小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ、そしてTwitterつぶやきまとめ

清河八郎の最期 その5

2011-12-23 12:00:43 | 小説
この頃、八郎が郷里の父に宛てた手紙がある。以下のような内容である。

 公儀において自分は特別扱いで、浪士頭取役を仰せつけらたものの断りました。私の名声が盛んになるにつれ、そねみ妬む者も多く、わざと辞退したのです。それでも浪士たちからは自然と頭取的にみなされ特別な存在になっています。

 八郎の得意や思うべし。たしかに八郎は浪士組を実質的にとりしきっており、黒幕的存在となっていた。浪士の隊列には加わらず、ひとり悠々と監督者然として中山道を闊歩していたらしい。
 浪士組が京都に着いたのは2月23日である。宿舎は壬生村だった。
 先に紹介した『新選組』に松浦玲氏が書いている。
「その晩、清河は浪士一同を新徳寺に召集し、京都朝廷宛の建白書を示して署名を求める。自分たちは尽忠報国の志により集められ、将軍が尊皇攘夷の任務を遂行するために上京した。幕府の世話で上京したけれども禄位は受けておらず、天皇の命令を妨げるものがあれば幕府の役人といえども容赦はしない。この真心が貫徹できるよう取り計っていただきたいというものであった」
 大川周明も、この場面をこう描写している。
「…此時 満座を睨みまわしたる八郎の権幕は非常なもので、一言でも異議を唱へる者あらば、即座に掴み殺さん勢であったから、一同悉く賛成して了ふ…」
 あたかも全浪士を前にして、激烈なアジテーターぶりを発揮している清河八郎像がイメージされるが、八郎がこのとき新徳寺に召集をかけたのは幹部級の浪士だけであって「浪士一同」ではない。俣野時中の証言(『史談会速記録』)によれば「重立者」をだしぬけに呼び出したとなっているのだ。
 なにしろ総勢230名を超える団体である。幾つかの豪農宅や寺に分宿している。新徳寺は取締役旅宿だったけれども、ここに浪士全員が参集できるスペースがあったかどうかさえ定かではない。松浦氏の著書だからといって、すんなりと浪士一同をアジっている八郎の姿を定着させてはいけない。
 ところで建白書の原文には尽忠報国の文言が三回出てくる。浪士たちがことさら賛成できないという内容ではないが、ただ「禄位等は更に相承不申」という箇所にひっかる者たちはいただろう。それが目当ての幕府の傭兵気分の浪士たちからすれば、よけいな文言であるからだ。
 いずれにせよ、春嶽に上表を提出して自分の立場を逆転させたという生々しい成功体験のある八郎は、またしてもおのれの文才に賭けて、朝廷への建白書を書いたのであり、あと二度書くことになる。
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