千代田法律・会計事務所 弁護士上條義昭

千代田法律・会計事務所 弁護士上條義昭日記

官僚化し市民感覚持たない民事裁判官の憂えるべき実態

2017-05-15 22:12:01 | 政治・行政

裁判所を使ったこと無い国民一般の素朴な認識として「憲法の定める日本の裁判所」は「ささやかな正義」を守って貰える「最後の砦」と期待しているのが普通ですが、その期待が完全に裏切られるのが、今の日本の裁判所です。

 今の民事裁判所は、「巧妙に立ち回るずる賢い輩」が裁判所から守られ、「他人を信じて疑わない正直者」が裁判所から冷たく切り捨てられることになる国家機関です。

  裁判官の立場では、「他人を信じて疑わない」のが抜けている人間であり、「そういう人間には裁判官は付き合っていられない。」という考え方、市民感覚を持たない上からの目線の発想です。

 すなわち、日本の裁判所では、「社会正義」など軽視される「どうでも良い存在」になってきてしまいました。社会正義というと「社会」という言葉を使っていることから分かるごとく「市民感覚で見る正義」のはずです。 

裁判所を利用したこと無い市民感覚では、国民が「そのささやかな正義を守るための救済申立手続」を裁判所に取れば、「裁判官が個別事件ごとに真摯に対応してくれて、ささやかな正義を守ってくれる。」というイメージが一般的にあります。 

これは「市民感覚を持った裁判官」が「良心を働かせて、勇気を持って真相を見抜いて、正しい結論を出してくれる」という期待があるからです。

 しかし、この期待は幻想であり、今の日本の民事裁判所は、「他人を信じて疑わない正直者」にとっては「絶望を感じる国家機関」になってしまっています。

 今の日本の裁判官は、昭和30年、40年代ころ裁判所に居た裁判官と全く異なった人間の集団になりました。

 当時の裁判官は、日本全体の貧しい時代に苦学して司法試験に合格した人、徴兵制で戦地に行き、戦地でいろいろな苦労とか辛い体験とかした人が居ました。神風特攻隊に志願して運よく生き残った人も居ました。 いわば、市民の中に居て、市民感覚に研ぎ澄まされた人が沢山居ました

 しかし、今の裁判官は、若い頃苦労することも無く、恵まれた生活環境で育ち、司法研修所に入っても、判決書きの技術教育は学ぶが、事実を見る目など全く養いません。 「事実を見る目」を養う機会が全く無いまま裁判官になってしまいます

 裁判所に入れば、最高裁事務総局の意向(「裁判官は居酒屋に行くな」の典型例を含めて。)に背かない態度で、判決書きの職人に徹していれば、公務員の中で高給は保証され、職場環境も昭和50年代以前に比べたら格段快適な状態になっており、法廷では「自分は偉い」と錯覚するような上からの目線が保たれ、当事者に対し傲慢な態度をとっても、最高裁事務総局に睨まれない限り定年まで身分安泰という、別世界になってしまっています。

 市民感覚など裁判実務をする上で不要であり、市民感覚から乖離した「独自の価値観が通用する別世界」になってしまっています。 裁判官の職務に就いた者は、「判決書きの職人」に徹していれば足ります。

 そのために、証人尋問手続でも、「真相を見抜く眼力」など持ち合わせず(持つ必要なく)、従って証人尋問を軽視し、物的証拠が残っている当事者は保護するが、「他人を信じて疑わずに書面に残さなかった誠実で正直な性格の者」が述べることは、はなから真実と見ません。

真実を見抜く能力」が無くても問題ない世界、また「真実を見抜く能力を養うことなど無駄」と考える人間が多数を占める世界になってしまっている実態です。 それは、司法研修所の「要件事実教育」の弊害として現れている現象です

「要件事実教育」とは、法律の定める要件に当て嵌まる事実が認められれば、その効果としての権利の発生を認めたり、義務を消滅させたりする仕組みです。

 「証拠」が80パーセント位揃っていると見れば、権利の発生を認めたり、義務を消滅させたりする機械的作業をする人間です。 

その場合、物的証拠が重要視され、証人に当たる人が居ても「証人は嘘をいうことがあるから割り引いて見る。」という固定観念を植え付けられてしまっていて、証人や本人の話だけでは「要件事実」を充足するとは言えないものとする発想を抱いてしまっています

 証人尋問軽視の姿勢です。

  要は、証人尋問での「証言の信用性を見抜く能力」が無いことから、証人尋問を軽視し、物的証拠があるほうを重要視してしまうことです

 そのために、「巧妙に立ち回るずる賢い輩」が「偽造、変造した物的証拠」等を過大に信用し、法廷で誠実に真実を述べた証人や本人の供述は、最初から信用しません。疑って掛かります

むしろ、頭の回転がよく巧妙に嘘を述べることが出来る人物の話すことを真実と見てしまい、その人物の人間性観察など全くしないし、そもそも人間性観察する能力を持ち合わせません。人間性観察能力を身につけるのには、いろいろな意味での訓練の時間が必要です。 

 だから、今の裁判官は血も涙も無い「事件の機械的処理の職人」に過ぎない人間に落ちぶれてしまい、昭和年代に見られた「証人尋問を含めて全ての証拠」を「眼光紙背に徹する」姿勢で裁判に臨む裁判官など、殆ど見かけなくなってしまったのです。

 瀬木比呂志氏が「絶望の裁判所」「ニッポンの裁判」(講談社現代新書)で述べて居ることです。

 今の裁判所は、そこの構成員である裁判官が市民から隔離された一段上の世界に居て(従って、市民感覚などどうでも良いこと)、居心地良い裁判官生活環境(従って「上からの目線」が当たり前の価値観の人たち)、年収が「公務員」の中で最高に保証され、最高裁事務総局に睨まれるようなことをしない限り、定年まで身分も公務員給与(年功序列化してしまった裁判官報酬)も保証され、定年後の公務員共済年金も最高額が保証されるシステムが出来上がっている司法官僚制度が確固として出来上がってしまいました。 

従って、司法研修所を卒業して「裁判官」という公務員に就いた人たちは、「良心を働かせて裁判をする意識」など、どうでも良い人たちが多数を占める集まりに堕落しました。

例外的に「良心を働かせて裁判をする意識」ある裁判官も居ますが、その人たちは、裁判所で冷遇されているように見えます

  今の日本の裁判官は、「自己保身を優先することが、終生の安泰に結びつくために、事件処理の職人(歯車)」に成り下がってしまい、良心を働かせるのは「申し訳」程度の価値観に堕落してしまっているのです。 

 「裁判官」という公務員の地位に付いている者は、「裁判所の要求する条件(要件事実)を満たす証拠があれば救ってあげるが、そうでなければ、如何に口頭で真実を訴えても、真実とは見ません。」という血も涙も無い冷たい結論を平気で採用する人が多数です。

「要件事実」自体が裁判の自己目的化してしまっており、「紛争の本質がどこにあるのか?」など無関心な冷酷な(血も涙も無い)機関です。

 「良心を働かせ、勇気を持って真相を究明すること」は「全人格的な判断をすること」であり「要件事実に頼らないやり方」で、「勇気ある裁判をする姿勢」です。「真相究明をなし、紛争の本質を把握」して当事者に「仮に負けても仕方ない」と思わせることが裁判所に対する信用の維持に重要です。

しかし、今の司法官僚になり下がってしまった人にとっては、「真相究明をなし、紛争の本質を把握」することなど、無関心な対象事項です。

 弁護士業務を続けてきて、市民感覚ゼロの裁判官に頻繁に出くわしますが、次回ブログにおいて、その具体例の一つ、市民感覚からは「遺産分割協議書」の偽造であるのに、市民感覚を持ち合わせない官僚化した裁判官からは「偽造」と見ない事案を紹介します。

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