世界一楽しい創価アンチブログ

創価問題を、アンチのある側面から見て書いています。
こういう視点もあるんだなあと見て頂ければと思います。

脱会しても地獄に堕ちない

2016年08月27日 | 日記
最近の脱会者は、脱会しても「地獄に堕ちる」とは言われない。
会員には、そんなことを言ったら信仰者として人格が疑われれるというプライドがあるからだ。
多くの会員は、信心を貫き通して嫌われるのは意味がないと思っている。
人から好かれることが何より大事なのである。

だが、これは正式な日蓮さんの教えとは違う。
日蓮さんは「この信仰を捨てたら謗法といって、それは地獄に堕ちる行為だといっている。だから容赦なくそう言いなさい。嫌われてもそれが慈悲だからそう言いなさい」と、創価は長いことそう指導してきたんだ。
創価こそが日蓮仏法の唯一の正しい血脈というなら、それに忠実になるべきだろう?


だけど学会員は「創価が唯一の日蓮大聖人の血脈」はお気に入りだけど「脱会したら地獄に堕ちる」と失礼極まりないことをいって、人から冷たい目で見られるのはお気に入りじゃない。
矛盾してたっていいんだ。
好きなようにラクなように変えてやっている。
創価自体が、そのように好き勝手にやっているからだ。
都合によりラクなように自由に変えていきなさい(でないと矛盾にぶち当たって退転してしまう)…会員もいつの間にかそんな催眠をかけられている。

「ここは使えるけどここは使えない」
トップであれ末端であれ、学会員は日蓮の教えはこんなふうにうまくごまかさないとやってられないというのは本能的にわかっている。
絶対といいながら欠陥があることを感じている。
だけど突きつめないだけなんだ。

「脱会しても地獄に堕ちる」は言わなくなり、元学会員に会ってもニコニコして挨拶する学会員さんの本心はどっちなんだ?
本当は地獄に堕ちると信じてるけど「言えない」のであれば、それはとぼけた偽善になる。
人には良心に恥じて言えないような教えを信じてることになる。
或いは本当に「地獄に堕ちるなんてない」と思ってるのなら、そういうデタラメを言って脅していた教団をどう信じるというのだろうか?



ヽ(*´▽`)ノ ヒョイ  (((((((呪)
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シンパでもアンチでもない

2016年08月22日 | 日記
「シンパでもアンチでもない」とか「活動家でもアンチでもない」とかアピールするのが流行りのようだ。
そういう人間が中立だのバランスがよいとしたいようである。
ふつう、どちらでもないというのは創価など関心がないよく知らないかのどちらかだ。
外部は皆そうだ。
興味もないし、まともに相手すらしていない。

それを四六時中創価のことばかり考え、創価サイトを読みまくり、気になって仕方ない矛盾点や問題点を挙げつらってはそれに悩み、議論を提示し、シンパでもアンチでもないとは意味がわからない。
これがシンパやアンチでないというなら、何がシンパで何がアンチなんだ?
シンパもアンチも熱狂的な創価ウォッチャーで創価ストーカーだ。


こんなアンチもシンパもきれいさっぱり撲滅した時が本当の創価崩壊だ。
そんな日が来ることを切実に願う。



((((((BOMB)))))) ⌒⌒⌒⌒⌒/(x~x)\
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番外編 世界一気楽なアンチブログ

2016年08月20日 | 日記
昔、選挙のことで疑問があり、身近な先輩に疑問をぶつけたことがあった。
何度も何度も報告し、当日行った行かないまでしつこく連絡し合うのがうるさくてしょうがないとか、会合がまるで選挙事務所のようになって異常だとか、そんなようなことだったと思う。
先輩幹部はそうだね、そうだねと頷く一方の一見、優しい人だった。
しかし、後に「海は面倒くさい。ああ疲れる」というメールが届いた。うっかり他の人に送ったメールが私に届いたんだ。
私はそのメール自体には何とも思わなかったが、その人がそれを直接当人に言わず陰で愚痴をいわねばならない気遣いを思った。
気遣いと言えば聞こえはいいが、誰にでもいい顔するんだなあと思った。

ネットでもこれをやられると、私はそういう人と話をしようとは思わない。
「それは確かにそう思います」と言っておきながら「でもこう思います」と逆のことを言うのを見ても同じようなモヤモヤ感を覚える。
どちらかが本心で、どちらかがうまく立ち回ろうとするポーズに思えてしまう。
言いたいことより、好かれて人気取りをする方が大事なのかと思ってしまう。
そういう言い方をする人は一見好印象を与えるのかもしれないが、ネットは人柄ではなく意見をアピールするところだ。
意見は明確に言い切った方が信用される。

ただ創価問題は、厳しいところを突こうとすると敵を作り、批判にさらされる覚悟を持って書かなければならい部分がある。
ある人は「コメント欄が荒れるくらいインパクトのある主張を書いてこそ、意味がある」
「学会問題を論じるサイトに来て、発言する以上、七割を敵に回す覚悟を持て!」「ウィルスメールを毎日、送りつけられる覚悟を持て!「狂人」と揶揄される覚悟を持て!」「裁判所に呼ばれる覚悟を持て!」
とまで言っていた。
ああ恐ろしやΣ(T▽T;)

人柄なんてものは実際に会って、様々な角度からの人となりを見なくては判断できない。
たった創価問題ひとつを語ってるだけで、こんな人だあんな人だのなんてのは面倒くさいだけだ。
だが思想に関することを話し合っているとつい感情的になり、「賛成できる意見」「納得できない意見」が「賛成できる人」や「納得できない人」になることが多い。
それが過度な持ち上げや人格攻撃に発展したりもする。
明らかなアラシ行為や嫌がらせ以外、いい人も悪い人もないだろうと思う。

気遣いはある程度必要だけれども、対話目的のネットはあくまで意見交換の場、とさっぱり割り切りがった方が気持ちがいい。
少なくともここの管理人はそういう意味では必要以上にいい人ぶるつもりはないし、コメントにそういうことも求めない。

これもさじ加減や好みの問題だが、まあそういう気楽なブログが一つくらいあってもいいんじゃないかと思うんだ。



~~-y( ̄▽ ̄*)♪
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批判するために読む

2016年08月17日 | 日記
このブログは敢えて、アンチのある側面にのみフォーカスを当てて書いている。
開設した目的も、ごく小人数に読んでもらうために作った。

創価についての悩み相談とか、はけ口や情報交換を決して否定しているわけじゃなく、そういうものは何より需要があるのは知っている。
多くの人の救いにもなると思っている。
またそのような体験談に背中を押され、創価を去っていく人がいるなら万々歳だ。
そういう意味での優良なサイトはたくさんあると思う。
なので趣旨が違うなあと思われる方はどうか他のサイトへ行って頂ければいいと思うんだ。

ネットでしばしば論争される問題に「嫌なら見なければいい」「批判が楽しいから見るんだ。批判が嫌ならネットに書くな」がある。
発信した以上、誰が読もうとどんなふうに読もうとそれは自由だ。
聖教新聞も学会員が読むと同時に、アンチがツッコむためにも読まれている。
私も学会員の心理を知るために学会員のブログを覗くことはある。

だが人はまったく関心のないことには執着しない。
好きで読むのも、批判目的で読むのもそれはどちらも執着があるということだ。
嫌なものを批判したい一心で見ずにいられないというのは、好き以上の相当な激しい執着があるってことだ。
憎悪なり嫉妬なり、もてあますような執着だ。

創価は仏教と言いながら並々ならぬ執着を教えるところだった。
執着心に溺れると人はなかなか離れられなくなる。
学会員の執拗さもそこにあるんだ。
執着している部分をくすぐられたり挑発すると、人は乗せれやすく操られやすくなる。
脱会しても、残念ながらこの強い執着心からなかなか解放されない者が多い。

そういうわけでこのブログは最終回です。
アンチブログなどに長々とは執着せず(アンチ自体をやめるという意味でなく)、広い世界に巣立っていくことをお勧めします。
自身も執着を長引かせないために、記事は大急ぎで一気に書きあげた。
たまにふらっときて、伝わる人に伝わる程度のスタンスのブログになれば幸いである。



~~■P_o(^-^o) COFFEE
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どうでもいい教義

2016年08月16日 | 日記
創価の教えのここがおかしいなどは今さら書く気がしない。
おかしいも興味はないが、正しいも興味がない。
学会員やそのお仲間の信者などは、おかしさを正せばいいと思ってる人がいる。
それでまた信じると思っている人がいる。
ほら、創価はここがおかしいだろ?矛盾あるだろ?でもさ、これは矛盾ないだろ?正しいだろ?

ますます興味がないんだ。
例えば宗門の信者が懸命に「本尊に開眼があるかないか」と言ってる。
その開眼とやらがあればその曼荼羅に摩訶不思議な力が発生するという。
そういう本尊に手を合わせることが「正しく」て、そうじゃないのは「間違い」だという。
御書にも「ホンモノ」と「偽書」があり、「正しい日蓮」と「間違った日蓮」があるという。
ああでもないこうでもないとくりかえされる教義論争。
そんな論争自体に興味がないんだ。

当の創価のトップ連中が、そんなことどうでもいいと思っている。
正しくても、間違ってても、またそんなものなくても、金さえ儲かればいいと思ってる。
要はこれこそが正しいんだと言えば商売になるから言ってるだけで、それが事実かどうかんなんてどうだっていいのさ。
そんな商売相手にムキになる一切がアホらしい。
ヽ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄;)ノ
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批判癖

2016年08月16日 | 日記
学会員だった頃は、まわりが皆「創価が好き」がよかった。
悪口を言われたらムカついた。
だから同志といることがとても心地よかった。
ある時から創価に疑問をもつ。
するとこれまでと違い、まわりと自分の間にギャップが生じるようになる。
そうなると心地よさはなくなった。

アンチになったら今度はまわりが「創価が嫌い」じゃないと気が済まなくなった。
だからアンチといると楽しい。
共感し合える空間はやはり居心地がいい。

共感し合えることはとても楽しい。
だがあまり欲張ってはいけない。
一つ二つ共感できるならそれで充分だ。
完全に共感できる相手なんていないからだ。
そんな世界なんてない。
創価は少しでも気に入らないところがあると、相手を正しては自分の思う通りにさせ、うんうんと満足し合う世界だった。

何か原稿を書く。
うーん、だいたいいいんだけどね。ここだけ直そうか。ここがちょっとね…
ほんのちょっとのことでも、自分と合わないところがあると許せない。
一から十まで自分の価値観とピッタリに持っていかないと気が済まない。
一体何がしたいんだか…
だからこそ歪みもあったんだ。
創価って皆一緒に見える。そう言われた。

考え方だって表現方法だって、ここは非常に共感できるけどここは全く気に入らない。
それがふつうなんだ。
支持する政党も違えばいろいろな価値観も違う。
創価を去るということは、世の中圧倒的にそんなもので共感なんてたまにできればいい、と考えてちょうどいいと思う。

そうでないといちいちムカついてしまう。
これは自身が学んだ反省点だ。



~~~~~~~(;_ _)O パタ...
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小さな世界

2016年08月15日 | 日記
巨大組織が崩壊するとか世界の池田が死ぬ、とか、なんてたって覚醒したんだとか、騒ぐアンチ側にいながら同時に実に小さな世界にいる自分を感じる。
これはずっと感じていたジレンマだ。
巨大組織だの池田だの覚醒なんてのも、そういう狭い世界にいて擦り込まれた概念にすぎない。
小さな世界の中でそれが大騒ぎされ、称賛され、またムキになって罵倒され、更にアラシが来てワーワーと盛り上がり、人生の一大事みたいに扱われているけど世間では相手にもされていない。
創価も元創価も、世間から見ればどっちもどっち変わらない同じチリみたいな存在なんだ。残念ながら。
創価?カルト宗教団体だろ?
それがダメ?あたりまえじゃん。
これで終わりだ。


創価の衰退と共にアンチブログも衰退している。

まだ創価が盛況で若者もいっぱいいる中、誰も気づいていないカルトの手口を暴く記事ならおもしろい。
だが、そんな核心をついたものはとうに暴かれて過去になってしまった。
残っているアンチの多くはただボヤキ合いを楽しんでいる。
殆どのアンチブログはカルトを切り込むというより、それこそ創価のようにただの社交場としての存在になりつつある。
創価を年寄りばかりのただのコミュニティというなら、アンチもはしゃいでいるのはそれとそう変わらない中年ばかりだ。

あとは創価によって被害を被った個人の家庭事情を、各々が解決していくだけだ。そういう励まし合いのブログなら必要だろう。

カルトを切り込む記事はもう書き尽くされてしまった感がある…



(▼ー▼)⊃―――⊂( ̄ω ̄;)!!
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曼荼羅を破る人

2016年08月14日 | 日記
アンチの中には、本尊を生ゴミと一緒に捨てた、シュレッターにかけた、燃やしたなどと言う人がいる。
最初、私にはそういう発想がなかったので聞いた時は驚いた。
漠然と過激な人がそんなことするのだろうかと思った。
だが今はわかる。
脱会するとか、ネットに書きこみするとか、忘れるとか、それとなんら変わらない同じことなんだ。
去り方、気持ちの整理のつけ方もいろいろだ。

創価は同じ考え、同じ発想で、同じ方向を向いている人ばかりでそれがあたりまえだった。
ふつうとはこういうこと。悪とはこういうもの。過激とはこういうこと…
何から何まで答えが用意されていた。
何かを批判する時は団子になって団結して言う。
それに慣れていたんだ。

曼荼羅を破いて去る。
それもありだ。



( ̄  ̄ )ノ” ⌒* ポイッ!イラン
ポイ(ノ ̄ー ̄)ノ ┏┛焼却炉┗┓
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創価に関わり続けた理由

2016年08月14日 | 日記
私はとっくの昔に脱会しており、創価問題で悩まされることなど何もない。
一切が創価とは無関係の平穏な生活をしている。
今さら恨み辛みなども何も感じない。
だけどどうしてこの問題に関わり続けるのかというと、関わらせてしまった人への償いという思いが強い。

一方、二世である私をこういう団体に関わらせてしまった張本人と親などからは一切の謝罪も罪の意識もない。
歳とって疲れた彼らは、脱会したと言ってもふうんで終わりだ。
子どもまで入会させた張本人は今だバリ活らしいけど、ならば悲しむかというとそれもない。
どうでもいいんだ。
折伏なんてその時の成果が全てなんだから。

私を「大切な未来部の育成」という名目ではりきって教育・指導した当時の大人全員は今はどんな価値観なんだろうか?
仮に創価とは無縁になっていたとして、自分のしたことなどすっかり忘れてるのだろうか?

たまに「アンチはいつまでも恨み辛みから解放されない奴」と決めつけて「早くすっぱり忘れて生きれば?」と短絡的なことを言う奴もいるが

あのさ、自分がされたことなんてとっくに許して忘れてるんだよね。
だけど、自分がしてしまったことの後悔が消えないんだよね。



( ̄× ̄)b゙NG!!
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なかなか覚醒しない家族、パートナーがいる方へ

2016年08月13日 | 日記
どう言っても何を言っても伝わらない時がある。
本当に嫌になる…Σ(T▽T;)

だけど自分だって逆にずっとずっと言われ続けたのにわからなくて、20年30年後にやっとわかったこともあった。
どっちも経験して思うのは、そういうことも無駄にはならない。
後に何かの形で役に立つ。



o(゚∇^☆)/フレー\(*^∇^*)/フレー\(☆^∇゚)o
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アンチ魂

2016年08月13日 | 日記
アンチになった途端、それまでニコニコしながら創価にいたはずの会員が言う。
実は活動家時代もしぶしぶやっていたんだ。
ずっとおかしいと思っていたんだよね。
本当は池田なんか大嫌いだったし。
へえ。

じゃあなんでその時は言わなかったんだ?

人気ブログが休止になった途端、同じような声が聞こえた。
実は前々から気に入らなかったんだ。
やっぱりこういうところがおかしかったよね。
必ずこういう声があがる。
なんでその時は黙ってたんだ?

そうなると本人にそういうつもりはなくても、状況を見てまわりを見て、今は誰についていったらいいか。どの傘下に入れば有利か。無意識でも計算してると思われていまう。
そういう人は基本信用されない。

今や創価はすっかり旗色がわるくなった。味方もしょぼい。
だから創価になんかいられない。
じゃあ盛況で大臣が出た時代だったら得意満面でいたのだろうか?

創価は、創価自体は、体質も本質も昔も今も何も変わっていない。

大臣を出すほど認められていようが人気があろうが、衰退しようが叩かれようが、やってることは同じなんだ。
人気があった時代が正しく、今がおかしいわけじゃない。
まわりを取り巻く状況、会員の評価、持ち上げ具合が変わっただけだ。
おかしいと思うなら人気に関係なく叩くべきだった。
そういうアンチ魂はあっぱれだ。


アンチだろうがシンパだろうが、本当に言いたいことがある時はまわりの評判は関係なく、一人でもしっかり伝えるんじゃないだろうか。
少なくとも私はそういう人の声に耳を傾ける。
だけど、そういうことが理解できたのは脱会後だったんだ…



o(炎_炎)o ウォオオオッッ!!
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ある盲信者の言い分

2016年08月12日 | 日記
玉虫色でない信者ブログに「創価から離れていく人間は自分の価値観に固執している」と書いてあった。
へえ。
では学会員は「池田先生の言う通りにする」とか「御書に照らし合わせる」ということだけが正しいとする自分の価値観に固執してないのかい?
むしろ異常な執着ぶりだろう?

離れていくってことは執着がないから離れていくんだ。
一つの価値観に固執しなかったんだ。
こういうのを、バリ活の言葉を借りると命に柔軟性があり視野が広いっていうんじゃないかな。


☆^(o≧▽゚)oニパッ
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バリ活VSユル活

2016年08月12日 | 日記
創価にはご存じ「バリ活」「ユル活」とう存在があって、しかし概ね仲良く在籍している。
そのバリ活、ユル活がともに覚醒しアンチになったらどうなるか?

同じように仲良くやるかというと、そうでもない。
創価というところは、同じ創価というだけで同志を批判してはいけないという戒律のようなものがあり、多少陰でコソコソやるくらいの人はいても表立って喧嘩などはしない。
でもその人たちがアンチになったら、同じアンチ同士は同志か?というとそれは違う。
そういった強制から解放されて、やっと自由に本音が言えるようになったんだから言い合いもする。
アンチは一丸となって内輪揉めなどしてはいけない、なんて言ってる人がいたらそれこそ創価臭が抜けていないのではないか?
それはある意味とても健全といえるのではないのか?

何度も言っているが、アンチも一括りにはできない微妙な部分があるのだ。

例えば「創価にもよいところがある」という学会員なんだけどユル活やチョイ活のような、つまりいいとこ取りの意見がくるとする。
すると元バリ活は黙っていない。

「そんなことが言えるのは、あなたがユル活やチョイ活だからだ」
「本気で何でもやってみたら創価がすばらしいなんてとても言えない」


これは説得力があり、元バリ活からはそういうとそうだ!そうだ!と賛同される。

だがちょっと待てよ。
バリ活だったということは、そういう創価を誰よりも支え、資金を渡し、もっと早く詐欺に気づいて去ったかもしれない人を懇切丁寧に励まして留めさせた、というとんでもない罪を負ってるにも関わらず、こういう時はそれが賛美されることになるんだ。
更にその行為が「健気だった」と言われる場合さえある。
それに比べてユル活やチョイ活は、面倒なことは人におしつけてあぐらをかいてるサイテーな奴にされたりするんだ。


そうなると元ユル活や元チョイ活のアンチは複雑だ。
自分は創価時代からおまえらバリ活よりずっと前におかしいことはおかしいと気づいていた。
だからこそ、そういうことはやらなかっただけだ。
あれもこれも確かにやらなかった。
でも今は結果的にやらなくてよかったと思っている。やってたらそれこそサイテーだった。
それはいけないことだったのか?
自分がやらなかったけど、だからといってそれが「人に押し付けた」ことになるのか?


覚醒した後つらいのは当然バリ活の方だ。
苦しみ方も半端じゃない。
なかなか精神が安定せず感情的だ。
それは可哀想だと思うが、その矛先が現ユル活のみならず元ユル活アンチに向かう場合がある。
チョイ活だったあなたにこの気持ちがわかるのか?と。
だが言われた方にも気持ちがある。
じゃあ覚醒したら、いちばん苦しんだ元バリ活がいちばん偉いのか?

この構図を見た時、私はなるほど、単純ではない創価問題の複雑さを感じた。
覚醒してもそれぞれに理解されない苦悩は続くんだ……
( ̄ヘ ̄;)


(☆_@;)☆ \(`-´メ)
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役に立つなら…

2016年08月12日 | 日記
学会員と比べると覚醒した自分はすばらしいと思う。
言いなりにならず、ちゃんと考えていると思う。
カルトなんかに騙されてないと思う。
非常識でもないし厚かましくもないし、政党は自分で政策を調べて投票するし、時間は仕事や家事や趣味に有効に使えてると思う。
すごいぜ!自分。

だけどこれはあくまでも「学会員と比べると」だ。
こんなのホントは当たり前のことなんだ…
ふつうはそうだよ。今頃何言ってんの?っていうレベルのことなんだよね。


でも一つだけふつうの人よりできることがある。
それは創価学会がどんなデタラメを言ってるか知ってることだ。
人がどんなふうにカルトにひっかかるか知っているということ。
それを語れるということ。
世間一般には役に立たないかもしれないけど、創価学会員には役に立つ。
身近にそういう人がいて悩んでいる人には役に立つ。
役に立つ人がいるなら発信すべきなんではないかと思う。



は(* ̄▽ ̄)ノろぉ(* ̄O ̄)ノ
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騙されただけのいい人?

2016年08月11日 | 日記
アンチ同士で話すと、どうしてもここが甘くなる。

いい人だけど「詐欺ビジネスにひっかかり、子どもを洗脳し、よその子の洗脳の手伝いもし、資金源と労働力を提供した」
ん?
なんでこれがいい人なんだ?
頭にいい人をつけることが必要だろうか?
私にはいつもこれがひっかかるんだ。

いい人っていうのは、そんな詐欺に騙されず、そういうカルトからこそ子どもを守る知恵があり、実際そうしてきた人じゃないのかな?



ヾ( ̄o ̄;)チガウッテバ、、、
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