
大阪市中央区北浜3丁目
大阪に到着後、市内中央区の北浜でレンタカーを借りることになっていたのですが、予定の時刻まではまだ時間があったので、近くにある「適塾」跡にちょっと寄ってみることにしました。
「適塾」は蘭学者・医学者である緒方洪庵(1810〜1863)が天保9年(1838)医学や蘭学の教育を目的として開いた私塾で、洪庵が江戸幕府奥医師として召された文久2年(1862)までの25年間に福沢諭吉や大村益次郎、大鳥圭介、橋本左内、高松凌雲、佐野常民といった、明治維新からの日本を担った人材を輩出しました。
緒方洪庵は当時最先端の知識であった蘭学書の翻訳を精力的に行い、ベルリン大学教授フーフェランドの医学書を訳した「扶氏経験遺訓」や、日本で始めての病理学書「病学通論」など多数の著書を残しています。
また、優れた教育者であった洪庵のもとには、日本全国から千人もの塾生が集まり、時には佐賀、土佐などから藩主の命令によって入門する者もいたと言われます。
建物は、建坪が90坪の木造二階建てで、洪庵は弘化2年(1845)にこの家を買い取ったのですが、建てられたのは寛政4年(1792)に大阪で大火があった直後であるとのことです。
現在の建物はさらに昭和51〜55年の解体修理により、洪庵が住んでいた頃の姿に復元されており適塾が開かれていた当時の様子を感じ取れそうな雰囲気です。
受付を済ませて休憩室の障子を開け、中庭を見ながら応接間を通って客座敷に入ると、庭(前栽)のほうから涼しい風が入ってきました。
ここは隣の家族部屋へと続く見学の順路なのですが、他に誰もいなかったので、畳の上につい腰を下ろして休んでしまいました。床の間の横にテレビが置いてあったので、映像による案内も時には上映されるのでしょうか。
洪庵が買い取った時には既に築50年ほどの建物でしたが、そのうち横になって眠ってしまいそうになるほど、200年たった今でも快適に過ごせそうな建物です。

二階
上がるというよりはよじ登るというような階段の先には塾生達が寝泊りした部屋(塾生大部屋)もあります。
もちろんここでのんびりすごしていたわけではないようで、一人あたり畳一枚分の範囲が割り当てられ昼も夜もなく勉強を続けたとのことです。
適塾では蘭書(オランダの書物)を読むのが第一の勉強であり、当然それにはオランダ語の辞書が必要になるわけですが、長崎の出島にいたオランダ商館長ヅーフが記した、「ヅーフ辞書」と呼ばれる蘭和辞書がたった一冊だけ適塾にあったのを大勢の塾生で奪い合って勉強をしていたそうです。この「ヅーフ辞書」は、「ヅーフ部屋」と呼ばれる部屋に今も展示されています。
また、塾生はオランダ語の書物を翻訳するアルバイトをすることで収入を得ることもあったらしく、1ページあたり10文ほどになったと説明文にあります。

また、適塾の塾生であり赤十字社の初代総裁となった佐野常民の記念館も現在、佐賀県川副町に開館しています。
適塾跡の建物のとなりには「公開空地」と呼ばれる公園があり、ベンチも備えられています。
適塾の建築を保護するために周りのビルを撤去した、と聞いていましたがこの公園がその場所でしょうか。さらにここから南へ歩いて5分もかからない場所に、洪庵が天然痘予防のために嘉永2年(1849)開設した「除痘館」の跡があります。
明治初年に適塾は閉鎖となりましたが、それから3年後の明治3年に大福寺が設立した医学校での教育に門弟達が参加しており、この医学校が現在の大阪大学医学部となります。
今回、地図ではただ一点で表示されているだけの史跡を訪ねて行ったのですが、ひととおり見て回って再び建物の前に出ると、適塾跡の二階建ての木造建築は見上げるような高層ビルの中に有りながら、そんなものよりはるか高みに聳え立っている、そんな気さえします。
国指定史跡(昭和16年指定)
開館時間:AM10:00〜16:00 月曜日休館日(ただし祝祭日である場合は開館し、翌日休館)
参観料:一般250円
学生:130円
生徒:無料
掲載内容の一部は適塾案内の冊子からの引用によります。
↓ブログランキングに参加しています


大阪に到着後、市内中央区の北浜でレンタカーを借りることになっていたのですが、予定の時刻まではまだ時間があったので、近くにある「適塾」跡にちょっと寄ってみることにしました。
「適塾」は蘭学者・医学者である緒方洪庵(1810〜1863)が天保9年(1838)医学や蘭学の教育を目的として開いた私塾で、洪庵が江戸幕府奥医師として召された文久2年(1862)までの25年間に福沢諭吉や大村益次郎、大鳥圭介、橋本左内、高松凌雲、佐野常民といった、明治維新からの日本を担った人材を輩出しました。
緒方洪庵は当時最先端の知識であった蘭学書の翻訳を精力的に行い、ベルリン大学教授フーフェランドの医学書を訳した「扶氏経験遺訓」や、日本で始めての病理学書「病学通論」など多数の著書を残しています。
また、優れた教育者であった洪庵のもとには、日本全国から千人もの塾生が集まり、時には佐賀、土佐などから藩主の命令によって入門する者もいたと言われます。
建物は、建坪が90坪の木造二階建てで、洪庵は弘化2年(1845)にこの家を買い取ったのですが、建てられたのは寛政4年(1792)に大阪で大火があった直後であるとのことです。
現在の建物はさらに昭和51〜55年の解体修理により、洪庵が住んでいた頃の姿に復元されており適塾が開かれていた当時の様子を感じ取れそうな雰囲気です。
受付を済ませて休憩室の障子を開け、中庭を見ながら応接間を通って客座敷に入ると、庭(前栽)のほうから涼しい風が入ってきました。
ここは隣の家族部屋へと続く見学の順路なのですが、他に誰もいなかったので、畳の上につい腰を下ろして休んでしまいました。床の間の横にテレビが置いてあったので、映像による案内も時には上映されるのでしょうか。
洪庵が買い取った時には既に築50年ほどの建物でしたが、そのうち横になって眠ってしまいそうになるほど、200年たった今でも快適に過ごせそうな建物です。

二階
上がるというよりはよじ登るというような階段の先には塾生達が寝泊りした部屋(塾生大部屋)もあります。
もちろんここでのんびりすごしていたわけではないようで、一人あたり畳一枚分の範囲が割り当てられ昼も夜もなく勉強を続けたとのことです。
適塾では蘭書(オランダの書物)を読むのが第一の勉強であり、当然それにはオランダ語の辞書が必要になるわけですが、長崎の出島にいたオランダ商館長ヅーフが記した、「ヅーフ辞書」と呼ばれる蘭和辞書がたった一冊だけ適塾にあったのを大勢の塾生で奪い合って勉強をしていたそうです。この「ヅーフ辞書」は、「ヅーフ部屋」と呼ばれる部屋に今も展示されています。
また、塾生はオランダ語の書物を翻訳するアルバイトをすることで収入を得ることもあったらしく、1ページあたり10文ほどになったと説明文にあります。

また、適塾の塾生であり赤十字社の初代総裁となった佐野常民の記念館も現在、佐賀県川副町に開館しています。
適塾跡の建物のとなりには「公開空地」と呼ばれる公園があり、ベンチも備えられています。
適塾の建築を保護するために周りのビルを撤去した、と聞いていましたがこの公園がその場所でしょうか。さらにここから南へ歩いて5分もかからない場所に、洪庵が天然痘予防のために嘉永2年(1849)開設した「除痘館」の跡があります。
明治初年に適塾は閉鎖となりましたが、それから3年後の明治3年に大福寺が設立した医学校での教育に門弟達が参加しており、この医学校が現在の大阪大学医学部となります。
今回、地図ではただ一点で表示されているだけの史跡を訪ねて行ったのですが、ひととおり見て回って再び建物の前に出ると、適塾跡の二階建ての木造建築は見上げるような高層ビルの中に有りながら、そんなものよりはるか高みに聳え立っている、そんな気さえします。
国指定史跡(昭和16年指定)
開館時間:AM10:00〜16:00 月曜日休館日(ただし祝祭日である場合は開館し、翌日休館)
参観料:一般250円
学生:130円
生徒:無料
掲載内容の一部は適塾案内の冊子からの引用によります。
↓ブログランキングに参加しています












