ちょいととあるWEBコラムに意見をつぶやいてみた。
返信がきてうち、「分別を意図的に育てない」とはどういうことですか?と質問された。
教育に関していろいろあるんだが、自分が在校生だった時代には偏差値主義の時代だったのもあって
改めて教育方針の時代における移り変わりを交えて考えてみた。
まず、分別を定義するならやはり「やって良い事と悪い事を判別すること」と思う。
多くの場合、人は様々な失敗を経て「やってはいけない事」を経験として理解する。
ここで大事なのはあくまで「本人が痛い目にあって覚える事」が肝心であって、周りの大人が
「危ないからやってはいけません」と止めるのは余計なお節介というものである。
しかしながら「分別のない大人たち」はお節介どころか「危ないから禁止」という思考停止で子供を規制してしまう。
分別というのはコミュニティにおける様々な反応を学び取る事でしか育たないし、育つうちに
想像力がついて、早い話が「自分がやられて嫌な事は基本的に他人も嫌である」ということを学ぶ。
それが分別というものである。
卑近な例を出すと、自分の時代(ゆとり教育以前)にはいわゆる3ナイ運動があった。
これは法律では16歳になったらバイクの免許が取れることを制定しているにも関わらず
学校は当時問題となっていた暴走族の悪弊を持ち出して「バイク乗り=暴走族」よろしく
「買わせない、乗せない、免許取らせない」というのを校則として制定し、学生に押し付けてたのだが・・・
その結果、本当にバイクに乗りたい真面目な子はバイクに乗れず絶望したのに対し、
そもそも暴走族よろしく多くのアウトサイダーは「無免許でもお構いなし」に乗り回してた訳。
そして、やがて真面目な子ですらも尾崎豊の歌よろしく「盗んだバイクで走り出し~」て道を誤った。
話が脱線した。
本来学校というのは少なくともまず「勉強するところ」であって、思想を教える所ではないはずだ。
しかし、高度成長期に乗り遅れバブルにも乗り遅れた鬱屈か、教師はいつからか「権威」を嵩に着る様になった。
権威の象徴は校則であり、法律よりも校則を尊重してそのあまり学生を従属(隷属)させるようになります。
本来であれば「何故、やってはいけないか」の明確な判断基準があってしかるべきですが、概ね教師側の論理は
「俺が気に入らないものは総て禁止」をゴリ押ししてきました。逆らえば退学です。
そうすると学生側は最早思考停止するしかなくなります。年代別輪切り制の教育制度にあっては最悪3年も同じ教師とつきあいますし。
そうするとどうなるかというと「権威に寄り添う以外の判断をしなくなる」
これが「分別を意図的に育てない教育」の在り様です。
奴隷に分別は必要ありません。あるのは従順だけ。
で、これが大学生になって(あるいは高校生でも)学校とは違う種類の権威、それがたとえバイトで雇ってくれてる店であっても
「学校のセンセイ」という権威の眼の届かない場所で羽目を外したくなる。別の権威には逆らいたくなる。これは昔からあったこと。
そして今はSNS、そしてスマホというわずか5インチ程度の窓を通してしか社会を知ろうとしなくなった(思考停止のまま)
人間が羽目を外すとき、それは「自分がやられたら嫌な事を自分がやられるかもしれないという想像」はなく、
「何時の日か回りまわって権威を振りかざす人間にうっかりでも糞を塗りたくりたい」という鬱屈が行動に駆り立てるのだと思う。
間違っても自分に同じ嫌な事が降りかかるかもという想像は沸かないのね。だって5インチ程度の窓しか見てないんだもの。
ただでさえ狭い視野がスマホの登場でますます狭くなった。それがバカッターの本質なんだと思う。
分別が育っていたなら、そしてちゃんとした教師、学校、コミュニティの元で育っていたなら
「馬鹿なことをすれば信用を失う事」の取り返しのつかない恐ろしさをきちんと理解して、場合によってはそういう馬鹿を
止めようとはするのだろうけども・・・
悪い事にSNS時代というのは基本的に「朱に交われば赤」どころか同族しか集まらないので止める人が居ないという悲劇。
結局ゆがんだ教育に拠った被害者は誰になるんでしょうね・・・・・
返信がきてうち、「分別を意図的に育てない」とはどういうことですか?と質問された。
教育に関していろいろあるんだが、自分が在校生だった時代には偏差値主義の時代だったのもあって
改めて教育方針の時代における移り変わりを交えて考えてみた。
まず、分別を定義するならやはり「やって良い事と悪い事を判別すること」と思う。
多くの場合、人は様々な失敗を経て「やってはいけない事」を経験として理解する。
ここで大事なのはあくまで「本人が痛い目にあって覚える事」が肝心であって、周りの大人が
「危ないからやってはいけません」と止めるのは余計なお節介というものである。
しかしながら「分別のない大人たち」はお節介どころか「危ないから禁止」という思考停止で子供を規制してしまう。
分別というのはコミュニティにおける様々な反応を学び取る事でしか育たないし、育つうちに
想像力がついて、早い話が「自分がやられて嫌な事は基本的に他人も嫌である」ということを学ぶ。
それが分別というものである。
卑近な例を出すと、自分の時代(ゆとり教育以前)にはいわゆる3ナイ運動があった。
これは法律では16歳になったらバイクの免許が取れることを制定しているにも関わらず
学校は当時問題となっていた暴走族の悪弊を持ち出して「バイク乗り=暴走族」よろしく
「買わせない、乗せない、免許取らせない」というのを校則として制定し、学生に押し付けてたのだが・・・
その結果、本当にバイクに乗りたい真面目な子はバイクに乗れず絶望したのに対し、
そもそも暴走族よろしく多くのアウトサイダーは「無免許でもお構いなし」に乗り回してた訳。
そして、やがて真面目な子ですらも尾崎豊の歌よろしく「盗んだバイクで走り出し~」て道を誤った。
話が脱線した。
本来学校というのは少なくともまず「勉強するところ」であって、思想を教える所ではないはずだ。
しかし、高度成長期に乗り遅れバブルにも乗り遅れた鬱屈か、教師はいつからか「権威」を嵩に着る様になった。
権威の象徴は校則であり、法律よりも校則を尊重してそのあまり学生を従属(隷属)させるようになります。
本来であれば「何故、やってはいけないか」の明確な判断基準があってしかるべきですが、概ね教師側の論理は
「俺が気に入らないものは総て禁止」をゴリ押ししてきました。逆らえば退学です。
そうすると学生側は最早思考停止するしかなくなります。年代別輪切り制の教育制度にあっては最悪3年も同じ教師とつきあいますし。
そうするとどうなるかというと「権威に寄り添う以外の判断をしなくなる」
これが「分別を意図的に育てない教育」の在り様です。
奴隷に分別は必要ありません。あるのは従順だけ。
で、これが大学生になって(あるいは高校生でも)学校とは違う種類の権威、それがたとえバイトで雇ってくれてる店であっても
「学校のセンセイ」という権威の眼の届かない場所で羽目を外したくなる。別の権威には逆らいたくなる。これは昔からあったこと。
そして今はSNS、そしてスマホというわずか5インチ程度の窓を通してしか社会を知ろうとしなくなった(思考停止のまま)
人間が羽目を外すとき、それは「自分がやられたら嫌な事を自分がやられるかもしれないという想像」はなく、
「何時の日か回りまわって権威を振りかざす人間にうっかりでも糞を塗りたくりたい」という鬱屈が行動に駆り立てるのだと思う。
間違っても自分に同じ嫌な事が降りかかるかもという想像は沸かないのね。だって5インチ程度の窓しか見てないんだもの。
ただでさえ狭い視野がスマホの登場でますます狭くなった。それがバカッターの本質なんだと思う。
分別が育っていたなら、そしてちゃんとした教師、学校、コミュニティの元で育っていたなら
「馬鹿なことをすれば信用を失う事」の取り返しのつかない恐ろしさをきちんと理解して、場合によってはそういう馬鹿を
止めようとはするのだろうけども・・・
悪い事にSNS時代というのは基本的に「朱に交われば赤」どころか同族しか集まらないので止める人が居ないという悲劇。
結局ゆがんだ教育に拠った被害者は誰になるんでしょうね・・・・・