大江戸八百八景

歌は世につれ世は歌につれ

▼専門ブタとアンポンタンPTA

2016年10月17日 | ■「奇跡の詩人」と各界専門豚の立ち回り

以下、「奇跡の詩人」情報収集掲示板(2002年当時)より

 

 

何がどう、まどろっこしいのでしょうか?

それは私が聞きたいほどです。 あなたのほうこそ、02/04/28に放送された「奇跡の詩人」という番組の何を知りたいのか、その放送から何を明らかにしたがっているのでしょう。あなたご自身、よく分かっておられないようではありませんか。あなたの気持ちは、どうすればおさまるのか。その視点が定まっていないのです。

そこでもう一度おたずねします。あなたは何を知りたいのですか?何をNHKに言いたいのですか?せめて三行ぐらいで、答えていただけるとまどろっこしくなくなると思うけどね。NHKに何をどうやってもらえばあなたの気持ちは満足するわけなのだろう。NHKに対して質問状も数回にわたって送り、NHKはきちんと回答もしてきました。だいたいの疑問は解明されたのではないですか。それともまだまだ聞いておきたいことがあるので、この先、50回ぐらいNHKに質問状を送りますか?

それほどまでにして、何を明らかにしたいのですか?ということです。そこがあなたは、ぼやけているのです。 すべてが曲解から始まった邪推と妄想だ。あなたの脳内事情なのですよ。人の家の子どもを無闇に批評したり、指図をするなと言いたい。隣の芝生は青かったというねたみ以上の話ではないでしょう。あなたの気持ちを聞きたいわけですよ。なぜ、そこまで首をつっこんでみたがるのか。そこまでムキになって何を知りたいのか。

かもめ氏は1次的に物事を体験したものでなければ、その物事の正否を判定できないと仰るのでしょうか?

そんなことは言っていません。この場合1次も2次も大した意味はないと言いたいですね。いいですか。今回の問題では一人の子どもの読み書き能力の実現度が問われているわけでしょう。あなたの場合もここに疑問があったのではないのですか?それはね。どんなに立派な公のシステムを用意しても判定できないことだと思いますよ。判定することに何の意味がありますか。他人の子どもの教育とは、少しでも伸びるように応援するしかないではありませんか?咎めだてして、なにか良いことでもありますか。

現在の読み書き能力をできるだけ伸ばすように、いかに具体的に支援できるか、というスタンス以外の批評は無益です。それを「反教育」と言う言葉にしてみたのです。保護者でもない他人が子どもを判定しても、何の意味もないでしょう。保護者またはそのために雇われた教師以外の人にその子の能力程度を知らせる必要がありますか。世に広く判定結果を知らしめるという意見があるとするならその意図はどこから出てくるのでしょう。私は偏見と差別を肥大させること以外に効果はあり得ないと思いますよ。能力を伸ばす上で次のプログラムを与える必要上、どうしても判定したいということはある。

だが、それは保護者と保護者と契約している教師だけの特権です。関係のない他者が、話しに加わる必要はこれっぽっちもありません。

私は2次的な資料であっても、その情報が正確なものであれば、物事の正否を判定できると思います。

この場合の物事の正否って、なんですか?言葉を発する能力と言っても随分程度差があるのだと思いますよ。その程度差を計る科学的な物差しというものがあるとは聞いたことがありませんね。むしろあっては困るのではないでしょうか。あなたは、物差しが欲しいのだと思いますか。よほどご自身の推察力や想像力の過少について、考えてみたらどうですか。額に読み書き能力は、1だとか3だとか公社会から配られたレッテルを貼り付けて生きていくのが正しいとでも言うのですか。それが秩序だとでも言うのですか。我が子用にそんなレッテルを欲しいと思いますか。

私も物事に於ける真実が1つであり必ずしも結論を出す必要があるとは思っておりません。 がしかし、公の場で「この出来事は真実である」と発表し、それに対し他者が異議を唱えた場合は、発表した者はそれが事実であると証明する義務があるとのではないでしょうか。

今回の問題で私が憤激した人たちの言い分が、そこにあります。あなたの言うことも典型例ですよ。あなたがたは、言葉の問題だという。では、言葉とはなんですか。言葉の「真実」って何でしょうね。意外に人それぞれなのではないのでしょうか。多くは主観の問題のように思いますよ。それではダメですか。では真実を基準づける物差しでもあるのですか。私はそんなものは見たことがありませんよ。あなたが言葉を図れる物差しを持っているというなら、それを見せてください。

子どもの読み書き能力については前述しました。物差しのようなものはないほうがよいと。世間には選抜試験とかテストというものがある。だがそれは学校の主観、会社の主観、家庭の主観でよいではありませんか。社会に一律のテストなどやられては、私などはたまったものではありませんね。新しい差別の原因を作ります。ですから、そのような物差しはあり得ないということで、良いではありませんか。

少しは自分の頭で考えなければ。NHKNHKと騒いでいる方々は、どうも「お上頼み」の気持ち強いようですね。私がよくいう、なんでもお上にすがってお上に解決してもらうという代行主義に陥っているのです。強烈な依存体質がある。それに、番組に対してものを申すという方々の中には、NHKに警察の役割をさせたがっているような方もいましたよ。検証しろという要求が、それです。要するにあなたの結論は決まっているのではありませんか。強いて言わせていただければ、最初からH家は悪いことをしているような、決めつけがあるのではありませんか。それにしても、子どもが本を出したごときのことで騒ぎ立てるとは、随分と情けない大人がいるものです。

今だからこそ影響が小さくてすむ可能性もあります。 例えば、放送された内容を見て、内容を信じ、多くの障害をもつ家庭がドーマン法を採用し、結果、なんら「奇跡」的結果が現れ無かった場合はどうなるのでしょう? そのときのことを想像した事が無いのでしょうか?

よく考えてごらんなさい。放送から、もう半年たっているのですよ。あの番組によって被害をこうむったとか、なにか精神状態がおかしくなったとか、そうした方がおりましたか。あの番組から影響されてドーマン法を採用し酷い目にあったとか「奇跡」的結果が得られないと嘆き訴えている方がいましたか。人間、それほどバカでもありますまい。いるなら示してください。それはあなたの取り越し苦労。そんな言葉には、なんの美しさも価値もありません。あなたの曲解、邪推だというのです。その手の言い分は、人心を撹乱するために広められる論理ですよ。悪く言えば相手を貶めるための言葉以上のものではありません。

大変なご苦労をされているご家族は、たとえ可能性が低くとも、わらにも縋る思いで、色々なことにトライしているでしょう。そこに、NHKのドキュメンタリーに於いて「真実」であると放送されてしまえば、そこに縋りついて見たくなるのが人情じゃないでしょうか?

またまた、おかしなことを言う。何度も繰り返しますが、それほどバカな保護者はいませんよ。ドーマン法とはリハビリテーションにおける一つのプログラムでしょう。あまたある手法のなかの一つの方法でしょう。子どもにあっているのか合っていないのかは、やってみれば、すぐ分かることでしょう。手法を妄信してもいけません。また、やってみもしないうちから、全面的に否定するとは、デマもよいところです。すぐ結果を求める盲信タイプです。早い話教育ママというものはどこの世界にもいるようですよ。子どもに合っていなければ、すぐやめさせる。それで良いではありませんか。ピアノを買ってやったのだからどうしてもピアニストにさせなければ気が済まないというのは、貧乏性ですよ。ちなみにドーマン研究所の場合は、保護者は子どもを守るために、常に研究所と対決的立場をとることを薦めているそうですよ。さすが米国発祥ですよね。徹底した個人主義。これをわきまえていなければ、とうてい研究所の与えるプログラムをこなすことはできないそうですよ。

文化の違いと言いましょうか。生半可な気持ちでは「買えない」プログラムなのです。いくらお金があるからと言って、自分を主張しない保護者は、むしろ研究所から入会を拒否される場合すらあるとか。日本のムラシャカイ文化とお上主義では、とうてい追いつけるものではありませんよね。だから、なんとかやりくりしてそれなりに貫徹された方はご立派だと思いますよ。かといって、中途で気がつきやめた方もご立派ではありませんか。

ドーマン法が確かに効果のある手法であるならば何ら問題ではないのでしょうし、そのような人々の助けになるでしょうが、未だ疑問が多く上げられる中、「真実」であると報道したことに問題があるのです。

ですから、これが唯一と絶対化する思い込みが間違いを起こすのではないですか。ところであなたのお子さまの場合も重度の障害をお持ちだということですか?それでドーマン法が気になってならないわけですか。下の文はそうではないようですね。そうでないなら、あなたがムキになる必要もないでしょう。誰よりも当事者に選択権があるのですから。当事者こそ発言権があるのですから。他人の子どもの教育に口出しするものではありません。

そういった、後に続きたいと思っている人のためにも、本当に正しかったのかどうなのかを、証明する義務がNHKにはあるのではないかと、私は思っております。

「本当に正しかった」というのも、個別です。真摯に向き合わなければ、本当に正しかったのか間違っているのかは、誰にもわかりませんよ。正しかったとは言っても、その子にとっては正しかったのであり、他の子の場合は間違っていたということもあるでしょう。メソッドやプログラムというものは、すべて、そうしたものです。頭ごなしに、当否について、はっきりすることはできないものです。

あなたの場合も、自分の都合のよいように解釈したがっている、以前から刷り込まれている固定観念が表に出てきているだけの話ですよ。そこをもう一度、解体しておきなさい。人はみな言葉使いも価値観も一人一人違うのです。同じ兄弟でも、兄は野球が好きだが、弟のほうはスポーツなんぞ、まったく興味もしめさないということがあるでしょう。

 

 

講談社などの出版社が契約しているのは親なのか日木流奈本人なのかわかりませんが,現在の日木流奈の執筆は,通常の子供のお遊びを大きく逸脱して両親を養っている状態と思われます.父親は日木流奈の執筆をサポートするために仕事をやめたことになっています.つまり父親は一家の大黒柱を息子の受け渡したらしいのです。


こんちには。あなたの上の意見についてですがどうでしょうかねぇ。あなたの願望は、それとしてもH家についてなら、それはさまざまな家族の暮らし方があることを認めたうちの一つの現象だと思いますよ。父親が外に働きに出て母親が家事子育てをするというのは確かに一般的な家庭運営の方法でしょうが、それにしても決めつけることはできませんよね。そこからどれだけ外れているとしても、別に悪いことではないのですから。他人が口を差し挟める余地はないと思います。

あなたはR少年については「通常の子供のお遊びを大きく逸脱して・・・」と言うけれど。それにしても遊びか学びかお手伝いかも、そうは他人が線引きできないし、するべきではないと思いますよ。何度も書きましたが、子どもだってその気になればものすごい力を発揮するものです。そうした場合の多くは、働いているのか学んでいるのか遊んでいるのかの区別は付けていないようですよ。

大人の場合は「趣味に生きる」などという言い方がありますが、趣味が高じて収入を得られるようになるなら、好きな道に邁進することと暮らしていくことが一致しているわけですから、これほど幸いなこともないでしょう。いずれにしても他人の子どもに遊びと労働の区別を、人様にも明確に見えるように暮らしていけなどとは言えるものではありません。

それからTGさんもご存じかと思いますが、よく映画や芝居などには子役が出ていますよね。ステージママなんていうのは別にしても歌舞伎など伝統芸能の場合は、子どもが幼い時から親が手取足取り教えていますよね。それに楽器演奏家などは、幼少時から才能豊かな人はコンサートを開いているようですよね。こうした場合は、児童福祉法や労働法の適用はどうなっているのでしょうね。

「番組によると日木流奈は長くても一日1~2時間しか執筆できないそうで,これでなぜ父親が仕事を辞めなければならないのかさっぱり分りませんが

そうですか、あなたには分かりずらいかもしれませんが、私はよく分かりましたよ。父親が仕事を辞めたというのは、それまでの雇用関係を辞めたということですよね。雇用関係をやめて所属を失った。ちょっと原理的な話ですが雇用されていないから働いていないとは言えませんよね。少年の父親は、これからはもっと息子をサポートしてあげたいと思ったのではないでしょうか。たいへんな決意だったと思いますよ。それだからこそ、かの番組を観ていて、少年が書いていることに間違いないという実感を得ました。少年がもっと書きやすいように、支援できることがあると父親は、そう思ったのでしょう。そうやって家族総出で本の執筆をしている。

父親が入力作業をしていましたよね。誰かが言うように、少年には「言葉など理解できないのだから文章を書けるはずがない」というのであれば10年以上同じ屋根の下で暮らしてきた父親が、わざわざ仕事を辞めてまで、虚偽の執筆活動につき合おうとするでしょうか。虚偽でないから、全力を挙げてR少年の執筆を助けているのではありませんか。少年から本物の言葉がでている確証があり、そのことをなによりも喜びをもって共にすることができるからこそ、収入が激減する不安を乗り越えてまで支援しサポートしたくもなるのではありませんか。

悪意をもって見るならば、この問題はおかしくなるばかりだと思いますよ。私も半年間、関連掲示板にカキコさせていただきながら、どうも悪意の目でしか見れない人たちがいる。どうしてもR少年の家族に罪をデッチ上げ、社会的制裁をくわえなければおさまらないという人たちです。公的機関であると見なして「NHK」に圧力を加えて、検証という中味のさっぱり分からない要求をする。NHKがダメなら、今度は児童相談所に隔離せよとか。それでも動きがみられないと、今度は児童福祉法違反の疑いがあると言いつのる。この場合は、労働基準監督署ですか。つぎはどこですか。最終的には警察ですか。詐欺罪ですか。

これはもう「魔女狩り」と言っても過言ではないでしょう。それもH家を糾弾しようとする人たちには熱情すら感じられるのですよ。いったい、集団心理がムキになったときほど恐ろしいものはありませんね。ですから今の私にとってはあなたの心根こそ大きな疑問なのですよ。どうして?そこまでH家のことをあれこれと詮索したくなったの?どうしてお上に制裁してもらいたくて仕方ないわけ?ひとつだけ分かるのは、そもそもかの番組を逆立ちして読みとった、ということがあるようですね。元気にしている姿を、そうじゃないという。文字を書いている姿を、書いていないという。ごく普通に見えることを悪いことを隠しているのではないかと詮議建てする。これはあの番組を悪意で見ていたということですよね。悪意で見るなら、TV番組だけでなく例えば一人の見知らぬ通行人でさえ、糾弾されかねませんよね。別件逮捕というやり方だってあるのですものねぇ。くわばらくわばら。

また仮に日木流奈少年の意志で一家の家計を支えているとしても両親の倫理的問題はあると思います。


専業主婦と言われている人などは、やはり倫理的問題があるのですか。切がないのですよ。あなたの詮議だて、曲解、悪意は。倫理的問題なら私にもたくさんあります。あなたはどうですか。あなたは完全無欠なお人ですか。反省点など一つもないと自信を持っていえますか。朝から晩までひとつのウソもつかず、正しいこと以外はやりませんと、言えますか。さて、滝本弁護士が最近、この問題で以下のように発言していた。

「奇跡」は、奇跡を主張する側に立証責任があります。

弁護士がこういう屁理屈を使ってはいけません。NHKは確かに番組を「奇跡の詩人」と銘打った。だがタイトルネーミングだけのことです。中味は別に奇跡でもなんでもない。少年と家族への賛意と賞賛の意味を込めた「奇跡」に過ぎません。これを、この世には決してあり得ない摩訶不思議現象という意味での「奇跡的事象」をそのまま放送したのではないかとNHKに食いついたのが滝本氏らだったのです。だからお聞きしているのです。

奇跡という言葉を放送局が使ってはいけませんか?番組のタイトルに「奇跡」という言葉を使うと、即人心撹乱するとでも言うのですが。それはあまりに大人げない話ではありませんか。つまり典型的な言いがかりであり、いちゃもんつけなのです。滝本氏らの本意は別にあった。番組名がなんであろうと、R少年が文字を書いている様子が放送を通じて広まってしまうことに「ノー」と言っているのです。滝本氏は私が下で紹介した「あとがき」に書いています。

なお、児玉和夫先生の寄稿は一見すると編著者と意見を異にする部分があるが、基本的には同様の見解であると読めるものであり、かつ愛情あふれるものであった

児玉和夫氏の場合は、滝本氏らと論拠が異なっているのです。児玉氏は確かに少年が書いていることは間違いないと言うのです。ここに滝本氏との違いが出てしまっているのですが、ここからが本質問題です。どうして根本問題において違っているのに「基本的には同様の見解」だと見なされたのか。少年が書いているのか母親の腹話術だったのかが問題ではない。つまり奇跡であろうがなかろうが本質上はかまわなかった。さて滝本氏の言う「基本的には同様の見解」とは何か、ですが。児玉氏は少年が確かに書いているに違いないと言いながら、FCを使って書いていることが許せないとR少年の執筆を否定しにかかるのです。なぜ、こんな横暴なことが言えるのか。児玉氏は次のように書いている。

おそらく知的能力は非常に高いのでしょうが、運動障害の方は軽いとは言えません・・・・・それなのに学校にも行かず、なぜ訓練を続けているのでしょうか?こうした訓練に打ち込んでいるとそのうち、この世界がすべて、といった自己満足、自己陶酔的な感覚に陥っていくことがあります

これで説明になっているでしょうか。専門家としての障害児への支援的言辞と言えるでしょうか。文字を書くなどのことより運動しろという。やっているでしょう。厳しい運動訓練を。その訓練法は「学校にも行かず」にやっている訓練だからいけないのだという。これを屁理屈と言わずして何を言う。そしてこうしたとんでもない印象批評だけで当人の人権を保障するに、もっとも大切なものと言える言語能力を全否定しにかかるのです。しゃべることより歩けるほうが大事なのだと、しゃあしゃあとこういう専門家というものを私は聞いたことがありません。差別もいいかげんにしろと叫びたい。いじめたい・・・ただそれだけではありませんか。社会に出てくるなと言うのか。歩けるようになってから、話をしろと言うのか。この児玉という専門家は。

さて、引用が長くなりましたが、滝本氏の「奇跡」こだわりも、ようは根拠薄弱といわなければなりません。では番組のタイトルが「奇跡」という文字がなければ、不問にできたのでしょうか。どっちにしても、滝本氏の言う「奇跡」にはなんの本意もない。いわば奇跡だと騒いでいるのは滝本氏のほうなのである。ならば滝本氏らこそ「奇跡」であるのかないのか挙証する責任があるのです。だから多くの方がいうように、なぜR少年に会ってくる必要にして最小限の挙証責任を果たそうとしなかったのか。これはたんに彼の怠慢を示すばかりでなく、ここにもまた真意があるようですね。奇跡か奇跡でないかはすでに児玉氏が言っている。会ってきてしまえば、以後の差別運動が進まなくなるからです。騒いでいれば圧力だけはかかるでしょう。やがて少年は児玉氏が言うような方向を取るかもしれない。言葉を拒否し児玉氏の言う通りにするかもしれません。これが滝本氏ら運動員たちの狙いなのです。

アメリカの研究者がしたようなテストなどをするなら、それは奇跡を主張する側がすべきこと。

上記に同じ。滝本氏一流の言葉遊びにすぎません。奇跡かどうかを解明しようなどとはこれっぽっちも思っていない。一歩も足を動かさない。奇跡のままのほうが彼にとっては都合がよいのです。奇跡のままにしておいて団扇配り検証会と、あたかもNHKを相手にしているふりを取りながら、家族に圧力を加え続けてきたのです。

私は、NHKその他の問題が片付いて、ドーマン法の問題点と、FCの欺瞞性が広く知られていき、そのうちに噂も出なくなり、ルナ君の所においても、あのFCもドーマンもしなくなるようになるように持っていきたいのです。

われわれが読まされているドーマン法やFCについての滝本氏の言説は、あくまで滝本氏個人のものだ。誰も変更を求めているわけではない。ただドーマン法に取り組んでいる人のことをとやかく言う権利や資格は誰にもないということをわきまえたまえ。弁護士資格者が他人から、教育プログラムを取りあげたり非難したり始めたらどういうことになるのか。人権蹂躙もよいところではないのか。自由な教育権の否定である。思想信条に対する強圧だ。

他人が、お宅の子どもさんの場合は、あそこの学校には行くべきでないなどという運動を起こしたなど聞いたことがない。もってのほかだとは思わないのか。 

さて先日「同時代社」より出版された『異議あり 奇跡の詩人』なる本を今日になってやっと手に入れた。これを入手するために新橋まで出てきたのである。本日、新橋で「奇跡の詩人」と題して4月末に放送された番組と、そこに出演していた少年を「否定」するために事上げした運動一派が「検証会」なるものを開催していたので、それに参加してきた。なんのことはない。当の放送録画をそのまま再放映しているだけの検証会だった。これを、一日3度ほど繰り返しているだけで、「会」の主催者からは、なんの主張も話もなかった。 

ビデオを見ていただければよくわかるという次第らしい。だが、そのビデオは、君たちが「否定」している放送だったのではないのか。それを集まってきた観客に黙って見せているだけで、なにが検証になるのか。彼らの魂胆たるや不信極まりないのである。 

 

 

私は、東京は新橋で挙行された集会の様子を、どこかの掲示板に以下のように書いておいた。

6/29日の新橋検証会では、NHKで放送された「奇跡の詩人」のビデオを参加者(運動員5名をのぞけば、わたしを含めて3名ぐらいだった)に見せたあと、会場のうしろのほうに運動家らしい主催者であるのだろう常連オバチャンたちの数名が集まっては、あの手の動きがどうしたこうした、あの指の動きがどうしたこうした、文字を書くより歩かせよ、母親の顔が気に入らない、変だ、おかしい、等々と井戸端会議に花を咲かせていた。その間、ずっとあざけりの笑い声。ババアたちの高笑い。話が終わるまもなく、次回の上映とあいなるのだが、彼女たちにとっては何度見ても、このビデオは私の宝のようで、飽きが来ないらしい、上映が終わるとまた後ろの方で集い合う。なんだかんだとまじめな「血祭り」 「検証」がはじまるわけである。 「怪しいに決まってるわよ!」 「しょーがいしゃが、こんなことできっこないわ!」 「ばっかみたい(ははははは)」 。ババアたちの醜い高笑い。偏見饅頭の大食い競争をやっていた。

私が「奇跡の詩人」の番組が放送された4月末より、ネット掲示板などに顔を出して、運動派の彼らを相手に議論してきたのは、同書出版もそうだが放送後、非常にあいまいな偏見に満ちた言葉が集中的にかつ意図的にネットなどで垂れ流されたことである。

それも二つの単語に収斂(しゅうれん)されていた。一つは「奇跡」であり。もう一つは「検証」という言葉であった。うまいぐあいに対をなす概念として都合良く使われる。言ってみれば「奇跡」とはイエスの時代を思い起こすまでもなく、さらにさかのぼってヒト種が言葉を得た最初から、ヒトと自然の不思議な関係にもとづく事象を言い表して見事な形象であるが、必然としてある色合いが施されている。すなわちその言葉によって指される事柄が不可思議なものであるかぎり、宗教的次元への入り口にもなる。

私が知るところによれば、ヒト種の社会に階位がもうけられて以来、最下層の「奴隷」たちが夢をみるとき、それを口にして待望する最初の呪文のような使途が含意されている。だが、記録にのこる歴史をみれば、なりふりかまわず豪勢を誇った貴族やブルジョアジーにとっては「奇跡」などは口にするのも厭わしいふるまいと思われていたに違いない。

彼らは、奇跡にせよ夢にせよ実際に手中にしようとして勝ち取るべき具体的対象物でありすでにその名を知っていた。可能性に語るにせいて、無言で夢見る習性を失っていたのである。言葉にできないものは、収益をもらすこともない。翻(ひるがえ)って「検証」とは何事にも道理と理屈があるとして自然を開発し、食いつぶし世界が滅してさえもいとわないとするヒト科の集団的欲望を、まさにそのまま言い当てた「近代の病い」のことなのである。

近代以降ヒト種は「検証」してみさえすれば納得できるという新しい信仰の歴史に突入してきた。ヒトによっては絶対にあり得ない事象を称して「奇跡」と呼んだり、別のヒトによれば滅多に見られないが、時々見られる事象だと言い、また別のヒトは人生に二三度ぐらいならきっと経験することのできる幸いの事だと抜かして口元をほころばせる。

もちろん、国語審議会なりが奇跡の概念を「検証」しても始まらないわけで、かといってこれほどの意味の差異が放置されたまま平然と公言するヒトの気が知れないというわけだ。滅多に使えない言葉だというたしなみを持つのがメディアをなくてはならない存在として肥大化させてきてしまった、我々の道徳の柱としておかねばならない。

「異議あり」を読んで笑ったのだが、著者10名の中にはかの少年の有様は確かな「奇跡」だと叫び、我が身に奇跡の起こらぬ不遇を号泣して愁訴した暁に、やはり「奇跡」は誰にとってもあり得ない話だと、ささやかな自己内「検証」でも行い得たのか、その後平静に戻って思い直し「無闇に私を泣かせた相手は誰か」とばかりに衆愚を集めて糾弾することにしたと言ってのける「母親」という役目の女傑がいた。 

言っては悪iいが、ここに言葉から見えてくる近代に生き残ってきた仮性奴隷の存在が浮き彫りにされてくる。女は奴隷に成りやすいと言っては差別になるが、これは歴史が証明するところである。話の筋道が通っていないなどと諭しても彼女たちには一向に通じない。ようするに「奇跡」などという概念は、感情の世界から噴出してきた抽象言語の一つなのだから、そもそも理屈もへったくれもないわけだ。以外に奇跡とか検証という言葉こそ、ヒトをかき集め、政治運動に直結させることができ易いのである。さて、すべからく行動を起こすのは、悪いことではない。また初動時の感じやすい心性も、また別に悪いことではない。感じやすいで自分をやりくりしてきて、ここまで過ごしてきたのだから、大方はこの先もその方針でやっていけばよいと思う。

だがこうした感じやすいおヒトがたに一つだけ忠告させていただければ、この先のやりくりとして、最低限分かっておくべきことがあるということだ。時の中に流行している衆愚らの脳内に流行している感情を翻弄され、振り回されることこそ、何者かに支配されている証なのである。そこに言葉、すなわち思想のあらかたが現れてくる。ここでわたしが言う「思想」とは支配者と女郎側の言い訳風言辞のすべてのことに他ならない。

子どもがそうしているように、ずっと黙して思考しなければならないこともあるように、時には世界を相手にしてまでも孤立を恐れず自分を弁明させなければならないときに、はじめて自律風の言葉が現れるのかも知れやせぬ。それこそ強く「美的」な言葉となる・・・と不肖わたしは、そう思う。「始めに言葉ありき」ということを「私」に置き換えてみるならば、言葉とは学校で教えられているほど安直なものではないのである。

少なくても私は仮性であっても真性「奴隷」であっても、そのままの「身分」で良しとするようなヒト種の口から出てくるものを「言葉」だとは認めたくない。「奇跡」に遭遇する度にびっくらこいて腰を抜かしたり泣きわめいたり自分なりのカタルシスを得た後、我に返って、今度は誰が私を泣かせたか「検証させろ」などと叫ぶ手合いのことである。こうした現象も昔から役割分科した「専門家」が「奴隷」たちにそう教えてきた形跡がある。多くの場合、女・子どもを出汁にする。専門家にそそのかされた奴隷達はもっぱら他人の責任ばかりを問うに忙しくなり、いつのまにか堂々たる被害者の仮面をかぶっていたりする。「専門家」との同調関係を主とする取引によって得た「知識」が結構な武器となる。

この先、自分一人で生きて行く勇断をするなら奇跡とも検証とも言うがままにすればよい。いっそ見つからなければカッパライでも、ウソをこくのも知恵のうちだ。その知恵を働かすことこそ、商売とか経済の王道をゆく能力各種となる。だが私が言いたいのは、すでに子どもを成して同じ屋根の下に共生しているというなら、話は違ってくるだろうという世間に対する不信だ。現代において倫理ということを考えて全般の状況を見るに私は首をうなだれるしかない。言いにくいことを言ってしまえば「奴隷」が子どもを育てるべきではないと思っている。

それは金の有無には関係ない。彼らは「奴隷の言葉」を方便として自分を語る。多くの場合、自分を語るより他人を語ることを好んで暮らすヒト種のことである。さて、同書のあとがきに滝本氏は次のような意味深なことを書いている。

昨年(2001年)5月末、5歳直前の四男を交通事故で亡くしてしまった。重度の自閉症かつ知恵遅れ、道路の怖さも信号の意味もまだわかっていなかった。でも少しずつは成長しウンチをトイレですることをようやく覚えたところだった。多動症も激しく、家族は鍵、チェーンや塀まで増設改造しつづけたが、戸外に出るための知恵はひどく進歩し何度目かの大冒険か、探している少しの間に自動車にはねられてしまい、そのまま死んでしまった。一度でよいから「とーたん」という言葉を聞きたかった。文字盤でもいいから聞きたかった。 

続けて、次のように日木流奈さんに嫌味な言葉を投げつけているのである。

流奈君がいつの日か「ママ」「大好き」と言うことを祈る。あの文字盤(FC)でもいいから、ゆっくりでいいから、真実自分の指差しで言うことを祈る。

ようするに流奈さんとお母さんが使っている文字盤はウソであると決め付けたうえでの先に自分の息子さんを亡くしたことの腹いせのつもりかか相変わらず、ねたみと嫉妬を流奈さんにぶつけているにすぎないのである。「異議あり」という本は滝本氏自身が編集したものである。その本の「あとがき」に、ちょうど一年前に5歳になられる息子さんを交通事故で亡くされていることを明らかにしていたのだ。私はそれを読んで、彼が以後「異議あり運動」の急先鋒となったいきさつと心境が一発で分かったと思った。

これが何を意味するか。すくなくても滝本氏自身の私事からわいてきた感情的問題から運動が始まったとみなされても文句は言えまい。滝本氏の私情と以後の運動がまったく関連がないと言いきれるだろうか。夭折した息子さんのかたきを、流奈さんやドーマンを相手に討って晴らすという心証が滝本氏の心の中になかっただろうか。いわゆる「江戸のカタキを長崎で討つ」ってヤツだ。

奇跡の有無について言うならば私は奇跡はあると思っている。長い人生の中で一度や二度なら誰しもに訪れてくるものだと思っている。だが徒党した衆愚らに饅頭を配るような具合にまんべんなくもたらされるような「奇跡」はあり得ない。奇跡と言えるような事象は、それはそれは実に小さくささやかな不思議のことで、多くの場合、我が子によってもたらされるだろう。見返りなしに子どもを育てる過程が嬉しいのは正真正銘の「奇跡の詩人」がときどき胸の奥深くまでたずねてきてくれるからに他ならない。


●さくら 

(酒井健司 神奈川県 3歳)

おばあちゃん
おはなみにいって
さくらのはなが
ごはんのうえに
おちてきたら
どうしたらいいの


「こどもの詩」(花神社 1995年刊 川崎洋編)より

 

さて、「奇跡の詩人」が放送されてから3年が経ちましたが早いものです。あの番組の主人公日木流奈さんも今年は15歳になられた。その後も執筆活動を続けていることと思います。いい本を書き続けてほしいと思いますね。

書くということを行為的に理解するための第一義には、世間でよく言うような才能という問題ではないと思っています。むしろ流奈さんに限っては、すでに何冊も自著を出されているのですから、これはもう彼の場合は職業と申してもよいように思います。

年少の子どもが、あのような言葉は使えるはずもないとか、あのような本を書けるはずもないという、二束三文の馬鹿者どもの的外れな言動がありましたが、そんなことはいくらでもあるのです。

私の経験ですが、次のようなことがありました。小学生の頃だった。夏のある日、町の広場にやぐらじたての舞台がし立てられ演芸大会のようなものがありました。当時はまだカラオケというもののない時代でしたが、さすがにマイクやスピーカーはありました。私は舞台からだいぶ離れた駄菓子屋さんの店頭で友達などとたむろしていた、そのときスピーカーから色っぽい失恋の演歌が聞こえてきたのです。

とても上手に歌っていました。それで、どこのあねさんが歌っているかと舞台近くまで行ってみると、なんと同級生のK子ちゃんでした。不思議な感慨に打たれたものです。私に同年の子どもが、思い入れたっぷりに恋の歌を歌っているのが、不思議でならなかったのです。それにK子ちゃんは、普段は実におとなしい目立たない子でしたから。

歌詞の意味する実態については無経験でありながら、歌詞の意味が、これ以上ないほどに、よく伝わってきてしまうのです。言葉のもつ魔力といいましょうか。さらに言葉に音楽がつくと、とても強烈ななにものになるのです。それは書き言葉、それ自体にも内在されているものではないでしょうか。

歌い手が歌詞の意味をよく知らなくても、ひとたび「歌」という形式に載せて表現してみると、大人の歌い手以上にその意味内容が美化されて誇大に観衆に届いてしまうのです。こればかりは、善悪の問題では計り難いところでしょう。少なくても私には、驚嘆すべき奇跡的な出来事でした。

さて、ネットなどを見ると、いまだに、02/04/28に放送された「奇跡の詩人」という番組は「異常に見えた」とか「いかさま」だと言っている人がいますが、私は素朴に感動を覚えました。

お涙頂戴とも根性物語とも違う、いたってさわやかな感動です。それはまるで大リーグに移籍して活躍しているイチローとか松井選手に代表されるスポーツ選手が一人もくもくと練習に励んでいる姿を見て感動を覚えるのによく似た感覚でした。

最近のその種の番組は、わきでナレーターが、どんどん物語を作ってしまうのではなく、できだけ主人公に話をさせるような傾向にあるようで、これはよいことだと思います。

インタビューに徹する。力士などもそうですね。マイクを向ければ、みんさん、率直によく話をしてくれるようになったからでもあるでしょう。イチローにはイチローからしか、聞けないような話をしてくれる。

これが感動を呼ぶのでしょう。私はスポーツは何もやりませんが、TVで見るのは大好きです。嫌いな種目はありません。見るだけなら、すべて好きです。

すっかりドラマが低調になってきましたから、TVも見てみたいものがないのです。どういうわけか活躍されている選手のみなさんには、知性的な感じがするものです。

昔からスポーツ選手は、ひとかどの話を持っていたのでしょう。自分だけの練習方法を編み出すなり、必ず誰と違った手法のようなものを持っている。そうした自分だけに特化した手法、または考え方を見つけた選手だけが成功していくような気がします。

これはスポーツ選手だけではなく、職業というものすべてに言えることのように思います。誰かが教えてくれるものではない、それだけではおっつかないという場面に立ち入ったとき、別途自分で何かを発見することが、最上の喜びなのです。

自信をもって大人になり、一市民になっていくような気がします。

「奇跡の詩人」の日木流奈さんの話に戻しますと、私はあの番組から、スポーツ選手の隠れた苦労話を聞いたり見たりしているときに感じるものとなんら変わらない感動を覚えたということです。

あの番組について私は予備知識のようなものは全くありませんでした。日曜の夜だったでしょう。

大河ドラマが終わって、すぐ後の番組だったと思います。そのままぼんやりと画面を見ていたら「奇跡の詩人」という番組が始まり。最後まで食い入るようにして見終わったのです。

たいした子どもがいるなぁと思いました。同時に確信をもって親御さん自らの体で、子どもとじかにふれあい、子育てと教育を行っている。一日中ですよ。頭が下がりました。

なぜ、そのように思ったのかというと私の場合は息子がいわゆる不登校で、その番組の放送される二年前までは、数年間にわたって滅多に外に出ることもなく、ずっと家にいたのです。

いろいろと迷いました。それでよいのだろうか。親の務めが果たせたと言えるだろうかと自分の責任を問う毎日でした。でも息子は、学校らしきものには、絶対に通いたくないとガンとして言うことをききません。途中から私の意識と考えが徐々に変わってきました。

ついには、息子の場合は、家にいたほうが、よく育つ。それが息子の場合の教育なのだと思えるようになったのです。

そう思えば、いろいろとやれることもある。無理して外に連れ出さなくてもよいのです。

以後、私が家にいるときは、本を読んで聞かせました。私が朗読し、彼は目の前に座っていてくれればよいという設定です。黙って私の朗読を聞いていてくれればよい。彼も私の朗読が好きになり、続きを読んでくれとせがんでくるようにさえなったのです。さあ、本を読もうかと問うて、一度も嫌がったそぶりをみせたことはありませんでした。

これが二年半に及びました。毎日毎日、2時間から3時間は読みました。約百冊、計2万ページ。終わりにしたのは、息子が定時制高校に入学したときだったと思います。

読み聞かせとか、対面朗読という言葉を後に知りましたが、その言葉だけでは満たされない何かがあった。私は昔から読書はまあ好きでしたが、声を出して読むということは、滅多にやったことはない。

これほど日常的に声を出して本を読むということは、誰しもないことでしょう。これがどれほど、言葉や文学という概念を私の中で新しくしてしまったか。

いまだに明言することはできていないのですが、文学や言葉というものに対する私の意識を根底から変革させてしまったことは、間違いありません。私の中で何かが大きく変わったことは確かです。

「理解」ということで、面白い経験をしました。不登校している息子と対面朗読の話を、友人たちや、同じような不登校の問題を抱える親御さんの集まりなどで、お話しすると、私の意に反して、多くの人が理解できないようでした。そんなことは教育的ではなく、やめるべきだという人もいたほどです。

つまり彼らが言うところをかいつまんで解釈すれば、中学生にもなって親から本を読み聞かせられて喜んでいるようでは成長が遅すぎる。まずは学校に通わせるべきだろうという意見です。私は、もう彼らに理解を求めることをやめました。

これは私たち親子だけが発見した教育方法にしておけば、それでよいと心した次第です。確かに自慢できるようなことはなにもない。無理に理解してもらう必要はさらさらないと得心しました。それにしても、私のほうがよほど楽しかった。

短編をいくつも読むというのは、どうも骨が折れるものです。なるべく長い物語を何日もかけて読むようにしたのです。新田次郎の「孤高の人」、新田氏の夫人である藤原ていさんの「流れる星は生きている」もこのとき読みました。

読んだ本の中でも「レミゼラブル」などは長い物語でしたが、長い物語だからこそ、その後の印象も深く強烈に残り、思い出も長く続きます。

レミゼラブルを全巻を読了したときは親子して、なにか大きな仕事をやり遂げたかのような満足感にひたりました。以後しばらくは、われら親子の会話は、いつもジャンバルジャンの行く末が心配になったり物語中の挿話を引き出しては、何度も語り合ったものです。中学校は卒業式にも出ずに卒業し、どこぞの通信制高校に入りましたが、半年でやめました。

次の年、入学した都立の定時制高校が望外なことに彼の気持ちにぴったりあっていたのでしょう。それに、その学校には小学校以来の地域の友達も通っていまして、実は入学するにあたって彼の強力な後押しあったのです。

入学試験には彼が父兄役で、息子をたたき起こし、連れて行ってくれました。親たる私はなにもしなかった。ノンキなものです。息子にしてみれば、喜んで入学したというわけでもなかったのでしょう。わけもわからず旧友に勧められるままに入学してみたというあたりです。だが、入ってみれば、それはそれは彼の気持ちにマッチした学校だったということのようです。

こうして4年間ほとんど欠席することもなく一昨年に卒業し今は私大に通っています。最終学年には先生方のおぼえめでたく生徒会長を務めたほどです。小学校の4年生から中学校の3年間、計7年間も家に閉じこもっていた子が・・・ですよ。立派なものです。親ばかちゃんりん。

以上の時のことが私には学校とか教育についての考えを血肉化されて規定しているようです。必ずしも学校に行かなくても教育はできるのだという自信がついたと申しましょうか。最後のころになると私は、息子と一緒に家にいることが喜びにさえなってきました。

自分が本を読んでやる。読み終わるとひとしきり本の話を材にした会話ができます。驚いたのは、子どもは記憶力がよいと言いますが、ストーリーの細かなところも、登場人物もすべてフルネームで暗誦できてる。実にきちんと頭に入っているのです。こうして家庭教育というものも隅におけないものだという確信を得ました。奇跡の詩人の流奈少年も学校には行かずに親御さんが、ずっと育て教育していらっしゃる。

そのことにまず、私の場合と似たような環境に共感を覚えたわけでした。子どもの良く見れば一人一人実に個性的なものです。学校に行かないというのも、なにかのきっかけがあってそうせざるを得なくなったのだとは思いますが、それならそれでよいと腹をくくれるまでには、なかなか行きません。

本音はやはり学校に行かないと心配でならない。学校で駄目なら、学校らしきものでもよいとか、弁解しながら探して歩く。とりあえずは、そうしたことはいっさい必要がないと決心しました。家にいて元気にして入ればそれでよいだろうと納得したのです。まだまだ10数歳の子どもです。二十歳に近くなれば、子どもの考えも変わるでしょう。いずれにしても正規の学校に通う、または入学する、卒業するとうとうの形式はできるだけ押し付けないように心がけて、様子を見ていたというのが真相です。

このように取り立てて障害らしきものもない子どもでも、ずいぶん違っているものです。ましてや心身に障害を抱えた子どもとなれば、肉体的な見てくれからしても、さまざまな個性というものが自ずと、他人や親御さんの目にも触れているわけです。これをどう理解するかという問題があるように思います。

われわれ個人に与えられた「私」性などというものは本当に狭い視野しか持っておりません。自己正当化や保身が強ければ視野はますます狭くなります。

だが、実際の世の中は、これまで逢ったこともないような新しい才能や見たこともない諸相をしめす人たちが、どんどん登場してくるのです。古風な固定観念に囚われているわれわれが新しき人間的諸相を、受け入れることができずに反発しているだけなのです。

 

 

<2005.10.15 記>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ▼意外に短気な老小児科医 | トップ | ▼深川鈍角屋台のおでん屋 »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
わぁ (流奈)
2016-06-24 13:51:01
こういう人が世の中にいるからお金を騙し取りやすいんだよね。人生楽勝〜♪♪
Unknown (Unknown)
2016-09-13 06:46:45
オレオレ詐欺にも簡単にひっかかりそう♩

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む