10月27日

2010-10-27 12:38:53 | Weblog
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々     水原秋櫻子

昭和六年、秋櫻子はホトトギスを離反して、自らの求める道に進んでいったが、この句は、それまでに俳句では見られなかった西洋画風の色彩豊かで、洒落た感覚の句である。秋の日の当たる牧場の木々が、啄木鳥が鳴くたびに落葉を降らすのだ。何かに急かされるように落葉が降るのだ。冬への急ぎである。秋櫻子は、「萩の風何か急かるゝ何ならむ」の句があるが、ときに何かに急れる思いを抱くようである。

10月26日

2010-10-26 12:37:59 | Weblog
雁一聯窓の一角截り去ぬる       臼田亜浪
 
座って何気なしに窓に目をやると、窓の珠のような青空を一聯の雁が斜交いに横切って行った。一聯の雁が、窓を截ったのだ。窓を截るというこの一見単調に見える見方が、却って雁の去り行くわびしさを伝えている。

10月25日

2010-10-25 12:34:56 | Weblog
朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ     星野立子

昭和二十年の句。敗戦後まもなく迎えた秋である。道を歩いていてはらりと落ちている朴の落葉に出合った。こんなところに朴の葉が落ちて、朴の木はどこにあるのかしら、とあたりを眺めているところである。朴の葉は風に乗って来たのだろう。朴の葉は大きいがゆえに楽しい。料理では朴葉焼きにしたり、何々と歌など書き付けたり、子供は狐のお面を作ったり、散歩の途次ならくるくる回してみたり。これをたわいもないとみる人もいるだろうが、主婦の生活のなかでは、こういうことが楽しいのである。たぶんに子供じみているかもしれないが、これも人の要素である。

10月24日

2010-10-24 14:38:10 | Weblog
桐一葉日当りながら落ちにけり      高濱虚子

桐の葉は大きい。大きく軽いものが落ちるとき、落下の速度は、浮力も働いて遅い。桐の葉が落ちていくまでに、桐の葉は、秋の日を葉の全面に受けながら落ちたのだ。秋の日にあたる大きな桐の葉の色もじみじみとしており、ゆっくりと落ちる時間もこの世の時をゆるやかにしている。

10月23日

2010-10-23 14:37:26 | Weblog
秋の航一大紺円盤の中      中村草田男

10月22日

2010-10-22 11:47:00 | Weblog
爛々と昼の星見え菌生え         高濱虚子

 「客観写生」を唱え、実践した虚子ではあったが、虚子自身は、主観の強い人である。この句の奇想性に首をかしげるものも多いだろう。事実さまざまな俳人が解釈を巡らしているが、俳人ならば、清崎敏郎氏の虚子側に立った解釈にもっともな妥当性を見出すのではないか。その説明によると、この句は、昭和二十二年虚子が疎開先の小諸を去る留別の句会に出されたものであって、弟子達が持参した松茸の嘱目から発想したものであろうとしている。この立場からすると、「爛々と昼の星見え」も「菌」も即物的であると言えよう。「菌」を見、そこに爛々と輝く昼の星を事実見た。「菌」から発想される星である。ここに主観を客観にまで変える虚子のしたたかさを見る思いだ。なお、この句については、松林尚志氏の『子規の俳句・虚子の俳句』(花神社刊)に詳しい検証解釈があるので、参照されたい。

10月21日

2010-10-21 11:49:37 | Weblog
倒れたる案山子の顔の上に天     西東三鬼

10月20日

2010-10-20 11:50:47 | Weblog
朝霧の中に九段のともし哉        正岡子規

「九段のともし」は、靖国神社の献灯である。この句は、明治十八年作で、「寒山落木」の巻頭の七句の中の一句として掲出されている。子規は、明治十六年六月郷里の松山から上京した。十月ごろ中猿楽町に、翌年十月ごろからは、猿楽町五番地の板垣善五郎の家に下宿している。明治十八年といえば、子規が十九歳のときである。猿楽町の下宿から朝早く靖国通りに出て九段へ向かったのだろう。俳句はまだ手探りの状態のときであるが、朝霧に浮かぶ靖国の灯が写生されている。

10月19日

2010-10-19 11:52:03 | Weblog
天地ふとさかさまにあり秋を病む     三橋鷹女

めったに床に臥すことのないものがしばらく病み臥すと、熱など引いたあどなどは、虚脱感から、天と地の位置を逆さまに感じることがある。足がしっかりしないせいで、病む自身の体以外の周囲ものが遠のき、回るような感じがするときがある。天地の間に臥す自分を女性らしいしなやかな感性でよく感じ取っている。病衣の袖から覗く細い腕に、女性らしいけなげさを読み取ってはいけないだろうか。天地の間にある秋の深さもあわせて感じさせてくれる。

10月18日

2010-10-18 11:53:26 | Weblog
大空に舞ひ別れたる鶴もあり       杉田久女

鶴が空舞う姿は、古来詩歌だけでなく装飾に、紋様に、様々な意味や意匠で日本人に詠まれて来た。日本の文化にこれほど深く関わって愛されている鳥はないだろう。それだけに鶴を詠むと、新しさや感動を失いがちだが、久女は自身の感情をじっくり吟味して、吟味において譲るところがないのである。華やかに羽ばたき大空に舞いあがったものの、一羽はほかと別れて舞う鶴を目にしたのである。さながら、久女自身を映したような鶴である。自由に舞おうとする鶴は、ほかより離れて舞わねばならぬ運命のかなしさを引いているようである。抗し切れないものに対して舞う姿として、かなしいまでの美しさを表現している。

10月17日

2010-10-17 11:54:45 | Weblog
数本の唐黍も秋のささやきを     川本臥風

10月16日

2010-10-16 11:55:55 | Weblog
安らいてみのりの秋にとりまかれ     川本臥風

 みのりの秋は、第一には稲の「みのり」である。家を囲む田んぼの稲の「みのり」のぬくさが、家居の安らかさとなっている。「みのり」の中には、大きな存在のふところにいるような安らかなあたたかさが感じられる。この世にもこのような安らかなところがある。こころの感じ方がこういった世界を生み出した。

10月15日

2010-10-15 11:57:21 | Weblog
銀杏ちる深空あをあを澄みまさり     五十崎古郷

金色の銀杏が、空の深くから散ると、空はこれ以上澄むことのないほどに、澄み切っている。「澄みまさり」がそれを的確に表現し、作者の詠嘆となっている。銀杏の金と澄み切った空の青が対比されそれぞれが美しい。

10月14日

2010-10-14 12:00:35 | Weblog
柿の実の中より光りさすごとし      川本臥風

よく熟れた柿の実を見ると、その色と光りは、まるで柿の内部から光りが出ているようだ、とういのだ。己自身からおのずと光りかがやく美しさに、仏に接しているような安らかさがある。

10月13日

2010-10-13 12:01:55 | Weblog
星空へ店より林檎あふれをり       橋本多佳子

林檎の季語は秋。秋の星空は大気が澄んでいるので、星の光りもことさらに美しい。その星空へ店にあふれるように積まれた林檎がいまにも転がり出そうな様子である。赤く輝く林檎と、きらめく星の対比がくっきりとして、この地上に幸福感を感じさせる句である。