アラフィフ×1ライターの日記

できるだけ穏やかに、健康に、年を重ねていきたい。

ぐるぐる

2008-06-23 23:06:44 | ライターの仕事など
仕事が動いてます。
先週前半はとある故人の人生や生き方を紹介する原稿書きに追われ、
後半は2日連続でとあるエリアに特化したグルメ本の取材。
1日目:ラーメン→インドカレー
2日目:パスタ→ケーキ→パスタ&ピッツァ
自分に時間さえあれば、まだまだこの仕事は入りそうだ。

土日は会社案内の企画案作り。
今日は、明日のプレゼンに備えて発注元で事前打ち合わせ。
明日プレゼン。
水・金は空港取材。
木曜は割りのいいスポット派遣。
その木曜までにグルメ原稿全部あげなければ。
そして火・水でとある旅ムックの原稿5本アップせねばならん。

仕事以外にもある事情があり、“自分の時間”がまったくとれないほど忙しい。
ときには、自分の好きなことを心置きなく楽しむ時間をもたないと、
そのうち無理がたたって壊れてしまうんじゃないかと思うことがある。

無理をしている、ということは自覚している。
でも、無理は長くは続かない。
自己を犠牲にすることに私は同調できない。
どこかで無理をしている。
仕事ではNOといえるのに、ある事情の中ではNOといえなくて無理をしている。
でも無理は続かない。続かないのだ。
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できればやめてほしいこと

2008-06-18 23:05:42 | ライターの仕事など
仕事を頂くのはありがたいし、フリーは曜日に関係なく働いているのですが、
日曜に仕事の連絡をしてくるのはやめてほしい

相手は会社員の編集者だから、もちろん日曜は休みなので休んでいただきたい

会社員だろうがフリーだろうが、一応世の中のリズムってあるじゃないですか。
月曜取材の待ち合わせに関する話であれば金曜までに連絡する。
折り返しの連絡を乞うならば、平日の夜遅くや世間の休日には連絡しないでいただきたい―。仕事をしながら家事もやってるし、その他の所要だってあるし、いつなんどき、メールを見ていられるかといったら、決してそんなことはないです。

てか、これって暗黙の了解じゃなかろうかと思うのですが。。
月曜取材の待ち合わせ時間に関する連絡が、前日日曜の夜にかかってきました。
もちろん普通に携帯に出て聞きましたが、なんとなく違和感があったのも事実―。
もちろんやむをえない場合があることも重々承知ですが、
どうもその担当者、いつでもなんでもぎりぎりです。
私よりつきあいの長いカメラマンが、はっきりと「日曜に連絡するんじゃなくて、金曜に連絡するのが普通じゃない?」と堂々とその担当者に言っていて、あぁ、同じ感覚でよかった、と少し思ったのでした。

何度も言いますが、やむをえないケースがあるのはもちろん承知してます。必要な情報が得られないときは、自分から連絡して催促もしています。
でも、今、このタイミングで連絡よこすのって実際どうよ???と思うことが少なくないこのごろ。

メリハリをつけて仕事したいもんです。
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いよいよ、か。

2008-06-18 18:25:10 | ライターの仕事など
いよいよもって(こんな言い方ってないか)仕事が忙しい。
仕事ではなく、“ある役割”を担ったことも大いに関係しているのだけど、
いよいよ辞め時か・・・って感じなのが去年からやってるパートの仕事。

今日、週2日のパートの日だったのだが、嘘をついて休んでしまった。
おかげで原稿は随分捗ったけど。

精神的・経済的に仕事が何もないのも困るけど、
先々まで仕事が詰まっているのも精神的に休まらなくてあんまよろしくない(贅沢?)。

でも、前はよく見ていた「追いかけられてうなされる夢」をほとんどみなくなった。暇ではないのに。

1年半前に、とある事務所から足を洗ってから見なくなったから、
やっぱり精神的なものだったのかもしれない。

とにかく、パートやってる時間がもったいなくてダメになってきた。
オットの収入が安定してくれればなぁ(祈)





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あまり受けたくない仕事の話

2008-06-13 11:45:46 | ライターの仕事など
今、タブロイド版フリペの特集記事4Pの仕事と某大手エネルギー会社のグループ企業の会社案内の仕事と、ある街に特化したグルメ情報本の3つの仕事が進行している。

そこに友人の編プロの仕事もひっからまっているんですが、これがなかなか厄介、というか振り回されることが多く、“仕事をあんまり受けたくない度”が上昇しております―。

直接的にその友人のせいではないのはわかってるんですが、次のようなことに困ってるのです。

・とにかくいっつも納期がない(涙)
・こちらが無理っぽいことを暗に告げても、仕事を無理くりねじ込んでくる(涙)
・しかもギャラがものすごい安い(涙)

かつてある同じ媒体から、その編プロと私(個人として)に仕事が依頼されていたことがありました。編プロの友人曰く、「あそこの仕事は企画の中身がゆるいし、ギャラも安いし、もう受けるのを止めた」という。
けど、私にしてみたら、友人とこのギャラの方が数倍安いんですけど

しかも前もって打診されていた企画の進行が遅れているためということで、まったく別の企画の依頼に変わったと思ったら「やっぱり資料が揃わず結局依頼できない状態」となり、もともとの企画でと説明されてないけど昨日別担当からもともとの企画の進捗状況に関するメールが届き「なんとか見捨てずにお願いします!!」と―。
相当てんてこまい状態ということが想像されます。

来月中旬発売予定の160Pくらいのムックを、今月末印刷入稿予定でいるようなのですが、去年も何ページか手伝いましたが同じ発売時期で5月には結構頁を作ってた記憶があるのですが、去年よりもさらにバタバタなようです。

ちょっと前までは昔助け合ったよしみ、それでもなんとか無理してでも受けてきたのですが、今は他の仕事もいくつか回っているし、申し訳ないけれど、積極的に仕事を請ける気持ちになれないんです、というお話でありました―。
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父の最期 弐

2008-06-09 22:40:20 | 日記
取り急ぎのすべてを終えて土曜日、4日ぶりに自宅へ戻る。

年末年始でも1、2泊しかしないので、こんなに長く実家に滞在したのは初めてだった。

身体機能(肝機能)が低下し、体に黄疸が出て、腹水がたまるともう長くないということは後から知りましたが、そういう状態になっても即入院はせず、楽しみにしていた週2日のデイケアセンターにも出かけ、ときに外出も楽しんでいたという父。

今となってみれば、担当医ももう長くないことを察知して、入院するのは本当に持ち堪えられなくなってから―と入院を強いなかったのかもしれません。

私たちが病院に着いたとき、父は既に意識がありませんでした。
酸素吸入器のマスクを口にあてがわれ、呼吸のたびにマスクがずれてしまうほど、必死に呼吸をしていました。

私たちが到着して小一時間、そんな必死な呼吸が続いてきました。
母掛けがふとんをまくって見せてくれた脚は、黄色くなって、ゾウの脚のようにむくんでいました。
恐る恐る父の手を握ってみました。でも、なんの反応もなく、必死の呼吸が続いていました。

父は危篤状態にあり、個室で病魔と闘っていました。
その心拍数や血圧などは、離れていても看護士さんの待機する部屋でも確認できるようになっており、父の呼吸の力強さが弱まっていることも、この後次第に呼吸がまばらになっていくことも、すべてわかっているようでした。

なんといっていいのか、適切な言葉が見当たりませんが、
哀しいという感覚はあまりなかったように思います。
哀しくないわけではありません。
でも、とにかく、父の天寿が全うされる瞬間に、娘として、ちゃんと立ち会って、最期を看取りたい、そんな気持ちの方が強かったように思います。

次第に呼吸の感覚が開き始め、喉の動きが緩慢になります。
とまったか、と思うと再び動き出し、でもとうとう、完全に止まったかのようになりました。

担当医が病室にやってきました。
呼吸が止まっても、心臓はしばらく動くのだそうです。
いわゆる延命治療はこういった瞬間に始まるのかもしれませんが、私たちは父の天命に任せました。
そして呼吸が止まってから3分後、臨終の瞬間を迎えたのでした。

体をきれいに清めてもらい。白い浴衣に着替え、自宅へ。
亡くなった翌日、納棺。
通夜・告別式のために搬送される間3日間、ドライアイスを取り替えながら自宅に安置されました。

所要を終えて私が再び実家に戻ったのは亡くなってから3日目のこと。
明日、斎場に出棺されるという父の棺の扉を、恐る恐る開けてみました。
小さくやせ細った、でも眠るような父がそこに横たわっていました。

弔いに訪れる人々を迎える通夜・告別式の段になっては、こちらも迎える側で気が張っており、とにかく勤めを果たさなくては、そんな気持ちだったように思います。

さすがに火葬場に着いて、父が横たわった棺が火葬場に吸い込まれていくときは、あぁ、これで父の肉体は燃えてくなってしまうんだな…、そんな感慨に包まれましたが、同行の親族の接待や何やらで、めそめそしている時間もなかったように思います。

父は、1時間ほどで骨となりました。
頭蓋骨は思いのほか小さく感じました。
大腿骨骨折の手術で骨に装着していたボルトは、燃えずにちゃんと残っていました。
真っ白になった父の骨は、想像より大きくしっかりとしていました。
2人1組となってお骨を拾って骨壷へ収め、白い手袋をはめた係りの方が骨の粉をかき集めて骨壷へ収め、蓋をし、精進落としの昼食をとり、一通りの儀式が終わりました。

今となってはもう遅いのですが、
私は、あまり親のそばにいなかった娘だったなと改めて思い起こしていました。
兄が鬱病になって家族が大変なときも、自分のしたいことを優先して、本当であれば家族の力になるべきであったのに、家を出てしたいことをしてきたのでした。だから、せめてもと思い、経済力があったときは家に仕送りをしてきたのでした。

そのことを誰に何か言われたことは一度たりとも何もありません。
ないだけに、自分の中で、家族が私を必要としていたときに、その思いよりも自分の気持ちを真っ先に優先してきたこと=家族の苦境に目を向けず、目をそらして、逃げてきた自分というものを自分自身が感じて、今となっては遅いのですが、いろいろなことを思うのです。

幾多の困難を一人(といってよい)で闘ってきた母のために、娘としてできる限りのことをしたい、今そう思っています。
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父の最期 壱

2008-06-02 17:54:36 | 日記
昨日、父が76年の生涯を閉じた―。
穏やかな性格らしい、安らかな最期だった―。

一昨日の土曜日、5月から通っていたデイケアセンターで調子が悪くなり入院。
体温が33度しかなく、血圧も低く、食欲もなかったという。
その晩、病室に母が付き添う。

数週間前から、肝機能の低下により黄疸が出始め、腹水もたまってきていたようだったが、病院に入院すると軽いパニックを起こし、家に帰ろうとする父の行動を担当医も家族も知っており、デイケアセンターをとても楽しみにしていることを考え、あえて入院はせずにいた。

一昨日は、そんなことも言っていられないために入院した。
翌日の日曜に午前の用事を済ませてから病院に行こうと思っていた。
だが、今日が山だとのことがわかり即病院へ向かう。
家から病院までは片道約2時間の道のり。
日曜のため、快速運転が少なく、各駅で行くしかない。
途中、母からメールが入ったとき、間に合わなかったらと思うと
メールを開くのがひどくためらわれた―。

もともと肺気腫を患っており、肺炎をこじらせ入院。
慣れない入院にパニックを起こし、夜中にベッドの上に立ち上がり転倒。
頭を強く打ち、一時呼吸困難に陥り、家族全員が駆けつけたが、なんとか一命をとりとめ退院。
転倒の際、頭を強く打ち、認知症の様な症状が出て心配したが、
一時的なものに終わり、その後は自転車に乗れるほど元気になった。

ところがその入院で、新たに胃ガンが見つかった。
高齢なため進行が遅いこと、手術に耐えうるに充分とはいえない父の体力を考え、手術は先延ばしにしていたが、昨年、結局胃の3分の2を切除。
リンパ節や腹膜への転移も見られ、手術で全ての腫瘍を取り除くことは不可能と診断され、薬などで様子を見ながら自宅で過ごしてきたのだった。

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