の坐すと地と魂の鎭まる地

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比々多神社

2010年03月06日 16時50分14秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拝殿■
(12th May 2009)



★比々多神社★ 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472

・延喜式内社、相模國大住郡、比比多神社の論社。

・旧社格は郷社。

・相模國三之宮。

・祭神は豊國主尊(豊斟野尊)、天明玉命、稚日女尊、日本武尊。相殿に大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)を祀る。

・但し、祭神には諸説ある。

 一、大山開山の良弁の父とされる染屋太郎太夫時忠(本地仏不動明王)。これは、比々多神社の梵鐘の銘文によるものとされるが、戦時中に供出されて現存しない。
 ニ、豊國主尊、天明玉命。相殿に大酒解神、小酒解神、稚日孁女命。
 三、豊斟野尊、稚日孁女命、天櫛明玉命。相殿に倭武尊、大山祇命、木花佐久夜姫命。比々多神社伝記の扉裏に黒筆で書かれているもの。
 四、豊國主尊、天明玉命、稚日孁命。相殿に大酒解神、小酒解神、日本武命。これは『神社明細書』による。

・元々、大住郡三之宮、栗原、神戸、白根四村の鎮守。明治六年(1873)、社格を二大区六小区の郷社と定められ、十六ヶ村の総鎮守となる。

・『新編相模国風土記稿』では、相模國三之宮で、延喜式内小社比比多神社を称し、鳥居に比々多神社と扁し、拝殿に三宮大明神の額を掲げ。上糟屋の子易明神社も式内社比々多神社を称するも、両社とも考証なく、明白にしがたい。比々多神社神主の話によると、「比々多神社と書せる古額があったのを子易明神神主某に貸与えたところ、終に返さずして、後に比々多神社の額を掲げ式内社であることを自称している」ということであるが、この話も明確な証がなく、肯定はできない、という旨のことが記されている。これに対し、両社には徳川家康よりの同日付の朱印状を残しているが、上糟屋が「子易大明神」と記されているのに対し、当社のものには「三宮」と明記されていることや、鎮座地が「冠大明神」にふさわしい地であることから、当社が式内社である可能性が非常に高いとされる。

・天保五年(1834)の『社伝記』によると、神武天皇六年(紀元前655)、相模國の霊峰大山を神体山とし、豊國主尊を日本國霊として祀ったことに始まるという。

・大化元年(645)、現在相殿に祀られている大酒解神と小酒解神の二神が合祀されるに伴い、「うずら瓶」と称される須恵器が奉納されたという。さらに朱鳥六年(692)、相模國國司布施朝臣色布知により社殿の改修が行われ、一対の木彫り狛犬が奉納され、各々、現在は神奈川県および伊勢原市の文化財に指定されている。

・天平十五年(743)、竹内宿禰の末裔紀朝臣益麿を比々多神社初代宮司に迎え、同時に第四十五代聖武天皇より荘園を賜る。

・天長九年(832)、國司橘朝臣峯嗣を勅使として当國総社「冠大明神」の神号を天皇より賜ったという。

・南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は約四倍の一万七千坪)の大部分を失い、また、明応年間(1492-1501)に、社殿を兵火によって焼失、天正のはじめ、社地を埒面から現在の地(舊神主屋敷)に移転遷座した。

・一般に相模國の國府は三度移転したと考えられており、國府が大住郡にあった時代の相模の惣社であったという社伝が残る。

・神社境内地、近隣より発掘出土した遺跡遺物などから縄文時代中期の環状配石中の 「立石」こそ祭祀遺跡がみつかったという。


■鳥居■
(12th May 2009)



■拝殿■
(12th May 2009)



■奉納目録■
(12th May 2009)



■本殿■
(12th May 2009)



■本殿真後ろにある末社五社殿■
(12th May 2009)


 向かって、左より

 白山神社、弁天社、神明神社、東照宮権現社、稲荷神社。


■末社秋葉神社■
(12th May 2009)



■末社金比羅神社■
(12th May 2009)



((コメント))

2009年5月12日

 相模國三之宮という比々多神社へといってみた。軽い印象の雰囲気のところであったが、それは清清しいというのか、気が薄いというのかどちらなのであろうか。

 あまり、感じ入るところがなかったというのが事実。ただ、社殿は立派である。

 ところで、本殿の真後ろに末社の石祠五殿が鎮座していたのが位置的に非常に気になるところである。



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