくてはならない。あなたは宗教家の一人だろうか。それとも神によって完全にされる生まれたばかりの赤ん坊だろうか。あなたの奉仕のうちどれぐらい聖霊によって賞賛されるものがあるか。そのうち神が覚えてすらいないのはどれぐらいあるだろうか。何年も神に仕えて、あなた自身のいのちにどのくらい違いをもたらしただろうか。これらのことがはっきり分かるだろうか。もしあなたに本当に信仰があるなら、あなたは古い宗教観念を捨て、新しい方法で神によりよく仕えるだろう。もしあなたが今立ち上がるなら、決して遅くはない。古い宗教観念は人の一生を葬り去る。人が積む経験は、人を神から遠ざかり、自分のやり方で行動するようになってしまう。これらのことを手放さなければ、あなたのいのちの成長を妨げるだろう。神は常にご自分に仕える人たちを完全にされてこられた。神は彼らを簡単に見捨てたりはされない。もしあなたが神の御言葉の裁きと刑罰を心から受け入れ、古い宗教行事や規定をわきに置き、古い宗教観念を持って神の御言葉を測ることをやめるなら、あなたには将来が残されている。しかし、あなたが古いものに固執し大切にするなら、あなたは救われることはない。神はそのような人たちには注目されない。もしあなたが本当に完全にされたいなら、前からのもの全てを完全に捨てるよう決心しなければならない。たとえ以前行ったことが正しかったとしても、たとえそれが神の働きだったとしても、それをわきに置き、決してそれに固執してはいけない。たとえそれが明らかに聖霊の働きで、直接聖霊がなされたことでも、あなたはそれをわきに置かなくてはならない。あなたはそれにしがみついていてはならない。これは神が命ぜられることである。すべてのものが刷新されなければならない。神の働きと神の御言葉に於いて、神は以前あった古いものに言及されていないし、歴史を掘り返すようなことはされない。神は常に新しく、決して古くはない。神は昔のご自身の言葉にさえ固執されてはいない。これは神がいかなる規定にも従われないことを示している。もはや神は従前のようには御業を行われていないにも関わらず、あなたが常に過去の物事に固執し、過去の物事を規定のように厳密に適用している場合、人間としてのあなたの言動は、妨害ではないだろうか。あなたは神の敵になってしまったのではないだろうか。あなたは古いもののために全人生を喜んで無駄にしたいと思っているのか。これらの古いものはあなたを神の働きの妨げにしてしまう。そんな人になりたいと思っているのだろうか。もしあなたが心からそんな人にはなりたくないと思っているなら、あなたがしている事をすぐに止め、向き直ってまた最初から始めなさい。神は昔のことは記憶にとどめないのだから。


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