神子屋教育🇯🇵(かみこやきょういく)

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「不殺生菜食者」になった理由③『調和した世界の創造』Ⅱ

2009年05月23日 | 不殺生菜食者
~ 意識的であれ、はたまた無意識的であれ、結果的に私は「不殺生菜食者」となるよう導かれてきました。
私を「不殺生菜食者」としての道へと歩ませたものは、目には見えない力や働き、祈りや願い、そして目に見えて起きる様々な出来事がありました。 ~

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『全ての生命(いのち)が調和した世界』を創造するため生きるため、私は食の選択を変えました。
『動物の生命(いのち)』に関わる(=殺す・奪う)ことに繋がる肉食一切を、選択肢から外したのです。
ですから、牛・豚・鶏・魚介類・タマゴと言った動物性のものは食べません。

タマゴは無精卵がほとんどで、『生命(いのち)』に関わると言った意味からは外れるのかも知れませんが、私にとって『タマゴ』そのものが=(イコール)『命の象徴』であるという感覚があり、「不殺生菜食」を始めた時から食していません。

ただ、牛乳やチーズ・バターなどの乳製品は頂いています。
商業/工業ベースの飼育法や搾取の仕方、そういった商品としての扱いを受けている動物たちの置かれた現状を考えた時、その一個一個の『生命(いのち)』に対する意味からも、もちろん大きな疑問と大きな憤りは感じてしまいます。
ですが、『与え合う』という意味においての『調和した世界』、私はそこに一筋の愛を見出したいという理想もあって、牛乳やチーズ・バターなどに関しては『分けて頂く』という思いで食しています。

アニメ・アルプスの少女ハイジの中で、ペーターが山羊のお腹の下に潜り込み、寝転びながら直接口の中に乳を搾り出してゴクゴク飲むという姿に、私はなんとも言えない『調和』を感じてしまいます。
そこには人間と動物の『信頼関係』と『愛』、そして『与え合い』と『感謝』の精神があるように感じるのです。

エスキモーや遊牧民などの食生活・食文化を考えた時、『生命(いのち)』を『物』として扱うような、『生命(いのち)』自体を無視した私たちの肉食文化とは違い、彼らの肉食文化には明らかに大きな違いがあると感じています。
極めて限られた食料による、食生活を余儀なくされる地域に住むエスキモーや遊牧民の衣食住文化には、私たちには無い『生命(いのち)』に対しての価値観・意識の違いがあります。

『生命(いのち)』が食べものとなる一連の(屠る)プロセスを、すべて自分たち自身で行い(もちろん家族や子供たち目前で)、保存のきかない内臓を一番先に食べ、更に血液さえも無駄にはしないそうです。
自分たちの『生命(いのち)』が、そういった屠られた『生命(いのち)』に生かされていることを、彼らは目の当たりで感じ食しているのです。
身近なところで『生』と『死』を目撃し、家畜たちの痛みや苦しみを理解した上での食文化の中では、当然『懺悔』の心と『感謝』の思いが自然と培われて行きます。

私たちのようにスーパーやお店を介して、切れ切れとなった肉の塊を『物』として食するのとでは、全く意味合いが違ってきます。
その『物』を通して、業者によって屠られた生きていた『生命(いのち)』があることの実感や、それらの『生命(いのち)』そのものに対しての『懺悔』や『感謝』など、食する本人の内にそれらが自然と湧き起こることを望むのは非常に難しい話です。

エスキモーや遊牧民の肉食文化には、必要以上の無駄な殺生をしない『信頼関係』や、与えられた『生命(いのち)』に対しての『懺悔』や『感謝』など、『調和した世界』が私には感じられます。
『肉食しないこと』=(イコール)『調和した世界』ではないのです。
調和した『その心』こそが、『調和した世界』だと思うのです。

『需要』と『供給』という商業/工業ベースでの肉食の社会文化には、とても『愛』を見出すような要素や『調和した世界』を感じ取ることは出来ません。
実際に、『物』として扱われている『生命(いのち)』たちは、私たち人間に対してずっと警鐘を鳴らし続けています。
動物たちも病気になれば痛くて苦しくて辛いはず・・・、だって私たち人間と一緒の地球に生きる、『同じ生命(いのち)』『等しい生命(いのち)』『尊い生命(いのち)』なのだから・・・。
それにも関わらず、牛も、豚も、鳥(鶏)も、病気という姿になって、私たちのために警鐘を鳴らし続けて来ました。

【もう、これ以上、私たちを食べないでー!!】
【私たちは『生命(いのち)』であって『物』ではないよ!!】
【「愛」を、「調和した世界」を思い出して!】と。

牛舎でも養豚場でも養鶏場でも、病気が発生し蔓延し始めると、元気なものまで処理されて(殺されて)しまいます。
それはやはり、『物』として扱っているから為せる業。
『愛』ある『心』ある人間には、余程の必要性が無い限り、『生命(いのち)』を粗末に扱うことなど本来は出来ないものだと思うのです。
【牛は、豚は、鳥(鶏)は食べ物である】という人類意識が、肉食文化を創り、『生命(いのち)』を殺すことを正当化させているのです。

『需要』があるから『供給』する。
『求める』側がいるから、それは続く・・・のです。
『需要』が無ければ、それらは『供給』されません。

それに、私は思うのです。
エスキモーや遊牧民が、自分たちの家畜の『生命(いのち)』を『愛』をもって屠るように、今は『物』として扱われてしまっている動物たちの『生命(いのち)』を、本来本当に一番愛しているのは、牛舎や養豚場や養鶏場の方々であろうと。
そして、自分たちが『愛』を込め慈しみ育てた子供のような『生命(いのち)』たちを、『生かす』のではなく『殺さなければならない』という矛盾や痛みを一番感じているのも、やはり牛舎や養豚場や養鶏場の方々自身ではないだろうかと。(・・意識的でも無意識的でも)

『生命(いのち)』は本来、生かし生かされてその個性や特徴を発揮すべきもの。
それが、自然な『調和した世界』。
消費者がいる(需要がある)限り、殺し続けなければならない『世界』は、不自然な『不調和な世界』。
【だから、私はもうやめます!】
殺すこと殺させること、そして肉食文化に参加する消費者になることを!

『調和した世界の創造』の元、私はそういう宣言・選択をしたのです。
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関連内容:
「不殺生菜食者」になった理由①『母性』  
「不殺生菜食者」になった理由②『地球意識』
「不殺生菜食者」になった理由③『調和した世界の創造』Ⅰ
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