「世界中の子どもたちが学校に行けるように」
そんな大志を抱きながら、途中で帰らぬ人になってしまった浜松市出身の木村恭子さんを知りました。
小学校の先生になろうと思ったのは高校時代。名古屋女子大に進学し、大学時代の夏休みは毎回、
新城市にある「愛知県民の森」で、訪れる親子連れに自然観察やキャンプの手伝いをしていたらしいです。
大学卒業後は臨時講師として約10年、浜松市内の小学校で勤務。
この間、インドネシアやモンゴル、ボリビアなど二十七カ国で
子どもたちに勉強を教えたり日本の遊びを教えたりしていたらしいです。
恭子さんの日記には、
「私には夢があります。大きな夢です。
それは、「世界中の子ども達を学校に通わせてあげたい」という夢です。
子ども達に世界の国や地域は、私たちの生活とつながっていること、そして日本の豊かな生活の裏には、
それを支えてくれている人がいることを伝え、
お互いに助け合っていくことの大切さに気付いてほしいと思っています]
とつづられています。
挫折や、気持ちが折れそうになったことも、当たり前のことですが
何度もあったようです。
そのたびに
「夢に向かって頑張れ」
と自分を励ましています。
そしてだんだんと狭き門となる教員採用試験に、ついに32歳で合格したのです。
そして和地小学校で働き始めました。
しかしその年の8月。夏休みを利用して訪れたパキスタンで、目的地に到着する寸前に、
現地の人たちら計3人が乗った四輪駆動車が約50メートルのがけ下に転落、亡くなりました。
最後の勤務地となった和地小学校には
「世界中の子どもたちに幸せを」
と書かれた碑が立っています。

その碑の近くには記念樹のケヤキが。

この季節は葉を落としていますが、どんぐりがあたりにころころとしていて、
子どもたちのかっこうの遊び場になっているようにも見えます。
「自分の仕事とは何だろう。働くとは」
そんなことを考えた日でした。
そんな大志を抱きながら、途中で帰らぬ人になってしまった浜松市出身の木村恭子さんを知りました。
小学校の先生になろうと思ったのは高校時代。名古屋女子大に進学し、大学時代の夏休みは毎回、
新城市にある「愛知県民の森」で、訪れる親子連れに自然観察やキャンプの手伝いをしていたらしいです。
大学卒業後は臨時講師として約10年、浜松市内の小学校で勤務。
この間、インドネシアやモンゴル、ボリビアなど二十七カ国で
子どもたちに勉強を教えたり日本の遊びを教えたりしていたらしいです。
恭子さんの日記には、
「私には夢があります。大きな夢です。
それは、「世界中の子ども達を学校に通わせてあげたい」という夢です。
子ども達に世界の国や地域は、私たちの生活とつながっていること、そして日本の豊かな生活の裏には、
それを支えてくれている人がいることを伝え、
お互いに助け合っていくことの大切さに気付いてほしいと思っています]
とつづられています。
挫折や、気持ちが折れそうになったことも、当たり前のことですが
何度もあったようです。
そのたびに
「夢に向かって頑張れ」
と自分を励ましています。
そしてだんだんと狭き門となる教員採用試験に、ついに32歳で合格したのです。
そして和地小学校で働き始めました。
しかしその年の8月。夏休みを利用して訪れたパキスタンで、目的地に到着する寸前に、
現地の人たちら計3人が乗った四輪駆動車が約50メートルのがけ下に転落、亡くなりました。
最後の勤務地となった和地小学校には
「世界中の子どもたちに幸せを」
と書かれた碑が立っています。

その碑の近くには記念樹のケヤキが。

この季節は葉を落としていますが、どんぐりがあたりにころころとしていて、
子どもたちのかっこうの遊び場になっているようにも見えます。
「自分の仕事とは何だろう。働くとは」
そんなことを考えた日でした。










