大江戸八百八景

歌は世につれ世は歌につれ

▼ヴォーカル大好き<生まれかわって天竜の水に>

2016年11月26日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

 

 

ここ数日というもの「東京大衆歌謡楽団」の動画に夢中なのである。

https://www.youtube.com/watch?v=_smJ9m57bRw

当動画は、四年前のことである。このとき、彼らは最高の芸能団であったに違いなかった。だがその後、ご多聞にもれず当楽団は「有名」となり、やれCDを出しました、やれラジオテレビに出ていますと大手メディアに引っ張りだこになってしまった。そうなると必然のことながらエレキによるマイクを強制され電気拡声器を使い出す。こうして無残にもせっかくつかまえた「芸能」の本質から、どんどんと遠ざかっていってしまうのではないかと案ぜられる次第。 

 

以下、コメント欄より

▼静かにしなさい (今井政幸)・・・・・無知の爆発だ。インターネットやパソコンのモニターから芸能の本質なんてみえないよ。

 

▼芸能の本質 (かもめ)・・・・・ネットやパソコンのモニターから芸能の本質は見えないとの今井の言は、そりゃ反対現象のことですよ。では、今井に聞くが、芸能の本質以外の何が見えるのですか、ネットやパソコンモニターから。お前が申しているのは、芸能と言うより芸術のことかもしれないな。たしかに芸術というなら、それもその本質というなら、ネットやパソコンモニターなどからは、見えないものなのかもしれない。だが、拙者の場合は、芸術なんぞという概念は、そもそも相手にしたくもないオカルト現象だと決め付けているところなりけりよ。芸術なんぞ、この世にあってもなくてもどうでもよい、腹の足しにはならないイデオロギー上の産物だ。われら下等な動物のヒト科にとって、衣食住に続いてなくてはならないもの。それが芸能にごわすよ。芸能の本質にござるよ。

 

▼インテリ嫌い(今井政幸)・・・・・ 低学歴で頭の悪いかもめが反芸術のインテリコンプレックスなのはしかたないとして、結局人生の最後の最後にたどり着くのは自分は何者なのかという問題だ。インテリなんてさほど憧れの対象でもなんでもない。知識を誇ったところで弄られてお笑いの対象にされるだけだ。つーか、例えば経済でノーベル賞を取る程の学者はいっぱいいるが誰一人としていまの経済不況を解決出来ない。真のインテリなら無力な自分の不明恥じて学者を廃業するだろうにそんなきとくな御仁もいない。全てはコンプレックス満載のかもめの心の中にある妄想がばかもめを苦しめているだけだ。コンプレックスこそが人間の発達進化の原動力なのだが、自分が自分にする重圧に耐えかねて大概は進歩を止める。でっも、ただの人でもいいじゃないか。かもめは、無理するな。自分の言葉に自信がないなら 。大衆演歌に依存して、これを芸だと思い込んでいる島国人をして下劣な生き物とカテゴリーして他人を否定する自分を擁護する心の流れにヒントがあるよ。とにかく静かにしなさい。かっこして笑すれば優位になれるのかな。もうやめなさい(笑)。世間知らずの傲慢高慢なばかもめは平等という粋を知らない。ばかもめがこれまで歩んで来た道は絶対絶対ばかもめが受け入れらないばかもめにとって不都合の世界だったからだ。ばかもめは、真面目に、時代遅れについて考察した事がないのか。

 

▼大衆演歌と平等史観(かもめ)・・・・・ 「平等という粋」とは何事かね。平等概念に粋なんて言葉をつかっては、それこそ無粋といわれても文句はあるまい。無粋ならまだよいが、そりゃ相当の馬鹿だよ。間違いなくアホだ。いいかい、平等は美に反するものだよ。残念ながらね。平等が担保されるのは、せいぜい貨幣においてだ。日夜、今井君の頭の中を駆けずり回っているカネさ。カネだけだぜ。平等なんてものを証明できるのは。されば平等なんてものこそ無粋の最たるものであろう。よく考えて御覧なさい。

さて、わたすは自分で自分のことを、どれぐらい知っているか知らないかは図りようはないけれど。自分が経てきた過去のあれこれの思い出の数々は、幾千万という記憶の場面を伴って、わたしをわたしたらしめている。これらを踏まえて改めて思うに、別にとりたてて人に比べてご立派なところなんぞは何ひとつないことは自分でよく知っている。それでも自身のことを拒否はしませんよ。もともと度が過ぎるほどの楽観主義者でした。70近くまで来て、だいたいにおいて人に恵まれ、健康に恵まれて生きてこられたと思っています。そこそこ幸福だったような気がします。これ以上の、なにを自分に望めるというのでしょうか。

もちろん多少は自分に対する不満が無いとは言えません。それは、いまのところ一編のましな文芸作品すら書けないで、のうのうとしている、というあたりですね。その点が、不満と言えば不満なのですが、書かなければ作物が産まれないのは当たり前の話です。作物を産み出すには、苦しい作業が待っている。その苦しさを、どうも根が怠け者なので、さけて通ろうとしている現状に、いささか不満を持っている。ここに、よく言われる才能の限界というものが存在しているのでしょうね。

また行為という問題があるのだと思っている。行為もまた才能を裏打ちする重要な要素ですからね。行為しなければ、何事も始まらないのは、よく分かっているのです。まっ、もう少し生きられるでしょう。苦しい作業に自己を鞭打って向かわせることができるか。それとも、いつものように酒をかっくらって寝てしまうのか。考えればいつだって面白い自己省察の場にさらされてきたのです。わたしは、どちらの自分も、おそらく受け入れられると楽観しています。自分が、どうしても嫌いになることだけはできないのです。自分に甘いのでしょうね。これも才能のうちなのでしょう。楽なことばかり考えている。その代わり、かなりうぬぼれが激しい人間だと思っていますよ。何の価値も無い最低の男であるとは思ってみたこともありません。ほとんど何もしてこなかったことは確かですが、意外に、この年になっても、いつか見ていろなどと、まれに気張ってみたりすることもあるのです。

それに時代遅れの精神性でなにが、どうした。わたすは大江戸に住んでいるような気がしてならない。江戸ではないぞ。大江戸だぞ。「大江戸流行歌全集」でも読んでみろ。脳の足りない今井にも、芸能の本質というものがよく分かるだろう。

 

亀目は言ってることがいつも欲求不満ばかりだから、わたすんとこの掲示板で別名を使って書き込みしても、記事を読めばすぐ亀目だとばれてしまう。よほど毎日くだらない日々を送っていることよの。あほらし老人だ。


その通り。図星にされてしもうたわい。さすが今井殿はするどい目を持っている。まっ、許せ。間違いなく拙者のばやいは、欲求不満のかたまりだ。それに毎日くだらない日々を送っている。だが、よく考えてみたまえ。欲求不満のどこが悪い。くだらない日々以上の美しき日常があるとも思えないのである。くだらない日々の、どこに不満があるのだ。くだらない日々で、大満足しているのだから、他人に口を出してほしくはないものだ。どうやら今井君は、わたすのことを買いかぶっているようだね。拙者のばやいは、足の先から頭のてっぺんまで、何一つ取り柄のない、くだらない男なのであったのだったし、毎日がくだらなくて、ふんでこれ以上の満足はないと本人がそう思い込んでいるのだから、ようするに誰がなんと言っても、これでいいのだ!

すでに保護者のいない鴨目は、会社がこいついらないと判断すれば簡単にクビとなる。クビとなって生活の糧を失う罰を受けるのは鴨目自身だ。

保護者ってのが良く分からんが。半年ほどめぇに95才にして大往生を遂げた、おいらのかあちゃんのことではあるまい納豆。無理を言うなよ。かあちゃんは痴呆症だったんだぜ。痴呆症の年寄りに保護者もくそもあるまい。オイラの場合、自慢じゃないが保護者も財産も田舎もなにもねぇんだ。そうして、やっとこすっとこと、ここまで年をとってきたんじゃねぇか。これぞ、めでたいことだとは思わないのか。

それに会社を首になる、首になると、えらく意気込んでいるが、そん時は、そん時だろうっつーの。仕方もあるめぇ。性格の悪い会社だったとあきらめるより他には、なにがある。もつろん法に照らして会社側のやり口は理不尽だという確信があるなら、裁判でもなんでもやってみればよい。そうだ、そん時は拙者のばやい、大昔に知り合いになった滝本太郎さんという実に立派な弁護士さんがいる。首になったのが承服できないときは、滝本さんに依頼するのも手だわな。おっと、やめておこう、滝本さんには能力が足りてなさそうだ。別の弁護士さんにお願いしようと思っている。

今井君は首が落ちるとか首が回らないとか、他人の首がよほど気になるようだが、昨日も書いたように、そん時はそん時なりに対応するしか、ないのであって、雀の涙の年金でも、ないよりはましだ。これを元手に、拾ってでも食っていくぞという覚悟を表明したまでのことなりや。

とは申せ、対応策のひとつふたつは考えておかねばならない。70を越えて首になった暁には、まずは、今井君の芋に期待すること大なり。70になった翌日あたりから、以後、三日に一度は、芋を送っていただきたい。たまには、米も送っていただこうじゃないか。芋ばっかりじゃ栄養不足で、体が衰弱してしまう。それに、最低限の味付けは必要だ。味噌も醤油も頼むぞ。

このような対応策が、まず頭に浮かぶのも、今井君の人徳というものであろう。遠い親類より、近くの友達が大切だとは、拙者にとっては、今井君のことであったのだった。芋の心配も米の心配もしないで、晩年をすごし、そして無事往生できるとなれば、もうこれ以上の何か望むものなどなにもない。墓場は無用だ。このような実に、さっぱりとした人生を過ごすことができそうなのも、今日まで今井君との友情を大切に育ててきた結果に他ならない。

これからも、よろしくお願い申し上げる次第にござる。いずれにせよだ。そう案ずるな。死についても、おんなじだぜ。死ぬときは死ぬ。じたばたするなってことよ。今井君は、生活の糧を失ったらどうするのかと戦々恐々たるご心配のようだが、これまた、そのときはそのときさ。仕方もあるまい。そうなっちまったんだから。ま、食い物については、拾ってでも当分の間は命をつないで、いこうという意欲と根性だけはありそうな気がしている。そうしたときに試されるものこそ根性と精神だ。汚れ役も引き受ける懐の深い根性が必要だぜ。そうして初めて生きるってことが輝いてくるんじゃないのか。さすれば誰しもが輝くときは輝くのだよ。なにも地位が上だとか、金餅土地餅だけが偉いとは、全然思っておらんからな。拙者の場合。今井君のばやいはどうであろうか。「新潟出身 株の泥沼 ここに永眠する」なんぞと墓石に書かれて、それでよいなら、それでも、よかろうかい?

亀目はいったいなにをしにこの世に生まれて来たことやら。

そこだよ、本質の問題は。われながら若い頃から、自分自身にその問いを問ふてみたことは数知れないのであったのだった。だが一向に、この年になっても、うまい答えを見出すことができないのである。どうしたことであろうか。さきに拙者のばやい、耄碌がすすんでいると告白したが命の先は短いのであって、無理して難しい問いに答える必要は、皆目あるまいと断念したところなりけり。
問うことを止めたというのではない。たまに、問いてはのだ。だが、答えが出てこなければ出てこないで、それでよいのであると、わが身に観念を心したのであったのだった。よって、なにゆえに息をつきつき、心の臓が脈打っているのかは、何ぼ考えても知らぬ存ぜぬ。されば、おめは何のために生きているのか、という問い自体が、一種の念仏のようなものだ。深い念仏の意味は知らないでも、念仏を唱えると、一定程度気持ちが安らぐのは確かなのだから。さても、今井君はどうであろうか。今井君のばあいは、なにをしにこの世に存在しているのだと問われて、答えがあるなら、それに差し支えなければ、正々堂々と発表してもらいたいものである。もちろん無理は禁物だ。答えたくなければ、それでよい。

これからどう亀目が人間的に劣化していくかがお楽しみだ。

今井君もたまには本質的なことを言う。君は僕の、僕は君の、互いの劣化を、互いに笑いあい、嘲笑しあい、小ばかにしあい、これを楽しみながら生きていける幸せがある。これぞネットの醍醐味というものさ。

いずれにしてもだ。まっそうつっけんどになるなよ。君と僕との仲ではないか。インターネットの確立時から始まっている。二十年越しだ。よくも、これほどまでの能タリンかつ算段バラのアホを相手に飽きもせずに付き合ってきたものだとは、一応のところは、思うのだ。察するに今井君も俺も脳タリンの同類だということは間違いない。同類は同類を呼ぶと言う。まっお互い、無理をしないでやっていこうではないか。アホ仲間として、これからもよろしく頼む。なにせ。今井君を見ると小馬鹿にしてみたり、からかってやりたくなって仕方ないのだよ。これは、例の有田ヨシフに対しても同じだ。どうも滑稽に見えてならない。黙ってやりすごすことが、出来かねるのだよ。

昔っからわたすは口が軽いので人様から信用されなかったのだった。性格は軽薄そのものだとガッコの先生から何度も指摘された。だがな。これはもって生まれた性格なのだから、いまさら、変えろと言われてはいそうですかというわけにも行かないだろう。無理は禁物だ。またスケベ根性たるや度が過ぎるとの指摘も何度となく耳にした。無学でスケベで口が軽くて読書嫌いの演歌好き。これで、金持ちになれるわけがない。

いずれ、これらのマイナス性向は、逆転の発想を生かして、趣味と念じる文章や写真撮影の表現活動の中で有効に生かすことはできないものかと、そのように考えているところなのである。それにオイラの耄碌は、ここにきてだいぶ進化したきたようだ。考えておかねばならないことは、誰にとっても間違いなくやってくる、もう一つの客観的真実とは、おっつけくたばってしまうという幸不幸である。よって、今井君にも、くれぐれとお願いしておくのだが、友人を自負するのなら、できるだけ甘えさせてはくれまいか。おいらも偏屈が高じて、どうやらだいぶ世間を狭くして、生き恥さらして日々をすごしているのである。今井君から、見放されたら、今度は、だれを相手に小馬鹿にしたり、嘲笑してやればよいのだろうか。

世間は広いとは申しても、今井君ほどの、こういっては誤解を招くかもしれないが、いわゆる面白い人は滅多にいない。その点だけは、自信をもってネット活動にまい進してもらいたい。ああ、それにしても、よくぞここまで年をとったものだ。自分で自分を笑ってしまう。一般に笑うことは精神衛生上よいことだ。今井君も一緒に笑おう。

ばかばかばかばか馬鹿ばっか ばかばかばかばか馬鹿ばっか 


馬鹿馬鹿言うな。いま、わたすは、叙々苑で焼肉ランチを食べて帰ってきたのだ。一人12,000円の焼肉ランチにみなは美味しいねと満足しておった。むろんカネはみなわたすが払ったのだがこの日、みんなの満足を引き出せたことだけでも、わたすがこの世に生まれて来た意味と価値はあったのだった。
 かもめは頭を使え。わたすは金を使う。かもめに信用はない。ばもめは、自分がやってることに恥を感じないかね。で、貧乏人のかもめは、どうやればわたすのようにカネが儲かるかを知らない。


まさに、その通りなのだがね。今井君。どうやったらカネが儲かるか、すなわち金儲けの奥義だけは、学校教育の中でもそうだし、一般に誰からもまた誰しもが、誰にも教えたがらないものだと思いますよ。実際、一般に、「カネが儲かる」理屈というものは、個々人にとっては、埒外の話ではないのだろうか。カネが儲かるという次元と、勤労という次元は別のものだと思いますよ。一所懸命、働きさえすれば、カネが儲かるとは、誰もが思っていないのではないでしょうか。カネを儲けるというのは、大仕事のような気がしますね。

一世一代の大ばくちでも打たない限り、そうはやすやすとカネは儲かるものではありませんよ。今井君。つまり今日的に言えば、投資だ。もちろん競馬競輪でもよいだろう。だが、これらに手を出しても、必ずしもカネが儲かるとはかぎらない。一挙に、財布が空になるときもある。

よって、カネが儲かる仕組みを知らないのが貧乏人だと決め付けるのは、いかがなものかと思いますよ。今井君。人々の多くは、少々の貯金を残して、その日暮らしのようなものではないのですか。月々の収入は、賃金の多寡によって決められている。定年退職が宣告されるまでは、ちゃんちゃんと会社なりに通って、給料をもらって、また次の月へと移っていく。これを繰り返しているのではないでしょうか。

盆と正月にはボーナスがでる企業もあれば、ない企業もあるでしょう。こうした収入の道を、黙々と歩んでいるのが、多くの人たちではないですか。そうした人たちは、さほどの金持ちとは言えないと思いますよ。金持ちでないから、貧乏人だと決め付けるのはまた、あまりにも幼稚な理屈だと思いますよ。

それにしても腹が減る。今井様 今井様。ここは一つ、よろしくおねげぇすます。なにしろ、学がないもので、この年になるまで、カネのことなど、何一つ考えてこなかったような按配で。いよいよ貧乏が身にしみてきたところだす。あんまし小難しい教育はごめんこうむりますが。そこは、学の無いわたすに合わせていただき適当に按配よく御願います。さても今井様、腹が減ってはいくさはできません。どうか、まずしいわたくしめに焼く肉を食わせてやっていただけないでしょうか。おねげぇします、今井様。どうか焼く肉を食わせてやってくだせぇ。焼く肉さえ食わせていただければあとは今井様の言うことならなんでも聞きますよ。わたすはウソはつきません。ああ、よだれがたれる。それに、生ビールも飲ませてくだせぇ。一杯だけで、ええんだす。あとは自腹を切って安い酎ハイでもかっくらうつもりだす。ああ、一生の思い出だ。


ここなんだよね。貧乏人を再教育というか、カネが儲かるノウハウ、博打じなくて、ただひたすら真面目に働くそのノウハウ。これを教えないから定職につけない。6月は、株の配当金が入るからみんなに焼肉屋に行くかと問うたら、ぜひ行きたいという。んじゃ7月のいつにする?と聞いたら2日か30日というから2日ってことで焼肉屋に予約した。豪華セットというコースランチを。すかす、ばかもめなんかカネもないし、生活費を稼ぐのにひいこら言っている。

その「ひいこら」が、わたしの血肉となり真性の汗ならば、やがて歌になり道徳となり、ときには哲学にもなるのです。職業に貴賎のないことが、このことから分かるのです。貨幣の力をうやまうあまり勤労の悲喜こもごもを過小評価しては幸福が逃げていきますよ。今井君。

わたすなんか入ってきたカネはばかばか使ってる。ばかもめは相変わらず月収10万円。プラス年金ひと月あたり5万円。
年収180万円じゃろか。ばかもめに貯えは全くないからこれはきついねぇ。
かもめは親からも誰からも教えてもらわないからますますアホだ。これが貧乏人が貧乏人を再生産する理由だわさ。その他、かもめに言いたいことはいろいろあるけど少しずつ教育していこう。幸福な意義ある一生を送ろうと願うなら、つまらん小説なんぞとは関わらない方が賢いわさ。



意義ある一生とな。ヒトにとっての意義なんてものは自分では判定できないものだよ。第一、何事を持って意義の有りなしを決められるのかね。拙者にはさっぱりわからんぞ。他人相手には、よい本を読んで意義のある人生を送れとか、知を得て幸福になりたまえなんぞと臆面もなく言うが、それらすべてが無責任な外交辞令だ。

今井君の場合はどうかね。どのような意義を求めて日々を過ごしているのかね。一般に当人の価値は、当人が没して、だいぶたってから後世の他人様が故人の悪行をあげつらって玩弄するのが落ちだと思っている。多くの人々は死すと同時に悪も善もなく一気に忘れ去られる。生前も無名だったが死後はほぼ完全に無名となる。

まれに、名のある芸術家が死しても彼の作品だけは永遠に残るはずだなどと主張するメルヘンチックな文学青年がいるが、それはヒト科に特有のうぬぼれた信仰にすぎまい。

とは申しても、ここまでヒト科が残してきた良き作物はヒト科が生存する限り延々と受け継ぎ残してほしいものではある。その第一にはイエスの奇跡を記した『聖書』。後世に残すべき文書は『聖書』だけで良いと断言しては、世界中から文句が殺到するに違いなく、この際第二第三と知ったかぶって列挙したくて仕方がないが、それをはじめては切りもないので止めておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

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