大江戸八百八景

赤とんぼ筑波に雲もなかりけり・・・子規





▼分かりやすいということの罪

2016年08月23日 | ■イデオロギーの穀潰し

宮本百合子がソビエト留学から帰国(1930.11月)した直前に書いた「子供・子供・子供のモスクワ」と題された短いエッセイがある。このエッセイに挿入されていた「未来都市」のイラストは、星型の城壁の中に息づく未来都市である。学校あり工場あり、宿舎あり、スポーツ施設ありというものだ。

図を書いたのはソ連邦共産党が組織した少年団「ピオニール」に所属するユージェ君というモスクワ在の少年である。百合子は次のようにユージェ君の星型都市計画を、社会主義的であるとして大真面目に絶賛している。

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ちょっと、この小地図を見る気はないか。

A  労働者住宅
B  ソビエト農場「ピオニール」
C  運動グランド
D  労働者クラブ
1  天文学校
2  小学校
3  中学校
4  職業学校
5  託児所
6  子供の遊び場
7  ピオニールのクラブ
8  レーニン記念像
9  発電所
10 紡績工場
11 染工場
12 皮皮工場
13 織物工場
14 ピオニール野営所

もちろん、モスクワでもミンスクでもない。

雑誌「ピオニール」が子供たちから「私たちはどう暮らそう」という題で募集した社会主義的計画のひとつである。

社会主義的都市建設はCCCPにおいて計画から実現の時代に移っている。

ウラル・ドンパスその他、新興生産中心地だけはすでにいくつかの新都市が生まれた。

そこにもモスクワより合理的な生活の新様式があるのだが、このユージェ君のプランは、面白い。ソビエトの少年が、かの集団的生活、家庭における生活の実際経験から、社会主義的生活の理想のためにどんな都会を要求したか。

この「赤い星」形の樹木でかこまれた工業的都会は農村とどう連絡しあっているかを、市民の生産的社会労働の核をなすさまざまな工場が、その性質にしたがって或るものは川岸に、あるものは住宅近く配置されている点を注意してほしい。

ユージェ君は託児所について特別の関心をはらっている。大人のための労働者クラブは住宅区域の内に、ピオニールのクラブ、学校、子供の遊び場その他は東側の二隅に、すっかり分類されている。

大人の生活と子供の生活との間にある間隔の欲望、これは現在ソビエトの意識からある若い時代共通の望みだ。

ソビエトである程度以上年齢の差のある大人と子供は大人子供というより、根本的に世界観の違った旧人間と新人間の差である場合が多い。

彼らは社会主義国家の働き手として健康な集団生活の中で必要な訓練を安らかにうけることを望んでいる。

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以上、新日本出版社刊「宮本百合子選集 第8巻」より


そこで、百合子の文章に対してわたしが言いたいところは、冒頭のタイトルに尽きているのだが、ようするにユージェ少年の書いた未来都市の構想図は、百合子にとっても人々にとっても、実に、分かりやすいという、その一事だけのことなのである。言ってみれば社会主義というものが、その一語に尽きているのであろう。分かりやすい社会のことである。己にとって分かりやすければ、それでよいのである。当然、文化に表象される風土と歴史などは捨象されてしまう。考えても見たまえ、ロシアにはロシアの、モスクワにはモスクワの歴史に裏打ちされた文化や風土、人々の意識というものがあるはずだ。

これを少年の他愛ない願望は、一顧だにしない。できないのである。総じて子供というものは、歴史というものを痛切に感じることは、できないものである。土地土地の風土と文化には、社会主義や革命思想なのでは、とうていおっつかない重々たるものが流れている。これを知らないかぎり未来について、何を語れる資格があろう。歴史を考慮しなければ、社会というものは限りなく単純化することが可能だろう。だが、見てくれだけのことだ。目に見えるだけのことではないか。分かりやすく見えるというだけのことではないか。分かりやすいということと、人生はまったく別問題である。

分かりやすいということと幸福の到来は別問題である。昨今、世界の革命運動が、ぽしゃってしまったのは、こうした見えない歴史的力量に逆襲された結果だと私はそんなことを考えている。社会は社会科学者にさえ、実のところ、何も見えていないのである。自分の人生が一向によく見えないように世界や社会というものも、よくは見えないものなのだと、思っておくべきだろう。

見えているはずだというのは、傲慢が過ぎるというものだ。そのように思い込んでいるだけのことである。世間とは何かが、よく、分からないのは、どのように歴史が流れてきたかが、分かっていないからである。社会とは現象ではない。少なくても現象に集約することはできない存在である。他者という人間もそうだが、一目見れば分かるという、そういうものではないのである。

学問的に、どれほど深く研究しても結論は、すべて指の隙間から落ちこぼれていく。なぜなら社会というものは、生きているからである。それも水面下で、とうとうと流れている。また、日々、息づいている生き物だからである。水面下を、見ようとしなければ、歴史など、何一つ見えるはずもない。

わずか3年の滞在で、百合子にロシアのなにが分かったというのか。脳に描いた都市を、紙に写すだけなら、どんな構想図でも描けるだろう。百合子が好んで使っている「分類」という手法を用いれば、それこそ地図はいくらでも簡略化でき子供でも老人でも描けるのである。ユージェ君の描いた地図に、私がなによりも不満に思うのは、酒場、映画館などの娯楽施設が描かれていないことだ。笑い事ではあるまい。これではまるでヒトラーが作ったゲットーに紙一重ではないか。<2006.05.02 記>

 

だがしかし、分かりやすいという罪は現代にも多々起こる。

2005年のことである。世田谷区民会館にて一大集会がもたれた。壇上には江川紹子さん、滝本太郎弁護士などが顔をそろえていた。2002年のNHKテレビドキュメンタリ番組「奇跡の詩人」以来、当の番組をめぐって、アオスジ立てて、当の番組はウソだと、根底的に批判し否定する滝本太郎氏も面を出すということで、彼が何を言い出すのかと遠路はるばる、わたしも集会に参加してみたのである。彼は話をしたのか、しなかったのか、今となってはよく覚えていない。わたしが面白かったのは、茶番もどきの手品師の手品のことなり。

シンポジウムの前半は立命館大学教授の安斉育郎氏の基調講演。話が一般向きでとても面白かった。教授は手品が趣味と自慢するだけあって、講演中なんどかスプーン曲げを実演なさっていたが、70年代旧ソ連(ロシア)の出身で「超能力」によるスプーン曲げの妙技を一挙に世界に広めたユリゲラーも顔負けの見事な出来映えだった。安斉氏のお話をもとに私も集会から帰宅してさっそくスプーン曲げをやってみたら、できた!タネを明かせばテコの原理に尽きる。すると、スプーンの一番細く弱い首の部分がいとも簡単に曲がってしまう。

後半は左端の江川紹子さんの司会で始まったシンポジウムである。写真が遠くて表情までは分からないのだが右端が安斉教授。その隣りにオウム真理教事件のおり大活躍されて名を上げた滝本弁護士が座っていたのだが終始なにか落ち着かない様子で、この寒空に汗でもかいていたのか、しきりにハンカチで顔をこすっていた。

さて、安斉さんという科学評論家が、集会の前半で講演しました。司会の紹介の後、安斉さんが演台に向かって歩いてきました。あれっと思ったのは、左手にキラキラ輝くなにか金属を束ねたような物を持っているのです。演台に到着すると、その金属の束をいかにもこれから講演するための大事な道具であるとばかりに、これみよがしに音を立てて演台の上に載せました。話は70年代に、例のスプーン曲げで一世を風靡したあのユリゲラーのことでした。安斉氏は、さっそく携えてきた、スプーンをいとも簡単に曲げて見せてくれたのです。

誰でもスプーンは曲がるのですと、強調しました。だから・・・と言うのです。TVに出て儲けたロシア出身のユリゲラーは罪深い者であるかのごときに決めつけ、さんざんに詐欺師だぁ、食わせ者のだましやの手品師だぁと。どうやら演台登場のさいの持参したスプーンは10本以上であったようで、何度も何度も見事な「手品」を実演してくれるのです。1本曲げては、ユリゲラーを攻撃するわけです。ねっ、簡単でしょう。誰もできるでしょうと言いながら、またいとも簡単に手品を実演してくれるわけです。

これが科学者?おそらく安斉さんは、全国行脚の講演の旅。3日に明けずスプーンを曲げているのでしょう。ユリゲラーの詐欺を糾弾するという「名」のもとに。だけど、どうも変だ。あなたこそ、ユリゲラーのお陰で、こうして手品をしたり講演したりして飯を食っているんじゃないのかい?と。騙されてはいけませんと言いながら、月に数十本のスプーンを問屋から買ってきて、それでスプーン曲げ手品の二番煎じを演じて・・・・それで飯を食っているのが・・・あれまっちゃ・・・科学者たるあんたじゃなのかね。師匠たるユリゲラーを攻撃して、自分で手品やってる。もしかしたら、世の教師なんたるものの本質もここにあるのかにゃ?彼らこそ衆愚の心を撹乱して危機感をあおり、「正しいこと」はオレだけが知っている顔して、講演したり手品を演じたりして、売名し、本を出したりよ。これで商売しているのかにゃ。

こうした疑問が大きくなってきたわけです。「正しい」と言われている、彼らこそ不正な存在なのではないかという根本的疑問です。彼らこそ「抑圧する側」に立っているのではないのか!実は抑圧している側でありながら、抑圧された側に立っているという思いこみがある。ここから差し出がましい独善的な「正義」の言辞が出てくる。科学も理屈も、傲慢と独善に偏っていては、たちどころに似非科学となる。

安斉氏はユリゲラーの手品をパクっているに過ぎないのである。それ以上でも以下でもない。昔の名前で出てきた、二番煎じの手品師だ。集会に参加した私は安斉氏の手品(似非科学)にまんまとだまされるところであった。

安斉なにがしより最初のスプーン曲げの技術を開発した正真正銘の手品師ユリゲラーのほうがなんぼか偉いか。

これ安斉なにがしよ。科学に名を借りて二番煎じの手品に興じてなんぼのお前さんは、どう思う。

人の技をパクッてばかりいないで、たまには独自の新しい物事と法則を考察してみるのが科学ってもんじゃないのか。おい、茶番科学のブタ饅頭。

<2006.01.10 記>

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