梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

私とは何者か

2017年12月09日 08時39分47秒 | Weblog
前々回このブログ上で“老年期の覚悟”と題して、身近な人の死や知人の会社の後継問題を通して、私の年齢はライフサイクルからすれば老年期、体力の衰えや死に向き合っていることを認識しつつ、これまの人生が活かされているのかを考え、今後の行き方を更に築いていく必要性について書きました。

前回は“時間とタイミング”と題して、私は人を待たせたくないから待ち合わせの時間には早く行くタイプであり、何かタイミングが合わなかった時、時間を大切に使ったのか、あるいは我を出していなかったかをチェックするよう心掛け、時間を大切にすればその結果は付いてくるものだ、との考えを記しました。

これらを書いた自分を、第三者の目から客観的に見てみると、「私は常に人生を前向きに捉えなくてはならないと考えていて、正論にこだわって固さがみられ、包容性や遊び心が少なく、所謂『べき論』が多いのではないか」、との解釈になります。

本音を隠して建前だけを言っている気持はありませんが、ブログ上で全てを書けない制約があることは感じています。長く書かせてもらっているブログの自分も、このように多少のバイアスはかかるものの、大よそ私の人物像を表してきたものではないかとも思っています。

“もの言わぬは腹ふくるるわざなり”とは、吉田兼好『徒然草』出てくる言葉です。これは「自分の思いをじっと胸の内に閉じ込めたままでいると、どうもスッキリした気分になれない」という意味です。本当は言いたいことを溜め込むと、精神衛生上よくないとのことです。

待ち合わせ時間に早く行くタイプと書いた後に、「それを無駄だとは思ったことはなく、時間が余れば持参している資料や本なども読めるし、物事を考える時間に当てることも出来る。会社に居ることが多い私は、外出し移動している際、世相を観察したり外の空気を感じたりすることに努める」と、前回のブログに続けました。

腹に溜めないで正直申せば、糸を張り詰めたまま緊張を持続することは勿論不可能ですし、時間をルーズに使ったら楽だろうなと思うこともあり、気を抜いてぼーっとしてだらしない私もあります。しかしそれに抗って、無理している、他人からみれば頑なな側面も私にはあり、これが私たらしめているものです。

この私を私たらしめている、私とは一体何なのか。そこに一貫性や同一性として、出てくるもは何なのか。私たらしめているの、言い方を変えれば、その人の独自性であり、独自性とはアイデンティティです。

今回はこの独自性やアイデンティティを、見つめてみようと思っています。いい意味での独自性やアイデンティティについてです。今までの私たらしめた独自性と、これからも確かなものとする独自性について。

~次回に続く~
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