海住恒幸の旅日記「漂」

1995年-1996年

ワルシャワのおばさん

2006-06-22 20:09:34 | ヨーロッパ編
旅の親切

 旅の間に受ける親切は有り難い。グダニスクからワルシャワ行きの列車に乗ったとたん、車掌がなにやらわたしの切符に難癖をつけてきた。しかし、ポーランド語だから意味はさっぱりわからない。そのとき、通路をはさんで反対側に座っていた中年の女性が車掌とわたしのあいだに入ってくれ、ポーランド語と英語で通訳をしてくれ、助かった。
 突然の英語で助けてくれたこのオバサンは米国ミシガン州在住。ポーランドから一二年前にアメリカに渡ったという。グダニスクにいる母親に会いに来た帰りだった。
 ワルシャワまでの2時間の車中、尽きることなく話した。たぶん、相手の質問形に対してわたしが答える式の話だったのだろう。英語では、自分から話しかけていくより、受け答えをしている方が楽だ。ワルシャワに着いてから街なかに行きたいケーキ屋があるからと連れて行ってくれた。
 日本に帰ってからもこの人からのメールは二年間ほど続き、苦労しながら英語の文章を書いた。                    (1995年11月4日)

オジサンのおもてなし〜ドイツ〜

2006-04-29 14:21:34 | ヨーロッパ編
 1995年10月、ヨーロッパに着いて初めて乗った国際列車は、アムステルダム発、ウイーン行きの夜行だった。
 一室六人掛け、片側三席のゆったりしたコンパートメントで一人寝ていたが、国境を越えるたび、乗車券やパスポートのチェックがあり、灯りをともし、起こされた。そのうち、ドイツ国内の駅から乗ってきた一人のおじさんと“相部屋”になった。僕はドイツ語が分からないのに、とことんよく話しかけてくる人で、寝るのはもうあきらめた。
 おじさんは、ドイツに働きに来ているユーゴスラビア人で、故郷のユーゴは内戦中だったが、ウイーンを経由してベオグラードに帰るところだという。しかし、理解できたのはそこまで。
 僕はまったくわからないという顔をしているのに、おかまいなしに話しかけてくる。もう静かに眠らせてほしい。そのうち、鞄から缶ビールを一本取り出して、僕にくれた。飲んでも、飲んでも次から次へとビールが出てくる。「もう飲めない」と断っても、どんどん出てくる。
 やがて酔いが回り、居眠りできた。少しして目を覚ますと、また一本ビール!
 言葉によるコミュニケーションはまったくできないなか味わった最高の持てなしだった。
 あのおじさんの故国・ユーゴスラビアは、子どものころの僕が夢に描いたあこがれの国だった。「ビューティフル・サンデー」を歌っていた歌手・田中星児がテレビの番組で四輪駆動車に乗って、ユーラシア大陸を横断。さまざまな国でギター一本で現地の人々と触れあう番組だった。なぜだか、ユーゴの農村で地元のおじさんやおばさん、子どもたちと笑顔で「ビューティフル・サンデー」を歌っていたシーンが印象に残っている。ユーゴとはそれ以来、ずっと行ってみたい、あこがれの国だったのだが、近くまで来たこのときは内戦のさなかにあった。
 同じ列車の中でビールを飲み合っているおじさんがユーゴスラビア人であり、ベオグラードに行くところと聞けば、あの田中星児の歌が懐かしくなり、あの牧歌的なユーゴをイメージする。しかし、現実はセルビア人やクロアチア人が争っている。わたし一人では内戦中のユーゴに行くことはできない。このおじさんにベオグラードに連れて行ってもらいたいと頼んでみたい気持ちはあったが、心配性の僕に戦争状態にある危険地帯に入る勇気はなかった。                    (1995年10月5日)


※その後、どの国の街だったか忘れたが、ユースホステルのロビーにいたら、ユーゴスラビアの内戦が終結したと言って、周囲のバックパッカーたちが喜んでいた。彼らの中にはすでにユーゴへの旅支度をしている者もいた。僕はあのおじさんのことを思い出した。
                                   (追記)