アユタヤで昼寝

アユタヤ在住。海外転出しての、アメージングなタイ王国での暮らしの日々を‥‥‥

プーミポンアドゥンラヤデート国王陛下の御母堂

2016-10-15 14:40:19 | 日記


シーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后(สมเด็จพระศรีนครินทราบรมราชชนนี, 1900年10月21日 - 1995年7月18日)はタイ王国国王、ラーマ8世(アーナンタマヒドン)およびラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)の母。タイ国外では通称、シーナカリン王太后 (Sinagarindra the Princess Mother of Thailand) などと呼ばれる。

トンブリーで開業していた華僑の金細工職人の娘として、1900年に誕生する。9歳の時父母が死亡したが、ペッチャブリーラーチャシリントーン王女(ワライアロンコーン王女)の宮女となり、サットリーウィッタヤー学校に通う。その後、16歳の時からシリラート病院に看護婦として勤務するが、後に王室の奨学金を頂戴し、アメリカに留学、20歳で留学先で出会ったソンクラーナカリン王子(マヒドンアドゥンラヤデート王子)と結婚した。その後、ソンクラーナカリンが急病に倒れる1929年までに、カンラヤーニワッタナー王女、アーナンタマヒドン王子、プーミポンアドゥンラヤデート王子を産んだ。

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《ソンクラーナカリン王子》

マヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム=プラボーロムラーチャチャノック太上王(สมเด็จพระมหิตลาธิเบศรอดุลยเดชวิกรม พระบรมราชชนก、1891年1月1日 - 1929年9月24日)はチャクリー王朝の王、ラーマ5世(チュラーロンコーン)の息子(69番目の子)で、ラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)の父親。タイに近代的医療を導入した人物として知られ、「タイの医療の父」と呼ばれる。以下、生前の名前「ソンクラーナカリン」で表記する。

バンコク、王宮で誕生幼名はマヒドンアドゥンラデート王子(幼命: สมเด็จเจ้าฟ้าชายมหิดลอดุลเดช)。王宮内の学校で初等教育を受け、その後ワット・シーラッタナーサーサダーラームにてサーマネーラ(少年僧)となりワット・ボーウォーニウェートで僧院生活を送った。12歳の時に官職名を下賜されソンクラーナカリン王子(สมเด็จเจ้าฟ้ากรมขุนสงขลานครินทร์)と名乗った。その後ドイツに留学し軍事を学び卒業後はドイツ、イギリスの兵士となり訓練に従事した。1916年、帰国し海軍将校に任命される。
ソンクラーナカリンは同年シリラート病院にて収容しきれず、病院から放り出され死んだ病人を目の前にして、心を痛め、本業の海軍将校の役そっちのけで同病院で医療行為を行っていた。しかし、当時の院長チャイナートナレートーン王子は、ソンクラーナカリンに対して「あなたは医者ではない」と警告。ソンクラーナカリンはやむなく病院を去るが、ラーマ6世に留学願いを出しアメリカ、ハーヴァード大学へ留学し医学を学んだ。しかし母親の死亡により半年で帰国。1917年に復学。1919年帰国した。

帰国後ソンクラーナカリンはシリラート病院で医学を教える一方で、ロックフェラー財団から奨学金を得て、それを元手に多数の生徒に奨学金を与えてアメリカに留学させた。同じ時期、アメリカ留学中から交際していたシリラート病院の看護婦サンワーンとサラパトゥム宮殿にて結婚した。1921年、公衆衛生学を学ぶために再びハーヴァード大学へ留学。1926年にも再び留学し博士号を取得している。1929年家族ぐるみで帰国するが、帰国中に死を遂げた。死因は肝臓の腫瘍と肺と心臓へ水が溜まったこととされたが、一部で暗殺説もささやかれている。38歳没。小児科学を学ぼうとしていた矢先の死であった。

前述したようにタイの医学の発展に尽くし、タイ国内の医療への関心を高め、後々アジアでも有数と言われるタイの医療の基礎を作った。シリラート病院は当時非常に小規模な病院であったが、ソンクラーナカリンの努力でタイ国内最大となった。後にソンクラーナカリンが設立した医師養成のための学校は独立し、医学のタイ国内最高学府、マヒドン大学を生み出した。
1970年にはラーマ9世によって名前がソンクラーナカリン王子からマヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム=プラボーロムラーチャチャノック太上王へと格上げされている。

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1929年にソンクラーナカリン王子が死去すると、サンワーンの理解者であり姑であったシーサワリン妃(サワーンワッタナー王女)の住むサラパトゥム宮殿に身を寄せる。後に、立憲革命の混乱の最中、ラーマ7世(プラチャーティポック)が退位、1935年に息子のアーナンタマヒドン王子が国王になり、王子の平民出身の嫁から一躍、国王の母となった。この頃、サンワーンからシーサワリン妃に送られた書簡には「私が国王の母にふさわしくないのであれば、どうぞ王族の母を持つ方を王に選出するように彼ら(=政府)に言ってください」とあり、かなり動顛していたことが伺われる。
1935年にアーナンタマヒドンが即位しラーマ8世となると、ラーマ8世があまりタイの気候に合わないことや、ラーマ8世の学業の継続などの理由から、家族と共にスイスのローザンヌに戻った。その後、ラーマ8世が謎の死を遂げ、プーミポンがラーマ9世となったが、1960年、ラーマ9世とシリキット王妃がヨーロッパへ行くと一時的に摂政となり、国王の業務を代行した。

晩年、シーナカリンは北部地域に大きく関心を寄せ、ドーイ・トゥンの近辺で国境警備隊の名誉隊員となり、山岳民族を訪ねて回り、また、無料で山岳を巡回する医師達の活動を支援した。この他、多くの慈善事業に参加している。また、ドーイトゥン宮殿を建て、そこに行くのを楽しみともしていた。
しかし、1991年に体調を崩して以降は何度も体調を崩すようになり、1995年に崩じた。1996年5月10日、正式に葬式が執り行われ、ワット・ラーチャボーピットに遺骨が奉納された。なお1993年には、シーナカリンを記念して建てられたソムデットヤー公園が開園している。


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ご逝去されたプーミポンアドゥンラヤデート国王陛下のご母堂は平民の華僑の娘さんでした。小さい時に父親が病死して、続いて母親も死に孤児になったが、王女の侍女が恵まれない子供を助けるために面倒をみるという形で住み込んだところ、利発さが目にとまり、主人である侍女が王女に推挙して宮女となって、王族などの通う学校に入学させて貰い(学校の方針として、王族や貴族の子弟ばかりでは、ちゃんとした人間として育たないので、一般の者も入学させる、という考えがあった)やがて看護婦となって国の奨学金でアメリカに留学、その時、マヒドンアドゥンラヤデート王子と出会い結婚。
その後、王子が病気になり死に別れ、子供達と過ごしていると、国王ラーマ7世の退位により、次の王の選定について、あのマヒドンアドゥンラヤデート王子の子供が良いのでは、ということになり、使者が遣わされてくる。彼女は、国の為にと長男を王位につける。が、その長男ラーマ8世は若くして謎の死を遂げる。次に、また使者が遣わされて、ご次男を王位に、ということになるが、彼女はやはり国の為にと迷わず応じる。大した方です。
次男が国王になる前に、母親にどうすればよいのですか?と尋ねたところ、国民のことをいちばんに考えなさい、というような答えを得た。という話があるようです。
この母親あってこそのプーミポンアドゥンラヤデート国王陛下のご活躍が有り、国民皆からの濃密な支持が有るのでしょう。ご逝去されてもなおそれが有るのです。


《BANGKOK LIFE》

シーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后、幼名サンワーン。







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