梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

アウシュビッツ(その2)

2017年09月23日 06時09分35秒 | Weblog
ドイツ語でアウシュビッツと言いますが、この地名はポーランド語ではoświęcim(オシフィエンチム)と言います。アウシュビッツ収容所には第一と第二があり、第二をビルケナウ収容所と称しています。当時は第三収容所までありました。


第一収容所は、1940年5月ドイツがポーランド軍兵営を接取して、強制収容所として開所。約30の施設から成り、平均して15,000人収容さていたとされ、入り口にはあの“ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)”の一文が掲げられています。ここが現在は、展示博物館となっています。


第二収容所は、1941年10月収容者増を補うため、第一から1キロ半ほど先に開所。東京ドーム約37個分の広さに300以上の施設があり、ピーク時90,000人が収容されていたとされます。アウシュビッツの象徴として映画や書籍などで見られる、収容所内まで、延びた鉄道引き込み線があります。


この二箇所を二日間かけて視察しました。第一の博物館は、二日間で5~6時間を掛けて、ようやく全展示物をみることができました。この二箇所を、2時間ちょっとで回ってしまう見学者がいるそうですが、ここは観光気分や物見遊山で来る場所ではないと感じました。

また現地に足を踏み入れ、長い時間そこに居ると、肌で感じるものがあります。日本だけで、本や映像で幾ら学んでも伝わらないものがあります。日本から遠いポーランドに、実際行ってみて、その地で多くを学ぶことの意義を、今回実感しました。

収容されていたユダヤ人の中に、囚人を管理する同じユダヤ人が存在しました。「カポ」と呼ばれ、彼らは労働も免除され食料の優遇もありました。ドイツ人看守に気に入られようと、同胞のユダヤ人に対し、率先して虐待したことも事実として残っています。

更に、ゾンダーコマンドの存在です。同じく同胞のユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊です。彼等は、ガス室に送られた人たちから没収した煙草や薬や食べ物を手に入れることができました。しかし外部への情報漏えいを防ぐため、彼等は3か月から長くて1年以内にガス室に送られて、新しく連れて来られたユダヤ人と入れ替りました。

恐ろしいのは、収容所を統括していたSS(ドイツ親衛隊)は、このように直接に手を掛けずに囚人を殺戮するシステムを作り上げたことです。またそのようなユダヤ達は、自分の命や物欲しさに、同胞を裏切りドイツに加担する取引に応じていたことになります。

私達も時代や立場や状況が変われば、ユダヤ側にもドイツ側にもなり得ます。まだユダヤ人の中でも、被害者にも加害者にも、どちらにもなり得ます。

二日間の強制収容所を視察して、強く感じたことは、自分の中に存在するかもしれない残虐性や冷酷性でした。130万人のホロコースト以上に、私が感じたのは、その可能性がある人間の恐ろしさでした。  ~次回に続く~
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