カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

宗教法人念法眞教の代理人弁護士からの削除申立内容

2015年11月20日 20時24分59秒 | Weblog
以下が、宗教法人念法眞教の代理人弁護士からの削除申立内容

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050408/1112984301
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050417/1113763574
-------------------------------------
上記掲載事実は、通知人にとって大変不名誉な事実の摘示であり、その名誉を毀損することは明らかであって、同事実がインターネット上で衆人に晒され続けることは、通知人の活動に多大なる影響を与えるものです。
そもそも、当該事実の摘示は、客観的な根拠のない一方的な発言によって、しかも通知人に正当な反論の機会が与えられることもないままに不当に名誉を毀損するものであり、その活動に深刻な悪影響を与えるものであって到底許されるものではありません。
しかも、当該記事のタイトルは、
1「■[資料][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題は、極右新興宗教「念法真教」が起こした。」
2「■[呪的闘争][日本会議][宗教右翼]念法真教」となっており、
上記ページ中では
「右翼色のこい宗教団体」「《極右》教団」「右翼宗教団体」「右翼思想と軍国主義」「扇動工作の影響」「拝み屋」「教義は神仏習合のごった煮で、無茶苦茶。」「インチキ新興宗教」
といったような記載を多数されれば、一般人をして通知人が悪質な宗教団体であり、何らかの社会問題を引き起こしたことがあるかのような印象を強く与える一方で、そのような事実は全くないにもかかわらず、通知人には正当な反論の余地がありません。
しかも、通知人は、憲法上保障された「信教の自由」に基づき、宗教法人として設立されているにもかかわらず、このようなページの存在により、団体としての宗教法人の信教の自由のみならず、これに所属する個人の信仰心を著しく毀損し、その宗教活動を阻害するものであって、表現の自由を最大限に評価したとしても、許されるべき権利行使の範疇にはありません。
また、投稿者による意見や感想であっても、具体的な事実の摘示がなされれば、これを全体として見た場合、記載事実に関する一定以上の信憑性が付与される結果、一般人をして真実であると認識させ、結果として通知人が怪しい宗教活動を行っているかのような非常にネガティブな印象を与えるもので、通知人の教義の本来的な魅力のみならず、その外部的名誉をも著しく毀損し、更に通知人に所属する信徒、信者の名誉感情をも害することは明白です。
したがいまして、上記ページは、通知人の名誉を著しく毀損し、その活動を著しく困難ならしめるものであり、これを速やかに削除して頂きたく、ご理解ご協力をお願い申し上げます。

今回の「はてなダイヤリー」削除要請について

2015年11月20日 20時19分56秒 | Weblog
今回の「はてなダイヤリー」削除要請について

時系列順に説明します。
2015/11/10に、はてなサポート窓口から、「宗教法人念法眞教の代理人弁護士より、削除申立がありました。」とのメールが来ていた。
意見があるのなら7日以内に「はてな」に教えてね、と書いてあり、「7日以内に削除あるいはご連絡をいただけない場合、…弊社にて当該サービスをプライベートモードに固定するなど、送信防止措置をとることがあります。」
とあったのですが、俺がこのメールに気づきませんでした。

2015/11/18に、はてなサポート窓口から、回答期限が過ぎたけど、記事も削除されてないし、異議の返信もないから、ご利用のはてなダイアリーを非公開とさせていただきました。というメールが来ていた。

で、ブログ非公開になって、俺は気づかなかったのだけど(俺にはまだ自分の「はてなダイヤリー」が読める)、読者の方から「ブログが消えているよ」と連絡があり、気づいた。
その後、「はてな」に「異議があるんですよ、なのでいったん非公開を解除してください」とメールしたのだが、「7日以内だったら対応したけど、期日過ぎちゃったからそういうわけにいかないよ」との返信がありました。順当な返信だと思います。

ので、俺と「はてな」の関係では、俺が全面的に悪い。
というわけで、今回、「はてなダイヤリー」に載せていた分はいったん「はてなダイヤリー」から削除します。

■はてな情報削除の流れ
http://url.hatena.ne.jp/IF86j
■はてな情報削除ガイドライン
http://url.hatena.ne.jp/Ndvq1

なお、「非公開」になる前日に偶然、「生長の家」など「日本会議」系によるweb工作についての記事を「はてなダイヤリー」に載せていたので、「そのことと今回の削除要請・非公開措置が関係するんじゃないか?」と不安に感じた方がいらっしゃるようですが、上記のとおり、時系列的に、直接には関係しません。

念法眞教信者の証言コメント

2015年11月20日 19時59分44秒 | Weblog
念法眞教信者の証言コメント

以下も削除要請された部分。念法眞教信者の証言コメント
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050417/1113763574
=======
2005-04-17
■[呪的闘争][日本会議][宗教右翼]念法真教
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050408/1112984301の続き。「念法真教」について、以下のコメントが投降されたので、メモしておきます。
=〔以下引用〕=
# 念法 『気になったので、突然お邪魔します。
推測は図星です。そうです、念法眞教です。私は本山の月例祭にも潜入したことがあり、そこでついでに「鶯乃声」という機関紙ももらいました。機関紙には常に教育勅語が載っていますし、かなり右翼的な主張が展開されています。青年会?が西村眞悟とともに北方領土視察研修したりと凄い教団です。各地にある念法寺には天皇皇后の「御真影」が飾られたりもしてます。教義は神仏習合のごった煮で、無茶苦茶。毎月3日と16日に月例祭が本山であり、神拝式と仏前式で儀式が執り行われます。本山内部は豪華絢爛で、儀式の内容も、まるで「マルサの女2」で描かれているインチキ新興宗教のようです。
右翼系集会やら皇室の旅行の際の日の丸小旗を持っての歓迎などにも動員をかけています。実際私の目の前で動員かけてましたから。』
# 念法 『なおこの教団が規模の割には情報が乏しいのは、その閉鎖性と信者自身が「念法眞教」といきなりは言わないこともあるのかもしれません。政治的主張以外に関しては、どこにでもある道徳訓を述べているに過ぎません。もちろん教学体系など備えてはいませんし、特異な教義でもないために研究する人もいません。月例祭が終了した後の法話では、間接的にもっと金を出せというようなことが強調されています。またその中で、勧誘の際には念法眞教であることを出すな、世間には偏見を持っている人もいるだろうから、その人の本当の幸せのためには黙ってそれとなく勧誘することに努めるようにというも述べます。信者構成としては女性、それも中年以上の女性が多く、男性といえば、その女性のつれあいか、もしくは老人であり、若者は他宗教に比べて極端に少ないように思えます。』
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050408/1112984301
=〔以上引用〕=

■[資料][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題は、極右新興宗教「念法真教」が起こした。 4

2015年11月20日 19時55分18秒 | Weblog
http://blog.goo.ne.jp/kamayan13/e/c00fc4e759d060f118884db681e4bff2 の続き
<<
**28p
>>
〔同人誌原注〕
注2
>>
 また、’76年から’78年にかけて、アメリカのフレーザー委員会(米下院国際関係委国際機関小委員会)が、統一協会と韓国政府当局、なかでもKCIA(韓国中央情報部)との関係がきわめて濃厚であると指摘。さらに統一協会はキリスト教ではない、とするキリスト教関係者らの声明も発表された。
 つい最近でも、スパイ防止法(国家秘密法)制定をめざして、自民党などに強く働きかけている「スパイ防止法制定促進国民会議」の’85年度収入の57パーセントが、統一教会の友好団体である「国際勝共連合」の寄付金であったことが、新聞紙上で指摘されている。
<<
注3 読売新聞91、3、25〔訃報〕
>>
  御会葬御礼
 日本民主同志会 宗教法人平安教団 会長 名誉法学哲学博士
 故松本明重■〔一文字判読できず〕 合同葬に際しましては御多用中のところ遠路わざわざ御会葬たまわり厚く御礼申し上げます
  京都市山科区日の岡■〔一文字判読できず〕谷町七五の十一
  日本民主同志会
  宗教法人 平安教団
 喪主 松本忠明
 ■ 〔一文字判読できず〕 松本一恵 親族一同
平成二年三月二十五日 
 社団法人 沖縄京都の塔奉賛会
 社団法人 日本郷友連盟
 社団法人 東京都防衛協会
 社団法人 京都府銃剣道連盟
 全国傷恩武道連盟
 日本世界戦略フォーラム 
    〔同人誌原注;このアヤしげな団体は何?〕
<<
 こちら〔↓〕にはあからさまにアヤしげな団体の名は見あらない。しかし葬儀委員長が住友の首領(ドン)・磯田一郎というのがスゴい。影響力からいえば右翼団体などくらべ物にならないほどデカいぞ。しかし念法真教への反発を差し引いても拝み屋と金貸しのとり合わせは何かあやしいイメージがある。
>>
 読売新聞 82,3,31(水)
  御会葬御礼
念法眞教開祖 小倉燈主の教団葬に際しましては ご多忙中にもかかわりませずわざわざご会葬下さり 且 まことにご丁重なご弔詞並びにご香儀を賜り 有難く厚く御礼申上げます
尚当日は混雑の為 諸事にわたり不行届で失礼なことが多かったと思いますが お許し下さいますようお願い申上げます 早速拝趨の上お礼申上ぐべきの処 略儀ながら紙上を以て御礼申上げます
 昭和五十七年三月三十一日
     念法眞教教団
  葬儀委員長 住友銀行頭取 磯田一郎
  喪主 教務総長 長谷川霊信
  ■ 〔一文字判読できず〕弟代表 稲山霊芳
<<
磯田一郎会長はイトマン疑惑により辞任している。((イトマン事件て、重要な事件なのに、実像が今に至るもちゃんと解明されてないよね。一応裁判はなされているけど。統一協会と亀井静香、旧中曾根派が深く絡んだ事件なのだが。))
〔カマヤン注;以下、図式の引用あり。文にてそれを以下再現する〕
>>
 西武百貨店                    住友銀行

福本玉樹・元課長――元嘱託社員―(父娘)―磯田一郎・前会長

      ピサ   ←┐└────絵画┐      │ │

        絵画代金└────── ↓      │ ↓融資

                              イトマン

許永中氏    ────絵画────→  

関西新聞社   ←───絵画代金───  河村良彦 前社長

          ←───融資─────  伊藤寿永光 元常務

          ────株買収───→
<<
注4
 たとえば、世界救世教のMOA美術館(現在休館中)が、’82年1月10日にオープンしたとき、記念レセプションには福田赳夫首相(当時)、田中竜夫、原文兵衛、二階堂進、竹下登、後藤田正晴、松野幸泰といった自民党のお歴々、それに民社党の春日一幸などが出席していた。ヘタな公立美術館のオープンよりも、よほどそうそうたる顔ぶれがそろうのである。〔同人誌原注;MOA=茂吉・岡田・アソシエイション〕((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』28p。))
<<

■[資料][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題は、極右新興宗教「念法真教」が起こした。 3

2015年11月20日 19時54分12秒 | Weblog

**24-25p
>>
 そもそも、ことの起こりからして妙だった。有害コミック追放運動の発端を『創2月号』より引用してみよう。
>>
  投書を機に始まった田辺市の運動
 和歌山県田辺市でコミック本の追放運動が始まったきっかけは、〔90年〕八月九日の「紀州新報」にコミック本批判の投書〔★同人誌原注〕が載ったことである。その投書を読んだ一市民が九月二日、生駒市長の自宅を訪れ、「本屋で買ってみたらあんまりひどいので、なんとか善処してほしい」と買い求めたというコミック本を二冊手渡していった。『バージンショック』という題名のそのコミック本を一読し、驚いた市長は翌日、社会教育課長を市長室に呼んだ。
 それと相前後して、市長のもとへ一通の投書が届く。投書の主はのちに「コミック本から子供を守る会」の代表を務めることになる中尾いさ子〔★★同人誌原注〕さんである。中尾さんはこう書いた。「今ここで歯止めをかけなければ、小学生の読む本にもっともっと露骨なものが連載されてくると思います」「大手の小学館、講談社、集英社がこのようなコミックマンガを多く出版しているのですから驚きです。お金もうけのために子供をターゲットにし、性を商品化し、女性を侮辱し、許せることではありません(要約)」
 中尾さんがコミック本のことを知ったのは同年八月。田辺市に住む友人から1冊のコミック本を「あまりにひどいから」と見せられたことがきっかけだ。自分の考えていたマンガのイメージとあまりにもかけ離れていることに驚き、何冊か買い求め、友人たちに見せて回った。同時に会を結成、婦人のネットワークを広げていった。
 中尾さんは小学校の教師や教育委員会などに「何とかならないか」と訴えたが、つれない返事ばかりだったという。だから、思い余って市長に手紙を出したわけである。
 それから事態は好転する。〔90年〕九月十一日に開かれた田辺市青少年育成市民会議でこの問題が取り上げられ、多くの委員たちが初めてコミック本に目を通した。
 田辺市教委は市内の小・中学校校長に実態を把握するように指示、「読まない、読ませない」運動を実施することを確認し、〔90年〕十月二日には書店代表者との懇談を実施し販売の実情を聞いた。八日には生駒市長自らが先頭に立ってJR田辺駅前など市内九ヵ所で街頭キャンペーンを行った。
 〔90年〕十月十九日には十八点を「有害」図書指定するに至り、十月二十三日には田辺市長、教育長、青少年育成市民会議会長などが、集英社、小学館、講談社、リイド社、富士見出版の五社に対して「少年少女誌の編集についての要望」を送付した。
>>
 〔同人誌原注〕20ページの朝日新聞の記事〔http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050406/1112804830 〕とてらしあわせてみるとわかるけど★の8月9日の投書の主(中年男性)は★★の「コミック本から子供を守る会」代表、中尾いさ子の夫なのだ。
<<
<<
 ということなのだが…
 だいたい、そこいらにいる一介の主婦(たとえばこれを読んでいる、あなたのお母さん)が投書をしたくらいで市長や市議会が動くなんてことが現実にあるだろうか? とりあってもくれないのが普通じゃないだろうか。しかし信者八十万、自民党と深いつながりを持った教団がバックについているとなると話は別だ。
 ただし教団が有害図書追放運動をスムーズに広めるために政治家を動かしたのか、政治家の意向をうけて教団が運動を開始したのか、どちらが先にあったのかはわからないが。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』24-25p。))
<<
**25-26p
>>
 それにしても今回調べていて驚いたのは宗教と政治がいかに密接に結びついているか、だった。それをこれから見てみようと思う。ただ公明党=創価学会というのはあまりにも有名だし、その内幕を描いた書物も多数出ているのでここでは割愛して、その他の教団を見てみよう。
**生長の家〔同人誌原注1〕(信者八一万)
 「生長の家学生会全国連合」(生学連)や「全国学生自治会連絡協議会」(全国学協)を組織し、右翼学生運動の先鞭をつけるなど戦後右翼運動の再生構造の土台としての重要な役割を担ってきた。また「新右翼」と呼ばれている右派運動のイデオローグである鈴木邦男が、これらの学生運動から育ってきたように、生長の家は右翼イデオローグの培養基であった。
 政治結社として「生長の家政治連盟」をもつ。
**立正佼成会(信者六二六万人)
 この教団では「特別布教」という呼び名で選挙運動を位置づけ、各級地方自治体選挙、国会議員選挙のたびに、教団を総動員してとり組んできた。会員獲得と選挙に熱心な教団。ただし推薦するのは自民・民社の候補者のみ。
 また同会(庭野日敬〔にっきょう〕)は政治結社「明るい政治活動推進研究会」(略称「明政研」)を発足させている。
**統一教会〔同人誌原注2〕(信者四十万人)
 創始者・文鮮明〔ムン・ソンミョン〕は大正九年、北朝鮮に生まれる。現在の共産主義国はサタンを中心とした王国であるとされ、第一次と第二次の世界大戦は、世界を民主と共産の二つに分立するための戦いであったという。第三次世界大戦とは神側(民主)とサタン側(共産)に分立された世界を統一する戦いであり、その衝突する場所は朝鮮半島の三八度線であると去れている。神側の勝利により世界は統一され人類はエデンの園に復帰し、地上天国が実現し、韓国語が共通の言語となり、一つの世界を造りあげるようになるという。
 この教団のみは宗教の形態をとった政治機関である。
 正式な名称は世界基督教統一神霊協会、名目上は別個の団体というタテマエではあるが「勝共連合」(国際勝共連合)「原理運動」(全国大学連合原理研究会)も実質上は同じ集団。
**世界救世教〔同人誌原注3〕(信者八三万人)
 教団の「外事部長」を名のり、教団運営の実権を握ってきたとみられた松本明重(後に内紛により追放)は「民主同志会」〔同人誌原注4〕なる右翼政治団体を組織している。
**霊友会(信者三一五万人)
 ラジオでしばしば「霊友会=いんなぁとりっぷ」の提供番組が流れるので有名。
 政治結社「IIC」(インナートリップ・イデオローグ・リサーチ・センター)を持ち、石原慎太郎を国会へおくりだすうえで、大きな役割をはたしたことは有名な話だが、その他にも多数の議員がIIC推薦により当選している。ちなみにIIC推薦議員は、霊友会会員であることが第一条件である。
 また右翼の政治団体ばかりが、一日共闘的に結集する橿原〔かしはら〕神宮での「紀元節式典」に、他に先がけて霊友会が組織動員をかけて参加し、右翼政治運動の大衆化の一翼を担った事実がある。
 その他、会員の明治神宮参拝や伊勢への組織動員も行ってきた。
   出典 『宗教の内側で』東京新聞出版局
       『現代日本の新宗教』創元社((ISBN:4422140159:detail))
 これは素人の素朴な感想なのだが、どうして「信仰」がここまで「政治」にすり寄らなければいけないのだろうか?
 それはともかく今回の一連の事件の発端が自民党と深いつながりをもつ宗教団体にある以上、有害コミック追放運動がオバサン達の間から自然発生したものとは思えない。あるいは和歌山県田辺市市長も教団の後押しで当選した議員じゃないか、とカンぐりたくもなる。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』25-26p。))
<<
**27p
>>
 さてここでもう一度、前記の投書を見て欲しい。ただし今度はこの投書主たちは国家権力の意向を受けた組織による扇動工作の影響をうけている、ということを念頭においてみてほしい。この投書の数々も、成年マークも、まんがの森摘発も、同人作家の検挙も、幕張からのコミケ追放も、夏コミの美少女系サークルの全滅も、すべてが国家権力が配下の組織を使って行った扇動の(間接的なものも含めて)結果なのだ。
 僕〔同人誌編者〕は正直言って恐ろしい。自分の住んでいるこの国のやり方が、ということもあるが、それよりも国がちょちょいと操作しただけで盲従し、こんなにも大きな影響にしてしまう、精神的にひよわで従順なこの国の人々が。もちろん国家のやり口は卑劣で汚い、だけどそういった操作は「国家」である以上、多かれ少なかれどこの国でもやっていることだ。今回の一連の事件で実は一番問題なのは国家の扇動に何の疑いも持たずに、あまりにもあっさりと操られてしまう純粋培養で無知で精神的にひよわなこの国の普通の人々ではないだろうか。〔91年〕6/8((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』27p。))
>>
 〔同人誌原注〕注1・注5
(QA’86・11月号)
 あなたは宗教を信じますか?
 現在、政治家と教団の有名な結びつきとしては、中曾根首相と生長の家、石原慎太郎と霊友会がある。
 中曾根首相の場合、生長の家の創始者・故谷口雅春の国家主義的傾向と通じるところがある。また、首相のブレーンのひとり、サンケイ新聞の植田新也社長が、生長の家の谷口清超総裁と友人であるため、パイプ役を務めているという。
 石原慎太郎は、作家時代に「巷の神々」という本を執筆するため、霊友会の久保継成会長を取材したのが縁で親交を持ち、選挙出馬の際に支援を受けたのが発端。
 多くの政治家が、大なり小なり何らかの形で宗教団体と結びついている。票集めのために自ら信者になるというのは序の口。オレは○○教に入るから、妻は××宗に、ついでに息子は△△教に入れてしまえなどという節操のない議員も多数いるというから、あきれてしまう。
 選挙の背後に宗教団体アリ、というのは、’75年前後からかなり話題に上るようになった。
 たとえば、’74年の参議院議員選の全国区では、4位当選の鳩山威一郎((鳩山由紀夫・鳩山邦夫の父。鳩山一郎・元首相の倅。元衆院議長・鳩山和夫の孫。))を仏所護念会教団・PL教団が、13位の糸山英太郎をPL教団・辯天宗・世界救世教が、17位の佐藤信二を霊友会・PL教団が、24位の佐藤智を天理教が、25位の迫水久常((岡田啓介元首相の娘婿。終戦工作及び天皇「聖断」神話作成に奔走))を天理教・解脱会が……というように、さまざまな教団が入り乱れて援助し、候補者を当選に導いている。
 まったく異なった教義を持った教団が、ひとりの候補者に相乗りしているのは、ハタから見ればなんとも不条理だが、教義のなんたるかがいかに無関係かの表われともいえるだろう。〔QA’86・11月号。〕((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』27pから重引。))
 84年に自民党議員らを中心に国会でポップティーン等に対して「少女雑誌規制」を立法化しようとした時、その中心は「生長の家」などを背景にもつ国会議員であった。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』27p。))
<<

■[資料][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題は、極右新興宗教「念法真教」が起こした。 2

2015年11月20日 19時51分28秒 | Weblog
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050408/1112984301 からの転載、http://blog.goo.ne.jp/kamayan13/e/1d0f21ec0637751f9dfc360c5be5a410の続き
**20-21p
>>
>>
   学校を歩く  和歌山県の中学校で
   投書をきっかけに署名運動 中心に宗教団体の信者たち
 少年少女の性を取り上げたコミックについて、父母らから「行き過ぎがある」と批判が強まり、各出版社はコミックの回収など自主規制に乗り出している。きっかけの一つとなったのは、和歌山県田辺市を中心とした主婦グループ「コミック本から子供を守る会」の運動だった。市教委や学校も巻き込み、官民一体となる熱心さだった。市立東陽中学校を訪ねた。
 問題となったコミックの単行本『Angel』((ISBN:4091511422:detail))『いけない!ルナ先生』((ISBN:4063022072:detail))などはすでに市内の店頭から消えたが、子供たちには不満がくすぶっていた。
 中学二年生の女子 性については関心がやはりあるので、『レモンエンジェル』((ISBN:4088614011:detail))を小学校五年生ごろから読んでいた。余計なことをしてくれた、という感じ。作り話のマンガとして読んでいるのに。
 同級生の男子 親に内緒で読んでいたけれど、中身は大したことなかった。熱心に読んでいたわけではなかったので、規制に賛成でも反対でもない。
 同校では、各学年に十人前後いるPTA委員に生徒を通じて「性描写マンガの追放」などを求める書名用紙を渡し、地域で依頼した結果、生徒数とほぼ同数の署名が集まった。他の小、中学校でも同様の署名活動が行われた。
 東陽中の岡本操二校長 教職員の間では「署名までする必要がない」「社会浄化を進めるべきだ」と両方の意見があった。私は性教育の観点から好ましくないと判断した。
 発端の一つは、昨年〔90年〕八月、地元の新聞に掲載された中年男性の投書だった。「ドギツイ描写で露骨に性を表現している出版物の行き過ぎを規制するよう行政当局の対策を強く促したい」。前後して市教育長に同趣旨の手紙が届き、市長も直接訴えを聞いた。
 市長は市教委に「有害コミック」追放の取り組みを指示。他方、投書者の妻(五〇)ら主婦らが中心になり法的規制を求めて「コミック本から子供を守る会」を結成、教師と生徒が校内でセックスするような性表現を問題視し署名運動を始めた。市や連合PTA、校長会なども協力、集った署名は五万六千人に。
 県も九月以降、青少年健全育成条例に基づき次々と有害図書に指定。県議会も十月、追放対策強化と法の制定化を政府に求める意見書を、全国に先駆け提出した。
 意見書は今年〔91年〕三月までに大阪、福岡など十八道府県にのぼり、出版社は指定を受けたコミックを出荷停止、四月には出版倫理協議会にコミック特別委員会が発足した。和歌山では、〔91年〕五月十日に県内の書店約三百十店を立ち入り調査した結果、「性的刺激を与える」青少年向けコミックを販売していたのは三七%。昨年〔90年〕十一月に比べほぼ半減した。
 予想以上の結果をもたらした運動だったが、ある県議から「『子供を守る会』の運動の中心は、ある宗教団体の信者だった」と聞いた。
 その仏教系新興宗教(本部・大阪、信者・公称八十万人)は、昨年〔90年〕六月から八月にかけ、機関紙で性描写のある青少年向けコミックを批判する特集を六回掲載。そこでは道徳教育や愛国心の重要性を強調、「言論・表現の自由との美名のもと、すべての日本人を『性の奴隷』に仕上げようとする危険極まりない《亡国》の途をたどりつつある」と指摘した。
 この宗教団体の広報担当者 和歌山、大阪、兵庫、福岡などで信者が自主的に活動したと聞いている。機関紙が火をつけたのは事実と思う。
 信者でもある田辺市の「子供を守る会」の役員 機関紙を読んで始めたわけではないが、読んで取り組みに熱がこもり、他の信者に署名の協力を求め声をかけた。
 署名にそうした背景を知らなかった人は多い。
 田辺市のある主婦(六三) 教団の思想にはかなり隔たりを感じる。そうしたことを知っていれば署名しなかった。市も結果的に特定宗派の運動に利用されたのではないか。
 西川徹・田辺市教育長 そうしたことは初耳だが、主体的に判断して追放運動に取り組んだだけで、特定の宗教に利用されたとは思わない。
 県青少年問題協議会常任委員の山本健慈・和歌山大助教授(社会教育) 宗教団体の動きは知らなかったが、あれよあれよという間に運動が広がったという感じはしていた。子供たちにマンガの悪影響が指摘されると、法的な規制を求める運動が起こるが、性描写の過激なコミックがなくなっても、それに代わるものが次々と生まれる。本当に必要なのは、表現の自由を守りながら倫理的な規準について市民と出版社が議論して合意を得ることだ。
  (朝日新聞 91年5月29日 朝刊)
<<
 これは〔91年〕五月二十九日の朝日新聞に掲載された記事だが前ページの宗教に関する文を〔「クロスファイト!!」編者が〕書いた直後だっただけに正直「あれあれ」といった心境だ。
 記事の中では「ある県議から聞いた」とあるが記事が出たタイミングから見ておそらく右翼宗教団体の存在は〔91年〕五月十日発売の「創六月号」を読んで初めて知り、あわてて真偽のほどを確かめに取材に行った、という体たらくだったのだろう。
 しかも宗教団体のことに触れていたのはなにも「創六月号」が初めてではない。〔91年〕一月の終わりには発行されていた「’91出版レポート」にも記載があるのだ。
 あれだけのキャンペーンをはりながら当初から名が浮かんでいたという宗教団体の存在も知らなかったとは何という定見のなさ、日和見主義なのだろうか。
 ただ、この記事に関しては認めてもいいと思う。これまで朝日が絶対的な正義の味方のようにあがめたてまつって来た有害コミック運動に少なからずダーティな面があることをその朝日自身が暴露したのだから。
 あれだけ大々的にキャンペーンをくりひろげた手前、その主張に疑問をさしはさむのは自分の定見のなさを天下に知らしめるようなものだし、その上コトは新聞にとっては鬼門である宗教がらみなのだ。それを考慮すれば、まっ、上出来と言えよう。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』20-21p。))
<<
**22p
>>
 朝日新聞の記事により宗教団体の正体ははっきりした。
 そこで僕〔同人誌作成者〕はこの念法真教について調べてみようとした、が、この教団、信者八十万というスケールなのに資料がまったくない!
 信者四十万の統一協会、二十万の阿含宗、十二万のものみの塔(エホバの証人)などの方がよっぽど資料が豊富だ。なるほどマスコミに登場することはほとんどない、というのもうなずける。
 余程閉鎖的な教団なのかとカンぐりたくもなるが信者八一万の卍教団など資料が少ないというより皆無なので知名度=規模という物でもなさそうだ。
 それでもとにかく新宗教事典(弘文堂’90・3月発行)((ISBN:4335160283:detail))という本の中にこんな記述を見つけた。
>>
 小倉霊現は共産主義の脅威を訴え、国を愛することと国を守るべきことを強く主張。苦しかった時代を忘れぬためにと、終生、戦闘帽をかぶって日本全国を巡教する。教組の死後も、機関誌・紙において、北方領土返還、北の脅威、愛国心の涵養などが毎回訴えられている。昭和五七年に小倉霊現が死去したのちは、息子の良現が灯主を継承し、名前も霊現を名乗る。やはり各地において巡教活動を行う。―(略)―寺教会は全国に存在しているが、最近はとくに各地において、念法寺と称される独特な寺院の建設が相次いでいる。その落成の際のおねり行列は有名である。本部の男子職員は、頭を剃り髭を伸ばしているのが特徴。教団員であることがすぐに分かるようにとのことである。現世界極楽浄土づくりが巡教活動の中心であるが、それを通しての心の入れかえ、日常倫理の確立が説かれる。家庭の円満や、幼児期からの情操教育を重視し、本部でも、昭和四一年、念法幼稚園を開園している。最近は、父母を対象とする社会学級を開設、各大学教授などを講師に歴史教育に取り組んでいる。
<<
 ちなみに灯主とは教団の代表者のことだ。現在では初代灯主を「親様」二代目灯主を単に「灯主」と呼んでいる。
 この記述を見ると、なるほど今回の事件〔有害コミック問題〕に通じるものがいくつも見られる。
 幼児期からの情操教育の重視、父母を対象とした教育、そして右翼思想と軍国主義――朝日新聞の記事で教団の存在を知らずに署名した主婦が「教団の思想にはかなり隔たりを感じる」と言っているのは、この右翼思想を指しているのだろう。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』22p。))
<<
**23p
>>
念法真教 各地方支部所在地 不完全リスト (ハローページ(50音順)調べ)
**  大阪
念法真教総本山金剛寺 大阪市鶴見区緑3-4 (宗教法人)
念法学園 大阪市鶴見区緑3-4 (学校法人幼稚園)
念法真教旭道場 大阪市旭区森小路2-9
念法真教縄手道場 東大阪市上四条25
念法真教堺草部教会 堺市草部611
念法寺 大東市幸1
念法寺 泉大津千原1-11
**  北海道
念法真教札幌 念法寺 札幌市厚別区大谷地西5-13-1
念法真教旭川 念法教会 旭川市東旭川倉沼
念法真教釧路 念法寺 釧路市浦見4-1-1
念法教会千歳布教所 千歳市自由ヶ丘3-3-10
念法真教苫小牧 念法教会帯広布教所 帯広市西19南3-4
念法真教 北見念法教会 北見市美芳1-8-5
**  福島
念法真教 福島出張所 福島市矢剣29-2
**  埼玉
念法真教 朝霞念法寺 朝霞市浜崎123-1
**  新潟
念法真教 新潟教会 新潟市堀之内南1-33-17
念法真教新潟 念法寺 新潟市堀之内1-33-17
**  富山
念法寺 富山市水道中村670-1
**  石川
念法寺 金沢西念2-27
**  福井
念法真教福井布教所 福井市花月3-1-5
**  長野
念法真教長野念法教会 長野市三輪1311-4
**  愛知
念法寺 名古屋市熱田区尾頭2-41
**  兵庫
念法真教姫路念法寺 姫路市白国内畑1269
念法真教姫路念法寺 姫路市白国3-15
**  和歌山
念法真教納定支院 和歌山市納定76
念法寺 田辺市あけぼの13
念法真教熊野本宮念法寺 本宮町本宮904
**  鳥取
念法寺 鳥取市吉成512-1
念法真教米子念法寺 米子市泉706
念法寺 倉吉市福庭367-7(宗教法人)
**  島根
念法真教石見大田念法寺 大田市大田町大田イ2755-24
念法真教石見大田念法寺 大田市大田町大田大正西203-1
**  岡山
念法真教島田教会 岡山市栢谷1595-1
念法真教倉敷念法教会 倉敷市玉島八島810
**  広島
念法真教広島念法寺 広島市東区光1-9-5
**  愛媛
念法真教松山布教所 松山市越智268-5
**  大分
念法眞教大分念法寺 大分市新川1-3-3
念法真教別府念法教会 別府市青山10-7
   新宗教ガイドブックによれば、寺院44、教会32、布教所16とあるので、ここにあるのは、ほんの一部にすぎない。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』23p。))
<<
http://blog.goo.ne.jp/kamayan13/e/c00fc4e759d060f118884db681e4bff2 に続く

[資料][宗教右翼][日本会議]90-91年「[[有害コミック]]」問題は、極右新興宗教「念法真教」が起こした。

2015年11月20日 19時46分25秒 | Weblog
以下、「はてなダイヤリー」で削除要請されたものをgooブログに転載する。分量が多いので分割する。

2005-04-08 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050408/1112984301
[資料][宗教右翼][日本会議]90-91年「[[有害コミック]]」問題は、極右新興宗教「念法真教」が起こした。
 『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』(同人誌。発行;「クロスファイト!!」、1991年7月)からの転載を、以下にまとめ直した。読者諸兄は資料として活用してほしい。
 〔 〕でくくった部分はカマヤンによる注釈。『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』に初めからある注釈は、〔同人誌原注〕とした。
====

**18p
>>
 今回〔90-91年〕の有害コミック撲滅運動を牽引してきた存在として宗教団体の組織的な活動があったと言われている。
 あいにく私〔同人誌作成者〕は神仏のたぐいは一切信じないタチなのでその世界にはまったく無知、どこの宗教団体かズバリ言うことはできないが『‘91出版レポート』と『創6月号』の記述よりその宗教団体がどこなのか推察してみた。
 最初はどこから手をつけていいか雲をつかむような話だったが調べてみると80万人という信者をもつ宗教団体はそういくつもないことがわかった。その一覧が次のページの表だ。
 こうして見ると卍教団も臭いがやはり本命は念法真教だろう。KKベストブック発行の『改訂版新宗教ガイドブック』((ISBN:4831491152:detail))には同教団についてこんな記述もある。
>>
 「創始者である前灯主はいつどこでも頭から《戦闘帽》を離さず教団のトレードマークにさえなっていたが、これは戦時中の苦労を忘れないためだったという」
<<
 この本〔ガイドブック〕の性格上、どこの教団を良く書きどこの教団を悪く書く、ということはできない。だとすると、どうでもいい戦闘帽の件にわざわざ触れたのは暗にこの教団が右翼色の濃いことを示唆しているのではないか?
 まあ具体的にどこの教団かはともかく右翼色のこい宗教団体とその支持を受けた自民党議員――有害コミック撲滅運動とは本当に世間が思っているほどクリーンな運動なのだろうか? 5/26 ((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』(同人誌。発行;「クロスファイト!!」、1991年7月)18p))
<<
>>
>>
 また、宗教団体の存在は、昨年〔90年〕夏に問題が発生してから、一部の関係者の間で噂が飛び交っていたが、公の席で話題にのぼったのはこれがはじめてと言っていい。
 関西を拠点にする仏教系の新宗教で、信者は八十万人とも言われ、組織力は強大なものがあるらしい。仏教系でありながら、靖国神社国家護持、北方領土返還運動の先頭に立ち、明仁天皇の「即位奉祝」パレードでは、信者を大量動員するなどの活動をしていると言う。当然、自民党とのつながりは深い。
 コミック排斥運動が展開されている地域を見ていくと、この教団の寺院の所在地に重なっている。母親らを中心とする住民運動の背景には、この教団があると見てよさそうなのだ。今後も前面に立って登場することはないだろうが、留意すべきことにかわりはない。
  (『創 91年6月号』)((『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』18pから重引。))
<<
>>
 ただ、実をいえば、この問題で最初から某「宗教団体」の名が浮かんでいた。この教団は、信者数約八十万人で、生長の家や統一協会にも及ぶ組織力や政治力があるが、これまでマスコミにもその名が登場することはほとんどなかったようだ。明仁天皇《即位》の奉祝パレードでは大量の信者を動員する《極右》教団でもある。政治に力を持つ宗教は、男性活動家が多いが、この教団の主力《部隊》は女性。しかし、活動時は個人的立場を強調し、なかなか教団名が表面化することはない。
 これまで、自販機撤去運動や「エロ本」排斥運動を担ってきたPTAや「母の会」とは一線を画す、気がかりな存在だ。
  (『‘91 出版レポート』)((『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』18pから重引。))
<<
〔以下、同人誌作成者によるコメント〕「当初から」とある以上、盛り上がってきたポルノコミック叩きのブームに後から便乗したとは考えられない。むしろ何かの意図を持って(受けて?)ポルノコミック叩きのブームを巻き起こした震源と見た方が妥当だろう。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』18p))
<<
**19p
>>
〔資料〕
妙智會教団 信者数91万7538人(信者数は文化庁編『宗教年鑑』(平成元年度版)より引用)。《あてはまる事項》仏教系。《否定し得る材料》本拠地は東京。
世界救世教 信者数83万5756人。《あてはまる事項》右翼。《否定しうる材料》諸教系、本拠地は静岡、有名。
卍教団 信者数81万8920人。《あてはまる事項》仏教系。本拠地は福岡だが自民党議員で結成されている「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」の会長、麻生太郎は福岡二区選出の議員。《否定しうる材料》なし。
生長の家 信者数81万7089人。《あてはまる事項》婦人部の組織の存在が大きい。右翼。《否定しうる材料》諸教系、本拠地は東京、有名。『‘91出版レポート』に名前があるので確実にこの宗教ではない。
念法真教 信者数80万7486人。《あてはまる事項》仏教系。信者数が80万でもっとも近い。本拠地は大阪(大阪府大阪市鶴見区)。これまでほとんどマスコミに名前が出てこない。教師(と言っても学校の先生の事ではない、教団における中間管理職的立場の信者のことなのだろう)5570人の内、4049人が女性。又、支院住職の七割が女性。《否定しうる材料》なし。
大山祇命神示教会 信者数77万9095人。《あてはまる事項》なし。《否定しうる材料》諸教系、本拠地は横浜。((出典;『気持ち悪い人達 6 コミケ最後の日!』19p。))
<<
http://blog.goo.ne.jp/kamayan13/e/c7a81e88e9c276b66ab025f1872321a6 へ続く


1999年12月26日から31日

2012年03月27日 01時26分40秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。

 12月31日(金)

 (30日より)早朝、足立真一さんより電話。言うてはならないことを口にして足立真一さんを怒らせる。ごめんなさい。

 実家へ。二人いる妹がともに帰省すると母から聞いていたが、着いてから、妹1号の帰省は1月1日だと聞く。妹1号は大川興業のライブ『忘年会』に行ったそうだ。二千年問題に備えて今年は実家で年越ししよう、と、私を誘ったのは妹1号だった。そうだな、と、聞いたその時は私は思った。あとで妹1号から「年末どこにも行く予定がなくて淋しかったからそう言っただけだよ」と言われる。真に受けた私がバカだった。

 いつものことだが、実家は心が休まらず、居心地が悪い。

 母方の祖母が半身不随になって長い。家族が多忙で垂れ流しになる時間がある。妹2号が見舞った時、悪臭がしたと言う。兄妹で祖母に空気清浄機を送ろう、という話になる。妹2号が買いに行く。

 実家に、みいちゃんの母と祖母と弟が歳暮を届けに来る。みいちゃんは来ず。みいちゃんはどうしているか訊きたかったが訊く勇気が湧かず。みいちゃんの家族に弄ぶともなく弄ばれている気がする。意識化するのを避ける。
 みいちゃんの弟が釣りをしたいと言う。私は釣りの趣味を持たない。水鳥の餌やりにみいちゃんの弟を誘う。
 雁とマガモとヒヨドリ鴨と名前知らない渡りの鴨とアヒルの群れ。主に渡り鳥で人間に慣れていない。餌をやると、さっと水鳥は逃げる。私たちが移動すると、水鳥たちは争って餌を食べ出す。動物の反応を見るのはそれなりに面白い作業だ。

 テレビ、レコード大賞とか紅白歌合戦とか流れるのを観ながら妹2号とだらだらと話する。私は家族の中では妹2号にわりと心許しているがそのことが妹2号には負担でそうとう鬱陶しいようだ。
 妹2号の仕事場での様子を、母が勝手な想像をもとに揶揄する。その想像は誤りだ、と、妹2号が反駁する。対人スキルは接客スキルの延長なので、必要より高すぎるくらいだ、と、妹2号が自己評価する。接客スキルで対人するから、対人スキルの低い人からは「心のトモダチ」だと勘違いされ、妙に懐かれることがあって困る。と、妹2号が言う。
 私が話に乗る。妹2号の対人スキルは私と比較すると人間関係の中から経験的に得たものの度合いが高いが、私のものはほとんどが営業用の接客スキルだ。
 自分を振り返ると、ひどく人を受け入れないところがある、という話を妹2号が言う。早朝の足立真一さんに対する失言を思い返し反省する。客商売していると人を信用しないとこがあって良くないね、と、環境のせいに私はする。

 妹2号は「19」のファンだそうだ。妹2号が接客している間に「19」の演奏が始まる。それを妹2号に教えること、接客を交代することを私も母も怠る。妹2号が機嫌を損ねる。妹2号との会話が殺伐とする。

 今年の年越し蕎麦は、近くの村で生産した蕎麦だ。近くの村で蕎麦を生産していることを私は知らなかった。有名なのだそうだ。
 その村に隣接する町は蕎麦を食べる習慣はほとんどない。うどんが主食だ。村同士の人の流入がほとんどなかったのだろうか、と、父と話す。

 父就寝。母就寝。妹2号との会話がいっそう殺伐とする。妹2号に追われ、暖房のない、元妹2号用の部屋に行き、日本テレビの『いけ年こい年』観る。就寝。

 12月30日(木)

 実家へ帰省する前にUPするものUPしようとHPいじる。
 ディグさんから、プレイステーション貸して下さいとの電話。引っ越し以来全く整頓していない荷物を、プレステ求め整頓する。汚れた大量の服を洗濯。プレステの本体とコードは見つかるが、コントローラーが見当たらない。探すのに疲れたのでディグさんに経過説明する。コントローラーはディグさんの部屋にあるとのこと。問題解決。ディグさん来室。
 『ビブリボン』をディグさんがプレイする。その傍らで私は紀伊国屋ファクス文書を打ち込む。コインランドリーが閉まる前に、ディグさんに留守番頼み、洗濯物を取りに行く。干す。ディグさんと食事に行く。ガストへ。
 義務感以外実家帰る理由ないよね、とか、互いの家の抱えている問題とか話す。
 「結局、人間がやっていることだから、予定通りにいかないんですよね」とディグさん。
 ディグさんと別れる。(31日へ)

 12月29日(水)

 実家からファクス。

 12月28日(火)

 夜、みいちゃんに電話する。みいちゃんがクリスマスのときに好きな男の子に告白してふられたとか、そういう話伺う。「お兄ちゃん、彼女はいるの?」とみいちゃんが訊くので、みいちゃん彼女になってくれ、と頼む。断られる。言うタイミングと言葉の選択を間違えた、と、後悔する。「お兄ちゃん、それって、ロリコン?」とみいちゃんに言われる。何を今更言っているんだ、俺は物凄くロリコンなんだよ、と、言いそうになったがさすがにそれは堪える。「お兄ちゃん、いい歳なんだから、早く彼女探しなよね」とみいちゃんから言われる。電話の向こうで、帰宅したみいちゃんの母が笑っている。

 12月27日(月)

 コアマガジンへ、単行本の打ち合わせに行く。
 巻末対談とオビを、どなたにお願いしようか、何人か候補挙げる。

 編集さんと雑談する。キツネの女の子と、タヌキの女の子。
 キツネに騙された、タヌキに騙された、という噺があるが、これは男性から見た2種類の女性像だ。男性が女性にのぼせ上がるのはよくあることだ。
 あ、この人は勘違いしている、と、女性の側が気づく。のぼせ上がり盲目的になっている男性をヘタに無下にすると、逆上され殺される恐れがある。男性が傷つかないよう女性は男性をあしらうしかない。
 その女性の行動言説を男性は自分にとって都合よく解釈し妄想を膨らませる。はっきりと振られたことが判ってから、あの女は最初から俺を騙すつもりだったのだ、と、男が感じたその感情が「キツネが化かした」という伝承に。男性の思考を全く気づかず天然に行動しているのが、誘っているかのように見えるのが「タヌキに化かされた」という伝承になったんじゃないかな。
 編集さんからこんなエピソード教えてもらう。ある男性に思いを気づいてもらえない女性が、その男性を「ストーカーなのよ」と吹聴して回っているそうだ。その男性がストーカーである、という風聞は一人歩きしているそうだ。
 ふんふん、と、私は思う。オタク社会は風聞だけで動くところが多いよね、と、私が言う。オタクは、つまらないこと・現実的ではないことにこだわることを、アイデンティティにしている。オタク社会は現実と風聞の区別がつかない社会だ。現実を確認する手段を知らない個人は、手前勝手で現実に則さない妄想を増大させていく。オタクは断片化された小さな仮想の共同体の中に退却しがちで、閉塞しがちだ。

 宮台真司氏の人間の五類型の話を編集さんとする。
 調査した時点の消費者類型として五類型は意味があっただろうけれど、「五つ」というところが、ちょっと胡散臭い。二つなら判る。一つの基準で二分するのが区別の基本だからだ。2×2で4類型なら判る。
 こう整理しなおしできるんじゃないか。社会への人間の基本態度には、楽観的ガンバリズム(当事者的態度)と悲観的(傍観者的態度)がある。オタクは悲観によって現実に耐えようとしている。悲観的になるのは、信用に足る情報を自分が持っていないからだ。自分が持っている情報が信用できず、それゆえ状況に関与できないから、悲観的になる。
 社会にはさまざまな有意義有意味な情報がある。それを得るためにはアンテナを立てる必要がある。アンテナさえ立っていれば、情報はいくらでも入ってくる。だが、「アンテナを立てる」という行動が、非常に困難だ。オタクは、アニメやマンガに関するアンテナは立っている。だが他のジャンルのアンテナを立てていない。他のジャンルにいる人間も、全てにおいてアンテナを立てるのは不可能だ。人が何にアンテナを持っているのかは、偶然に左右される。アンテナで受け止めないものに対しては人は傍観者にならざるを得ない。アンテナを素通りするものの多さに自覚的になれば、悲観的にならざるを得ない。
 宮台氏の五分類で「バンカラ」に分類される人は、楽観的ガンバリズム(当事者的態度)の人だ。自分の得ている情報に信頼感を持っている。状況に関与していると思っている。だからそれ以外のものに対してアンテナを立てる必要を覚えない。むしろ雑音は当事者には無用だし時に有害だ。「バンカラ」は社会的成功者のモデルだ。なにごとかことを起こすには、楽観的ガンバリズム(当事者的態度)が不可欠だと私は思う。
 宮台氏の五類型で「ミーハー」に分類される「新人類」は、過渡的存在だ(もはやその言葉が死語になっていることからもそれは明らかだと思う)。「バンカラ」社会的成功者モデルになれないから、アンテナを多数立てることでそれを補おうとしている。だが、「予期しない期待外れ」から自由であるわけではない。それが襲ったとき、「正の先決戦略」(楽観的ガンバリズム「バンカラ」当事者的態度)か「負の先決戦略」(悲観的態度。オタク。傍観者的態度)かどちらかの態度を迫られるはずだ。後者の反応の可能性のほうが高いと思う。楽観的になれる理由がないからだ。そして社会はいずこも断片化し、オタク化する。

 …編集さんと話している間に思いついたことを無言で黙々とメモに採ったりする。
 「すみませんね、黙りこくってメモとったりして。編集さんという仕事は大変ですよね、内に篭るタイプの人とばかり付き合わなくちゃならないから」と私が言う。
 それほど大変じゃない、たいがいの編集はもとマンガ家志望とかだから、と、編集さん。人間のタイプが似ている、と、編集さんが言う。
 …悲観したままでは何もことを起こせない。新しいアンテナを立てようとすること、何事かを継続させようとするには、楽観的ガンバリズムが必要だ。オタクは自閉し退却している。それを克服する、他者とのコミュニケーション能力って、必要だよね、という話になる。
 同じ物事でも、言い方と言う順番によって、受け取られ方が違う。人間は感情で動く。他者の感情への想像力の乏しい人には、そのことが判らない。逆にヒトの目を窺うことばかり神経を使っている人は、そのことばかりに囚われ、奴隷道徳・賎民根性でしか行動できなくなる。
 男性と女性では、成熟の順番に違いがある。女性は恋愛を思春期に求め、成熟した後に肉欲を求めるようになる。男性は肉欲を思春期に求め、成熟した後に恋愛を求めるようになる。といった話する。

 単行本、何ページか書き下ろしをしよう、という話になる。幾つかアイデア出す。「マンガ家という生活、それに伴う幻想」というネタを提示。アイデアが広がる。雑誌の側から制約されたことはないけれど、エロ雑誌という枠だと描きにくかったことを書き下ろそう、と思う。

 世の中の動きには、さざなみと大波があるよね、という話する。皮膚感覚的、生理的、身体の表面で感じること、それにまつわるムーブメントはさざなみ的。構造的、身体的、身体の奥のほうで感じること、パラダイム的なムーブメントがあって、こちらは大波的。大波を掴みたいよね、という話。

 編集者として力を持つには「この人に作らせれば大丈夫だ」という信頼感を営業に与えることが必要だ、という話伺う。初阪を半年以内に完売することと、出だしの一週間の売上のデータが重要になる。とのこと。ふむ。

 12月26日(日)

 目を覚ますと午前8時。わ。コミケ遅刻だ。あじまるさんの携帯に電話し、遅刻する旨伝える。電車に乗る。午前10時40分頃有明ビッグサイトに着く。一般行列に並ぶ。63列目くらい。1時間強待つ。こういうことするのはえーと、6,7年前の夏コミの時以来かな。入場する。ブース確認。青紙持って受付に。宅配で送った荷物取りにフットワーク受付へ。フットワークは朝の受け渡しが終わり、夕刻に向けての準備始めたところだった。台車を借りる。アルバイト付きで貸してもらう。フットワークのアルバイトさんは人込みを通るとき声をかけないので私が声かけ事故を起こさないよう人込みを掻き分ける。荷物をブースに搬入する。チラシを出す。午後から開店。永山薫さん、りえちゃん14歳さん、上月まんまるさん、ほしのふうた夫妻、O次郎さん、玄田生さん、ほしのえみこさん、マンガ防衛同盟の人などがブースにいらしてくださる。ほとんどどこにも挨拶行かず。
 途中、見知らぬ青年から「読ませていただいて色々判りました、ありがとうございました」と挨拶いただく。なにをどう判ったのか訊いてみるべきだったが、びっくりしたのと照れたのとあってつい大笑いしてしまう。ごめんなさい。失礼しましたです。ところで私はネットや同人誌のイメージから、神経細く青筋立った研究者風の人物だろうと想像されることがわりと多いらしいが、現実の私のルックスはジャイアン風ガテン系です。
 遅刻したので、チラシが思ったほど捌けない。男性向け創作ブースなので、女性読者のかたがちっとも来て下さらない。さびしいことだ。次回はまた少年創作で出店しよう。この日は結局、あまり稼ぎにはならず。再版した『世紀末鳥獣戯画』はまあまあ売れる。
 終了が近づいたので、足立真一さんとこへ行く。ディグさんに会う。ほしのふうたさんに会ったことを自慢する。羨ましがられ、紹介してくれと言われるが、ほしのふうたさんのフース判らないので、後日ふたりでほしのふうたさんとこ遊びに行こう、と、話す。
 コミケ終了する。フットワークからアルバイト付きで台車を借りてきて、発送する。ぷっちーずの発送の手伝いと、足立真一さんの荷物の処理の連絡係する。ぷっちーずの人々と別れ、足立真一さんの荷物発送を手伝う。
 駐車場を放浪し、いつきこうすけさんの車に乗り、池袋に向かうつもりで、神奈川方面に逆走する。無事池袋に着く。
 足立真一さん、いつきこうすけさん、ディグさん、仇さん、私でしゃぶしゃぶ食べる。4人はゲーセンに行く。付き合う。横で見ているうち、眠りこける。その後解散。ディグさんと電車で帰る。


1999年12月14日から25日

2012年03月27日 01時25分40秒 | Weblog
 12月25日(土)(鎌やんは音楽に関して無知なので、表記などに誤りがあったらご指摘下さい)

 12月14日の日記書いていて、小山田圭吾を宮台真司氏が「天然系」と呼んだのを疑問に感じたので、小山田圭吾について、ディグさんに訊いてみる。
 ディグさんの評では、小沢健二と小山田圭吾を分けるのがある意味おかしい、この二人は同じカテゴリーの二つの現れにすぎない、とのこと。ふんふん、と、私はディグさんから訊き続ける。ディグさんが言うには、小沢健二も小山田圭吾も二人ともある意味オタク的だ。比べると、小沢健二は自分がカッコつけているということに正直で、小山田圭吾は寡黙で自分が悪趣味なことに正直だ。ともにサンプリングの音楽をしているが、それはアイデンティティのなさに自覚的だからだ、とのこと。
 ヒップホップは盗作自体をアイデンティティにしている、ともディグさんは言う。ふんふん、と、私はメモをとる。

 リミックスとポップについてのディグさんの意見が面白かったので、以下は、そのメモ。

 アート・リンゼイARTO LINDSAY、ヤン・ガルバレク、ビョークBJOKE、アストル・ピアソラなどをディグさんは好んでいるが、彼らには共通点がある。
 彼らは現代に生きている。現代に生きている者は風土的なものをあまり持たない。成長過程で音楽の教養とか、さまざまなものを得ていく。その、過程で得たものが、彼らのアイデンティティとなる。出自とかにはこだわらない。共同体主義ではなく個人主義だ。だが、振り返ると、個人史の制約を受けていることに、彼らは気づく。ピアソラはアルゼンチンで幼少期過ごしていた。ビョークはアイスランド出身、ヤン・ガルバレクは北欧出身、アート・リンゼイはブラジル出身。自分が個人史の中で得てきたものを、彼らはコラージュし、自分の文化的背景を軸とする。ジャズであるかポップであるかという選択した文化(音楽スタイル)と、無意識に影響を被った選択不可能だった文化(個人史、出自)を謙虚に彼らは見つめ、融合したかたちに彼らはしている。
 まっさらなオリジナリティは、人間である限りありえない。ピアソラはクラシックを勉強し尽くし、これでまっさらな音楽を作れる、と思ったが、アルゼンチンタンゴへ回帰した。まっさらなオリジナリティはありえないのだということを、受け入れ、自分の素地として利用する道を彼らは選んだ。

 リミックスは自分の選択してきた文化をコラージュできる。リミックス登場以前は、自分の受けた影響を咀嚼しているという思い込みでオリジナルを自称し、あるいは、影響を隠すことでオリジナルを自称した。リミックスは、そのことを、オリジナルはないということ、影響を逃れてないということを、あからさまにした。リミックスの面白さは、大量生産された音を解体再利用する面白さだ。
 リミックスは黒人文化から生まれた。踊るという目的に合わせ音楽の機能を追求した。3分ほどしかない曲を、より長く踊れるように、と、組み合わせ、その作業過程で色づけがはじまった。リミックスとサンプリングが交じり合い、ヒップホップが生まれた。
 オリジナルを自称するものは、誰かから必ず影響を受けている。そのことを自覚的に行なうのが、サンプリングだ。

 ビョークやアート・リンゼイは方法論(音楽スタイル)としてポップのかたちでまとめている。大衆性をもたらしている。ポップこそは普遍性を持つ、という信仰が、この二人にはある。
 ヤン・ガルバレクやアストル・ピアソラは、それに比べ、学問的(高踏的)なところをおとしどころとしている。

 ポップとは何か? より大衆的なもの、としか言いようがない。だが大衆的でかつポップでないものはある。ポップはスタイルである。大量生産的、扇情的、原色的。
 ポップとポップスの違い。ポップスは大衆的、という本来の意味ではポップ。小山田圭吾やDOOPEESはスタイルとしてポップだが大衆的ではない。ポップのスタイルは真に大衆性を獲得しようとしているわけではない。ポップは大衆が良しとしているものを拡大し、固定している。それのみを凝縮すると、扇情的部分の意識的拡大となり、むしろグロテスクとなる。(『未来世紀ブラジル』の宣伝ポスターなど)
 「パラッパラッパー」の絵はポップの悪趣味なところを可愛らしいセンスで安心できる物に変えている(ポップの高踏化から大衆化へ)

 音楽ジャンルとしてのポップは黒人音楽(ジャズ、ブルースなど)がルーツ。黒人音楽の発展型の一つだ。ロックもまた黒人音楽の発展型だ。ロックは、ジミ・ヘンドリックスという黒人の天才が一人で完成させた。
 ポップは大量生産的なものなので、ジミ・ヘンドリックスに相当する天才はいない。ビートルズ、プレスリー、マイケル・ジャクソンが、ある意味ポップにおける天才たちだ。音楽としてのポップを追求すると、中身があたりまえなものになってしまう。逆に、どんな音楽を作ろうとも大衆性を帯びた者が、ポップの天才と言える。

 漫画・アニメはポップ文化から生まれてきた。ポップはそれ自体追及すると、閉塞し深みがなくなってしまう。グレーゾーンを攻めることで、ポップには深みが生まれる。(例外的にデザイナーズ・リパブリックのようにポップと心中しようとする凄いのもある)テクノはポップを自覚的に行なうスタイルだ。ポップはスタイルを追求する。そのため、スタイルに囚われがちになる。スタイルに囚われると、要素を削っていく発展となり、豊かさがなくなり、痩せていく。デザイナーズ・リパブリックの凄いところは、新しいスタイルをどんどん作っているところだ。絶望のしなさかげんが凄い。テクノは、今は、成長期を過ぎ、爛熟期に入っている。

 以上、ディグさんから聞いた話のメモ。そのあと、松本人志は、「寒さ」の面白さ、ギャグが滑るその滑稽さをメタレベルで楽しむという視点を視聴者に与えた、という話、松本人志以降の芸人はむしろ回帰し「芸」で笑わせている、だがネプチューンは「芸」と同時に松本人志の開発したメタレベルの笑いも踏襲している、という話など、ディグさんから伺う。

 ディグさんと別れたあと、コミケ用のチラシコピーする。

 12月24日(金)

 寝て過ごす。

 12月22日(水)、12月23日(木)

 昼まで寝坊してしまう。宮路兼幸さんからの電話で目覚め、アシスタントに向かう。宮路さんの仕事場は禁煙なので、煙草吸うとき、玄関に出る。一緒にアシスタントしていた仲間を、繰り返し数回間間に鍵かけて締め出してしまう。21日に、締め出されたことを無意識に復讐してしまったようだ。
 明け方になると凍えそうになる。暖房に難があるのではなく、私の身体のほうの問題らしい。低血圧のようだ。父が低血圧に中年期さんざん苦しんだが、私もそうなってしまったか。自律神経失調、低血圧。おっさんの病気になってしまった。
 23日の明け方、また身体が冷えるので、ヒンズースクワットして身体温める。血は巡るようになるが、繰り返しすると身体が疲れバテるという基本的なことを失念していた。23日夜、原稿あがり、帰宅する。

 12月21日(火)

 明け方まで宮路兼幸さんのアシする。明け方、ひどく身体が冷え、仕事の能率がくんと落ちる。途中で抜けさせてもらい、宮台真司氏の授業受けに行く。アシしている間風呂にも入ってなかったし、自分の部屋に戻る時間もなかったので、かなりむさい恰好で行く。駅前でノートを買う。都立大の購買部でウォルフレンの『怒れ! 日本の中産階級』(毎日新聞社)購入。歯ブラシを買い、トイレで歯を磨く。

 教養社会学 

 現代的宗教は、行為系(オマジナイ系)と、体験系(ここはどこ? 私は誰?)に分れる。体験系は、世紀末的覚悟系と、人格改造的修養系(脳内革命的)に分れる。
 世紀末的覚悟系では、世界の運命は既に決まっている。
 人格改造的修養系は、脳内革命的である。自らの境地を汲みかえるのを目的とする。
 個人のタイプにより、以上3つのうちどの宗教性に惹かれるか決まってくる。

 現代的宗教は、個別の出来事を個人が無害化するわけだが、なぜ現代になって枠組ではなく個別の出来事が重要になったのか。
 現代社会はさまざまなオーガニゼーション、テクノロジーによって作られている。過去の時代は人の流動性が低かったが、現代社会は人の流動性が高い。そのために不透明である。ブラックボックスが増大した。その意味、原初的状態に似てきている。

 かつて、科学は、「神の御技を証明するために」という動機を持っていた。現代はそういう動機を持たない。
 だが、最も先端な(イニシアルな)科学者は、宗教的性格(メンタリティ)を持つ。ラジカル(根源的)なところに遡るほど「なぜこの法則であり、別な法則ではないのか」という宗教的課題に直面するからだ。
 その意味、科学の発達と宗教は不可分であり、宗教的情熱がなければ近代化はできない。

 日本人の多くに社会的動機づけはない。日本史上、近代天皇制の一時期以外は社会的動機づけを持っていない。

 近代化のベースには「パブリック」という概念がある。パブリックはキリスト教メカニズムから生まれたものだ。

 日本が近代化できたのは、近代天皇制があったからだ。天皇制は、密教・顕教的に使い分けられた。上から「天皇を中心とした、村村よりもっと大きな共同体」という枠で押さえることによって、ローカルな共同体を越える動機づけを獲得した。

 天皇制は、奈良・飛鳥時代、仏教伝来によって変わった。
 天皇制は、元来、「姉がシャーマンであり、弟が政治を行なう」ヒメヒコ制、「兄が放浪し、妹が政治を行なう」生き神制を元としている。聖俗分離のシステムで聖にあたる部分を担当していたのが天皇だった。聖と俗は、横の関係だった。

 仏教には、ヒンズー教の階層思想が含まれている。
 飛鳥・奈良時代以前の日本社会はセグメンタル(環節的)だった。大小の部族が横に並び、部族集団ごと内部にヒメヒコ、生き神を持っていた。部族集団ごと内部に聖俗が横並びに存在した。
 飛鳥・奈良時代以降、仏教思想を元として、階層化が行なわれた。天皇を頂点とするピラミッドが作られた。「聖」は頂点である天皇と、底辺の不浄である娼婦などに分れた。娼婦はそれ以前は聖に属する者だった。頂点である天皇は政治的実験を握らない。
 保田与重郎が「なぜ天皇家の壁は低いのか」「なぜ万世一系なのか」という問題を立てたことがある。
 社会学的には、なぜ権力者は自分が天皇になろうとしないか、という問題となる。答えは、権力者にとってそのほうが都合がいいから、だ。自分がどんなに不浄なことをしようと、天皇に認められている、ということで聖化される。
 「なぜ俺だけが?」という端的な事実性が天皇によって聖化される。
 戦後も天皇にあたるポジションはアメリカに変わったりしながら、この天皇の役割は続いている。

 オウム教団や高橋代表のような、カルトのグル(導師)の問題。
 宗教には、副産物として、地位代替機能がある。現実社会の中で低い地位に苦しむ人が、宗教世界でのステータスアップで、上昇志向を満足させる。
 戦前は、貧困層が見えていた。70年代後半から貧困は目に見えなくなった。物が豊かになった。階層を前提とした上昇志向に意味がなくなってくる。階層は惰性的に続きはするが。
 「承認の供給不足」が問題となる。グルは「父親的承認」を与える存在だ。人々はグルに帰依する。
 「オウム叩きは日本のバカ騒ぎ」だと、ニューズウィークは言っている。オウムへ入信する者は、オウムが叩かれるほどオウムへ魅力を覚える。参入の動機づけになる。オウムへオルタナティブを見るから。

 社会学の目的

 「社会」とは非自然的総体を言う。「隠された前提」が、社会である。
 社会学は、「近代とはなんであったか」の説明を目標としていた。「なぜ特定の国だけが近代化できたのか」。初めは、宗教に注目した。宗教分析から、社会学は始まった。

 人格類型論

 自己啓発セミナー、自己改造セミナーのルーツはアメリカにある。ベトナム戦争帰還兵が日常モードへ戻れないことが社会問題化した。アメリカではゲシュタルト療法など国家的に色々試された。自己啓発セミナーはその一つ。もともと、エグゼクティブ・官僚向けに短絡化(ショートカット)されたシステム。80年代初めハイブロウ向けに日本で流行した。宮台氏は複数回参加し、観察した。
 記憶は合理化される。記憶は捏造されている。自己改造セミナーのセッションにより、自分に強い影響を与えたであろう記憶を再現すると、「記憶だと思っている」こと・「思い出してしまうと自分は傷つくだろう」と予期していたことと、記憶との落差に気づき驚く。
 再現した記憶が「本当の記憶」なのかどうかは、誰にも判らない。
 精神分析では、19世紀から(同様のことが)なされている。本当は家族の中で何があったのか。記憶の枠変えなど。
 「客観的に家族問題があったかどうかは判らない」と、フロイトは言っている。

 自己改造セミナーの優秀なトレーナーは、3分で人を洗脳できる。他者の心の鍵をどう開けるかどう閉じるかは、テクニックとして確立されている。人間の心はオートマチックに機械的に反応する。
 「これをすると自分は傷つくのではないか」というフレーム枠組と、実際にやってみて傷つくことは、別。実際にやってみると別に傷つかない。ナンパや営業など。「ナンパして失敗したら、自分は傷つくのではないか」と考える枠組は、そう考えることが思考者にとって都合がいいということにすぎない。

 自分が、ある行為に踏み出せるかどうかは、自己イメージ・セルフイメージによる。それに従い行為がなされる。行為には偶然性偶発性が伴う。前近代的共同体では、行為による結果は決まっていた。「お定まり」の結果が得られた。近代では人それぞれの反応が返ってくるので、偶発性が高くなる。行為によって得られる体験によって、セルフイメージは強化、あるいは変化する。セルフイメージはこのように循環する。

 体験によって生じる期待外れを処理する方法には、15年前に宮台氏が統計したところでは、五種類ある。(参照;『サブカルチャー神話解体』パルコ出版)名称は消費者類型に当てた仮称であり、学問的なものではない。

 ミーハー;個別に適切な期待水準を設定する。青山立教系。
 バンカラ;期待水準を高く設定し、期待外れに対しては批判をもって処理する。東大女子に多い。
 ニヒリスト;期待水準を低く設定し、期待外れを回避する。早大系。
 ネクラ;ニヒリストの模倣によって期待外れを回避する。期待外れの生じる領域、対人領域から退却する。
 よりかかり;ミーハーの模倣によって期待外れを回避する。

 80年代半ば、「新人類」「オタク」という言葉が生まれる。
 何をもって「オタク」とするかはまた別な問題になるが、ひとりでcommitment(傾倒)する遊びに嵌る度合いが高い者を、ここでは「オタク」とする。「オタク」はこの五分類では、「ニヒリスト」と「ネクラ」がそれである。「ニヒリスト」はオタクリーダーであり、「ネクラ」はオタクフォローアーである。
 「新人類」はこの五分類では「ミーハー」と「よりかかり」である。「ミーハー」は高感度消費者、新人類リーダーである。「よりかかり」は新人類フォローアーである。
 「バンカラ」は情報的には鈍感である。

 「ミーハー」「バンカラ」「ニヒリスト」は、自己イメージが高い。「ネクラ」「よりかかり」は自己イメージが低い。自己イメージが低いから模倣という行動になる。
 社会的なもの、社会問題・政治問題へ関心が高いのは、自己イメージの高い人間である。社会的なものへの関心が低いのは、自己イメージの低い人間である。

 80年代は分類の時代だった。一概に「若者は」とは言えなくなったので、分類し若者分布を見ることにより、分類に頷きあうことによって共通の地平を確認しようとした。
 90年代に至り、どのタイプがどういう情報に接するかの偶然の度合いが大きくなり、分布はいっそう不透明になった。

 現在40歳代のライターが多い。10年前は30歳代のライターが多かった。40歳代のライターが色々書いているのは、生物学的なニッチ(生態の場所)を求めてそれを得ている。

 以上、メモ。ちなみにこの五分類では、「ミーハー」は『別冊マーガレット』読者、「ニヒリスト」は『花とゆめ』読者になる。

(まだ続くが、とり急ぎここまでアップ)

 12月19日(日)~12月20日(月)

 宮路兼幸さんのアシする。

 12月18日(土)

 忘年会。豊川稲理さん、黒崎まいりさん、こけっこ・こまさん、ほしのふうたご夫妻と、呑んでカラオケする。
 そのあと、コミケに荷物発送。

 12月15日(水)~12月17日(金)

 無為に過ごす。17日、宮路兼幸さんから電話。アシの依頼。承諾する。

 12月14日(火)

 出掛けに、ノート見つからず。読んでいる途中の本、見つからず。都立大へ。以下、教養社会学のメモ。

 教養社会学
 (ところでこの回は音楽の話だったが、鎌やんは音楽に無知なので表記の間違いがあると思う。気づいたらご指摘下さい)

 大晦日、紅白歌合戦の時間帯に、TBSラジオで宮台真司氏と宮崎哲弥氏が99年の音楽状況を語るそうな。「自意識」というキーワードで今年の音楽シーンを見よう、という試み。
 音楽素材は60年代に出尽くしている。76年、77年、パンクロックが登場した。宮台氏は60年代プログレロックのファン。ハードロックのディープパープルなどは、その当初は、プログレバンド扱いされていた。プログレバンドはサイケデリックロックとも呼ばれ、ドアーズ、ピンクフロイドがルーツ、キングクリムゾンが代表。
 宮台真司氏は、中学時代、実験的ロック、プログレロックにはまっていた。ビートルズなどは相当実験的な音作りを試みていたが、それは商品化されなかった。その音を聞いていたプロデューサーらにより、プログレはジャンルとして生まれた。パンクはプログレの実験の一部を拡大したものだ。
 記憶・アーカイブarchiveを持っている人は、良心的な音作りをする(例;渋谷系、宇多田ヒカル)。記憶を持たない人は、自意識系(「私って可愛い、ぎゅうっ」ナルシシズムの無自覚な表明)となる(例;ゆず、かぐや姫)
 アーカイヴarchive(記録・公文)を知っていることは幸せなのか不幸なのか、という問題はある。調声音楽のバリエーションには数学的限界がある。1980年代以降、音楽はDJ的な、サンプリング、カットアップなどを重視するようになり、オリジナル信仰がなくなってきた。かつては日本の音楽はダサダサだったが、現在は音楽素材は良くなった。

 サブカルとしての音楽は、以下の変遷をしている。(参照『サブカルチャー神話解体』パルコ出版)
 60年代;演歌、歌謡曲…産業音楽(阿久悠、筒美京平など)
 70年代;四畳半フォーク…自己主張の始まり
 73年;荒井由美登場…ニューミュージックの発明(四畳半フォークのかっこ悪さを克服、洗練)
 70年代後半;ニューミュージックブーム…(アリスなど。深夜放送などを通じ、分かり合い共同体形成)
 ベタな分かり合い共同体(相互ナルシシズム)に対し、3つの反発が発生する。

 �ポップス系…大瀧詠一(音頭、『ロングバケーション』)、細野晴臣(クラフトワークのパロディ);豊富なアーカイヴ。「判るやつには判る」諧謔。洒落として始まるが、オシャレとして世に受け入れられる。
 �東京ロッカー、めんたいロック…ニューミュージックを「奴ら」と呼び、「死んでいる」と呼んだ。インディペンデントロック。この流れにチェッカーズなどがある。後、ニューミュージックもロックもともに産業音楽に取りこまれ、「奴ら」という差異概念が絵空事になっていく。
 �歌謡曲マニア…プログレマニアによって『よいこの歌謡曲』など裏読みの歌謡曲雑誌が作られる。プログレマニアはオルタナティブalternative(他に採りうる道)への憧れを持つ。70年代「ここではないどこか(への憧れ)」が屈折する。近田春夫が「歌謡曲は奥深い」と発言。歌謡曲の向こうに「ここではないどこか」を見る(諧謔)。歌謡曲マニアは後、VOW的なものへ短絡化する。

 ���とも、後、登場したオリジン(登場意図)は忘却され、ベタな短絡となる。

 90年代のZARD、B`Zでは、ミュージシャンの人称が隠される。商品はタイアップされ、音は消費者に刷込まれて行く。音素材自体は良質な物。
 自己主張はここにはない。プロデューサーの存在に光があたる。
 現在の人気ミュージシャンのプロデューサーは、宮台氏と同年代。洋楽アーカイヴの知識をよく知っている。80年代イギリス音楽でのプロデューサーの力を見て知っている。

 90年代の音楽は、宮台真司氏の分類では、下の2項に分れる。
 【1】ベタな自意識系(「ボクって可愛い」。小沢健二など)
 【2】アーカイヴをよく知りアーカイヴと戯れる天然系(小山田圭吾など)音はタフさを演出しているが、このタフさは幻想のタフさ、「悪っぽそうな奴」というところが限界のタフさである。(ところで、「天然系」という呼称は適切ではないのではないか、と、鎌やんは思う。これについては後日の日記で。宮台氏のつける名称は、自称と他称が未整理で、当人的には整理してあっても他者がそれを用いるときむしろ誤解と混乱を招くと思う) 
 「悪っぽそうな奴」という演出、90年代の文化はストリート的なものへの劣等感が大きく占めている。宮台氏が『野獣系でいこう!』と書名をつけたのも、このストリートコンプレックスを視野に入れてのことだ。
 前回の講義の「体験系」(修養系)の人々は、自意識系から天然系へ向かうベクトルに存在する。
 アメリカのR&B・ヒップホップは社会階層を背景としたタフネスさがある。日本にはこういうタフネスさがない。
 日本でも、60歳になっても聞けるかっこいい音楽を作ろう、という動きが近頃出ている。

 さて、宗教の講義。(参照;『制服少女たちの選択』講談社)

 宗教は4つに分類される。
 共同体が個別の出来事を「儀式」で馴致する、原始的宗教。(神道など) 
 共同体が枠組により「戒律」で馴致する、古代的宗教。(ユダヤ教、奈良仏教など)
 個人が枠組により「信仰」で馴致する、中世的宗教。(キリスト教、鎌倉仏教など)
 個人が個別の出来事を馴致する現代的宗教。

 現代的宗教は、2つの志向を持つ。
 個別的無害化戦略…現世的御利益祈願。個人を襲う個別の出来事を個別的に無害化する。観察者から見ると現実と虚構の区別がメチャメチャに見えるので「浮遊系」と宮台氏は名づけた。また宮台氏は「行為系」とも呼んでいる。
 縮約的無害化戦略:個別にではなく一気に無害化を図る。宮台氏は「体験系」と呼んでいる。これには2つの方法がある。
  【a】世界における包括…終末論的、覚悟系。運命、宿命、前世からの任務が私にはある、とする。世界・運命は既に与えられていて、私には極小の自由しかないのだ、とする。(ちなみに鎌やんの志向はここに分類されると思う)
  【b】自己における包括…人格改造的、修養系。脳内革命。自分のものの見方さえ変えれば世界は変わる、とする。自分に足りないのは自分の修行、境地だ、とする。(おそらく宮台氏の志向はここに分類されるのではないかと鎌やんは思う)
 現代的宗教教団は、浮遊系・覚悟系・修養系の3つの要素を必ず持つ。

 音楽の話題と、宗教の話を鎌やんなりに総括。
1;誰もが自意識に悩んでいる。
2;ベタな自意識を出したら恥ずかしい。
3;だが上手いやり方・屈折したやり方を用いて表現というものはできる。

 

 以上、メモ。
 授業のあと、宮台氏に時間とっていただき、つきあっていただく。聴衆学生の反応が鈍く、かつ反応が年々鈍くなることもあって、
 「だんだんやる気がなくなるんだよね」と宮台氏が言う。
 宮台氏の青春期の音楽環境を宮台氏より20歳も若い聴衆に共感求めることが間違いでしょうと思うが、うまく言葉にならなかったのでそうは宮台氏に応えず、
 「僕も音楽の話は全く判りませんので」と宮台氏に言う。
 「でもその代わり得意なジャンルがあるでしょう」と宮台氏。
 そうかな? と自分を省みる。マニアとかオタクとかいう分類が宮台氏と私とでは定義が違うでせう、と思うが、うまく言葉にならなかったので、応えず。
 「もう新しいもの生まれないような気がするんだよね」と宮台氏が言う。
 ある意味において新しいものなんて何世紀も前から存在しないし、ある意味において新しいものは常に刻々と生まれているし、たとえば60年代70年代に文化的に新しい物が生まれたのだとしたら、その時期は政治的には50年代に比べ安定したからでしょう、混乱期と安定期の狭間には安定のための激動期があって、宮台氏の言う「新しいもの」はその時期の産物で、そう遠くないうち日本は政治的激動期がまた来るだろうから、それが安定した頃に文化的な副産物生まれるのじゃないかな、といったことが頭の中駆け巡るが、言葉にならなかったので
 「そうですか」と応える。
 「マンガ描く動機がうまくいかなくて、その辺で宮台さんのご助言いただけたらと思いまして」と述べる。
 今日の授業の、音楽分類は『サブカルチャー神話解体』の内容と重なっていたと思うので、その書名を挙げて
 「あれは面白かったです」と言う。『サブカルチャー神話解体』では人間のタイプを五分類していて、なかなか面白い。
 ところで宮台氏は世代と地域から私を測ろうとされた。私の主観では私のいた文化環境は同年代のそれではなく明治大正期的だし、地域自体辺縁部のうえ、地域共同体とは全く交流がなく地域共同体からぶっつり切り離された家だったので、そういう分類で把握できる部分と取り零す部分と比較すると、むしろ取り零すところのほうが多いと思ったので、その説明をしようとした。私がそういう主観であることが、宮台氏から見ると、唾棄すべき「自意識系」に見えたらしい。ATフィールド張られる。
 女子学生さんが通りかかる。宮台氏が声をかけ、女子学生さん交えての話になる。東浩紀さんの『郵便的不安たち』を女子学生さんは抱えていた。
 「この頃の学生はサブカルチャーを知らないし興味もないんだよね」と宮台氏。
 「サブカルチャーがかっこいい時代なんてあったんですか?」と、ややすっとぼけて訊いてみる。この質問はもっと限定化しないとうまく伝わらないだろう。
 「あったよお」君は今更何を言っているんだ、情けないなあ、という風に宮台氏。やはり伝わらない。全てのサブカル(マンガアニメジャンル含む)は断片化しているのでサブカルに参加しているということでもって話が通じるということを期待するのは無理ですよ、ということを宮台氏に伝えようとするが、うまく伝わらない。

 宮台氏が私を無視して研究室へ向かったので、あれあれ、私が『美しき少年の理由なき自殺』の少年だったらこれが理由で自殺しちゃうよ、と思う。しかしながら宮台氏と私では感性のレベルでは共感できない部分のほうが多いのだから仕方ないかと思う。

 食事する。みいちゃんに電話する。
 いくつか今日の授業などに対して思うところがあったので書きとめてみる。

 ものごとが表に現れやすい時代と現れにくい時代がある。60年代70年代は文化的側面では動きが表に現れやすかった。1945年から10年以上続いた政治的経済的な激動が一旦安定したから、文化的な変化が表に現れたのだと思う。
 「世代」という枠が有効だったのは70年代までだと思う。思春期に得た世界観がその人間の一生を支配する。40年代50年代は政治的激変期だった。敗戦直後は、アメリカの政治家の発言に日本の商店街のおじさんおばさんが神経を尖らせていた。アメリカの政治家のつまらない発言によって、日本人の生活は大嵐が吹き荒れたからだ。思春期にそれが現実だと感じた者と、そういう経験を持たない者との間では、世界へのイメージが異なる。戦争を現実として経験している者と経験していない者との間でも当然世界イメージが異なる。ほんの数年の誕生年の違いにより、共通する世界イメージが異なり、同世代ではごく当然なことが、自分より年齢を経ている者には全く通じない、という経験を、1940年代生まれあたりでは繰り返し感じていたと思う。世代に共通する経験のほうが、地域共同体の共通項より多かったため、「世代」論が意味を持った。
  が、70年代以降政治は安定した。それ以降、思春期前期までに得る世界観は「世代」では別段違わない。個々の違いのほうがむしろ大きい。そしてその世代が見るのは、60年代の夢の残骸だ。
 …ところで。横に連想する。たとえば、戦前のサブカルチャー、世界のサブカルチャー運動というのはどんなんだったのだろう。
 日本がある程度文化的に安定し爛熟できるようになったので、ようやく世界のサブカルチャーに影響を与え得るようになったのではないだろうか。発信力あるまでに洗練された文化は、政治的安定がなくては育たないようにも思う。
 …ところでサブカルチャーの定義とはなんだろう? メインカルチャーは何を指すのだろう。カウンターカルチャーとサブカルチャーの関係は? それは同じものか?
 政治的激動が精神の荒廃を招くとアンチカルチャー(反文化、文化否定)という現象が起きる。文化大革命やポルポトはアンチカルチャーだった。文化的には不毛だ。サブカルの原動力の一つにはアンチカルチャーへの衝動がおそらくある。サブカルが「かっこ悪い」のは、サブカルに内包されるアンチカルチャー的側面、不毛性にあるのだろうと思う。
 ハイカルチャーと大衆とを、サブカルは繋ぎ得るだろうか、と、思う。それともサブカルは、ハイカルチャーと大衆との障壁となっているのだろうか。おそらく両方の側面をサブカルは持つ。サブカルとハイカルチャーを繋ぐラインは常にアンチカルチャー(よりサブカルとして純粋であろうとする、文化的ラッダイト運動化する)によって絶ち切られようとする。
 アンチカルチャーはそれ自体精神の荒廃の現れであり、精神荒廃を再生産する。荒廃した精神世界を一時的にごまかすため、現在のサブカルはおそらく機能している。
 …別な連想。60年代70年代をリアルタイムで過ごした世代に共通した性格的弱点があるんじゃないのかな、と思う。そこに良質なものがあったとしても、宣伝者はその文化にベタに尊厳を預けた人々であるから、むしろ逆宣伝となるのでは。またその世代はそれ以前の文化遺産を否定することを由とした。日本人は(「教育」には熱心なくせに)文化の伝承には無頓着だ。結果、次世代には良質なところが伝わらない。
 連想する。ジョージ・オーウェルのルポを読むと、1930年代イギリスでは、社会主義思想は素晴らしいものなのかもしれないが、社会主義者はどいつもこいつも最低で、社会主義者こそ社会主義の逆宣伝をしている、とあったが、同じだなあ、と、思う。オーウェルが『鯨の腹の中』と述べた問題は、現代的問題だよな、と、思う。
 60年代何かが変わった、何かが生まれた、ということ自体、巨視的に見ると一種の幻想なのでは、と、思う。別な時代の産物の再生産だろうし。60年代にあった世界変化への過剰な期待感とそれに続く脱力感は一部の人々にとってトラウマとなっている。
 未来への憧れ、というものを人類が持ったのはごく限られた時期で、人は理想を過去の時代に投影するのがむしろ一般的だった。

 宮台ゼミ

 『私たちは大人少女』(青樹社)。発表者は五十嵐氏。
 『オリーブ』読者、少女性を持ったまま歳を経た女性が自己肯定する本。
 「大人少女」の仮想敵は『JJ』『Can Can』読者(いかにオイシイ男をゲットするか、を研究)、上昇志向の塊で『アエラ』依存症のキャリアウーマン(週刊プレイボーイライター山崎浩一氏が「アエラー」と命名)
 しかしながら、筆者が仮想敵としている『JJ』『Can Can』読者は、巨視的には筆者の肯定する『オリーブ』読者と似たようなものではないだろうか。似たようなもので、少し違うから、対抗心や敵対心が芽生えるのであって、理解不能な者は視野にすら入らないのだろう。
 『オリーブ』読者と『ビックリハウス』読者は重なる。『ビックリハウス』は「帰宅部の部活」と呼ばれた投稿誌。糸井重里、いとうせいこうなどパルコ系文化人が一時期集結していた。
 『オリーブ』読者と(92年にエロ本になるまでの)『宝島』読者も重なる。『宝島』の果たしていた役割は、今は『TVbros』が果たしている。サブカル情報誌。
 『オリーブ』読者とナゴムレーベル顧客は重なる。ナゴムはインディーズレーベルで、筋肉少女帯、人生(電気グルーブ)、たまを生んだ。
 『オリーブ』読者と岩館真理子読者は重なる。作中のキャラクターに自己を投影する。宮台氏の言葉では「これってあたし!」。くらもちふさこと並び、おとめちっくを形成。大島弓子も重なるが、大島弓子は萩尾望都と並び高踏的である。(このあたりの少女マンガ家分類を宮台氏は『サブカルチャー神話解体』でしている)岡崎京子は大島弓子のフォローアーであり、キューティーコミックの原動力である。
 『オリーブ』読者は、『Can Can』『JJ』を見ると、欲望に塗れている、と感じる。

 80年代の「可愛らしさ」には、1;ロマンチック(ナルシシズム)と、2;キュート(外に向けたもの)がある。「大人少女」年齢を重ねた『オリーブ』読者は前者であり、「大人少女」の仮想敵であるJJギャルは後者。

 山崎浩一氏の週刊プレイボーイの記事「パラサイトシングル」を参考資料とする。「パラサイトシングル」は、山田昌弘氏が93年に提唱したもの(『パラサイトシングルの時代』山田昌弘、ちくま新書)。山田昌弘氏は宮台真司氏の一年後輩になるそうだ。
 パラサイトシングルの定義はこうだ。
 都市部に持ち家のある中流核家族に、50~60代の親と同居を続ける独身者たち。
 彼らは基本的な生活条件を両親の収入や資産に依存しているため、自分の収入をほぼ100%「お小遣い」としてリッチな消費生活に回すことができる。このままパラサイトシングルが増えつづけると、こんなことが予想される。
1;基本的生活産業の需要が冷え込む。
2;「保守的で依存心が強いヤツ」(今のままで豊かなら社会変革を必要としない。欧米の若者が政治関心が高いのは、欧米の若者は親にではなく公的社会保障に依存しているから。幼女殺人のような欧米型猟奇犯罪者にはパラサイトシングルが多いのはたぶん偶然ではない)と、「無気力で不満だらけのヤツ」(親に寄生しているほうが幸福ならやる気も失せる)の2種類の若者しかいなくなる。
3;彼らの親世代がこの世を去った時、宿主を失った寄生虫と同じ運命が彼らを待っている。

 「大人少女」『オリーブ』読者と、『JJ』ギャル・コマダムの違いは、サブカル的ナルシシズムか即物的ナルシシズムかの違いでしかない。「大人少女」は一種の引きこもりではないか? 交流するスキルを欠いている。「大人少女」もJJギャルもともにある程度金を使ってセットアップしている。『オリーブ』読者が『JJ』読者を仮想敵にしているのは、中高時代感じたインパクトを固定しているからだ。
 80年代は、ナルチシズム的だった。90年代は、ストリート的なものへの憧れが、支配的だった。

 都立大内部で撒かれた、ファッションを4分類するペーパーを参考資料とする。
1;メジャー型肉食系…コムロ系、ビジュアルロック、GLAY。ギャル、コギャル。ブランド大好き。
2;黒人系…R&B、ヒップホップ
3;軟弱型…ギターロック、ギターポップ、電気グルーブ、トライセラ(「大人少女」はここに分類される)
4;草食系…Jポップ、ビーイング系、デューク、326
 これはセルフエスティーム(自尊心・安定した自己イメージ)が高いかどうか、逆に安定した自己イメージ低く自尊心低くナルシシズムが強いかどうか、という区分と、サブカル的である(偏差値が高い)か非サブカル的である(偏差値低い)かでどこに位置するか分けることができる。(と宮台氏は言ったが、サブカル的云々、偏差値云々に関して鎌やんは同意しない。もっと概念を練り研ぎ客体化するべきだと思う)
 安定した自己イメージを持ち、サブカル的であるのは、黒人系。
 安定した自己イメージを持ち、非サブカル的であるのは、メジャー型肉食系。
 ナルシシズム強く、サブカル的であるのは、軟弱型。
 ナルシシズム強く、非サブカル的であるのは、メジャー型草食系。

 「サブカルチャー」の定義について、宮台氏に質問する。
 「サブカルチャー」は、本来、シカゴ学派が、不良少年の文化に名づけたもの。のち、60年代カウンターカルチャー、ユースカルチャーを指すようになった。
 「カウンターカルチャー」は、エスタブリッシュメント(規制体制、支配階級)に対するカウンター、ということ。
 日本では70年代にエスタブリッシュメントの不在が明らかになり、全ての物が横並びの小文化となる。
 日本のサブカルは年齢文化という性格が強い。アメリカのサブカルは社会的階層的差異が強い。
 以上メモ。
 授業後、サブゼミをすることについての話に加わる。  

1999年12月1日から13日

2012年03月27日 01時24分38秒 | Weblog
12月13日(月)

 ウォルフレンの新刊出てないのかな、と、本屋覗く。見当たらず。『手塚治虫の動物王国』(いそっぷ社)、『人間以上』(駕籠真太郎、久保書店)、『王道の狗』五巻(安彦良和、潮出版)、『テリー・ギリアム映像大全』(河出書房新社)、衝動買いする。

12月12日(日)

 朝6時起床。曽さんと曽さんの彼女を駅に送る。2人は今日は浅草を見物するのだそうだ。私も一緒に東京へ帰ろうかと思っていたが、ゆっくりしていけと曽さんから諭されるので、帰るのを遅らせる。午前中にはすっかり後悔する。散髪し、脱色する。夕方、バスに乗り、駅へ。
 そうだ、みいちゃんとこ寄って行こう、と思う。途中下車し、みいちゃんの家へ。みいちゃんの家の前で、玄関の靴を見る。みいちゃんいるな。しばらく呻吟し、煙草一服し、お邪魔する。みいちゃんと買い物に行く。前回気づいたのだが、みいちゃんは私の母に少し性格が似ている。人の話を基本的に聞かないところとか。「もうお兄ちゃんを尻に敷いてるね」とみいちゃんが言う。言葉を間違えたのだろうか。甘い幻想に浸っておくことにする。夕食を馳走になる。駅まで歩いて行くつもりだったが、みいちゃんの母とみいちゃんに送ってもらう。
 東京へ戻る。
 『パリ・ロンドン放浪記』(ジョージ・オーウェル、岩波文庫)読了。オーウェルの記すホテル業の裏側に、色々複雑な思い。オーウェルへの好感は更に深まる。そうか、皿洗いってそうだよな。ああ、オレは15年間も皿洗いで人生潰したんだよな、とか。自分はつくづく下層階級なんだよな、とか。

12月11日(土)

 曽さん&曽さんの彼女を、エンジン船に乗せ、巡る。巡った後、3人で遊園地へ。15年ぶりだか18年ぶりだかえらい久しぶりに行ったので、入り口が変わり、駐車場へ辿り着くのに難儀する。絶叫マシンに初めて乗る。帰宅し、夕食を3人で食べる。曽さんと、マンガの話などする。曽さんの彼女は日本語が判らないので、少々退屈されたようだ。曽さんと曽さんの彼女、就寝。妹帰宅。私は客室のひとつへ行き、NHKのドキュメンタリー観ているうちに寝こける。就寝。

12月10日(金)

 印刷屋さんへ宅急便出す。
 午前11時、新宿で、曽さん&曽さんの彼女と待ち合わせ。3人で、私の実家へ。…正直言うと、11日にはえだのさんのオープンミーティングがあるので、私はそれに参加したかった。が、約束なので、曽さんを田舎に招待する。
 実家で食事するうち、雲が消え、富士山の姿が見えてくる。良かった良かった、連れてきた甲斐があった。3人で近くの観光スポットへ行く。最近できたスポットで、初めて行ったが、予想よりずっと良いところだった。富士の姿が神秘的に綺麗だった。良かった良かった。
 夜、妹と母と、曽さん&曽さんの彼女と、私の五人ですき焼を食べる。父は不在。
 曽さんと曽さんの彼女が就寝した後、3人で話する。母は娘息子の縁談に突然熱心になり錯乱したこと随分言う。妹は建設的な反論をする。
 私も自分の意見を言う。二人に軽蔑され、みいちゃんへの悪口を二人から私は言われる。妹のみいちゃんへの評は、半分は同意できないが、残り半分はまことに理に叶っている。妹も幼い頃年長者に求愛され、それは良い記憶ではないと言う。そうだろう。

 
12月9日(木)

 ディグさん、夕方に来る。飛行機の写真、持ってくる。ディグさんにアイアンジャイアントは好きか訊く。知らないそうなので、サイトを教える。「こ、これはイイ」予想通りの反応が聞けて嬉しい。
 ディグさんと話しているうちに眠くなる。銭湯行き損ねる。

12月8日(水)

 風邪でくたばって一日中寝てる。

12月7日(火)

 都立大に宮台博士の授業聞きに行く。風邪が心配だったので完全防護して行く。以下、メモ。

 教養社会学

 宗教について。
 社会システム論による、宮台真司氏による宗教の定義は、こうだ。「前提を欠いた偶然性を、無害なものとして受容する(馴致する)枠組の総体」
 「前提を欠いた偶然性」は、「絶対的所与性」ともいう。なぜ私は男なのか? など。
 これの対立概念は、手段的努力によって結果を左右できる偶然性だ。努力によって、結果に一定の蓋然性があるもの。たとえば、受験は、勉強という努力をするぶん、落ちるという結果に至る可能性が減る。これは了解可能なものだ。

 不慮の事故、男女の出会い、これらは前提を欠いた偶然性だ。旧い社会では、人の流入が少なかったので、偶発的余地が少なかった。現代は、偶発性が高い。誰と出会うのか判らない。成熟社会は、偶発性に満ちている。結果、「なぜ俺だけが」という感覚に充ちる。

 春菜ちゃん殺人は、映画『太陽がいっぱい』に通じる問題を表している。「なぜ彼はああも恵まれていて、自分はこんなにも恵まれないのか」個人に関わる前提を欠いた偶発性。春菜ちゃん殺人は、「お受験」の殺人と言われている。「受験」はたかがクジではないか、と非難する者がいる。たかがクジであることが、むしろ重要だ。「自分とは全く異なるラッキーな彼女と、なぜ自分はつきあわなくてはならないのか?」「春菜ちゃんを殺せば、春菜ちゃんの母親とつきあわなくて済むようになる」春菜ちゃんの母の行動には悪意はなかったが、それは殺人者となった母を追い詰めることとなった。

 「神が定めたのだ」と考えることにより、前提を欠いた偶発性を馴致可能にするのが、宗教だ。

 宗教進化論

 宗教には、二つの側面がある。偶発性がどう表れるか。偶発性をどう馴致するか。宗教とはこの二つのコンビネーションである。

 主体。「誰にとって偶発性が表れるか」、これには、「共同体にとって」と「個人にとって」がある。
 対象。「どのように馴致するか」、これには、「出来事」での馴致と、「枠組」での馴致がある。

1;原初的宗教【主体は共同体、対象は出来事】
 「なぜこの共同体に、このような出来事が」
 儀式化。儀式は共同体全員参加。ハレの日・祭のときは、ケの日・日常とは別な時間となる。聖・俗の図式が生まれる。
 なぜこの村に災厄が訪れるのか? 昨年の儀式に不手際があったからだ。
 分裂症患者・狂人を、シャーマンとして聖の側に隔離することで、日常を温存する。

2;古代的宗教【主体は共同体、対象は枠組】
 ユダヤ教的宗教。否定の図式。出来事を処理する枠組の創造。戒律化。日常の側で災厄(問題・期待外れ)を処理できるようになる。合法・非合法、美・醜、道徳・不道徳。この枠組は神の定めたものである。枠組の秘蹟化。旧約は、神との契約を守ればユダヤ人は災厄に合わないことを約束しているが、不信心なユダヤ人によって、神との契約は常に破られる。だからユダヤの民は神によりさまざまな災厄を与えられる。

3;中世的宗教【主体は個人、対象は枠組】
 (この段階まで進化したのは、主にキリスト教世界である。ごく一部日本の宗教にもある)
 信仰化。個人の信仰の問題、個人がいかにcommitment(献身、遂行、明確な主義を持つこと)するか、という問題。ユダヤ教徒は、皆ユダヤ民族だ。共同体と宗教が同じだった。その中で、イエスが救世主であることを信じるかどうか、という個人の信仰の問題へ進化する。
 社会学的には、当時、ユダヤ共同体の階層化が深まっていた。戒律を守っても生活できる者と、生活するためには戒律を守っていられない者とがいた。
 イエスのロジックは、二つ。
 一つは、戒律の否定だ。戒律を守っていられる豊かな暇人だけが救われるのなら、それはトートロジー(同語反復)だ。救われている者だけが救われることになる。むしろ、戒律に従えない者こそが救われるべきだ。戒律に従えるほど恵まれた者は、救われない。
 もう一つは隣人愛。これは親を捨てよ、故郷を捨てよ、という厳しい主張だ。自分を突き飛ばそうとする他人を、自分を殺そうとする他人を、愛する。見も知らない他人のために命を捨てる、これが隣人愛だ。
 ユダヤ共同体からの、脱共同体化が、ここでなされる。
 キリスト教を地中海世界に布教したパウロは、隣人愛(共同体を超えた愛)を拡大した。地中海商業圏の、ギリシャ語を話す他民族に布教した。共同体を持たない人々へ、浸透していった。これが、「パブリック」という概念のベースとなった。
 古代においては、パブリックと共同体は一致していた。小林よしのり的「公」は、この段階を言っている。
 中世以降、パブリックは、共同体の対立物となる。正しさ、確かさ、神は、共同体の外にある。

4;近代的宗教【主体は個人、対象は出来事】
 『太陽がいっぱい』的問題、「なぜ私だけがこんな目に遭うのか?」「なぜ彼らはいい目に遭って、私はいい目に遭えないのか?」
 全ての枠組を宗教的に説明するのはムリになってくる。多くのことは宗教的枠組を用いず、科学的枠組で説明可能になっている。認識枠組の多元化、多様化。
 宗教はパートタイム的なものとなり、必要な時に穴を埋めるためのものとなる。
 宮台真司氏が80年代に学生を対象として統計した結果、宗教のオリエンテーション(志向)は二つに分かれることが判明した。
 a;個別的問題設定~行為系。幸せになりたい系。おまじない、呪術で、幸せを招こうとする。世俗的御利益祈願。
 b;縮約的問題設定~体験系。ここはどこ? 私は誰? 非世俗的意味追求。
 この二つは宗教教団の分類ではない。宗教教団は必ずこの二つを持つ。受け取る側の態度の分類だ。

 プログレッシブ・ロックの話題を提示。難波博之を知っている人がどれだけいるか、学生に訊ねる。知る者はいない。話、しにくいなあ、という顔を宮台真司氏はされる。荒井由美、少女マンガ、シンフォ系プログレ、SFのファンタジー派、これらを好む人々は重なっている、と宮台真司氏は言う。「体験系」の人々は、オルタナティブalternativeな輝き、ここでないどこか、日常でない非日常の輝き、そういうものを求め、かつて垣間見た。実験という言葉に、輝きがあった。日常でない非日常へ、絶対そこへ辿り着くぞ、という感覚を持っていた。ビートニクス、サイケデリックなどは、日常ではない非日常を求めたものだ。
 宮台真司氏の世代には、物書きが多い。その後の世代には、東浩紀氏のような例外はいるが、物書きが乏しい。宮台真司氏の世代は、かつてそれを垣間見た。60年代にルーマンやデリダのように現代哲学の基本枠組のほとんどは出尽くした。生産的なものは全てその時に現れ、それ以降30年間、何も新しいものは生まれていない。音楽ではカットアップ、リミックス、サンプリングがなされるだけだ。プログレでは、ロバート・フィリップがこんなことを言った。「天使の扉がこちらに開いた時があった」演奏をしていると、二年に一度くらい、神がかったプレイができるものだ。60年代後半は、演奏全てが神がかっていた。70年代後半、天使の扉が閉じていった。天使の扉が閉じると、全てが閉じた。全ては日常となった。オルタナティブが消えた。待っていても訪れない。「ここではないどこかを指す光」は消えた。
 60年代、なぜ人は生産的だったか。近代過渡期から近代成熟期への移行期にあったからだ。移行期は、3年ほどで終わる。移行期には、枠組を自覚し、枠組から解脱する。そのプロセスで得た解放感は、実に濃密だ。移行が終わると、全ては日常となる。ドラッグすら日常となる。
 クスリは使いはじめには非日常的トリップを与えるが、クスリが日常になると、初めて得た時の昂揚は得ることはできなくなる。

 以上、メモ。宮台真司氏が最後に述べた「天使の扉」のところは、宮台真司氏が(世代的に)当事者であったため、一次的観察になっていると、鎌やんは思う。移行期でない時代はないと思う。局所的に劇的な変化が起きる場所と時間は確かにあるけど。
 以下、宮台ゼミのメモ。

 宮台ゼミ。社会学演習

 『消えるヒッチハイカー』
 社会システム論的に都市伝説を考えると、それまで生活環境になかった物を、都市伝説でもって無害化させる、という機能が考えられる。
 都市伝説は60年代に多かった。マンガでは、楳図かずお、古賀新一的なもの、「呪い」の都市伝説の、さまざまなバージョンがあった。
 都市伝説に共通する要素は、慣れ親しんだ共同体の中に、異物が入るところ。そのせめぎあいが都市伝説を生む。生活に新しく登場した物(車、マクドナルド、電子レンジ)にとっては、通過儀礼的。
 近年は、都市伝説は少なくなっている。慣れ親しんだものと、そうでないものの差異が乏しくなっているからだ。都市伝説は、郊外的なもの、都市的なものが広がっていく過程で生まれる。80年代後半、テレクラが流行りはじめた頃は、テレクラに関する都市伝説が随分あった。

 TVの『マグマ大使』に人間モドキが登場する。これは恐かった、と宮台真司氏は言う。ボディスナッチャーは3回映画化している。よく知っていると思っていた人物が、実は全然知らない人間なのではないだろうか、という恐怖。SFは、郊外化の恐怖を描いている。

 共有された空間感覚を、コスモロジーと言う。 都市伝説は、情報の流れによる空間の不均質性を示す。どこに境界があるのか、都市伝説を調べることによって判る。都市伝説は、一世代、二世代のうちに消えていくだろう(空間が均質になると都市伝説は消える)。だから都市伝説は記録と研究に値する。研究者が現れてほしい、と宮台真司氏は言う。おそらくマスコミで引張りだこになるだろう。
 都市伝説の発祥地点を特定するのは難しいが、いくつか発祥の特定された都市伝説がある。口裂け女は岐阜で発祥した。岐阜という土地はどういう意味を持つのか、という研究が成り立つ。人面犬は筑波で発祥した。

 静岡出身の学生が「五円バアサン」という都市伝説を披露する。五円渡さないと、そのバアサンに殺されてしまう、という伝説だ。子供の頃、五円バアサンを警戒して、いつも五円玉を持っていた、という話。
 それを聞いた福島の学生が、自分のところでは百円オバサンだった、と言う。また茨城では、五十円オジサンだった、と言う。

 60年代の恐怖マンガは、メタモルフォーゼの恐怖だった。かつてあったものがなくなっていくことへの恐怖、薄れゆく記憶に関わる恐怖だった。1970年代、恐怖マンガは、つのだじろう的なもの、黒田みのる的なものへ変化する。水子霊など、個人的なものとなる。空間感覚が消失する。高度成長から、安定成長へ移行したことによって、恐怖の質が変わった。孤独な都市民の恐怖に変化した。

 次回のゼミは、『私たちは大人少女』(青樹社、村岡清子)について。

 宮台博士から一口羊羹貰って、鎌やんは帰る。

 編集さんに電話。6月出す予定のマンガ単行本、ロリ本としてのスタイルだと取次ぎが嫌がるだろうという話、蒸し返る。日記には明確に書いてなかったけど、繰り返し蒸し返ってる。工夫をするための打ち合わせを後日することにする。
 案。タイトル『これはロリ本ではない』。制約があるほうがむしろアイデア出たり意欲が湧いたりする。そういうものなんだろうなあ。『オタクの哲学』という企画だいぶ前から暖めている。怠惰なもので、マンガの単行本がすんなり出るようだと『オタクの哲学』動かそうという意欲、阻喪する。単行本が難航するなら『オタクの哲学』を動かそう。既に数人に軽く当っている。自作自演してないと意欲を自身かきたてられない。『オタクの哲学』始めると自分で自分のことペテン師だなあ、と自覚迫られるので、それが厭だったのだが、しっかりとペテン師らしく。

12月6日(月)

 風邪でくたばってて一日中寝ていた。頻繁に電話がかかる。主に実家の関係のことらしい。朦朧としながら受け応えする。

 変な夢を見る(夢というのはいつでも変なモノだが)。どういうわけか自分は再び小学生になったらしい。ああ、また10年間もバカな目に遭うのか、と、夢の中で思う。高校あたりからならやりなおすにも多少の意味はあるだろうか、と、夢の中で思う。初めての授業らしい。冴えない教員が入室する。紹介もなく授業が始まる。それなりに内容のある授業、聞いている間は筋道が追える。だが一瞬気を抜くと、もう何が語られているのか全く聞き取れず、板書も意味不明。黒板には、小さい丸が4つ縦に並び、その横に、横長の長方形で赤く枠どりされた中に、びっしりと細かい字が書かれている。
 「先生、何を言っているのか判りません」と質問する。授業が止まる。どこが判らないのか、と教員が言う。
 「まずあの板書されている丸は何ですか?」と訊ねる。おそらく丸印は単に何かを箇条書きにした際の印で、箇条書き部分を消したあとたまたま消し忘れたところだろう、と予想して、故意に、ズレた質問をしてみた。教員が応えるには自動車メーカーのマーク(意匠)を説明のため描いたのだと言う。近くに寄って見る。たしかにそうだ。
 「見えませんよ。ボクら目あまり良くないんですから」と私は言う。あ、そうなのか、と、教員は初めてそのことに気づく。
 「この下のマークはなんですか?」釣具メーカーのマーク(意匠)のようだ、と推測して質問する。飛行機・戦車のメーカーのマークだと教員が応える。私は見え易くなるよう黒板に拡大して板書する。

12月5日(日)

 夕刻まで寝る。曽さんから電話。7時吉祥寺待ち合わせ。曽さんの彼女と初めて対面。博多ラーメンを一緒に食べる。最近オープンしたヴィレッジ・ヴァンガードを案内する。

12月4日(土)

 上野科学博物館へ、ディグさんと零戦観に行く。零戦を展示していたオレンジ館は改装中だかで、観ることが出来ない。品川へ。船の科学館で展示している飛行機を観に行く。市ヶ谷へ。靖国神社遊就館へ行く。展示物見る。
 近頃ディグさんは飛行機にずいぶん詳しくなった。ディグさんは今まであまり本を読まないタイプだったが、飛行機がきっかけで知の連鎖が始まり、古典も色々読みはじめている。
 「紅の豚」に描かれていた飛行機の連なる天国のイメージは、イギリス空軍パイロットだった作家ダールの短編が元ネタだという話を、ディグさんから伺う。
 どういう飛行機が美しく、どういう飛行機が美しくないのかディグさんから伺う。私には基礎知識が足りないので今一つわからない。ディグさんによると、日本の飛行機は、たおやかな優しいラインをしているのだそうだ。
 靖国の展示では、過剰に気を遣っているがゆえに結果感情的になっている説明文を見て、あーあ、と、思う。小林よしのり氏の寄贈した展示を見て、あーあ、と思う。東郷平八郎のビールを見て、ほうほうと思う。靖国の展示に児玉源太郎の写真がないが、児玉源太郎の写真は残ってないのだろうか。戦争後期の展示物に、ゆらゆらと立ち上るものを感じる。ヒステリックさが痛々しい。

 下宿の駅へ戻る。定食屋が休みだったので、隣駅のうどん屋へ行く。中休みの時間だったので、本屋へ行く。『西遊妖猿伝』14巻(諸星大二郎、潮出版)、『残酷な神が支配する』14巻(萩尾望都、小学館)、『青青(あお)の時代』1巻(山岸涼子、潮出版)、『カラモランの大空』1巻2巻(神坂智子、潮出版)、『ジオブリーダーズ』5巻(伊藤明弘、少年画報)購入。
 本屋で『ケンペーくん』が文庫になっているのに気づく。これ、たしか、睦月影郎が描いているマンガじゃなかったかな。複雑な気持ちになる。
 からしうどん食べる。随分歩いたので身体が痛い。下宿に戻り、買ったマンガ読んで、就寝。

12月3日(金)

 風邪っぽい。風邪薬購入して、寝る。曽へ電話。曽さん、少年マガジンの選外佳作を受賞し、そのパーティで日本に来るとのこと。ディグさんから電話。飛行機観に行こうとのこと。足立真一さんからも電話あったかな。

12月1日(水)-2日(木)

 夕方起きる。宮路兼幸さんとこへアシに行く。向こうの駅に着くと、小雨が降っている。傘買うほどではないと思い、傘差さずに宮路さんとこへ。
 アシする。田舎との往復したばかりなので、気温がどうなのか、勘違いをする。昨日に比べ、急に寒くなった。私はやや薄着だった。アシしている間に、風邪っぽくなる。