入鹿の話。1

2017-04-17 20:04:26 | 歴史雑談
♪特別じゃない、英雄じゃない、みんなの上には空がある~♪
ということで、人物に焦点を当てた歴史雑談でもしようかなと思います。
先日も書いたけど、私は古代史が好きなので、古代史の中から特に好きな蘇我入鹿の話でも。
いつも通り浅い知識と個人の意見という名の偏見だらけだけど、多分暇つぶし程度にはなると思うから(多分)、お時間がある人で興味ある人は良かったら、どぞう。


蘇我入鹿は、蘇我蝦夷の長男とされている人物で、蘇我本宗家の嫡男(または長)。生年には諸説あるものの恐らく6世紀後半頃か、7世紀前半頃を生きたと思われる人。
学問堂にて僧の旻(小野妹子と一緒に隋に渡り24年間あちらで仏教や易学を学んだ人)に学び、藤氏家伝によると、学徒の中でも一番といわれた秀才だった。ちなみにこの学問堂には、中臣鎌足(藤原鎌足)も通っていて、彼もまた秀才だったといわれている。
入鹿は皇極天皇の御世(642年~645年)に父・蝦夷に代わり国政を担当し、大臣となったが、乙巳の変(645年)にて、中大兄皇子(天智天皇、38代)と鎌足らによって、「皇族を滅ぼし、取って代わろうとした」という罪状の元、討たれた。
日本書紀によると、入鹿は天皇の許しなく勝手に父親の蝦夷から大臣職を貰い受け、山背大兄王など上宮王家の一族を独断で自害に追いやった後は、実質的な最高権力者として君臨し、自分の子を王子と呼ばせ、自分の住まいを宮門(みかど。古くは王宮の門の意で御門と同義)と称し、皇室行事を独断で代行するなど数々の悪行を更に重ね、その治世には、彼を恐れて盗賊さえ誰も道に落ちているものすら拾わなくなったとされる。
ただし、これら日本書紀の内容は、政治的勝者の事情が強く反映されていると考えられるため、そのまま鵜呑みにすることは出来ないというのが現代の定説である。
実際、日本書紀はいかにも、入鹿並びに蘇我氏は専横が目立ち、自分達豪族から力を奪うことになる天皇を中心に据えた中央集権に反抗していたかのように見える書き方をしているものの、一方で、蘇我氏が屯倉(天皇の直轄地)の設置に積極的だった=中央集権に協力的だったと思われる記録があり、内容に矛盾が生じている。
加えて、入鹿の最大の悪事とされる上宮王家滅亡事件についても、書紀には「独り謀りて」と入鹿の単独犯のように書かれているが、藤氏家伝によれば、諸皇子らと共に諮って事を起こしたとされていて、また上宮聖徳太子伝補闕記では、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子(孝徳天皇、36代)、巨勢徳太、大伴馬甘、中臣塩屋(※1)の六人の犯行によるものとなっていて、はたして本当に「独り謀りて」だったのか、疑いの目を向けざるを得ない。
また、近年の発掘調査で明らかになったことでは、飛鳥甘樫丘にある入鹿の邸宅跡(谷の宮門)の敷地内から兵舎と武器庫の存在が確認され、並んで建てられていたとされる蝦夷の邸宅(上の宮門)の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置からも、蘇我氏は板蓋宮(皇極天皇の住まい)を取り囲むように防衛施設を置き、外敵(後で詳しく書くが当時は国際情勢が不安定な時で諸外国から攻め込まれるかもしれない不安があった)から天皇や都を守ろうとしていたのではないかという疑念の声も上がっている。もしこれが真実であるなら、日本書紀に記されている『王家を蔑ろにした逆賊』という蘇我氏の姿はどうにもおかしい。
こういった数々の矛盾や疑問点から、入鹿の殺害について現在では、政治的スケープゴートだったのではという説から、入鹿が皇極天皇の情夫でそれを嫌っていた中大兄皇子に鎌足が出世のために近づき殺害に至った説、入鹿が目指した律令制度や中央集権国家に一部の豪族や鎌足は反対だったため殺された説、入鹿が目指した等距離外交が鎌足には不利益だったから殺したという鎌足=豊璋(百済王子)説、そもそも入鹿と呼ばれた人物も山背大兄王もいないという厩戸皇子≠聖徳太子=蘇我善徳=入鹿(蔑称)説……などなど様々な説がある。

(※1)
巨勢徳太 … 大化の改新後、孝徳天皇朝で左大臣になっている。
大伴馬甘 … 大伴長徳(=大伴馬飼)。大化の改新後の孝徳天皇朝で右大臣になっている。
中臣塩屋 … 誰の事だか分からない。中臣常盤(中臣鎌子の孫かひ孫?)の母が塩屋牟漏連都夫羅古娘なので常盤のことかと思ったけど、生没年がはっきり分からないので、年代が合うか合わないか分からない。

ではまず、蘇我氏について。といっても、古代豪族の例にもれず謎だらけの一族だし、蘇我氏については沢山本も出ているので、気になる人はそれらを読んでみてくださいってことで、ここでは至極シンプルに一般に言われている通りの説明を。
蘇我氏は武内宿禰を始祖とする古い氏族で、姓(かばね)を臣とする古代の有力豪族。


臣の姓を名乗ることが許された氏族の中で最も有力な者は大臣(おおおみ)と呼ばれ、国政を預けられたとされており、日本書紀によると、蘇我氏は稲目の代から4代に渡り大臣を務めている。
また、古語拾遺によると、稲目の曾祖父にあたる蘇我麻智(そがのまち)が、雄略天皇の御世に、三蔵(朝廷への貢納物を納めた三つの蔵。斎蔵、内蔵、大蔵)を管理したとされ、このことから蘇我氏が5世紀後半には既に朝廷の財政を統括していたことが窺がえる。
臣の姓を持つ有力氏族が衰退していく中、蘇我氏がこうして台頭出来たのは、渡来人を祖とする氏族との関係が深く、渡来人の品部(特定の職能をもって朝廷に仕えた人々の集団)などが持つ当時の先進技術や知識を手中に収めることが出来たからであろうと考えられている。
実際、入鹿の呼称のひとつである「鞍作」というのも、入鹿ひいては蘇我氏が鞍作部(鞍具の製作にあたった集団。多くは百済からの渡来人だったとされる)を統括していた鞍作村主(村主は姓)と関係が深かったからだろう。
鞍作の一族は北河内(大阪府住吉区付近)に住んでいたとされる百済からの渡来人で、蘇我氏の本拠地も、諸説あるけど、河内の石川(大阪府の石川流域、南河内郡河南町あたり)ともいわれているし、敏達天皇の御世に、馬子の命で鞍作村主の司馬達等が弥勒菩薩の石像を祀ったという記録もあるから、古くから蘇我氏と親交があったと考えられる。
また、百済系渡来人とだけでなく、他の系統の渡来人とも関係が深かったと見え、蘇我麻智の息子とされる蘇我韓子(そがのからこ)の「韓子」は、恐らく韓人(半島の人を指す)またはその系統を母に持つ人物の通称と言われているし、またその息子とされる蘇我高麗(そがのこま。稲目の父親)も、本名は蘇我馬背(そがのうませ)とされるが、母親が高麗(高句麗)人またはその系統であったことから「高麗」という通称で呼ばれたとする説がある。

入鹿の母親についてはよく分かっていないが、これまた入鹿の呼称の一つに「林臣」や「林大郎」というものがあり、林氏というのは蘇我氏と同じく武内宿禰を始祖とする波多八代系に属する氏族ともいわれ、本拠地を河内(大阪府柏原市付近)に置いていたそうだから、もしかしたら、林氏の娘が母親だった可能性もなきにしもあらず。
また一説では、「物部大臣」(書紀では入鹿の弟と書かれているが、弟の存在が他にないため、これは蝦夷(←母親が物部氏)のことか入鹿のことだろうと言われている)という呼称もあるので、物部氏の娘が母親ともいわれる。
母親に並んで妻や子の名前も、入鹿は明らかになっていない。通説通り、入鹿の生年を610年頃としたなら、乙巳の変の時、入鹿は35歳前後。押しも押されぬ蘇我本宗家の嫡男であったのだから、恐らく妻は数人、それも有力豪族の娘が妻だったんじゃないだろうかと思われるけど、日本書紀では入鹿はとにかく大悪人としてその悪事しか書かれていないから、詳細は分からない。
また一説では、蝦夷と入鹿の親子の名は、後付けの蔑称ではないかと言われていて、蝦夷は毛人(えみし)で、入鹿は、日本書紀に「大臣の長男は善徳」という記述があるので、それが本当なら、善徳(ぜんとこ)という名前だったと思われる。ただ、そうすると年代がおかしくなるので、蝦夷の兄が善徳なのではという説もある。
しかしながら、蝦夷に兄がいたのかどうかは不明。兄がいたなら何故その人が継いでいないのだろうか。この頃はまだ末子継続だっただろうか。もう長子継続に変わっている頃だと思うんだけど、私の記憶違いだろうか。もしかして、母親の身分が低かったのだろうか、はたまた若くして死んだのだろうか。
入鹿の弟(物部大臣)にしたって、母が物部氏なら、いくらその頃物部氏が落ち目だったかもしれないとはいえ、母が誰だかよく分からない入鹿より、本宗家の跡継ぎとしては妥当だと思うのだけど、何故に名前が他に出てこないのか。入鹿は別呼称があんなに沢山あるのに。
蝦夷の兄にしろ、入鹿の弟にしろ、いても全然おかしくないけど、いたのかいなかったのかよく分からない。

と、ここまで書いて、分からない率の高さに笑ったけども、実際分からないので仕方ない。
分からないからこそロマンがあるのだ。そこがいいのだ、古代史は。
ってことで、とりあえず、入鹿の時代までの蘇我氏の歴史を簡単におさらい。
蘇我氏の名前を教科書などで見るのは、多分、蘇我稲目(仏教伝来で物部氏と対立した人)からではないかなと思う。
実際、稲目くらいからしか殆ど資料がないから、稲目から。

稲目が仕えた天皇→宣化天皇(28代)、欽明天皇(29代)
馬子が仕えた天皇→敏達天皇(30代)、用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)
蝦夷が仕えた天皇→推古天皇(33代)、舒明天皇(34代)、皇極天皇(35代)
入鹿が仕えた天皇→皇極天皇(35代)
(男性が青字、女性が赤字)

欽明天皇の御代、仏教を巡って、大臣・蘇我稲目と、大連・物部尾輿や連・中臣鎌子(間違えやすいけど鎌足とは別人。元々中央で活躍していた中臣氏の本家はこっちで、鎌足は分家の出)の間で争いが起こる。
この仏教を巡る争いは、蘇我氏と物部氏の権力争いへと発展して、稲目と尾輿の子らである馬子と守屋の代にまで引き継がれた。その流れの中で、用明天皇崩御後に皇位継承問題が勃発し、馬子と守屋は更に対立。最終的に、丁未の乱(587年頃)で守屋が馬子に敗れ戦死し、これにて物部氏は力を失ったとされている。
しかしながら、これ(蘇我氏と物部氏の権力争い)も、昨今では、一時的な対立はあったかもしれないが乱(戦争)になるほどではなかったのではないかという見方もある。
その根拠のひとつに、政敵であったはずの蘇我氏と物部氏の結びつきが、争いの発端以前も以降も強いことが挙げられていて、実際、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹(または姪)で、先ほども書いたが、入鹿の弟とされる人物は物部氏の財力により台頭したので「物部大臣」と呼ばれたという記述が日本書記や藤氏家伝にもあるし、古事記や旧事本紀には、蘇我氏の母系の祖は物部氏であることが明記されてもいる。
乱があったかなかったかはともかく、当時、蘇我氏と物部氏、また蘇我氏と大王家(皇族)の結びつきが強かったことは、それぞれの系譜からも分かるしそれは事実だろう。
とにかく、真実の追及は頭のいい学者さんや研究者の人達にお願いするとして、話を丁未の乱に戻そう。
何故この乱が起きたのか、その事情を日本書紀と古事記の記述を元に説明すると、
585年、敏達天皇が崩御。橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。しかし、用明天皇の異母弟の穴穂部皇子(母は馬子の姉の小姉君=堅塩媛の妹)はこの即位に不満を抱き、以後、馬子と対立する守屋と結託した。また穴穂部皇子は、殯宮にて先帝の敏達天皇の后である炊屋姫(後の推古天皇)を犯そうとし、敏達天皇の寵臣であった三輪逆(みわのさかう)に邪魔されたため、三輪逆を不遜だとし、守屋に命じて三輪逆を殺害させた。この時、穴穂部皇子の横暴な振る舞いに、馬子は「天下の乱は近い」と嘆き、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えたという。
587年、病になった用明天皇は、当時蕃神として蔑まれていた仏教を信仰したく思い、群臣に意見を求めた。守屋と中臣勝海(鎌子の子か孫)は反対したが、馬子は天皇の言葉を重んずるべきだとし、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
同年5月、用明天皇が崩御。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后。後の推古天皇)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。
同年7月、馬子は群臣と相談し、守屋を滅ぼすことに決め、それに呼応した諸皇子、諸豪族が大軍を挙兵した……
というあらすじになる。

この乱の際、聖徳太子(厩戸皇子、用明天皇の子)は蘇我氏側についていて、馬子らと一緒に討伐軍を率いていたとされている。
聖徳太子といえば、古代史に特に興味ない人でも名前は知っているだろう。推古天皇の御代に皇太子として馬子と協調して政治を行い、遣隋使を派遣し、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立に力を注いだとされる他、仏教を取り入れ厚く信仰してその興隆に努めたことでも有名な人物だ。
彼は彼で、かなり興味をそそられる謎だらけの人物だけど、今回は入鹿がメインなので、聖徳太子については、ざっとその系譜を見ておく。
聖徳太子の祖母は馬子の姉の堅塩媛であり、また妃の一人は馬子の娘・刀自古郎女で、その刀自古郎女が産んだ皇子が山背大兄王であるとされる(ただし日本書紀には、山背大兄王は聖徳太子の子とは書かれていない。入鹿を稀代の悪人とするためには大事な箇所だろうに、何故書記がそこを省いたのかはよく分からない)。
つまり、入鹿から見ると、聖徳太子は叔母の夫で、山背大兄王は従兄弟になる。
また、蝦夷が仕えた舒明天皇の妃の一人が蝦夷の妹の法提郎女で、彼女が産んだ皇子が古人大兄皇子。こちらも、入鹿の従兄弟だ。
そして、その古人大兄皇子の娘が中大兄皇子の后であり、この縁組みから中大兄皇子もまた、血縁ではないにしろ蘇我氏の親戚筋にあたる。
これらの系譜を見ていくと、入鹿の時代まで、蘇我氏がどれほど皇族と近い立場にあったかよく分かる。
余談だが、この天皇の外戚になって政治的に強い立場に立つというやり方は、蘇我氏の前には葛城氏が、蘇我氏の後には藤原氏が好んで使ったやり方だ。蘇我氏の専横を疎んだとされる鎌足から誕生した藤原氏は結局、蘇我氏と同じことをしているのだ。むしろ、他氏排斥を執拗に行った藤原氏のほうが過激だったといっていいだろう。しかも、蘇我氏の時代はまだ、律令制度や中央集権が形になっていなかったために、地方豪族が力を持っていたが、大王家(皇族)もそれなりに力を持っていた。一方で藤原氏全盛期には、律令制度や中央集権は完成していて地方豪族は力を失っていたが、天皇が絶対的な権力を持つとする律令制導入の本来の意義も失われており、天皇はお飾りになっていた。もし、仮に、鎌足がそこまでの未来を描いて行動していたとするのなら、鎌足は稀代の天才と言っていい傑物だと思う。

話を戻そう。(寄り道が多くてごめんね)
入鹿が仕えた皇極天皇は女帝なので、蘇我氏の娘を后には持っていないし、その出自にも蘇我氏は関係していないものの、彼女の後継者、つまり皇太子候補として有力だったのが、聖徳太子の子である山背大兄王と、皇極天皇の弟である軽皇子と、舒明天皇の子である古人大兄皇子、そして皇極天皇の子である中大兄皇子だったとされている。
この中で蘇我氏の後ろ盾がないのは、軽皇子だけだ。そして、日本書紀によれば、鎌足が最初に近づいたのは中大兄皇子ではなく軽皇子だという。
鎌足は学問堂で学んだ後、家業である祭官(中臣氏は代々神事・祭祀を司った家柄)に就くことを期待されたが、それを断って摂津国三島の別邸に退いていた。軽皇子に鎌足が接近したのはこの頃のこととされるから、鎌足自身に出世欲があったことは疑いようもない。
後の日本書紀の記述によれば鎌足と軽皇子はかなり仲が良かったように思われるが、途中軽皇子に対し何か思うところでもあったのか、鎌足は中大兄皇子に鞍替えしたらしく、大化の改新以降は内臣(改新まではなかった官職。大臣とは違い、天皇の個人的な寵臣や参謀といった意味合いが強い)となって中大兄皇子の側近に徹している。
大化の改新の頃、軽皇子は50歳前後で、鎌足は30歳前後、中大兄皇子は20歳前後だから、一族の繁栄のために若くて先の長い中大兄皇子につくことにしたか、はたまた己のやりやすいように自分より若くて扱いやすい中大兄皇子を選んだか、それとも、純粋に中大兄皇子に他にはない魅力と可能性を感じて生涯を捧げる決意に至ったのか、そこらへんは鎌足だけが知るところだ。

一方でその頃入鹿は、父親の蝦夷から大臣を受け継ぎ、緊張が高まる国際情勢の中、どう動くべきかを考えていただろうと思われる。
618年、隋が滅び唐が興った。当時の東アジア諸国にとって、隋は強大な先進国だった。その隋が滅ぼされたのだ。この情報は、日本のみならず近隣諸国を震撼させたことだろう。
日本は630年に、隋に続き唐にも遣唐使を送ったが、その間、かねてから外交のあった半島の国々から、新王朝の噂や不安の声は届いていたと思われる。
実際、半島の国々は唐の支配地拡大のための侵略を予想し怯え、強い国を作ること(より強い指導者を立てること)を目的に、640年代になると国内クーデターが勃発した(642年、高句麗、新羅でクーデター。647年、百済で反乱)。
入鹿が蝦夷から大臣職を受け継いだのは643年とされていて、これは半島でクーデターが勃発していた頃と重なる。
半島の国のいずこかが戦乱のどさくさに紛れて攻め込んでくるかもしれない、それどころか唐が攻め込んでくる可能性もある。そんな緊張状態の中、入鹿が国を国として強めるため(=国を守るだけの軍事力を持つため)に、律令制度や中央集権の確立に急いだことは、恐らく歴史作家や研究者の想像に過ぎない話ではないと思う。
日本には、磐井の乱という先例もある。大王をトップとして豪族が力を集結させるきちんとした仕組みがなくては、敵に足元をすくわれて国を分解されてしまう(=兵力を分解されて弱小化させられてしまう)のは火を見るより明らかだ。私ですら分かるのだから、秀才だった入鹿がそれを分からないはずがない。
そんな頃に、山背大兄王および上宮王家の滅亡という大事件(643年)が起こったと、日本書紀には記されている。

この事件の話の前に、山背大兄王について、少し説明しておくと。
先述したように、彼は聖徳太子の子とされる人物で、母親が蘇我氏(馬子の娘)。しかしながら、この人は謎に満ちた人が多い古代の人物の中でも、かなり実在性が怪しまれる人で、創作説または脚色されすぎた虚像説に同意者が多い人物でもある。
また、個人的思考ではあるけども、上宮聖徳法王帝説に書かれているような聖人君子みたいな人物には到底思えないというか、正直あまり、大王(天皇)には相応しくない感じの人のように感じる。
彼の人となりについては書紀では一切触れられていないので、とりあえず、入鹿の時代までに、彼や彼の周辺に起こった出来事を書いていく。
日本書紀によれば、推古天皇崩御後に、蘇我氏の分家である境部摩理勢(さかいべのまりせ)らは山背大兄王を後継者に擁立したが、蘇我氏本宗家である蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を擁立したとされる。
この時、山背大兄王は継承に積極的に名乗りをあげたとされるが、摩理勢と山背大兄王側につくものは伯瀬王(山背大兄王の異母弟)や佐伯東人らなど僅かで、また、蝦夷の説得により山背大兄王本人が継承を諦めたことから、629年、田村皇子が舒明天皇として即位している。
蝦夷が山背大兄王を擁立しなかった理由については諸説あり、山背大兄王がまだ若く未熟であったからという説(山背大兄王は生年不明ながら、舒明天皇が即位時に36歳前後なのでそれより下か?)、山背大兄王の人望を蝦夷が嫌ったという説、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まるのを避けたかった説などがある。
また書紀によると、推古天皇は崩御前の病床にて、田村皇子と山背大兄王を呼んで、田村皇子にまず「帝位につくというのは大変なことだが、軽々しく考えず慎重に考えよ」と伝え、次に山背大兄王に「一人であれこれ言ってはならない。必ず群臣の意見に従って背かないことだ」と伝えたという。
これには、もっとはっきり後継者指名しなよと思う気持ちもあるが、当時はまだ天皇は世襲制じゃなく、後継者を決めるにあたっても、天皇の意見も勿論重視されるが、最終的には群臣である有力豪族達が話し合って決定することだったから、推古天皇がはっきり後継者を断言できなかった事情も分からないではない。
とはいえ、普通に考えて、『帝位につくことは』とはっきり言葉でその心構えに対する注意を伝えられている田村皇子と、『必ず群臣の意見に従って背かないこと』と諭されている山背大兄王では、どちらが後継者候補であるか誰でも分かるだろう。しかしながら、何故か山背大兄王は自分が後継に選ばれたと考えたらしく、継承を主張し、決着がつくまで何度も蝦夷の元へ遣いを送ったとされる。
ちなみに、この決着が不服だった境部摩理勢はその後、目に見える形で公然と蝦夷に反抗し逆らうようになったため、宗家と分家だった蘇我と堺部は険悪になり(その前から何かと張り合っていたらしいけども)、摩理勢の後ろ盾だった山背大兄王と伯瀬王の内、伯瀬王が病で急死すると、蝦夷は摩理勢の一族を攻め、摩理勢は来目物部伊区比という人物に絞殺されたという。

ここまででも分かるように、どう考えても山背大兄王には人望がない。上宮聖徳法王帝説には「此王有賢尊之心棄身命而愛人民也、後人与父聖王相濫非也」と記されているが、もし本当にそのような人物であったなら、推古天皇もわざわざ「群臣の意見に背かないこと」なんて小言めいた遺言を残さないだろうし、群臣もまた、本当に彼が聖人のような人物であったなら、推古天皇の意思がどうであれ、彼の側につくものも少なくなかったはずだ。そして、極め付けが摩理勢。山背大兄王と伯瀬王の二人を後ろ盾にしていたとされるのに、後ろ盾の片方である伯瀬王亡き後、あっけなく殺されている。この時、山背大兄王はまだ生きているのにだ。
はっきり言って、山背大兄王に人望は殆どなかったんじゃないかと思われる。
また、私が個人的にこの人は大王にはちょっと……と思ってしまうのは、人望がないだけが理由じゃない。
壬生部(乳部)の存在だ。
でも、とっても長くなっていることに今更気づいたのと、少し疲れたので、一回休むことにして記事を終わっておく。

→→
ここまで読んでくれた人がもしいたら、ありがとう。
明日何かいいことがあったらいいね。

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