大江戸八百八景

時雨かな銀杏ひらふ団塊の背においたるやふる里の香を


▼ポピュリズムの台頭

2016年11月02日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

<以下 2009.07.28 記>

 

ポピュリズムなる単語がジャーナリズムに飛び交っているが、いずれにしても語源はピープル(人間)であり、ポピュラー音楽という場合のポピュラーもそうだし、おもしろいのは日本語の「人口」を英訳すると「ポピュレーション」である。これはいささか強引な感じがする。人口とは、文字通り「人」の「口」の数のことであろう。口は口でも、この場合は、くっちゃべるための「口」ではなく、ものを食うための「口」である。確かに、一人にひとつづつ食べるための「口」がある。食い扶持(ぶち)に相当する「口」のことだ。だが英語のそれは、「口」というよりは、頭のことではないか。文化の違いとは、かくものなりや。西洋では、人を頭数で数えたのである。わが国の場合、人の数を数える場合、その「食い扶持=口」をもって数えたのである。いまや悪しき「人頭税」とは西洋に発するのは周知のことだ。このように、西洋では人を「頭」で数えてきた。さて、ピープルから派生した類語はたくさんある。ポピュラー音楽が、大衆音楽と訳されているように、ポピュリズムも、もとはと言えば人の頭数に依拠された類語である。よって「大衆思想」とでも言っておけば、より正確だろう。ところで、大衆とは「国民」という概念とはやや違う。されば、いったいぜんたい大衆とは何なのか。それは誰にも分からない。人の数のことなのか。さもなければ人々が主張する欲望の発露の出口ちかくにあるものか。または、それらの言説を寄せ集めたものなのか。だが、これでは、まるで「お化け」ではないか。それで、この際「ポピュリズム」を、いまや辞典馬鹿になりきったネット上の某サイトで見てみると、次のように書かれてあった。

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ポピュリズム (Populism) は、政治学概念の1つであり、政治過程において有権者の政治的選好が直接的に反映されるべきだとする志向を指す。エリート主義(elitism)に対する対概念である。代表的事象としては、19世紀末~20世紀初頭のアメリカにおける革新主義運動が挙げられる。なお、この学術用語が転じて、マスコミにおいては「衆愚政治」という意味で用いられることもあるが、その場合の「ポピュリズム」の定義は曖昧であり、単に支持率の高い政権を「ポピュリズム」と表現することもある。ポピュリストは、既存の政治エリート外から現れることが多い。選挙戦においては、大衆迎合的なスローガンを掲げ、政党、労組等の既存の組織を利用せず大衆運動の形を採る。ここでは、しばしばマスコミを通じた大がかりな選挙キャンペーンが打たれる。ひとたび政権に就くと、ポピュリストはいわゆる既得権益への攻撃(民営化、大企業の解体、規制緩和、減税、外国資本の排除、資産家に対する所得税率の上昇、反エリート・官僚キャンペーンなど)を行う。経済政策に関しては、近年は南米の諸政権の様に財政肥大化を伴う労働者層への政治的・経済的厚遇(平均賃金の上昇、年金政策の強化、医療・福祉の充実など)を行うなど、左派的な側面の強い政策を行うものが代表的なものとして知られる。逆に、ポピュリズム的な既得権益を攻撃するスローガンを掲げつつ新自由主義的な改革を推進することもある。
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ポピュリズムについての上記サイトが解説している意は、一応踏まえておくとして、わたしの懸念は、多大に残されている。上の写真記事もそうなのだが、一言のもとにいうなら馬鹿馬鹿しい限りではないか。数の成果さえ上がってくれば、それでよしとするのが、この手のアンポンタンの処世術である。ネット上ばかりではない。ジャーナリズムをはじめ、マスメディアは言うに及ばず、話を始めるやいなや、最初からポピュリズムを前提した上で、とっかかってくる。実際、ネット上などには、ポピュリズムとデモクラシーを混同して偉そうにくっちゃべっているアンポンタンが相当数いることに、昨今のわたしは大いなる危惧を抱いている。ポピュリズムとは、早い話、安かろう悪かろうという大昔からの真理を、まずはもって隠すことから、話を始める手法のことで、あるらしい。結果も真理もどうでもよい。目標数(政治家=選挙得票数、経営者=純利益)さえ達成できればそれでよい。早い話が、人気取り政策のことである。だが、これでは、まるで「子供だまし」だ。こんな安易な「机上の空論」に載せられて、すでに成り立ったかのような幸福を感じてしまう、大衆というものの馬鹿面を見てみたい。

大衆とか人の数を根拠とする「ポピュリズム」というものが近代思想の支柱となっている感がある。逆に言えば、思想などという腹の足しにもならない観念物が、大衆化されてきた結果だとも言えるだろう。高じれば無知な大衆が、無知な大衆を相手に「よいか悪いかただすーか」と喧々囂々と議論している見苦しい様相を呈してくる。フランスはクーベルタン男爵が、古代ギリシャのスポーツ大会に擬して国際的大会(近代オリンピック)を再開させたおりに述べた「オリンピックは(勝敗よりは)参加することに意義がある」とする名言はアマチュアリズム(大衆参加)に対する賛辞というよりは、やはりポピュリズムに根をもっていたように思われる。もちろん「多数決の原理」などは、ポピュリズムの典型例だ。さらに、いまやあらゆる現場でまかり通っている「数の論理」こそ「ポピュリズム」の根源であり、かつ濫用なのである。だが考えてもみたまえ。数の多寡と人の幸福は関係がないではないか。一人の人間は、一つの口をもって、人生が足りているように、いつだって必要なものが、一つだけあれば足りるのである。青少年にとって授業料が安かろうと高かろうと自分の通う学校は、ひとつだけだ。授業料の多寡をはじめ「数の論理」に基づくあらゆる俗論と、教育の実践的価値は何の関係もないということを知らないのはポピュリズムに頭がやられた政治屋と一見小ざかしげにくっちゃべって憂さを晴らしている矮小な大人たちのほうである。

27日になって、以下のような報道文を読んだのだが、これは図星だと思う。

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麻生太郎首相は27日夜、民主党のマニフェスト(政権公約)に盛り込まれた子ども手当の支給や公立高校の無償化などについて「財源(の裏付け)が無責任で、極めてあいまいだ」と批判した。また、インド洋で給油活動を続ける海上自衛隊の撤収を同党が主張していたにもかかわらず、マニフェストに明記しなかったことに関しても「『ぶれた』と言われることになる」と指摘した。首相官邸で記者団の質問に答えた。(時事通信)
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ただし、麻生現首相にしても、先般「定額給付金」などという前代未聞の愚策を講じて国民から笑いものにされたばかりであり、ようするにどっちもどっちなのである。ま、わたしは個人的には麻生氏のことは嫌いではない。迫りきた総選挙においても、どちらかに決めろといわれれば民主党よりは自民党を選ぶだろう。麻生氏については首相になる以前から親近感を覚えたほどだった。それに現在わが国の政治的性格からして、首相をはじめ政治家にカリスマ性は不要であり、むしろ麻生氏のような少々ぬけたところのある凡庸な人間のほうがリーダーとしてはふさわしいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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