入鹿の話。2

2017-04-20 04:37:34 | 歴史雑談
蘇我入鹿や彼に纏わるあれこれについて、思うままに述べているだけで、特に考察とかはない雑談。(しかも、数日に分けてちょびちょび書いてたから、ごっつ長い)
いつも通り浅い知識と個人の意見という名の偏見だらけだけど、お時間がある人で興味ある人は良かったら、暇潰し程度には多分なると思うので、どうぞ。

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壬生部(乳部)というのは、後継者として有力な皇子に特別に朝廷から与えられた軍事や労働を担う人達のこと。古代において、人=労働力を多く持つことは財産だった。
壬生部という言葉が記録に最初に出てくるのは仁徳天皇の時代で、「太子の伊邪本和氣命の御名代として壬生部を定めた」という一文がある。このことからも、壬生部というのは太子(皇太子)のための部民だと分かる。そして、次に壬生部が出てくるのが、推古天皇の時代。「壬生部を定める」とある。
推古天皇の時代にはまだ、皇太子という制度(名称)はなかったとされるけど(天皇という名称もまだなかったのではないかとされる)便宜上皇太子と呼ぶとして、推古天皇の皇太子として当然に考えられていたのが聖徳太子であったことは間違えないし、実際、その当時上宮王家しか壬生部を所有していなかったとされるから、諸皇子の中でも聖徳太子のみに与えられていたものと考えていいだろう。
ちなみに、上宮王家と聞くと、なんだか格別に位が高い王家のことかと思ってしまうけども、実際は聖徳太子が幼少の頃住んでいた宮が「上宮」と呼ばれていて、それで聖徳太子を「上宮王」と呼ぶようになり、その呼称に因んで聖徳太子の家族のことも、上宮王家(上宮王=聖徳太子の家のもの)と呼んでいたというだけに過ぎない。
山背大兄王は聖徳太子の長男とされているから、太子の後に上宮王家の長となって財産を引き継ぐ立場であるには違いないけど、壬生部は本来皇太子に与えられるものであり、推古天皇の時代の壬生部は、皇太子である聖徳太子に与えられたものだ。その息子は関係ない。普通に考えれば、聖徳太子が薨去された時に、天皇ひいては朝廷に壬生部の所有の権利をお返しするのが道理だろう。
しかしながら、山背大兄王は朝廷に壬生部を返すことなく、私物化している。
まあ、聖徳太子の人望や名声が高かったことから、その子供も特別視されていたことは想像に易いし、聖徳太子の薨去後、壬生部をそのまま自分のものとして所有し続けても、誰も意は唱えなかっただろうとは思うけども。それに、山背大兄王自身が、自分こそが次の天皇だと思っていた節があるから、壬生部の継続所有を当然のように考えていたことも想像できる。
だけど、彼は推古天皇の後継者に選ばれなかった。更には舒明天皇の崩御後も、またもや彼は後継者に選ばれなかった。本当に山背大兄王が父親の徳を受け継いでいるような人物であったなら、一度目の時に壬生部を朝廷に返すのではないだろうか。だけど、二度目のその後も、壬生部は上宮王家が所有したままだ。実際、642年に山背大兄王の后(聖徳太子の娘でもある)が、「蘇我蝦夷が自分達の墓の造営に乳部の民を使役している」と嘆いたという記述が日本書紀にある。
642年といえば、半島でクーデターが勃発していた頃だ。そこが更に、私の疑心を刺激する。

余談だけど、この頃の国外情勢のことも踏まえて考えると、この蝦夷親子の墓の造営というのは、軍事的な意味合いを持っていたのではないだろうか。
蘇我氏は方墳を造る権利を特別に許されていたとされるし、こんなこと言ったら不敬なのかもだけど、方墳などの墳墓はその形からして、戦時になれば充分要塞や砦として使える(実際古代の墳墓は、墓目的ではなく要塞目的で作られていたという説もある)。
国外情勢に敏い立場にあった蘇我氏なら、あの時期に防衛対策に力を入れるのは自然なことだと思うし、実際、蘇我氏は大陵と小陵を造ったとされる二年後には、兵舎や武器庫を完備した邸を建てている。また、蘇我氏が畝傍山に要塞を造ったという記述もある。
造られた場所や規模がはっきりと分からないので何とも言えないけど、もし、小山田古墳菖蒲池古墳がそれに値するのだとしたら、蘇我氏の墓造営は外敵から天皇を守るための要塞目的だったと解釈しても、あながちトンデモな空想話じゃないと思う。

山背大兄王も王族の一人なのだから、緊迫する国外情勢を知らなかったわけではあるまい。
当時、人=労働力の確保は、その土地土地を所有する豪族頼みで、天皇にしても何かするときには豪族に頼るしかないところが多かった。だから、豪族が力を持っていたのだ。
壬生部が実際にどれほどの人数だったかは分からないけども、聖徳太子に与えられたものだから、恐らく結構な頭数を有するものだったはず。山背大兄王が本当に立派な人物だったなら、そんな時勢だからこそ国を思って、壬生部から得ることが出来る労働力=財産を天皇のために、一旦形だけでも朝廷に返す素振りがあっても良かろうにと思ってしまうのだ。
そんな時勢だからこそ、財産を手放したくないという気持ちは、私も人の子だから分かる。だけども、彼は、亡くなった時に天女が舞ったという伝説を持つような聖人君子だというではないか。そういう人物であったなら、尚の事、私より公を大事にするはずではないだろうか。というか、そういう人物であったなら、そもそも皇位を再三欲しがったりもしないだろうとも思うけど。
聖人君子のような人物であったかどうかは横においてもだ。
山背大兄王は、聖徳太子の子だ。聖徳太子といえば、律令による中央集権国家作りに人生を捧げた人だ。少なくとも歴史の教科書などではそうなっている。
私は、個人的には聖徳太子も、国の基礎を作り上げようとした(または作った)その功績は立派だし偉人だとは思うけど、数々の逸話に残っているような、やましいところの一つもない尊い聖人であったとは思っていない。たとえば、馬子の指図によるものと書紀ではされている崇峻天皇の暗殺にしても、太子も絡んでいると思っている。無論、計画に加わっていたのは太子だけじゃないだろうけど。
話が少し逸れたけど、聖徳太子だって恐らく陰で色んな苦労を背負っていたに違いないと思うのだ。それでも、太子や馬子が作ろうとしていた中央集権国家。それは公地公民と切り離せないものだ。
中央で天皇が力を持つには一度、土着の豪族から土地やそこに住む人々、つまり財産を一旦没収して、すべて国のものにしなくてはいけない。没収される側からみれば嫌がる人が出てくるのも当然で、だから、なかなか改革は進まなかった。だけど、当時の「近代国家」に近づくには、自国を律令による中央集権国家にするしかないと考えたからこそ、聖徳太子はその実現のために私でなく公に生きて、結果、偉人となったのだろう。
山背大兄王はそういう人の子供だったわけで、父親の姿を見て育ってきたのならば、また、たとえ父子でなかったとしても、「天皇をトップとする中央集権の国を作る」というテーマを掲げた王家の一員であるのだから、豪族達への手本として、形だけでも公地公民に則って財産を一旦天皇に渡すという、中央集権国家のあり方に協力すべきだろう。

やっぱりどう考えても、私には山背大兄王は父親に比肩するような立派な人物であったようには思えない。
勝手な憶測だけど、山背大兄王には、特権階級に生まれた者特有の驕りがあったのではないだろうか。そう考えれば、推古天皇が「一人であれこれ言わずに、必ず群臣の意見に背かないこと」と言い残したその意味も分かるし、人望がないのも頷ける。
ヤマトの国は豪族の寄せ集めから出来た国。大王はその首長であって、いうなれば豪族の代表。自分達の代表に、父親の名や位に驕り高ぶり、選民思考的な高慢さを持った者を選びたくないというのは、当然の感情だろう。
仮に、その後ろ盾に蘇我氏がついたとしても、当時はまだ公地公民が進んでいないから、他氏の豪族にしたって地方においては充分力を持っている。遠く後の世の藤原氏の時代のように、後ろ盾の権力だけで天皇が決まる時代とこの頃を同じに考えてはいけない。世の在り方というか、仕組みが根本的に違うのだ。
蘇我氏の力は強大だったとされるけど、その力は大王あってのことだし、豪族の反感を喰らうような大王を選んで反蘇我勢力に一致団結されたら、一番困るのは蘇我氏だ。
推古天皇の時も舒明天皇の時も、山背大兄王が皇太子に選ばれなかったのは、けして蘇我氏の一存ではなかっただろうと私は思う。

なんだか、山背大兄王の話ばかりになってしまったけど、入鹿が関わったとされる上宮王家滅亡事件に焦点を戻そう。
日本書紀によると、蝦夷は、推古天皇の後は舒明天皇を擁立し、舒明天皇の後は皇極天皇を擁立した。そして、蝦夷から大臣を譲り受けた入鹿は、皇極天皇の後継者として、山背大兄王ではなく、古人大兄皇子を望んでいたという。
この経緯から、皇位を望む山背大兄王と、それを望まない蘇我氏の仲は決定的に悪化したらしい。
入鹿が何故、山背大兄王を擁立しなかったか、その理由は明らかにされていない。一説によると、古人大兄皇子が大人しくて傀儡として扱いやすかった、また一説によると、山背大兄王は蘇我氏の専横を嫌っており、天皇主権の政治を取り戻したく思っていたことから、蘇我氏には都合が悪かったなどとされるけども、推古天皇崩御後の後継者争いの際、他の豪族も山背大兄を支持していなかったことや、山背大兄王襲撃事件に軽皇子をはじめとする諸皇族が関わっていたとするなら、この時も(皇極天皇の後継者選びの時)、山背大兄王を後継者に望む声はあまりなかったんじゃないかと思われる。
もしそうであるのなら、皇位を再三主張する山背大兄王の存在は、国内の和を乱すことに繋がる。
彼がどういう人柄の人物だったか、その真相は分からないけども、父親の聖徳太子の名声は響き渡っていただろうから、父親の名前を掲げて旗揚げをすれば、地方の豪族など彼につくものもいただろう。ただでさえ国外情勢が不安定な時に、内乱が起こりそれが元で国の勢力がバラバラになってしまったら、折角基盤を作り上げようとしていた中央集権国家の夢は崩れ、群雄割拠(といっていいか分からないけども)の昔に戻り、下手したら他所のどこかの国に乗っ取られる地域も出てくるかもしれない。
そんな不安と恐れが、入鹿含め裏と表で事件に関わった人すべての胸にあり、山背大兄王襲撃事件=上宮王家滅亡に繋がったのではないだろうか。無論、それだけが理由ではなく、それぞれの利のためでもあっただろうけども。

しかしながら、この上宮王家滅亡事件はどうにも真実味が薄い。必要以上に入鹿を悪人に仕立てるためか脚色されすぎて、作られたお話っぽくなってしまっている。人というのは誰かを騙そうとするとき、よほど嘘が上手な人じゃないと、どうしても芝居がかってしまうものだけど、この話もまたそういうふうに見えてしまうほどには脚色されていると思う。
書紀に記されていることのあらましをなぞると、
643年11月、上宮王家の王達の名が天下に響くことを疎んだ蘇我臣入鹿が、一人臣下としての分をこえて、巨勢徳太臣、土師娑婆連らに命じて兵士たちに斑鳩宮(山背大兄王の住まい)を襲撃させた。
これに対し山背大兄王側は、舎人数十名で必死に防戦し、土師娑婆連を弓で撃ち殺したが、持ちこたえることは出来ず、馬の骨を寝殿に残し、后や子を連れて宮を脱出、生駒山に逃亡した。
一方、巨勢徳太臣は宮に火を放った。そして、焼け落ちた宮の灰の中から馬の骨を発見し、山背大兄王は焼け死んだと思い、兵を退けた。
死んだと思われたことで、山背大兄王は生駒山に逃げられたが、飲むものにも食べるものにも窮した。共に脱出し難を逃れた三輪文屋君は「馬で東国に逃げてください。そこで再起を図り、壬生部の兵を連れ戻ってこられれば必ず勝利しましょう」と進言したが、山背大兄王は「お前が言うように戦えば必ず勝つだろう。しかし、私は十年の間、百姓は使役しないでいようと思う。私一人のために多くの百姓を苦しめることも、また後の世で私のために父母を奪われたと語り継がれることもしたくない。戦いに勝つだけが立派な男ではない。身を損じて国を固めることも立派な男ではないか」と言って、進言を退けた。
山背大兄王が山中に隠れていることを聞き、入鹿は高向国押に山背大兄王を逮捕するように命じたが、高向国押は天皇を守ることが仕事だと言ってこれを断り、皇極天皇の宮の警護にあたった。
そこで入鹿は自ら兵を連れて山を捜索させようとしたが、駆けつけた古人大兄皇子に止められ、屋敷に戻った。
その頃、山背大兄王は山を降り、斑鳩寺(斑鳩宮の隣にあったとされる寺)に移っていた。巨勢徳太臣は直ちに斑鳩寺を包囲させた。
包囲されたことを知った山背大兄王は、従う兵士らに向かって「ここで兵を挙げ入鹿を討てば必ず勝てる。しかし私一人の都合で人々を殺したくない。この身一つをば入鹿にくれてやろう」と言い、后や子供たち含め一族全員揃って、首をくくってお亡くなりになられた。
このとき、空に五色の幡蓋(高貴な人にさしかける絹傘。よく中国の昔の美人絵で美人の後ろの侍女が持ってるあの傘のことだと思われる)がたなびき、伎楽が舞われ、斑鳩寺一帯が光り輝いた。人々は仰ぎ見て驚き、入鹿にも見せようとしたが、入鹿が見上げると幡蓋はたちまちに黒い雲へと変化してしまったという………
以上。
これが、山背大兄王及び上宮王家滅亡事件のあらましとなる。

亡くなられた時に空に天女が舞った(幡蓋と伎楽が云云かんぬんというのは天女が現れたという比喩)というのは、九割がた後付けの装飾だろうから横に置くとして。
馬と人間では骨の大きさも骨格もまるで違うのに、普通見間違うか?と首を捻ってしまうし、山背大兄王のセリフが芝居がかっていて作り物っぽいのは百歩譲って仕方なしとしても(それでも、私一人の都合で人を殺したくないというなら一族全員道連れにすんなよって感じだけど)、一族全員が一同に揃って死んだっていうのに相当な無理がある。と、個人的には思う。
そもそも一体どうやって、一時に斑鳩寺に一族が結集したのだろうか。
斑鳩宮から共に逃げていた山背兄王の妻子はともかくとして、聖徳太子の同母兄弟から山背大兄王の同母並びに異母兄弟達、それぞれの子供達などが全員、襲撃の時に斑鳩宮に揃っていたとは考えられない。
最初の襲撃は不意打ちの行動なのだから、恐らく夜だったはずだ。私は漢文がちと苦手なので原文をきちんと読みほぐせていないけど、多分、月のない夜に行われた犯行だろう。当時は通い婚(平安時代の通い婚とはまたちょっと違う)で、山背大兄王は書記によると妻は后一人となっているから別にしても、他の兄弟みんながそうだったわけじゃないだろう。王家の人間ともなれば、自分の宮の近くに后や妃の宮をそれぞれ建てて、そこにそれぞれを住まわせていただろうけども、后と妃とその子達全員が同じ宮に住んでいることなんてまず考えられないから、妻と子達はそれぞれ自分の宮にいたはずだ。
それに、山背大兄王が生駒山に潜伏していた期間は諸説あって10日前後から45日前後とされている。その間、身の危険を感じて都から離れて身を潜めていた人達もいたはずだ。自分は何かの都合で逃げられなくても、我が子だけでも助かれと思って、遠い地の親戚を頼みに、子供を信頼できる臣下に託して逃がした人だっていただろう。
そういう人達とどうやって連絡を取ったというのだろう。携帯電話でも持っていたのだろうか。それとも、全員が全員で潔く死を覚悟して、斑鳩寺でじっと待っていたとでもいうのだろうか。とても信じられない。
でも実際、その後、上宮王家の生き残りや末裔を名乗る人物は一切世に出てきていない。入鹿が生きている間は隠れている必要があったかもしれないけど、入鹿はこの二年後に死んでいる。その後にも、一人として上宮王家の血筋を語る人間は歴史に出てきていないのだ。

そして不思議なことは、王家の人間がいっぺんに二十数名亡くなったというのに、そのお墓のことがどこにも記されていないことだ。
一応伝承によると、岡の原という小山が山背大兄王の王墓ではないかと言われていたけど、ここから見つかった埴輪片が4~5世紀のもので、時代が合わないことが分かり、現在ではお墓は不祥ということになっている。山背大兄王だけじゃない。共に命を落としたとされる一族の誰もお墓については語られていない。これはいかがなものだろうか。
入鹿の命令でお墓を作れなかったのではという説を一度見たことがあるけど、それはないだろうと思う。それなら、入鹿の極悪非道ぶりを伝えるために書記にそう記されているはずだ。それに、本当に山背大兄王や上宮王家の人達が実在していて周囲に愛されていたなら、入鹿亡き後に、山背大兄王達の霊を慰めるために王墓なり何なりを造るはずではないだろうか。まあ、入鹿亡き後はやれ遷都だやれ戦だと忙しかったから、そんな暇も労力もなかったのかもしれないけども。
不思議というか、不審な点はまだある。馬子による穴穂部皇子殺しにこの話がどことなく似通っていて、そして、穴穂部皇子と山背大兄王もよく似ていることから、穴穂部皇子殺しを皇子側を正義にしてドラマチックに脚色したような話にも思えることだ。
似ている点は、
・穴穂部王子も山背大兄王も母が蘇我氏の娘であるところ
・穴穂部王子も山背大兄王も皇位を再三欲しがったところ
・穴穂部皇子も山背大兄王も蘇我本宗家に擁立されず、それを不服としたところ
・二人とも同異母の姉妹を妻に欲した、または妻にしているところ(穴穂部皇子は推古天皇に恋慕し、山背大兄王は舂米女王を后にしている※1)
・二人とも当時の大臣であった蘇我氏(穴穂部皇子は馬子、山背大兄王は入鹿)の命令で住居の宮を囲まれ、そこから一時的に逃亡するも結局居場所を知られて死に至ったところ

(※1:この頃は兄弟姉妹であっても母が違えば結婚出来たし、普通のことだった。ただし、穴穂部皇子の場合は無理やりなので論外。)
違うのは、
・穴穂部皇子は、旦那さんの喪に服している異母姉をその旦那さんの遺体の傍で犯そうとしたかなりアレな感じの人で、山背大兄王は自分のために人が死ぬのは嫌だと言って自ら命を絶った聖人だとされているところ
・穴穂部皇子の場合は一緒に宅部皇子が殺されたけど、山背大兄王の場合は一族みんなが亡くなったところ
・穴穂部皇子の時は馬子が推古天皇を奉じて事を起こしたとされているけど、山背大兄王の時は、入鹿が独断で事を起こしたとされているところ

なんだか、ん?と思ってしまう。歴史は繰り返すというし、ただの考えすぎなのかもしれないけども、なんとなく、入鹿ひいては蘇我本宗家を滅ぼしたことへの言い訳づくりの話みたいに感じて、腑に落ちない。

また、入鹿はこの事件の頃、最高権力者として君臨し、盗賊さえ道に落ちているものすら拾わなくなったという治世を敷いていたとされる。
『大臣の児入鹿、更の名は鞍作。自ら国の政を執りて、威父より勝れり。是に由りて、盜賊恐懾げて、路に遺拾らず。』
書紀のこの記述もまた曖昧で、一方では入鹿が父親にも勝る独裁主義者で恐怖政治をしたというふうに取れるし、また一方では、父親にも勝る政治家で治安がよくなったというふうにも取れる。
藤氏家伝では、入鹿が恐怖政治をしていたことを強調するように、山背大兄王襲撃事件の時、計画に加わった人達は入鹿を恐れて仕方なく従ったみたいな書き方をしているけども、実際事件の最中に、高向国押(蘇我氏配下の役人)が入鹿の命令を堂々と断っている。入鹿は諸皇子や有力豪族達が逆らえないほど恐ろしい人であるはずなのに、一介の役人がその命令をよく断れたものだなと思うし、断ったためにその場で斬り捨てられたとかいうなら入鹿が恐怖政治をしていたっていうのもまだ分かるけど、高向国押は入鹿が中大兄皇子らによって殺害された後、中大兄皇子らと対立し徹底抗戦の構えを見せたというし(義に篤い人だった模様。結局説き伏せられて改心した)、またその後の孝徳天皇の御世には刑部尚書に就いたともされているから、その時代まで生きていたことになる。はたして入鹿は本当に、後漢末期の董卓に例えられるような恐怖政治をしていたのだろうか。疑問が残る。
更なる疑問は、歴史研究者の方々が入鹿は陰の首謀者に利用されただけなのではと疑問を持つポイントのひとつだけども、この事件の時の古人大兄皇子の言動だ。
古人大兄皇子は、生駒山に捜索に向かう入鹿を止めるべく「鼠は穴に隠れて生き、穴を失って死ぬ」と言い、この言葉で入鹿は思いとどまり、屋敷に戻ったとされる。早い話、動き回らなければ死なずに済むと、古人大兄皇子は入鹿に言っているのだ。
この時、既に入鹿は大臣になっていて、皇極天皇の寵臣だったとされている。諸皇子が恐ろしさで言いなりになるほどの権力を持ち、その絶対的な権力を武器に「独り諮りて」上宮王家を襲うという大胆不敵な行動に踏み切ったとされるほどなのに、この時誰が入鹿を殺せるというのか。何を危惧して入鹿は屋敷に戻ったのか。入鹿の上にこの時、入鹿を駒のように使おうとしていた誰かがいたように思えてならない。
それに、書紀通り入鹿が首謀者だったとしたら、入鹿は古人大兄皇子を擁立するために山背大兄王の殺害を企てたはずなのに、古人大兄皇子の存在が蚊帳の外過ぎる。やっぱり、この話はどこかおかしいと思ってしまう。

ここで、この襲撃事件の計画に関わっていたとされる人物で名前が挙げられている人をおさらいすると、軽皇子(孝徳天皇)、巨勢徳太臣(後に左大臣)、大伴馬甘連(後に右大臣)、中臣塩屋連枚夫(誰だか不明)、蘇我蝦夷臣、蘇我入鹿大臣となる。
事件の時現場にいて直接指揮を執っている巨勢徳太臣が大化の改新後に左大臣になっていることや、大伴馬甘連が同じく後に右大臣になっていることは後で書くとして、この中臣塩屋連が誰のことなのかはっきり分かれば面白いのだけど、やっぱり分からない。
しかしながら、中臣の名前で思い出すのは、この場合、どうしても中臣鎌足だろう。
おまけにこの事件の翌年の644年、突然、鎌足は日本書紀に名前が出てくる。それもそれまでなかった『神祇伯』という職名で。
先にも書いたけど、鎌足は、代々忌部氏らなどと共に祭祀職を司ってきた中臣氏本家の人間ではない。それなのにいきなり出てきて、いきなり神祇伯という神官の長官みたいな役職に任命されているのだ。お前何かしただろ?と、ついゲスな想像をしてしまうのは私だけではないだろう。
ちなみに、この時の最高権力者は入鹿だとされているから、この任命をしたのも入鹿ということになる。
何故いきなり入鹿は、新しい役職まで作ってこんな異例の抜擢をしたのだろうか。同じ学堂で学んで鎌足が秀才だったことを知っていたからという説もあるけど、専横大好きで恐怖政治をした(とされている)ような人が、当たり前の政治家のように有能な人を有能だからというまともな理由で高いポストに就けるだろうか。
ここにも何か、入鹿以外の何らかの思惑が働いていたような気がしてならない。

一方で、鎌足はこの時、この任命を断ったとされている。返す返すも、恐怖政治をしていたとされる入鹿の任命を断ってよく無事でいられたものだと思うけども、注目したいのはその後の鎌足の行動。
書紀によれば、
『再三に固辞びて就らず。病を称して退でて三嶋に居り。時に軽皇子、患脚して朝えず。中臣鎌子連(鎌足のこと。元は鎌子と名乗っていた)、曾より軽皇子に善し。故彼の宮に詣でて、侍宿らむとす。軽皇子、深く中臣鎌子連の意気の高く逸れて容止犯れ難きことを識りて、乃ち寵妃阿部氏を使ひたまひて、別殿を浄め掃へて、新しき蓐を高く鋪きて、具に給がずといふこと靡からしめたまふ。敬び重めたまふこと特に異なり。中臣鎌子連、便ち遇まるるに感けて、舍人に語りて曰はく、「殊に恩沢を奉ること、前より望ひし所に過ぎたり。誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」といふ。』
また、藤氏家伝によると
『大臣(鎌足のこと)、曾て、軽皇子に善くし、ゆえに、彼の宮に詣でて、侍宿し、相与に言談し、終夜疲れを忘る。』
といった蜜月ぶりなのだ。
ちなみに「曾より」「曾て」というのは「以前から」という意味。そして「善し」「善くして」というのは、親しいとか親密という意味。つまり、644年(上宮王家滅亡事件)の前から、鎌足と軽皇子は親交があったということになる。
ちなみに、軽皇子は書紀によれば、儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅(御言葉、命令)を下したとされるけど、上の記述を読む限りでは、軽皇子はどう考えても、鎌足に女性をあてがっている。しかも自分の寵妃を。いくら軽皇子が貴賤に拘らない気立てのいい人物だったとしても、普通ではちょっと考えられない親しさだ。
鎌足は秀才の誉高く、かつては軽皇子の政治顧問をしていたともされるけども、ただの臣相手に(鎌足の出身家は勿論、中臣本家も特にお金持ちでも権力の強いわけでもない。後ろ盾として中臣氏がいてくれたら嬉しいけど、いなくても別段窮することもない程度)、何故そこまでする必要があったのか。
軽皇子は、山背大兄皇子襲撃=上宮王家滅亡事件に関わっていたとして名前が記されている人物で、しかも、入鹿殺害事件の乙巳の変でも、関与が疑われている人物だ。そして乙巳の変の後、軽皇子が天皇に即位している。
なんだかやっぱり、ここらへん(鎌足と軽皇子の関係)に、きな臭さを感じてしまう。
しかしながら、鎌足はさすが秀才とでもいうか、この蜜月のような仲の良さの頃、既に軽皇子の器を見限っていることが藤氏家伝には記されている。
『然れども、皇子(軽皇子のこと)の器量、ともに大事を謀るに足らず。更に君を択ばんと欲し、王宗を歴見するに、唯中大兄のみ雄略英徹にして、ともに乱を撥るべし』
中大兄皇子は皇極天皇の子で、軽皇子の甥。この時若干19歳前後。入鹿とも親交が浅くはなかった。
年若く健康で、絶妙な立場にいる中大兄皇子に、鎌足は何を見たというのか。中大兄皇子スキーとしては、鎌足に一度聞いてみたい。

それはともかく。
真相は私ごときには分からないけども、事の前後を見ていくと、山背大兄王の襲撃は、古人大兄皇子を後継者にするために入鹿によって計画された事件じゃなく、本当は、山背大兄王によるクーデターを防ぐという名目の元、軽皇子を後継者にするために軽皇子達の側近たちによって計画されたことで、入鹿は軽皇子の後に古人大兄皇子を皇位に就けようという算段でこの謀に参加して、結果的に、利用されて殺されたのではないだろうかと思えてくる。
軽皇子は皇極天皇の同母弟で、蘇我氏とは血縁ではないけども、蘇我氏は自分達と血縁のない天皇を擁立することもままあった。実際、舒明天皇も皇極天皇も、蘇我氏に擁立されて天皇になったけど、蘇我氏とは血縁がない。
そして、入鹿は皇極天皇の寵臣だった。愛人関係ではないかと疑われるほどの。本当に男女の関係があったかどうかは知らないけども、そういう噂が経つほど重用されていたのだろうから、皇極天皇に頼まれる形で入鹿が軽皇子を後継者として認めていたとしてもおかしな話じゃない。
それに軽皇子は既に50歳近く。しかも記録から見るに病がちな人(実際、即位から9年で病により崩御している)。古人大兄皇子は生年が分からないのでこの時何歳だったのか謎だけど、一旦軽皇子に即位させて、彼が病で崩御するのを待ってから古人大兄皇子を即位させても、この頃35歳前後だったろう入鹿的には充分間に合う算段だったのかもしれない。

だけどその算段は、入鹿にとっては恐らく予想外だったろう中大兄皇子の剣によって、すべて消え去った。
その横には当然ながら、鎌足がいた。これもまた、入鹿には予想外のことだっただろうか。それとも、いつか鎌足が台頭してくることは予見していただろうか。
645年、乙巳の変。
天皇の御子が天皇の目の前でその寵臣を殺すという、日本史上最も大胆でド派手なクーデターによって入鹿は殺害された。
この時、入鹿が最後に皇極天王に向かって叫んだ言葉として伝えられているのが、「臣罪を知らず。乞ふ、垂審察へ」。
口語訳すると、「私に何の罪があるというのです。どうか、詳しくお調べください」ということだ。
もし、この言葉が真実だったとしたら、入鹿はさぞかし悔しかっただろうと思う。

(→→)
まだ続く。
ここまで読んでくれた人がいたらありがとう。
最近(?)文章をまとめられなくて、分かりにくい文章しか書けなくてごめんね。
また今度までばいばいきん。

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Unknown (リリィ)
2017-04-27 09:01:38
蘇我氏の私兵は東漢氏で、物部氏の武力に対抗するために渡来系氏族を重用して武力を確保していました。
天武天皇が東漢氏の犯した七つの不可に言及し、大恩を持って大罪を許しているんですよね。
七つの不可のうち一つは、蘇我馬子に命じられたとされる東漢駒による崇峻天皇の一件でしょう。
東漢氏は祟峻天皇の一件の後も蘇我氏から離れず私兵をしていて、乙巳の変でも蘇我蝦夷の邸宅を最後まで守衛していたのは東漢氏です。
それだけダーティな仕事を受けおっても、東漢氏にとって蘇我氏との関係は渡来系氏族の興隆に渡りに船だったのでしょう。
ところが蝦夷の邸宅を守衛していた中大兄皇子から使わされた巨瀬臣徳太の説得で、何故か武装を解除してるんですよね。
これで最後の守りがなくなった蝦夷が自害して、壬申の乱ではとうとう蘇我氏から離れています。
そして天武天皇から七つの不可を読み上げられたにもかかわらず、壬申の乱では天武方についたというだけで許される。
さらに東漢氏の嫡流は坂上氏となって桓武天皇に重用され、坂上田村麻呂が渡来系氏族では異例の大納言にまで昇進するという。
中大兄皇子から使わされた巨瀬臣徳太が東漢氏をどのような説得をして蘇我氏から離れさせたのか、この辺りがすごく気になります。
Unknown (のん)
2017-04-27 15:54:29
おお、さすがリリィさん、お詳しいですな!
東漢氏と蘇我氏の関係は乙巳の変までは、まさに渡りに船だったんでしょうね。
乙巳の変の後の巨瀬臣徳太の説得は書紀によれば、君と臣のあり方を諭したみたいな感じだけど、恐らくそれだけじゃないですよね~。
中大兄皇子側には頭のいい鎌足がブレインとしてついてるわけだから、東漢氏やその郎党にとって、蘇我氏に代わるような何かうまい餌的なもの(得にはならなくても、けして損にはならないもの)を用意したんじゃなかろうかと穿った見方をしてしまうのは、私が汚れているせいかしら(´・ω・`)
でも、蝦夷が抗戦にあまり積極的でなかったことが集まった彼らの意気を下げ、更にそこに何か損にはならない条件が用意された……とすると、人間の心理的には
東漢氏が離れていった気持ちも理解できる気がします。
あと、このとき、秦氏が陰でどう関係していたのかも、私気になります。
以前読んだ本では(題名も作者も忘れてしまったんですけど(;´Д`))、乙巳の変の時も壬申の乱の時も秦氏が暗躍していた(糸を引いていた)みたいな説が挙げられていて、ほえーと思ったんですけど、その本がどれだか分からず……orz
とりあえず私は、本棚を綺麗にすることから、はじめないといけないようです(-_-;)
Unknown (リリィ)
2017-04-27 20:51:20
秦氏は謎が多いですからね、関連書籍を追うのも大変です。
東漢氏は飛鳥近くの檜前里を拠点に実質的な蘇我氏の臣下として飛鳥寺造営など立ち回りますが、壬申の乱の頃には飛鳥を離れていたようで、坂上里を本拠地としています。
平城宮や不比等の屋敷が建つあたりが坂上里と批准されていて、どうやら平城京の造営に関連して東漢氏は立ち退いているようです。
技術は利用されるものの、蘇我氏と違って藤原氏からは重用されなかったのが東漢氏となります。
一方で平城京遷都と東漢氏のように、平安京遷都と秦氏が起こりますが、中央に根付いた東漢氏とは違って地方に根付いた秦氏が表に出てきます。
平城京の東漢氏の痕跡ってほとんど確認されないのに対して、平安京には秦氏の痕跡がたくさん確認されています。
秦氏には詳しくないのですが、そんなに痕跡が残るかなと考えればもっと前段階で藤原氏の近いところに秦氏が取り込まれていたのではと思ってしまいます。
蘇我氏の家臣的な役割を果たした東漢氏を藤原氏は信用していなかったが、渡来系氏族の技術は政治的に必要だった、そこで秦氏に目をつけた……みたいな。

ちなみに私は坂上田村麻呂黒人説をモチーフにした小説が明日発売されるのでテンションが上がっています。
しばらくは眠れない夜が続きそうですが、古代史がもっと盛り上がるといいなと思ってます。
Unknown (のん)
2017-04-28 14:06:38
リリィさん、今頃新書を手に、わくわくと読み解いている頃でしょうか(*´ω`*)
坂上田村麻呂の金の髭(付け髭)の話を初めて聞いたときは、田村麻呂さんロシア人だったんか!?と一人勝手な思い違いをしたりもしたけど、黒人説もあるんですね、あの方はw

秦氏は、結構早い段階から裏で藤原氏と結びついていたのではないかと私も思います。渡来系氏族の知恵や技術力は、国づくりには欠かせないものであると同時に、一族を肥えさせることにも繋がることを蘇我氏が実証済みだし、頭のいい人なら自分の勢力にも取り込もうと動くはずだもの。

記事の入鹿の話を書いてしまおうと思いつつ、なかなか文章がまとまらず、もたもたしてますが、私も古代史好きです(*´▽`*)
もっと盛り上がって、古代史の考察ドキュメンタリー系の番組とかが沢山放送されたらいいのになあってよく思います。
古代のことはドラマにするとあまり視聴率取れないみたいだし、アニメにするとほぼファンタジー一色になってしまうし、それなら考察ドキュメンタリー系の番組(要潤さんがやってたタイムスクープハンターみたいなの)ならどうだろうって。
とはいえ、分からないことだらけだし、大体の場合大王が関わってくるから下手な脚本作れないし、結局視聴率取れないで打ち切りでしょうね……(´・ω・`)
ふふ、暗い話になってしまいましたw
どうか読書を楽しまれてくださいね!

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