梶哲日記

鉄鋼流通業社長の日々

お世話になった方

2017年07月15日 09時30分54秒 | Weblog
昔わが社の仕入れの窓口商社の、部長職だった方が亡くなられました。死因は肺気腫で、80歳で逝去されました。その方は部長から後に役員になられ、そして退職され、長らくお会いする機会はなくなりましたが、年賀状のやり取りはさせてもらっておりました。

わが社とその商社との取引は今から32~33年前、昭和60年頃から始まります。わが社は昭和50年からスタートした、高炉メーカーの発生品や市中の端材を在庫販売する事業が何とか軌道に乗って、電炉メーカーや輸入材の厚板を扱うようになっていた時代です。

先代は、発生品や端材を更に手広く仕入れる為に、わが社の営業に総合商社まで飛び込みに行かせました。ある商社の製鉄原料部に飛び込んだ時に、興味を持たれ、しばらくしてその原料部の部長の人脈で、関西から発生品を仕入れることが出来ました。奇跡のような話ですが、わが社の規模の会社が商社に直に営業に行くことは稀だったかもしれません。

わが社は、元々ミル・スケール回収やスクラップ加工の事業で成り立ってきた会社です。昭和50年代はその事業を兼業しながら、厚板素材に進出したものの、端板という限られたマーケットに販売していましたので、知名度や実績等ありませんでした。

その商社の原料部と取引が出来たことが切っ掛けとなって、思わぬ展開がありました。その商社の厚板部と取引が開始したのです。従来わが社は、ある電炉メーカーの厚板契約を、鉄鋼専業商社を窓口としていました。わが社に不利だった諸条件を改善してくれて、その商社の厚板部が窓口となってくれたのでした。その部の部長が今般亡くなられた方です。

実は、その商社との初期の頃のやり取りを、私は間接的にしか知りません。当時、私は梶哲商店の関連部門である運送会社の責任者でした。当時、梶哲商店で先代である父の下、弟が担当としてその商社との接点でした。大手の商社と取引が出来たと、父が大変喜んで、経緯を話してくれたことが思い出されます。

その厚板部の部長は、とても頭脳明晰で人格者でもありました。話すことに無駄がなく、かといって堅苦しくもないのです。その商社と取引を開始して2年目でしたが、私が運送会社から梶哲商店に戻り、弟が梶哲商店から運送会社に移籍しました。それから1年目に父が他界しました。

以来その商社とは今日に至るまで取引は続いています。ただ残念なことに、おしなべて総合商社は、鉄鋼部門を切り離し他の総合商社の鉄鋼部門と合併する動きが加速して、現在はその商社も社名は変わりましたが、その商社との取引が原点は変わっていません。

弟の結婚式披露宴では祝辞を述べて下さり、父の一周忌では弔辞を読んで下さったのもその方で、公私共に色々な指導を頂戴いたしました。32~33年前に商社に無謀に飛び込んだものの、そのお陰で、わが社が厚板分野に順調に進出が出来たと言っても過言ではありません。

通夜では、その商社のOBや関係会社に行かれた方々も多く参列されていました。“アイアン・クラブ” という、主に鉄鋼メーカーや商社の現役やOBの交流を目的とした、伝統ある親睦団体の副理事長をされていた事を知りました。お人柄が偲ばれる通夜でした。
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